菜穂子・楡の家 (新潮文庫)

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  • / ISBN・EAN: 9784101004051

感想・レビュー・書評

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  • この作品は昭和十六年三月に発表されたものとのこと。
    久しぶりに昭和文学を読んだ。
    登場人物それぞれの想い、心の中での葛藤やそのときの表情などが細かく描かれているのだが、その描写が本当に細かくて独特で、でも、その想いがわかるようなわからないような……。堀辰雄さんの作品を読んだのは初めてだが、こんなにも人の心を表現するのは難しいんだな、そしてそれに対面した側の感じ方もきっと多様にあるんだな、ということを感じた。
    何といえばよいかわからないが、独特な孤独が漂う小説。途中、胸がキュッとなった。

    そして、最後の解説に記されていた、この小説の菜穂子や森さん、三村夫人のモデルを知って驚き、もう一度すぐに読みたくなりました。

  • 「風立ちぬ」より、私はこっちの方が好き。

    菜穂子の母の日記として語られる「楡の家」。
    一人の男に対して、人妻という側面と女という側面を見せる母に、言い知れぬ嫌悪を抱く菜穂子。

    彼女のそうした反抗が、続く「菜穂子」にも影を落とすことになる。
    結局、母が危惧していた通り愛を感じられない夫、その夫しか頼るべき術のない姑。
    菜穂子がサナトリウムに移ることで、落ち着くことが出来たはずの三人に、各々の変化が訪れる様子が小説的で面白い。

    「風立ちぬ」で終わらせず、是非この作品に続けて欲しい。

  • 『菜穂子』はエゴイズムから来る孤独を描き切った傑作だと思うが、それだけで良かったのでは?
    周辺の話を持ち出した結果、読者の楽しみの一つであるはずの推察の余地を奪ってしまい、傑作たる地位から自ら堕ちていった感が強い。
    極めて遺憾。

  • 「楡の家」

    前日譚。とはいえ、母の手記による繊細な話。
    母、作家おとひこ、少女の菜穂子、および少年の明。
    三村夫人≒片山廣子、
    三村菜穂子≒片山總子、
    森おとひこ≒芥川龍之介、
    明≒堀辰雄
    というモデル小説とのことだが、「菜穂子」に向けて、
    母の眼による、少女の変態が、いわばプレリュード。

    「菜穂子」

    本編。
    明視点→明視点・菜穂子視点・黒川圭介視点→菜穂子視点、
    と視点人物の置き方がグラデーションを描く。
    菜穂子⇔夫 ……性格の悲劇。
    菜穂子⇔明 ……孤独な魂の交響。
    また、
    明⇔およう及び初枝 ……母といってもよい郷愁。
    明⇔早苗 ……上記を導くための、失われるための希求。
    ここまで重層的な性格描写の響きあい、あるいはすれ違いは、なかなか描けるものではない。
    そして、片側だけ立ち枯れた二股の木や、雪、芹摘み、などの美しい描写もたっぷり。
    単純な物語ではない。長編だ。

    「ふるさとびと」

    おようを中心としたスピンオフ。

  • ジブリの映画を見た後に読み直すシリーズ2冊目。
    風立ちぬでは絶対になかった、「サナトリウムを勝手に抜け出してくる」というモチーフの出所だと思う一冊。購入時に(つまり30年ほど前に)読んだ際の記憶が全くなくなってて、新鮮な気持ちで読みました。冒頭、明の視点から物語が始まる割には、その後の影の薄さが可哀想というか、明から見ても、菜穗子は不幸せそうなのだが、じゃあ、どうだったら幸せなのかという方向には行かないというより、菜穗子が菜穗子の母親のようなキャラであるなら、決して菜穗子が結婚したような相手とは結婚しなかったろうにということがしつこく描かれている割には、じゃあ、例えば明は結婚相手たり得るのかなんてことは考えないしね。テーマのために話を作るようでありながら、やっぱり、そこは作者がイメージした情景があって、それを写生するという形で書かれているんだと思うので、ちょっと違う。そういうことだと思う。そこは、小説っていうのものは、どう書かれるべきなのか、という点について考察している作者の存在というものがあって、その試行過程ということなんだろうな。まとまらなくて済みません。

  • 映画「風立ちぬ」を観たので。映画ヒロインの菜穂子はこの小説から来ている。登場している人物がまったく温めあうことがない。互いに強く関係性を意識する場面はあったとしても。その孤独は都会的なものだと思うのと同時に、今読んでも通ずる淋しさがある。

  • 『風立ちぬ』に続いて堀辰雄。
    『風立ちぬ』で二人が出会ったのは軽井沢ですが、『菜穂子』ではその隣村の信濃追分が舞台。
    菜穂子が療養に行くのは『風立ちぬ』と同じく富士見高原病院のようです。
    ジブリの『風立ちぬ』ではヒロインの名前が菜穂子。

    『楡の家』第一部が1934年
    『菜穂子』が1941年
    『楡の家』第二部が1941年
    『ふるさとびと』が1943年
    と長い間を経て書かれており、もっと大きい物語にする意図もあったようですが、全体的に未完の作品な感じがあります。

    明、菜穂子、菜穂子の母、菜穂子の夫、およう、と人物が入れ替わりながら同じ出来事がそれぞれの視点から語られるという構成ですが、基本的には大きな事件が起こるわけでもなく、秋から冬にかけての寂しい別荘地や療養所でのそれぞれの孤独が綴られているといった印象でした。

    おようが離縁された隣村のMホテル(『ふるさとびと』では蔦ホテル)って万平ホテルのことかな。最近また人気の出てきている軽井沢ですが、こちらもいつか行ってみたい。


    以下、引用。

    18
    明には停車場から村までの途中の、昔と殆ど変わらない景色が何とも云えず寂しい気がした。それはそんな昔のままの景色に比べて彼だけがもう以前の自分ではなくなったような寂しい心もちにさせられたばかりでなく、その景色そのものも昔から寂しかったのだ。

    51
    しかし、彼はいま自分の心を充たしているものが、実は死の一歩手前の存在としての生の不安であるというような深い事情には思い到らなかった。

    59
    彼には、菜穂子のいまいる山の療養所がなんだか世の果てのようなところのように思えていた。自然の慰藉と云うものを全然理解すべくもなかった彼には、その療養所を四方から取囲んでいるすべての山も森も高原も単に菜穂子の孤独を深め、それを世間から遮蔽している障礙のような気がしたばかりだった。そんな自然の牢(ひとや)にも近いものの中に、菜穂子は何か諦め切ったように、ただ一人で空を見つめたまま、死の徐(しず)かに近づいて来るのを待っている。

    66
    「一体、わたしはもう一生を終えてしまったのかしら?」と彼女はぎょっとして考えた。

    78
    「わたしには明さんのように、自分でどうしてもしたいと思う事なんぞないんだわ。」そんなとき菜穂子はしみじみと考えるのだった。「それはわたしがもう結婚した女だからなのだろうか? そしてもうわたしにも、他の結婚した女のように自分でないものの中に生きるより外はないのだろうか?……」

    104
    あのレンブラントの晩年の絵のもっているような、冬の日の光に似た、不確かな、そこここに気まぐれに漂うような光を浴び出す一人の女の姿──そんな絵すがたを描いてみたい様な欲求が、いま、僕をとらえているのです。

    何か僕の力になってくれそうなレンブラントの絵や、ベエトオヴェンの晩年のあの奇妙な翳に充ちた四重奏曲なんぞの中にやや胸苦しく暮らしています……

    114
    霧のなかで、うぐいすだの、山鳩だのがしきりなしに啼いた。私が名前を知らない小鳥も、私たちがその名前を知りたがるような美しい啼き声で囀った。

    129
    一日は他の日に似ていた。
    ただ小鳥だけは毎日異(ちが)ったのが、かわるがわる、庭の梢にやってきて異った声で啼いていた。

    133
    去年と同じ村はずれでの、去年と殆ど同じような分かれ、──それだのに、まあ何んと去年のそのときとは何もかもが変ってしまっているのだろう。何が私たちの上に起り、そして過ぎ去ったのであろう?

    149
    「私、この頃こんな気がするわ、男でも、女でも結婚しないでいるうちはかえって何かに束縛されているような……始終、脆い、移り易いようなもの、例えば幸福なんていう幻影(イリユウジヨン)に囚われているような……そうではないのかしら? しかし結婚してしまえば、少くとも、そんなはかないものからは自由になれるような気がするわ……」

    184
    『ボヴァリィ夫人は、私自身だ』というフロォベルの有名な言葉は、頗る理解し易い。

  • 2018/06/27 読了。

  • 「楡の家」
    娘の結婚をなんとか押しとどめようとする母親
    その心理の核にあるのは
    芥川龍之介をモデルにしたと思しき、過去の男の存在である
    作者の堀辰雄は、ここに収められた一連の作品を通じて
    いつまでも忘れられない軽井沢の青春に
    なんとかケリをつけようとしたのかもしれない

    「菜穂子」
    何かから逃れるように焦って結婚した菜穂子
    一方、幼馴染の明は
    未だ正体もわからない自分なりの理想を追い求め、独り生きている
    彼らは共に病に侵され
    死に向きあいながら、それぞれに答えを探し続ける
    でも結局は
    死んだ小説家の面影を、今もなお追っているだけのようにも思える

    「ふるさとびと」
    田舎の古い旅館には、毎年夏休みになると
    学生たちが、避暑と勉強を兼ねてやってくる
    明と菜穂子がはじめて出会ったのもそこだった
    なつかしくも、やがて滅びゆくその風景を
    守っているようであり、束縛されてもいるような
    そんな人々を書いたもの

  • 楡の家
    母に反発して、結婚を決めてしまった菜穂子。お互いにわかっていても反発してしまった母と娘。和解はできないまま母は急逝。

  • 坂口安吾や太宰治に比べると、堀辰雄の文章は随分格調高く上品である。三部作といっていい物語だが、作者自身が病んでいたとはいえ登場人物の殆どが病気や身障者に病死する者ばかりというのは尋常ではない。主人公の菜穂子自身も喀血してサナトリウムに療養中という徹底ぶり。特に大きな事件も起こらず、異常な行動の人物も出てこない上に話の結末が尻切れの印象が強かった。

  • 『風立ちぬ』を見て手に取った菜穂子は『風立ちぬ』のイメージで読んだら肩透かされたのはさておき。

    じっとりとした暗い物語ではあった。母と娘の、粘着さとでもいうのか、なんというか生臭いような感じがちょっとニガテ。

    菜穂子は「病の私」に酔いしれている感じがして、好きになれない。悪女ぶっては見るものの、悪女になりきれない気の小ささは他人事には思えない。

  • 映画「風立ちぬ」関連本として読みました(笑)

    菜穂子さんは、気が強い感じの女の人。でも、なんか押しはめちゃくちゃ弱そうという……。
    映画の「風立ちぬ」のイメージよりも、流されちゃう感じです。

    印象が「風立ちぬ」ほど強くないです。
    それは、一人称でないからというのもあるのかも。

    あんまり、物語としては大きなうねりとかはなくて、淡々と人の心の中でなにかが動いているようなお話でした。

  • 映画を見たので、ヒロインの名前のモデルということで読んでみた。

    『菜穂子』はもっと自由に生きればよかったのに。
    母親に反発して、同じようにおとなしく結婚したって
    結局ほんとうに幸せが分からないまま生きていった。

    その母親のお話の『楡の家』
    そこはかとなく良くない雰囲気の流れる未亡人と、知り合いの男性。
    その雰囲気を、菜穂子は感じていたのだろうか。  

  • 引き続き宮崎駿つながりで菜穂子まで読んでみる。監督はインタビューで堀辰雄が苦手だと発言していたが、母と娘という、あくまで女性目線で書かれているのが面白い。といってこの母娘関係が理解できるかというと難しいが、時代背景にもよるのだろう。

  • いつの間にか母親との間に生まれてしまった深い溝を埋められないまま結婚していく主人公の菜穂子。その結婚生活にもさまざまな問題があった。菜穂子は自分の孤独や絶望を死守しようと生きるが、療養中のある雪の日に大きな決心をする。その決心は東京にいる夫に届くのか?
    登場人物の内面をこれでもかと深く掘り下げてゆきながらも、信州と東京という、離れた二つの土地での状況が交互に描かれ、映像のシーンが切り替わるようにテンポよく物語が進んでいく。

    個人的には、建築事務所に勤める明さんが好き。自分の人生はこれでいいのだろうかと考え、体調を崩したこともあって休暇をとり長い長い旅に出る。菜穂子がひたすらに孤独と絶望の内で生きようとしているのに対し、自分の孤独や絶望を打ち破って生きようとするのが明で、私はそこに好感を持った。

  • *菜穂子
    *楡の家
    *ふるさとびと

  • 表現方法や言葉遣いが、現代作品に慣れた身にはわかりにくく、作者がナニヲ言わんとしているのかわからなかった(T-T)

  • 母と娘。その近すぎる関係のために覚えてしまう反発。それが菜穂子に与えた運命とは。
    自分自身の親子関係、夫婦関係についても考えさせられた作品でした。

  • これは、何だったのだろう。これがいわゆる、ロマネスク、というものなのか。そもそもが、小説であるのだろうか。「菜穂子」はまだ分かるが、他二編が……。連作短編と受け止めるべきなのか、そうでないのか。「風立ちぬ」にはまだしも込められたものを感じ取れたが、本作は私には、ただただ冗長なものにしか思えなかった。

  • 少し読みましたが、文章が非常に読みにくい。
    苦手なため途中放棄です。

    大好きな軽井沢にちなんだ本と紹介されていたので読んでみましたが、
    がっかりです。

  • 2009/
    2009/

    堀辰雄の主題、技法、技術的特徴、方法論のすべてが硝子張の置時計のように、つぶさに読みとれるようにできている作品である(三島由紀夫)。

  • 昔の人の方が今を生きる人より、
    哲学的思考をしていたのだろうかと思う。私が心魅かれたのは、生は死の一歩手前の存在であるから不安なのだというところ。生と死について深く考えてしまった。生きるって、大変よね。

  • 短いのでするっと読めます。救いがない……アンハッピーエンドが嫌いってわけじゃないんですけどね。。。面白いことは間違いないと思います。

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著者プロフィール

東京生まれ。第一高等学校時代、生涯親交の深かった神西清(ロシア文学者・小説家)と出会う。このころ、ツルゲーネフやハウプトマンの小説や戯曲、ショーペンハウアー、ニーチェなどの哲学書に接する。1923年、19歳のころに荻原朔太郎『青猫』を耽読し、大きな影響を受ける。同時期に室生犀星を知り、犀星の紹介で師・芥川龍之介と出会う。以後、軽井沢にいた芥川を訪ね、芥川の死後も度々軽井沢へ赴く。
1925年、東京帝国大学へ入学。田端にいた萩原朔太郎を訪問。翌年に中野重治、窪川鶴次郎らと雑誌『驢馬』を創刊。同誌に堀はアポリネールやコクトーの詩を訳して掲載し、自作の小品を発表。1927年に芥川が自殺し、翌年には自身も肋膜炎を患い、生死の境をさまよう。1930年、最初の作品集『不器用な天使』を改造社より刊行。同年「聖家族」を「改造」に発表。その後は病を患い入院と静養をくり返しながらも、「美しい村」「風立ちぬ」「菜穂子」と数々の名作をうみだす。その間、詩人・立原道造との出会い、また加藤多恵との結婚があった。1940年、前年に死去した立原が戯れに編んだ『堀辰雄詩集』を山本書店よりそのまま刊行し、墓前に捧げる。1953年、春先より喀血が続き、5月28日逝去。

「2022年 『木の十字架』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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