- Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101005065
感想・レビュー・書評
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随筆的小説と称される「吉野葛」。和歌か俳句を一篇の小説にしたような、わび・さびのある珠玉の短篇。大和の吉野の地に伝わる歴史伝説と、友人津村の「親の在所が恋しゅうて」という心もちが織り重なって綴られる。葛の葉、熟柿、蔦、櫨、山漆……秋の吉野は偲ばれる母の双眸。「春琴抄」を発表する前の作品。
豊臣秀吉の側室である茶々の母であり、織田信長の妹、お市の烏孫公主を、「めくら」の三味線ひきが語る「盲人物語」。按摩ついでに語ったものなのか、ひらがな多めで記されており、寥々とした唄のように染み入った。
この盲人、しわしわの爺やと思いきや、32歳ということが終わりころ判明。人生50年の時代だもんね。
お市を慕い、長年女房らにまじって仕えてきたこの三味線ひきが、茶々を背負って逃げる際(秀吉の小谷城攻めで)、茶々の肢体から伝わる温もりでお市のなまめかしさを思い出し、お市らと共に自害するはずであったのに、今度は茶々の慰みとなるため生き長らえようと即座に意を固めるあたり、谷崎らしさが爆発していた。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
旅エッセイ風の小説「吉野葛」と、お市の方を描いた歴史小説「盲目物語」の中期二篇。
「母」に「主」‥‥初期のマゾヒリズムとは少し趣が変わっていても、「従属する」という部分で変わらない作者の嗜好を感じてしまった。好きだ〜っ -
溢れる変態ぶりを、見事な筆の力を持ってして哀切匂い立つ美しい物語群へと化けさせている好例作品群の一つ。
匂い立つような豊潤な文体で、ありありと瞼裏に浮かぶような精緻な情景と間接的な官能性をしみじみと読み手に感じさせる点においては抜群の安定感で右に出るものなしです。恐るべし、谷崎潤一郎。
「盲目物語」
盲目のあん摩師が、信長の妹にして浅井長政の妻であるお市の方とその娘お茶々の悲劇的な運命を語りながら、秘め続けた懸想を語る物語。
盲目のあん摩師故に、お市の方の美や内面の苦悩を、彼女の変化する肉体への接触を通じて想像するところなんか、一歩間違えれば、ただの暗いエロ妄想告白に終わりそうなものなのに、それをいかにも切々と美しく書けてしまうところが谷崎。
味方を裏切って秀吉側の間者と通じたのに、柴田勝家と運命を共にするお市の方を助けることに失敗。絶望にかられているところに、お茶々を背負わされ、その肉体の感触に、恋慕の対象をお市からお茶々に乗り換えて無我夢中で彼女を助けて生き延びちゃう軽薄ぶりが美しく思えるように書かれているところもさすが谷崎。
「吉野葛」
いい歳した男のマザーコンプレックスを、奈良吉野の謎多き浪漫溢れる様々な伝承と古典芸能に絡めて、美しく情感溢れる思慕の物語として描き逃げてしまうところが谷崎。変態芸術家ここに極まれり。 -
この本で谷崎潤一郎の良さがようやくわかった。日本語がとてもきれいだ。ふくらみがあって澄んでいる。谷崎から影響を受けたという作家たちの文章はにょろにょろしていることが多くて、じゃあ本家の文体も苦手に違いない、と思い込んでいたのだけれど、それを解くことができてうれしい。
「吉野葛」は秋の吉野が舞台なので、秋に読むともっといい。まだ夏も来ていないのに、紅葉の山里の空気の匂いがしてくる。「盲目物語」は、お市の方の生涯が谷崎フレーバーで語られている。彼女が理由で事態が動きすぎでしょうと思いつつ、うつくしい物語を堪能した。 -
谷崎潤一郎の中期の名作"吉野葛"と"盲目物語"を収録。"吉野葛"は谷崎らしい作品だと感じました。幼くして亡くした母への息子の追慕を扱う点で後期の"少将滋幹の母"を思い出した。本人ではなく、第三者の友人を主人公にしている点が面白かった。吉野の自然や人の暮らしの描写も紀行文的な雰囲気が良かった。一方、"盲目物語"は歴史小説です。織田信長の妹、お市の方の波乱の人生を仕えていためしいのあんまが感じたことや聞いたことを話すという形式で第三者を通して語らせています。やはり日本語の選び方が綺麗で、読んでて気持ちがいい。
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「吉野葛」は、なんということはないのに、なぜか読み返したり、内容を思い返したりしたくなるという、自分でも不思議な位置づけの小説。
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あらすじは、お市の方に長年仕えた盲目の男の独白。浅井家に奉公し、お市の近くに仕え、やがて浅井が滅亡し、お市が柴田勝家に再縁して、その柴田も滅び、豊臣も滅び……といった歴史が男の視点から語られる。私の脳内では長政が完全に無双のサラサラ金髪でトンガリのアレなのでニヤニヤしながら楽しめた。
「吉野葛」での時間遡行や追想が伝説や創作の域を出なかったのに対し、「盲目」は、作者(谷崎)が資料で知ったことが、作中では男の体験として語られる。「蘆刈」のようにある女性を貴びながら物語るのだけれど夢幻の彼方には行かず、男は現世にとどまり続ける。
というよりは取り残される。
男にとってはお市に仕えることが何よりの幸せだったのに、勝家とお市が自害する段になって欲を出してしまったために、お市には取り残され、第二のお市である茶々には遠ざけられ、俗世に埋もれることになる。「蘆刈」の男は夢幻に消えたが、「盲目」の男にそれは許されなかった。
男は自分で「お市の方の傍にいられればそれでいい」と言っているけど、読めばわかるが男はお市を好きだったのよね。それはお市をどうにかしたいという愛情ではなくて、愛する貴人の傍にいつまでも仕えて、時に得意の唄や三味線で慰めて差し上げたい、という愛。
だから男はお市を生きながらえさせようと間者の策に手を貸したわけだし、お市の死が定まって、それに従って果てようとしたその時、茶々の救出を任せられて、生きている第二のお市である茶々に仕えたいと願って生き延びてしまった。
その時にお市と共に死んでいればあるいは死後も傍に仕えられたかもしれないが、逆臣の罪を背負って生き延びたために、今更死んでもお市の傍には寄れず、生きていても茶々ら娘たちに憎まれて居場所がない。
そうして俗世を漂いながら年老いていく。豊臣も滅亡し、家康も死に、時代は徳川の世である。男と同じ時間を生きた人間は殆ど亡くなり、あるいは遠いところに行ってしまった。
男は独り、在りし日を懐かしむのみである。 -
「吉野葛」は大好きな作品です。主人公の男が吉野に旅をする、というだけの話なんですけど。「盲目物語」は少し読みにくい文章になっています。これは語り手の教養の低さを表すためにわざと平仮名を多用しているせいなのですが、漢字と平仮名が両方あっての日本語なんだなあ、と思わせてくれます。日本語の表記をローマ字だけにするなんて却下です!
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20231011再読