彼岸過迄 (新潮文庫)

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (400ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101010113

感想・レビュー・書評

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  • 本書名は著者が最初に記すように、元日から書き始めて、彼岸過迄に書き終えるぞ!という決意をそのまま書名にしたとのことで(笑)、本人いわく「実は空しい標題」であるとのこと。しかし、一方で「自然派」でも「象徴派」でも「ネオ浪漫派」でもなく、そうした色分けではなく「自分は自分である」という孤高宣言をした上で、明治知識人を対象とした小説を書くのだという気概も謳い上げられている。短編を紡いで長編にするという構想の下に、当時の朝日新聞に連載されたものとのこと。
    最後に著者は、敬太郎という主人公に「世間」を「聴く」だけという役割を与え、彼を取り巻く人々の諸相を描いたとしているが、むしろ、前半は敬太郎が主人公そのものになって、就活中の身の上ながらも冒険心を内に秘めた性格として描かれ、隣人との関係のこと、占いをしてもらう話、知らない人の尾行を依頼されての任務経緯などお気楽な話が続きます。(笑)新聞紙上での連載ということもあって、テンポの良い1章1章の流れにのって割とスラスラ(そしてダラダラ)物語が進んでいく感じです。
    しかし、後半から一転、尾行した家の娘の死の話から始まって次第に物語が重くなり、本書の後3分の1頃からは、実主人公が敬太郎の友人の須永に変わった上で、従妹の千代子との結婚問題に苦悩する心理描写が重たく描かれることになる。知識が逆に内向・深読み化する方向へ向かいがちな須永が、母と千代子との板挟みに苦しむ姿の描写は漱石ならではの展開でとても秀逸。千代子が須永へ、愛してもいない自分に何故嫉妬するのかと罵倒するシーンはボルテージ満開で最高のシーンでした。(笑)そして、須永に千代子を強いる母のプレッシャーとその想いの根源にも重圧感どっしりです。
    読者をその共感に引き込む巧みな描写力でなかなかの深い感慨が残る後半と、前半のお気楽さの差には驚きました。(笑)これは2冊の本に分けても良かったのではないかな・・・。途中からの路線変更ですが、過去を語る須永の話は敬太郎とともに読者は現在をわかっているので、ある意味、安心して読めてしまいますしね。それぞれの短編物語に明確な結末がないのは、経緯そのものを読者への印象として強く残すことになっている。

  • 1912年 朝日新聞連載 後期三部作

    個々の短編を重ねた末、その個々の短編が相合して一長編を構成するという試みー プロローグで漱石が語る。

    主人公は、卒業後求職中の青年・田川。
    彼に関わる、あるいは、聴いた、物語。
    冒険談・サスペンス・友人の恋愛談・生い立ち 等、語部を替えながら、其々短編として独立する。

    前期三作に比べれば、ストーリー豊かで、読み物として面白い。

    「雨の降る日」は、雨の降る日、幼女を突然亡くした一家を描く。突然の悲しみを、淡々ととやり過ごすような家族の描写が、痛ましい。感情表現はされず、「雨の降る日に紹介状を持って会いにくる男が嫌になった。」とだけ主人に語らせる。
    漱石が、この頃、娘を亡くしたことを反映しているとのこと。

    結末という章で、主人公・田川を、世間を聴く一種の探訪者である、としている。ストーリーの主人公は、友人・須永である事が多い。
    ストーリーは、主人公によっては動かないという状況は、読者を田川目線にする事ができたのではと思うのです。

  • 頼りないけど憎めもしないちょっと捻れた明治ニートたちを中心とした、連作短編というよりはオムニバス形式という方がしっくりきた作品集。

    どの話も取り立てて山や谷がある展開ではなく。
    けれど、本作の狂言回し役と言って差支えないポジションにいる、大学を卒業したばかりで世間をまだよく知らない青年・敬太郎が様々な人と知り合い、その行動を眺め、彼らから話を聞く姿を読んでいて特に強く思ったのは。

    個々の人生は独立したもので、その心のうちも行動原理も、それがどれほど身近な人間であっても、他者である以上は、どれほど親身になろうと、どれほど対話に努めても、決して伺い知れず踏み込めない部分が絶対にあるのだ、ということ。

    その背景も相まって、従妹にして事実上の婚約者である千代子へ抱く鬱屈した思いを滔々と語る、敬太郎の友人・須永の姿には、その実、自分ですら自分の気持ちなんてわかっていないし、だからこそ何もしないというか出来ないのか、とまで思う。

    それにしても須永は頭でっかちが過ぎる気がしたけれど。
    でもこれが、血縁や家の縛りに抗うなんて考えることもできなかった明治規範の中で生きた人の一つの姿なのかもしれない。

    正直、数ある漱石作品と比べて、特別に面白い作品!おすすめ!というわけではないです。
    最後に全てがつながって…みたいな仕掛けがあるわけでもないし。

    でも、生死を彷徨う大病から回復した漱石が
    「かねてから自分は個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長篇を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしないだろうかという意見を持していた。」
    故に書き上げた意欲作であり、それだけに、次の話へ進めるためのさりげない繋がり部分が興味深かったりはします。

    そうはいっても、漱石は意図せず既に処女作「吾輩は猫である」で連作小説の型を創り上げているし、そちらのほうがラストの衝撃度が強いです。
    そして、現代文学をたくさん読んでいる人にとっては、もはや真新しい手法ではなく、むしろ古めかしく辿々しいくらいかもしれませんね。

  • さすがに濃厚な内容でした。読むのに骨を折ってしまい、時間がかかりました。
    が、さすが文豪、これぞ文学といった「構成」。
    難解ではありながら、読んでいると腑に落ちる「文体」。
    人物の細かな心情変化、とくに「男性の嫉妬心」「猜疑心」を絶妙に表現していました。

    夏目漱石の文学的知識が多少なりともあるからこそ、読み進めていけるけれど、現代小説に慣れきってしまうと、漢文の素養をいかんなく発揮した回りくどい漱石の言い回しは読みにくく感じてしまうかもしれません。
    が、夏目漱石の表現は、大げさに思える比喩の一つ一つを繋げていくことで「ああ、これしか表現のしようがない」と思えるようなもので、咀嚼して読んでいくことでスルメのように味わいが出てくる。

    構成として、短編をつなぎ合わせて一つの長編をなすというもの。
    夏目漱石の「後期三部作」のテーマである「自意識」が客観的に、主観的に、さまざまな視点を通して描かれていく。

    やはり漱石はすごいなと思わせるのは、その構成の妙にあります。
    一見主人公に見える「敬太郎」は全編通してその存在は感じとれるものの、後半になるにつれて徐々にその存在が希薄になっていきます。
    最後にはたんなる「聞き手」として、脇役になってしまう。

    敬太郎は刺激を求め、様々な人から話を聞くし、自分の足も使うのですが、彼の内面はなにか好奇心をくすぐるようなものはないかと、外の世界にばかり向いていて、自分の物語を形成することはしない。

    ですが、敬太郎が話を聞きに行く人々は、それぞれがドラマを抱えていて、後半になると、中心人物は「須永」になっていきます。
    須永は自意識の塊で、その性質のために刺激を受けないように過ごしているけれど、内面では劇的な感情の波がある。

    聞き手に回り切ってしまった「敬太郎」には、あまりにも内面や環境そのものに何もなかった。
    だからこそ、須永の感じる苦悩を、敬太郎は感じなくてもよいけれど、その分、ドラマチックな事からは遠ざかるしかない。
    この対極的な二人から、近代人の苦悩についてあぶるように浮かび上がらせるという多重構成になっています。

    後半になるに従い、心情のとらえ方が難しく感じましたが、須永の「嫉妬心」は、読みごたえがありました。
    思えば、男性のドロドロとした感情の波を事細かに描写するような小説はこれまであまり読んだことがないかもしれません。
    女性を愛しているわけではなく、自分を愛しているかもしれない立場にいる女性が、自分ではなく他の人を選ぶ可能性がある、と感じたときの激しい感情の描き方は、体験がなければ書けないと思います。

    もう、夏目漱石すごいの一言。近代以降の物質的豊かさを手に入れた人たちの苦悩をいち早く描いて、しかも人物の心情の描写が細かくて生々しい。
    「須永」の卑屈さとかたまらないくらいリアルでした。

    「行人」では、「須永」タイプを主観にしたストーリーが繰り広げられるそうなので、そのうち「行人」にもチャレンジしてみようかと思います。

  • 冒頭に、漱石から読者へのメッセージがある。
    彼岸過迄という、なんだか気になるタイトルは実は、単に正月から書き始めた連載がそれぐらいに終わるだろうと付けられた名前らしい。
    そうなの、という気持ちで読み始めた。

    そこには、短編を連ねて、最終的に大きな一編になる試みをすると書いてある。

    話の語り手は、うまく流れにまかせて生き抜いていくタイプの青年。
    探偵に憧れたり、まめまめと占いを信じたり、職探しも縁故に甘えて気楽に成功させている。

    一方、真の主人公ともいえる、彼の友人はといえば、考えてばかりで、行動ができない。
    その理由が最初の方から匂わされているが、そればかりが理由ではない。
    自分の心とばかり向き合い、いまだ何の現実的なチャンスもつかめていない。
    考えてばかりの自分がもどかしくて、気楽になりたい。

    これを読んだ方は、どちらが自分に近いと思うんだろうか。

    ワールドカップの時だけ、昔からファンです顔で現れる自称サッカーファンに違和感を感じてお祭りに参加できない私は、明らかに後者だろう。

    そんな自分に時々しんどい人の心に優しくかたりかける漱石。
    そして、能天気な青年の話も半分あるので、重さが緩和されて、前者のお気楽タイプにも読みやすい。

    また、続編?の行人より、気楽な終わりなのも救われる。

  • 後期三部作の1作目。

    短編が集まって長編の形式を取っているし、序盤は割とお気楽な感じだから読みやすい。

    中盤からとても濃ゆい。前期三部作とは全然違う。
    あれも恋愛の話には違いないが、こちらの方がズドンと迫ってくる。
    男の嫉妬心と猜疑心がとても良く描かれている。
    私個人としては、須永の気持ちも分からんでもないけれど、千代子とくっついた方が幸せになれると思う。
    ただ、千代子の気持ちに応えられるか分かんないんだよね須永は。
    何だか二人の関係がもどかしくてもどかしくて。
    これは、現代人が読んでも十分に楽しめる。

    印象的なシーンも多々。
    楽しかったり、悲しかったり、物寂しかったりもするけれど、漱石の書く日本語は美しい。

  • いわゆる「後期」の、最初の作品です。

    以前の新潮文庫(だったかな?)の裏表紙の紹介に、「漱石の自己との血みどろの戦いは、ここから始まった」みたいに書かれていましたが…日本文学における「巨星」漱石の、絶対に揺るがない、その「美しさ」、「深さ」みたいなものに、打ちのめされたのを、記憶してます。若い頃の、幸せな、記憶です。

  • 主人公は知で動くタイプ

  • 須永の暗さが伝染しそう。

  • 漱石ってなんでこんなに魅力的な心情描写が出来ちゃうんだろう。凄いな。

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著者プロフィール

1867(慶応3)年、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)にて誕生。帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、『吾輩は猫である』を発表。翌年、『坊っちゃん』『草枕』など次々と話題作を発表。1907年、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。

「2021年 『夏目漱石大活字本シリーズ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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