二百十日・野分 (新潮文庫)

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著者 : 夏目漱石
  • 新潮社 (2004年1月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (310ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101010168

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二百十日・野分 (新潮文庫)の感想・レビュー・書評

  • ・「二百十日」
    圭(けい)さんと碌(ろく)さんの青年二人が、九州の阿蘇地方に旅に出ている。もくもくとどす黒い噴煙を噴出す阿蘇の火口をめざして、山あいの道をのぼってゆく。やがて、空模様も怪しくなり、風雨が激しさを増す。
    その道中、二人の青年は、商業や実業を生業とし資産を有する人たちへの敵愾心、彼らと戦うべきだ、という青年らしい勇ましい志を語り合ったりもする。だが、そうした思想や理念も、会話を中心に構成されるので、さらりと流れてしまった感あり。
    一方、噴煙と嵐の風景、壮大な阿蘇の風景が強い印象を刻む。「絵」の強さばかりが印象に残った。

    ・「野分」
    白井道也“先生”、高柳君、中野君。3人の若者の生活が交錯し、その生き方が対比される。
    中野は資産家の子息らしく、裕福な暮らしを送る青年。作中、椿山荘のような立派な庭園で、まるで園遊会のような披露宴を行う、いかにもブルジョアジーな場面も。 道也は元教師。高踏な生き方を追求するあまり、実業界の父兄から不興を買うことしばしば。地方の学校で衝突と転出を3度も繰り返し、とうとう教職を捨て、東京でしがないライター稼業のようなことをして糊口をしのいでいる。こつこつ小説を書いている。
    高柳は、大学を出たものの勤めが見つからず、これまた、翻訳の下仕事みたようなことをしてわずかの収入を得ていて貧乏。彼も小説を書く志はあるのだが、食う為に忙しく筆が止まっている。
    この3者の生き方が対比的に描かれるのだ。

    とくに道也と高柳は、文学への志が高く、実業・商業の世界で豊かさを手にして強者となっている者たちを毛嫌いする。金や裕福な暮らしを目的に生きることを小馬鹿にしている。現代に生きる私の目からは、「なにもそこまで」の感を抱くほど、文学芸術の志は高潔である。
    とくに終盤近く。道也が演説会の壇上で講演するくだり。高邁な思想が、たっぷりこってり、力強く声高に語られる。文学の道を生きるものは、経済的な果実や成功を手にすることを期待してはならない、と決め付けている。
    この講演会の目的も、なにやら活動家らしき勤め人の家族を支援するものだったりして、少々プロレタリア文学の匂いも。
    この演説会で、道也先生は、芸術家、文学者は、かつての倒幕の志士のように、社会と切り結ぶべし、とまで主張する。巻末の解説によれば、そうした主張は、当時の漱石の思想の代弁でもあったという。漱石が、文学において、それほどまで孤高で、戦闘的な使命を標榜していたとは驚きであった。

    さて、道也は、家で奥さんに嫌味を言われてばかり。理想主義的生き方を貫くばかりに困窮し続ける暮らしに、妻は不平をこぼす。彼の家庭の場面では、生活のほろ苦い面が濃い。だけども、妻を離れた場面での道也は、明るく快活な様子で、その切り替わり方に意外の感あり。面白い。
    一方の高柳君は、同じ貧乏者でも、道也先生より鬱々としている。人の居るところに出向くのも嫌なようで、いわば「マイナス思考」のループに陥っている模様。そんな高柳君は、道也先生を慕っている。(実は二人には、地方でのある因縁がある。)
    師走の夜半、高柳君は、ふと家を出て、夜道を歩きはじめる。この場面がいい。神楽坂近くの町を歩き、物売りたちの姿を、ただつぶやくように淡々と語ってゆく。
    ものさびしく。なぜだか美しい。 

    終盤、道也先生の借金百円を巡って、思いがけぬ展開が用意されていて、小説の構成としても実に劇的で面白い。
    これまで、多くの漱石の作品を読んできたが、私には本作がFavorite である。青年期の、理想と不安のないまぜになった心持ち、貧しさと豊かさの現実。そうしたテーマが、身近で切実に感じられたためかもしれぬ。

  • 金持ちや華族を"豆腐屋"と呼び、社会を変えよう志す若者たちの阿蘇山登頂の物語『二百十日』。
    落語のような軽妙な会話とは裏腹に、世の中の不正に対する怒りは噴火口のように燃えたぎり素朴な若者たちが
    爽快です。

    そして、金持ちが文学者たちをも脅かしはじめる社会を描く『野分』。
    悩める肺病の青年、高柳が転地療養しながら小説を書くのを諦め、先生の原稿を買いとるラストは印象的。社会のために先生の一冊の書物を救うことこそ、自分の人生を賭した事業と見なしたのでしょうか。クライマックスとなる、学問の道を説く白井の演説は感動的ですが、世間の冷たい風はその後も彼らに厳しく吹きつけるでしょう。

    日本が民主化し、社会階級が流動的になるや、人々はチャンスを求めて金儲けに奔走し、財力が言論や学問をも支配する。漱石は明治期にすでにそんな兆候をみてとったのでしょう。彼の危機意識がにじみ出ている2作品でした。

  • 学問に対する志は確かに大切だと思う。ただ金力を余りにも毛嫌いしすぎている印象はあった。ラストの展開、中野君は高柳君の作品見たさもあって金を融通したのではないか。もしそうなら高柳君の行動は中野君の見当違いになりはしないか?事象や主張が明確なだけに、疑問の多い作品だった。それだけに、反論やら別の展開を想像しやすいのは面白かった。あと、同意できる部分や上手い表現は他の作品に劣らず多かった。
    結婚式で、立派な中野君と見窄らしい高柳君が出会った時、お互いがお互いを「これは」と思ったとあるが、この辺りは言葉の選び方が秀逸だと思う。「これは」と思うだけで、その先はお互いの友情やら思い遣りが考えるのを一歩留まらせるのだ。しかし、その先を考えさせざるおえないのだ。

  • 「愛読書は何?」と聞かれたらコレ。
    圭さんも、碌さんも、白井道也も、高柳くんも、みんな個性があっていい。
    気概を感じる小説。

  • 「二百十日」弥次喜多よろしく小気味よい会話が続く。阿蘇の噴火口を、宿から明治時代の装備でもって徒歩で目指す大変さが伝わってくる。もちろん山岳小説ではない。漱石お得意の批判的精神が、時に漢文的表現が現れるので気が抜けない。「野分」冴えない文学者・白井先生の、同時代に同調できない不器用な生き様のやりきれなさを描いたものと読み進めたら、終盤の堂々たる講演がとても印象的なものとなった。高柳君ではないが立ち上がって拍手を送りたい。転地療養用の百円を寄贈してしまった後の高柳君はどうなるのだろう?

  • 「野分」
    最初の「白井道也は文学者である」に 引き寄せられた。白井道也だけでなく 高柳君も 夏目漱石なのだろうか。「野分」は 夏目漱石の決意書であり、若い学者への職業論。最後の演説は 野分という言葉の通り、台風のような 強い言葉。風が吹くタイミングで ストーリーが転回している

    著者が文学者として伝えたかったのは 「文学は 人生そのものである〜苦痛であれ、困窮であれ〜それらをなめ得たものが 文学者である」

  • 『野分』について

    小説の体を成していますが、思想的な主張の色彩が濃く表れています。

    学問とはかくあるべしと主張をする者と、それに共鳴する者が主軸になりますが、彼らが最後に報われるというわけではありません。その点で、理想を宣言しつつ、理想主義者が肩身の狭い思いをする現実を批判した作品のように思います。

    各々の言い分にうなずける部分があって、それぞれの主張の中間地点に、歩きやすい道があるんじゃないかと思ってしまいますが、その中途半端な考えは、彼らの方からするともっての他なのでしょう。

    幕引きが突然に訪れる感があります。その分劇的ですが、もう少し先まで顛末を知りたいと思いました。

  • 「野分」は坊っちゃんに似た(少し理屈っぽいが)いい作品。自らの理想主義のため中学教師の生活に失敗し文筆家としての道を歩む主人公を、教え子の視点から綴った内容。「私の個人主義」の講演を物語化したような作品で読ませます。

  • 2016年11月3日読了。
    二百十日は単純に楽しく読み、野分はちょっとぐさっと来た。どちらも、今読んで良かったと思う。

  • 二作品ともに奮い立たされるような気持ちの湧いてくる作品でした。野分の方が、個人的には克己心を煽動されるという意味で好きです。

  • 旅行した2人の青年の問答を中心とした二百十日とリア充、非リア充、理想家の交流を描いた野分の二編。
    野分のラストが好き。同情とかではない、世間に一矢報いてやった感が潔い。

  • 漱石はまさに、この文章を書くことで、あの時代にあっての立脚点を強く定めたのだと思う。暗闇の中にただ超然として、孤独に耐えながら直立する姿に胸が引き裂かれる。

    理解されることを求めるのではなく、それでもなお「世の前」に決然として立ち、罵倒されようが、跳ね返されようが、自己の「姿」を曝している。それでもおそらくは道也は理解されることは少ない。それでもそれをせずにはいられないからやっているだけ。その中で、「ザワザワ」と心を動かされる人もいる。


    ●野分

    ほかの学問が出来うる限り研究を妨害する事物を避けて、次第に人世に遠ざかるに引換て文学者は進んでこの障害のなかに飛び込む

    昔から何かしようと思えば大概は一人ぼっちになるものです。そんな一人の友達を頼りにするようじゃ何も出来ません。ことによると親類とも仲違いになる事が出来て来ますー私はそんなになったら、不愉快で生きてゐられないだろうと思いますーそれじゃ、文学者になれないです

    君は自分だけが一人ぼっちだと思うかもしれないが、僕も一人ぼっちですよ。一人ぼっちは崇高なものです。

  • 芸を覚えるのは末の事である。人間が出来上がるのが目的である。大小の区別のつく、軽重の等差を知る、好悪の判然する、善悪の分界を呑み込んだ、賢愚、真偽、正邪の批判を謬らざる大丈夫が出来上がるのが目的である。

    道也先生から見た天地は人の為にする天地である。高柳君から見た天地は己れの為にする天地である。人の為にする天地であるから、世話をしてくれ手がなくても恨とは思わぬ。己れの為にする天地であるから、己れをかまってくれぬ世を残酷と思う。

    「然しあなたの生涯は過去にあるんですか未来にあるんですか。君はこれから花が咲く身ですよ」
    「花が咲く前に枯れるんです」
    「枯れる前に仕事をするんです」

    自己に何等の理想なくして他を軽蔑するのは堕落である。

    自分で不愉快の眼鏡を掛けて世の中を見て、見られる僕等までを不愉快にする必要はないじゃないか

  • 『野分』だけ読み終わりました。
    文体は漱石にしては堅い印象を受けましたが、わりと滑稽なところもありそこまで読みにくさは感じませんでした。
    どの国でもどの時代でもついてまわる貧富について取り上げた作品です。幸せで善人である中野くんとひとりぼっちな高柳くんの生活は見事に対象的です。漱石は明治時代の人ですが、読んでいて今の平成の世の中もほとんど状況が変わっていないのではないかと唖然とする箇所がいくつもありました。道也先生は、学問や知識は金よりも崇高であるべきだと説きましたが、今の世の中でも学問や知識といったものは金よりかはおざなりにされがちであると思います。『野分』には金よりも崇高で、価値があるものが評価されない世の中に対する批判が込められていると思います。金より尊いものとしての、最後の高柳くんが療養のために必要な資金で道也先生の原稿を買い取り、先生を救う場面は特に印象的です。
    そして貧富以外にも人間についても本作では語られています。自らひとりぼっちになる高柳くんと人を寄せ付けない道也先生。そして本作で語られている例え夫婦であろうとも人間は完全に分かり合うことはできず、個人の全てを暴こうとすることは傲慢であり、暴いたところで後悔だけが残るという話は『こころ』の奥さんと先生の関係についての一つの結論とも言えるのではないかと思いました。
    最後に、これは完全なる主観ですが本作には同性愛とまではいかなくとも、それに近いものがあるように感じました。『こころ』の先生と私のような関係が本作にもあります。高柳くんが道也先生と自身を重ね先生を敬愛する姿には思わず同性愛的なものを感じてしまいました。

  • 阿蘇を旅した「豆腐屋主義」の権化圭と同行者との会話を通しての世相痛烈批判した「二百二十日」、それを深化・発展させた「野分」を収録。

  • 久しぶりの漱石。
    『二百十日』
    熊本に旅行した男二人づれの軽妙な会話劇。内田百間の『阿房列車』を思い出した。
    本作の「金と品性」という、皮肉にも現代に回帰している主題は古びない。
    金や身分はあれども品性下劣な人間たちを嫌っているらしい二人の男は、阿蘇に登ることに。二人はいつも軽口を叩いている。しかし、阿蘇で雨に降られ、火口にたどり着くどころか下山すら危うくなりかけた頃、二人はふとシリアスになる。いや、やせ我慢はしようとするのだけれど、それでも、余裕がなくなるにつれ、青年たちの素顔が表れだすさまが巧みに描かれる。やむなく阿蘇を下って宿に戻った二人が、ふたたび阿蘇に登ろうと軽口とも本気ともとれぬ決意をするところ、胸が熱くなった。ここでふと、力だけ持って品性のない人間たちを打ち負かすことが、革命が、そしてその大変さが、阿蘇登山に仮託されているのだと悟る。

    『野分』
    漱石にしてはメッセージ性の強い小説。金持ちと学者をめぐる道也先生の演説には、高柳君同様、快哉の声をあげたくなった。金持ちになるには教養は捨てなければならない、学者になるなら金もうけに割く時間はない。だからお互いがお互いの領分には口出しできないはずなのだが、金持ちはまるで金を持っているだけで学問にまで口出しできる権利を得たと愚かな勘違いをしている、というくだり。今もまったく変わらないなあと思う。また本作はめずらしく、結末が大事な小説でもある。

  • 「二百十日」
    教訓:台風の日に阿蘇山に登らないこと。

  • 本書は最近の活火山の活発さのニュースで二百十日という天候が荒れやすいとされる日のことと夏目漱石がその名で小説を書いていることを知ったのをきっかけに読んでみた。当時の書き方を表記を現代の新仮名遣いに改めていても独特の言い回しで読みにくかったが明治も40年が過ぎ当時の日本の先行きが見えない状況は今21世紀にも通じるところがありそういう視点で読むと先人の考えは参考になりところもあり面白いと思う。

  • 会話のテンポの良さが読みやすい。
    『野分』の先生の、奥さんの言い分はもっともだと思いながらも、先生との対比がなんだか世俗的すぎてゾワっとしたよ。。。

  • 野分、面白い。こういう理屈くさい漱石が好き。実篤や志賀に影響を与えた作品、らしい。

  • 野分の高柳君と中野君が結婚披露宴でお互い「これは」と思いつつそれには触れずにやり過ごす場面。この辺りの人間観察の機微というのは凄い。グサッときた。

  • 二百十日
    単純で剛健な豆腐屋の圭さんと金のある禄さんの阿蘇山登山を、ほとんどふたりの会話で描写する。
    主題は華族、金持ちに対する庶民の批判。その批判を圭さんに言わせ、禄さんが軽くかわす。おそらく、この小説が書かれた時代は、格差社会の入り口でもあり、かつ人々が理想を持ち始めた時代。したがい、漱石も単純には新興の金持ちを批判はできなかったのではないか。禄さんの態度が漱石に近かったような気がする。
    ユーモア小説としても抜群の出来。熊本の宿屋で半熟玉子をふたつ頼むと、ひとつは固ゆで玉子、もうひとつは生玉子が来る。くすぐりが効いている。

    野分
    正義や理想主義のために教師の職を辞し、雑誌記者として細々と暮らす白井道也先生、裕福な中野君、理想主義者であるが道也先生ほど徹底できない高柳君、三者三様の交流を通して当時の日本人の考え方を描写する。二百十日と同様、この作品でも漱石はどの生き方が正しいかという態度を取っていない。高柳君と中野君、中野君と道也先生、道也先生と高柳君の交流はあるが、3人が一堂に会する場面はない。これにより、それぞれの階級が別の階級をどう思っているかがわかる。漱石が言いたかったのは、明治時代の後期、日本が世界に向かっていくなかで、どんな階級であれ、内なる理想を持つべきということと思う。最後の道也先生の演説の場面で「すべての理想は自己の魂である」「西洋の理想に圧倒されて眼がくらむ日本人はある程度において皆奴隷である」。この演説から100年以上たった現在でも我々は、やはり理想を持つことを心に刻むべきである。

  • いまさらの夏目漱石ですが、これは読んだことなかった。
    すーごーくー、良かった!
    たしか、何年か前の姜尚中の著作『悩む力』で、彼が夏目漱石を絶賛していたように記憶していますが、ほんと、今のこの時代にこそ読まれるべき。
    私は、頭の中がすっきり整理できました。
    当分、夏目漱石を読み続けることになると思います。

    夏目漱石が「明治の青年たち」に向けて書いた作品。
    次の時代の扉を開く青年の一人であった志賀直哉や武者小路実篤らは、『野分』により強い感銘を与えられたそうです。

  • 高柳君は一人坊っちが急に二人坊っちになった様な気がする。そう思うと空も広く見える。

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二百十日・野分 (新潮文庫)の作品紹介

阿蘇に旅した"豆腐屋主義"の権化圭さんと同行者の碌さんの会話を通して、金持が幅をきかす卑俗な世相を痛烈に批判し、非人情の世界から人情の世界への転機を示す『二百十日』。その理想主義のために中学教師の生活に失敗し、東京で文筆家としての苦難の道を歩む白井道也と、大学で同窓の高柳と中野の三人の考え方・生き方を描き、『二百十日』の思想をさらに深化・発展させた『野分』。

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