堕落論 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (338ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101024028

作品紹介・あらすじ

単に、人生を描くためなら、地球に表紙をかぶせるのが一番正しい-誰もが無頼派と呼んで怪しまぬ安吾は、誰よりも冷徹に時代をねめつけ、誰よりも自由に歴史を嗤い、そして誰よりも言葉について文学について疑い続けた作家だった。どうしても書かねばならぬことを、ただその必要にのみ応じて書きつくすという強靱な意志の軌跡を、新たな視点と詳細な年譜によって辿る決定版評論集。

感想・レビュー・書評

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  • この一、二ヶ月、私は堕落している。元々、社会的ポジションなど無かったのだから、内々で堕落している。ほんの数ヶ月前、長年続いた精神的肉体的拘束が、突然無くなり、日常生活に制約が無くなった。(介護生活だけどね)どーしたものかと省みても、堕落中。
    安吾さんは、おっしゃる。人間だから堕ちるんだ。俗物なんですよ。
    堕落するとは、自分に正直に生きること。そして、それは、人間復活の条件になること。
    敗戦後の堕落中の日本人に、肯定的堕落論ですよ。
    そして、堕ち続けるのも、鋼のメンタルが必要で、永遠に堕ち続ける事はできないと。堕ち切って自分自身を発見して、自分で救わないといけませんって。それでは、しばらくは、堕落させていただきます。

    新潮文庫は、一冊まるごと、17作評論と無頼派的?エッセイ。坂口安吾さんは小説面白いのが沢山あるので、私みたいな評論苦手読者には、混ぜて貰えると読みやすいのだけど。貸出期間ギリギリまで眺めてたけれど、スッキリわかるわけもなく。

    「教祖の文学」は、小林秀雄さんについて。教祖って言ってしまう時点で、仲良しだったのか心配になってしまう。あの文章からは考えられない酒豪ですよ、酒の失敗もありますよ。なんて感じの事も書いてありました。

    「太宰治情死考」は、追悼文というか、弔辞かという趣。安吾さんは、情死を認めてないようですね。好きな女であったなら、その女を書くために生きるはずだ、と。
    最後は、悪あがきだから、いたわって休ませてと。
    そこはかとない悲しさがありました。

    • 松子さん
      おびさん、おはようございます(^^)
      今朝起きて、おびさんの堕落しているっのレビューを読んでびっくり∑(゚Д゚)
      目が覚めました。

      生活環...
      おびさん、おはようございます(^^)
      今朝起きて、おびさんの堕落しているっのレビューを読んでびっくり∑(゚Д゚)
      目が覚めました。

      生活環境が変わると、なかなか対応できないですよね(*´Д`*)
      私もいま堕落していますっ(^^)

      いまお仕事を控えていて、生活環境が大きく変わった事で、
      仕事というリズムから解放されて堕落してるんですよ。

      堕ち続けるのにも鋼のメンタルが必要で自分自身で気付いて発見しないといけないのかぁ
      なるほどぉ_φ(・_・勉強になります

      自分発見できるといいなぁ(^^)
      2022/10/06
    • おびのりさん
      松子さん おはようございます。☔️

      あら、堕落中?
      リズムって大事よねえ。
      お仕事良いですねえ。
      私は、今まで、いろんなパターンで仕事を続...
      松子さん おはようございます。☔️

      あら、堕落中?
      リズムって大事よねえ。
      お仕事良いですねえ。
      私は、今まで、いろんなパターンで仕事を続けてきましたけど、遂に、もう辞めよ!って堕落しましたあ。

      欲しいものを欲しがって良いみたいですよ。
      今は、無責任な自由ですだ。
      仕事おきばりやす。何処かで、きっちり仕事しようって思っていたけど、なかなか条件が揃わずできなかった事は、後悔というか心残りがあります。羨ましいですよ。

      2022/10/06

  • -あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。

    -人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。



    否定する。幻想を夢みる。それは現実逃避ではなく、そうして自分という1人の人間の、いまこの生活を見つめるための文学的な生き方

  • アバタロー氏
    1947年出版
    堕落こそが人間を救う道
    落ちるとこまで落ちないと救われないと主張

    《著者》
    無頼派 (自分の表現を貫く)
    戦後で40才頃の作品
    堕落論をきっかけに執筆依頼が殺到
    当時合法の覚醒剤を使用し、破天荒エピソードが多い

    《感想》
    今回、表現は柔らかく配慮してあった文言で聞きポイントは理解できた
    称賛する声も多いが、破天荒さが目について私としては共感しがたかった

    戦後で堕落せざるを得ない環境の中、堕落を正当化できたことで共感されたのだろう
    当時若者に支持された

    続編では宮本武蔵を取り上げている
    武士道という規範に縛られず、自分の内側に築き上げた戦闘哲学によって戦ったという生き方は、安吾に影響を与えたそうだ

    《内容》
    ・人間は生きてる以上堕落する生き物であり、どれだけ規範で縛り上げようが、どれだけ抗えようが、 運命が目の前に立ちはだかろうが、 人間の本質は絶対に変わらない
    ・戦争に負けたから落ちるのではない
    人間だから落ちるのであり、生きているから落ちるだけだ
    落ちきることが必要なのだ
    ・本気で自分を救いたいなら、自分の外側に答えや救いを求めてはいけない
    自分の内側にこそ目を向け、人間らしさを取り戻し、自分の生命力に従って生きる
    それこそが正しく堕落することであり、自分自身を救う唯一の道なのだ

  • 凄いものを読んだ。今後、一生付き合っていく一冊だろう。色んな言葉が溢れ返る最中、坂口安吾なりの見解によって、取捨選択をしているな、といった印象。

  •  日本人に必要なのは堕落である、と説く坂口安吾氏の評論文。彼はまず、日本人がどれだけ心変わりを起こしやすい人種であるかを説明し、武士道などの制度は、それを防ぐために作られたのだと話す。制度を実行してきたのはある個人や一部の組織であるけれど、その方法を探り当てたのは、日本人という集団の意志だった。造られた制度は、歴史の中で戦争をも引き起こす。考えることを止め、制度に従った人間たちが戦いに没頭する場所。彼はそこに不思議な美しさを見出した。彼はその素晴らしさを肯定しつつも、やはり人間は思考して老いていく生きものであると考える。堕落を避けることはできず、むしろそれを受け入れてこそ、日本人は救われるのだ、と結論付ける。

  • 坂口安吾は、誤読されることが多い。つい最近も、「坂口安吾は反戦だった」「堕落論でそれは述べられている」という文章を目にして、ハテそうだったかと再読してみた。       

    本当に久しぶりに堕落論を読んでみた。学生時代以来、20年以上経つだろうか。     

    読んでいるうちに、反戦云々はどうでもよくなった。むしろ、安吾にとって「堕落」が何を指すのか。そして、「堕落した先にあるものが何か」の方が興味深く思われた。     

    「人間は可憐であり、脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ」(堕落論)
                 
    そもそも「堕落」という言葉は佛教用語である。
     【堕落】仏教の語。法心を失いて、俗心に落ちる。
    とのみ『言海』に記述されている。つまり、明治の御代には「堕落」とは、宗教用語であったのだ。      
     

    印度哲学をノイローゼになるまで懸命に勉強した安吾が、この語源を知らぬはずがない。つまり、堕落とは、そもそも「聖なるもの」がなければ存在しえない行為である。ならば、安吾にとって「聖なるもの」がなんであるのか。これは今後の考察のテーマになるだろう。
             
    そしてもうひとつ気づいたこと。     
          
    安吾のいう「堕落」と浄土真宗の教義との方法論的親和性である。「聖なるものから乖離することが『堕落』であるのに、なぜ真宗の教義と親和するのか」「真宗の教義は『堕落』を勧めてはいない」と訝しく思われるかもしれないが、不思議なことに堕落論を読んでいて、そう感じたのだ。      

    浄土真宗の革命的なところは、「南無阿弥陀仏の6字を唱えれば極楽浄土に行ける」との簡易性にあるのではない。それは真宗を徒に誤解させるものだ。真宗の革命的なところは、「南無阿弥陀仏の6字に絶対的に帰依せよ」と迫ったところにある。つまり、すべてを捨てよと迫ったのだ。
       
    これが、財産を捨てよ、名誉を捨てよ、果ては命を捨てよ…といった喜捨を意味するのではないことは何となく理解できる。「何となく理解できる」というのは、残念なことに真宗門徒の身でありながら絶対的に帰依した経験をもたないからだ。おそらく……絶対的な帰依の先にあるものは、鈴木大拙が主張した「東洋的一」に行きつくのではないかと想像だけはしている。

    話を戻す。安吾の言う「堕落」と真宗の教義に方法論的に親和性があると主張したのは前述のとおりである。私の興味が向かうのは、すべてを削いでいったときに残るものは果たしてなんなのか。安吾はどのように考えていたのか。ここである。

    ここも今後のテーマになるだろう。


    いずれにせよ、20年ぶりに読んだ本書はとても貴重な体験になった。ありがたい。

  •  堕落論について卒業論文を書いた。
     戦前、戦時中の日本にとっての天皇制や武士道の精神は日本の体裁上必要なものであり、それらを高貴なものとしてその姿勢を守り続けていくことで支配のバランスを保っていたともいえる。ある意味日本で大事にされてきた決まり事を守って、自分たちはしっかりやれている。と、既存の物に頼りきりで堕落するのではなく、そのバランスを崩し「自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすために」は、自分自身を再発見する必要がある。
     戦後の混乱している社会の中に身を置いて自分自身を見つめ直すこと。それこそが安吾の唱える「堕落」なのだと考えた。

  • 「人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ」

    政治、歴史、宗教、戦争、人格者…

    文学の極北から人間の真相を暴き、行動を分解する。

    安吾の立つ座標は限り無く寒い。それが俺の人生だ。精一杯生きる感動だ。

    薄っぺらな批評など、そ知らぬ孤高。

  •  安吾のエッセイ集、表題作『堕落論』はちくまの全集(ベスト盤みたいなの)で以前読んだことがあって面白かったんですが、何年も前のことなので再読。やはり面白い。
     新潮版のまとめ方は発表年順、時系列に沿って読めるのでかなり良いと思う。音楽でも文章でも、あるいは絵でも何でも一緒ですが、発表順に見て行くと今までわからなかった点がわかることが多いです。それでいくと最初の『今後の寺院生活に対する私考』と『FARCEに就て』だけちょっと前のものなので、作風が違うしさほど面白くない。その後から面白くなります。
     『堕落論』『続堕落論』『天皇小論』『特攻隊に捧ぐ』『戦争論』なんかは戦後の戦争エッセイで面白いんだけど、今回面白かったのは後半の歴史エッセイのところ。全然知らなかったけど、随筆・純文学・推理小説・歴史もの等、安吾は色んなジャンルの文章を書いててどれも面白いんでびっくりしました。
     また、歴史探偵ものの題材がカトリック宣教師や道鏡だったりと、自分の興味あるところなのがとてもよい。地元だったりするし。地元といえば双葉山の話!新興宗教についても最高に面白い!大本や璽光尊の話が出てきます。

     お正月にタモさんの『戦後70年 ニッポンの肖像』ってやってて、これがめちゃくちゃ面白かったんですが、ゲストで出てた半藤一利は歴史探偵・安吾の弟子なんですよね。
     あと、そこでもオウム真理教について語られてたんですが、僕の考えだと日本人らしさというのは折衷することなんです。神仏習合や七福神などなど・・・諸星大二郎の漫画でも出てきますけど。
     神仏習合を最初にしたのは宇佐神宮と言われてますが、これ双葉山の地元でもあったり。あとケベス祭っていう謎の奇祭があるんですが、ケベスってエビス(夷)のことなんじゃないかなと。
     
     話が脱線しましたが、タモさんが「日本人は前の時代のものを全否定してきた」と言ってて、これどういうことかというと明治維新で江戸時代の文化を蔑ろにした、と。
     TVでは触れられてなかったけど、宗教的にいうと徳川幕府が政治利用してた仏教から、明治になると神仏分離で国家神道の政策になってしまう。戦後になると昭和天皇は人間宣言して宗教的空白ができてしまった、日本人のアイデンティティは完全に破壊されたんじゃないか、と。
     空白ができれば新興宗教に付け込まれる隙もできるわけで、資本主義教と共産主義教の対決がまずあって、どちらも’89~90年頃に崩壊しちゃう。そして学生運動がなくなったあとのしらけ世代(新人類世代)が中学生ぐらいの時(’74年頃)はオカルトブームだったわけで、彼らが20代後半の頃が丁度’89年頃、という流れがある。
     最後のまとめでタモさんが言ってたことは、資本主義と共産主義の良い所を折衷できるのは日本人しかいない・・・というようなことだったんじゃないかなあと。まさに日本人的だと思う。

     で、安吾なんですが新戯作派とか戯作復古って江戸期の戯作の精神ってことらしいし、新興宗教が形になってきたのは明治期だし、天皇も宗教も政治利用されてきたんでどうも全部つながっているようです。
    ※他の人のレビューを読んで追記。堕落論の堕落って聖俗の俗に落ちること、シンダラカミサマヨの逆、俗人として堕ちて生きよということかなと。特攻隊にしろ天皇の人間宣言にしろ。
    新戯作派の精神としても、漢文学や和歌を正統として、聖に対する俗が戯作なので共通してます。

  • 純文学を始め、歴史小説、推理、文芸、エッセイと多彩な領域で活動した、無頼派と呼ばれる作家の一人・坂口安吾のエッセイ。代表作ということで読了。

    日本文学や作家論、戦争理論、人間の欲まで幅広く綴っている。特に戦争に対する考え方は私にとって新しい視点のひとつで唸るものがあった。冷静な視点を持ちながらも言うべきことは強く鋭く主張する姿勢が随所に読み取れて、すごく好感が持てた。
    時間を置いて、また手に取りたい作品。

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著者プロフィール

(さかぐち・あんご)1906~1955
新潟県生まれ。東洋大学印度倫理学科卒。1931年、同人誌「言葉」に発表した「風博士」が牧野信一に絶賛され注目を集める。太平洋戦争中は執筆量が減るが、1946年に戦後の世相をシニカルに分析した評論「堕落論」と創作「白痴」を発表、“無頼派作家”として一躍時代の寵児となる。純文学だけでなく『不連続殺人事件』や『明治開化安吾捕物帖』などのミステリーも執筆。信長を近代合理主義者とする嚆矢となった『信長』、伝奇小説としても秀逸な「桜の森の満開の下」、「夜長姫と耳男」など時代・歴史小説の名作も少なくない。

「2022年 『小説集 徳川家康』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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