「三島由紀夫」とはなにものだったのか (新潮文庫)

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著者 : 橋本治
  • 新潮社 (2005年10月28日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (479ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101054148

「三島由紀夫」とはなにものだったのか (新潮文庫)の感想・レビュー・書評

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  •  三島由紀夫の作品をロクに読んでいない自分だが、橋本治の迫る三島由紀夫像に引き込まれた。他者と関わりたくて、仮面の下の彼は「無」である。「塔の中にいて、塔の外を望みながら、塔の外に出ることは拒む」という感覚に、身につまされる思いがした。
     同性愛、マッチョ、右翼、自殺という表層的なイメージで三島を捉えるのは間違いで、作品から滲み出ている彼のベースはとても繊細で中性的である。
     ただし、橋本の捉える三島像では、結局のところ彼は肥大した自己のためにコミュニケーションをうまくとれなかった人ということになるのだろうか?美意識や感情の拒絶、愛の表現方法など、一読では消化不良なことばかりで、三島作品とともに再読が必要であるとメモ代わりに。

  • 三島由紀夫をあまり読んでおらず、かつ新派など演劇にも疎い自分には難しい本だった。でも、くどいまでに分析を続ける論評にどうしても惹きつけられる。小林秀雄論も素晴らしかったが、こちらは本人の作品を読んでから、もっと考えたい。

  • 小難しく、読むに耐えない

  • 誰かの言葉を借りない、筆者独自の三島論はとても説得力がある。
    切腹事件に振り回されて(幻惑されて)いないことも、当然なのですが爽快。

  • 三島由紀夫が死んだ時、それまで明確に信じられていた自己達成の道は、消え行く光を放つ不思議な幻想となり変わった。
    自分の想定した人生を認識することーこれこそが、三島由紀夫にとっての生きるだった。
    三島由紀夫はどこかで、自分の作品、そして自分の人生が、観念だけで作られた細工物のようだと感じていたのである。

  • 「小林秀雄の恵み」同様、なかなか、難しい課題に、橋本は、良く挑戦したものである。それにしても、良くも、これ程、膨大な三島の著作を、読み返したものである。こちらは、全部が、全部、読破したモノではないから、その論旨が、果たして、どうなのかは、自分が読んだことのある著作に関しては、ある程度、理解出来るが、そうでない部分は、とりわけ、同性愛的な部分に関しては、確固たる意見が持てないのも、事実である。その辺が消化不良を犯すことになるが、「戦後」という時代を考え直す時には、どうしても、この人物の著作と死に様が、余りにショッキングだったので、避けては通ることが出来ないことも、又、事実であろう。
    未だ、学生だった頃、その日は、友人達と一緒に、ヘリコプターが、頭上を旋回する騒然とする市ヶ谷の防衛庁の門の前まで、人混みに揉まれるようにして歩いて行ったことを覚えている。
    日本の知性の在り方に対して、要石のような存在の仕方をする、死に遅れた知識人、日本人は、ただ、馬鹿になっただけであると公言して憚らない時代の寵児、自分自身を嫌悪し、作家を拒絶した作家であると。代わりに、人間であることを辞めてしまったとも、、、、、、。豊饒の海=空虚とは、何を以てして、承知したのか?禁色から、金閣寺へ、そして、豊饒の海への内容の違い、とは、、、、、、、、。
    生きようとする意思をストレートに肯定する小説とは思われなかったが、金閣寺は、作者を死に至らしめるような小説ではないと、作者に、生きようと思わせたし、生きられると思っていたと。しかしながら、生きようと思ったが、それは無理だと、どこかで、何かが、変容した。何かが起こったのであると、禁色は、潜在的な同性愛者の存在を明確に表するものではないと、三島は、主人公の分身なのか?
    豊穣の海(春の雪、奔馬、暁の寺、天人五衰)は、他者と関わりたがった小説であると。一人の三島と転生したもう一人の三島=他者という構図なのか?禁色の中の三島は、南である自分に転生を遂げてしまうが、豊饒の海では、生き残った片割れの三島が、敗北してしまい、その転生の結果、別の人物(=他者)がもう一人の三島の前にあらわれるという構図であると、果たして、暁の寺は、桜姫東文章の書き直しであろうが、そんなことよりも、実際に、バンコクでチャオプラヤー河の水上から見た暁の寺(ワット・アルンラーチャワラーラーム)は、早暁の下では、もっと、崇高な景色に、きっと、見えたのではないかと思う。輪廻転生の難解なる議論の展開には、やや、疲れる。
    同性を決して知らなかったとは言いがたい三島は、同性愛を語らなかったし、書かなかったと、
    それが、時代の流れで、生きていた時代背景であったと、三島は、自らを幻想文学にしないために、自刃したのだろうか?終焉を知らせるリアルな文学の作者として、作品に殉じて、自殺したのか?
    仮面の告白に書かれた内容を事実とする為に、作者である自身を「虚」としてしまったと。
    裏返しの自殺:フィルムの逆廻しのように、崖下から、崖上へ逆戻りする「生の回帰」であったと。
    「死者の自殺」である。死の領域を放擲したが、「生に値する生」ではなく、仮構であるとしか言えない「実体のない生」であったのか?「虚」はここから始まったのか? それとも、時代に忠実に生きた為か?
    同性愛は、芸術家のみに、許されると、、、、、。今日のお姉系の露出は、一体、どのように理解したら良いのか?芸術の一かけらすらも、見られないが、、、、、、。三島は、同性愛をもっと、知ろうとする読者に対して、芸術という支柱の「その先」を語らなかったと、実際、この辺になると、もう良く分からない、、、、、。
    仮面の告白の「断絶」、「断層」とは、一体何だったのか?
    仮面が書かれた昭和23年は、(奇しくも、私の生まれた年である)、戦後間近で有り、これまでの人生の在り方と対比しながら、新たな自分の人生を生きるということが、要求されていた時代、そういう模索がなければ、戦後という時代は、未来に向かって動き出せなかった筈であると、
    そういう先の答を出さなかったのが、三島由紀夫である、言いにくい告白を事実とするために、自分自身を「虚」にしてしまった三島に、それを望むのは、酷かもしれなかったが、やはり、答を出して貰いたかったと、その問いを、戦後という時代は、そのままにして、やがて、一切の虚無と直面して、死を選ぶ。何故、自身を虚にしたのか?という問いと答は、とてつもなく、重大である。
    戦後民主主義をまるで、その鏡の裏表のように、或いは、印画紙のように、対比して見せた、或いは、対立とある種の共感を得た安田講堂での「全共闘との討論会」でも、今になって思えば、どこか、消化不良の「隠し球」のあるような、結局、その答は、最終的な「自刃」という形での回答提示しかなかったのか?今にして思えば、戦後の引きずってきたものが、その時に、初めて、裁ち切られたのか?だからこそ、その時に、当時の我々若者は、衝撃を受けたのか?当時提起された「言葉の責任と行動」という重い課題は、今でも、胸に突き刺さったままである。まるで、松下村塾の塾生達が、師の松蔭の生き様に触発されたかのような衝撃、死後に読んだ「天人五衰」も、本当に、それらの回答になっていたのだろうか?今でも、永遠の謎であろう、、、、。今日の日本を、維新ブームを、三島だったら、どのように、一刀両断するだろうか?本当に、戦後は、終わったのであろうか?重い課題を引きずりながら、それでも、残された我々は、生き抜かなければならないし、考え直さなければならない。
    今回の書評は、腰折れならぬ、筆俺の状態で、途中で、ギブ・アップというところだろうか?本来の著作を全て、読み込んでおかないと、何とも、コメントのしようがないのも、厳然とした事実であろう。
    腰折れてしまった。

  • おもしろい論考です。難しいことを平明な文章で語らせたら橋本さんは本当に巧い。三島は全作品読んだわけではないのですが、幸い本書で取り上げられているいくつかの作品は既読で、何とかついて行けました。こうなると「豊饒の海」シリーズ読みたいですよね〜。三島の文体が装飾過剰なのは「それはそんなもの」とアッサリ考えていて深く追求したことはなかったのですが、「真実を隠すために言葉を尽くさずにはいられなかった」とは。ここまで微分された考察を提示されると唸ってしまいます。余談ですが、カバーデザインもユーモアというかシャレがきいてて素敵です。「春の雪」は妻夫木くん主演で映画になってましたが、ほかの三作品は映画にして下さらないんですかね…行定監督。

  • 橋本治が、三島由紀夫という異彩を放つ作家の依拠する論理(ロジック)の特異性を、各作品のテクストから丹念に読み込みながら解き解していきます。特筆すべきは、ほとんど他の文芸評論家の引用や孫引きもなく、ひたすら自分の言葉で 「三島由紀夫」論を展開している点です。作家論が成功しているか否かは読み手の判断に依るでしょうが、少なくとも原典を読みたくなるかどうかという意味では素晴らしい出来栄えの一冊です。

  • 橋本治の「『三島由紀夫』とはなにものだったのか」(新潮社 2002年)を読んで(全体の20%しか読まなかったが)ホッとしたところである。

    三島由紀夫は1925年に生まれ1970年に死んでいる。
    私は彼の著作を殆ど読んでいない。彼は文学者としてスター作家であり常に時の人であった。ましてやあの死にざまである。多少の本読みであり1935年生まれの私が”読んでいない”のは、よほどの”読まない”意思を反映している。
    しかしこれほどの大文学者の著作を読まないことについて、常に”それでいいのかな”、”かたくなな独りよがりではないのかな”の思いも無くはなかった。

    今、ホッとして、敢えて三島を読まなかった私の感性も捨てたものではないと密かに自賛している。
    橋本治のこの著作の内容をここで紹介することはしないが、彼も三島を読まなかったのだそうだ。理由は自分を文学者と思わなかったから。しかし物書きとしてこの本を書くにあたってはすごい読み込みをしている。「豊穣の海」だけでも3度も4度も。
    そして「三島は日本がこのように変わっていくことを全く洞察していなかった。」と言っている。

    ~~~~~~~~~~~~

    私が橋本治の「『三島由紀夫』とはなにものだったのか」を読んだのは「三島」への関心からではなく、ちょっと前に彼の「小林秀雄の恵み」を読んだからである。
    この本のテーマは小林の「本居宣長」である。

    私にとって「本居宣長」はいかにも気になる本であった。書棚にあって、過去何度か読みかけては途中で挫折する本であった。
    「小林秀雄の恵み」が「本居宣長」を扱っていることを知って、これを読めば少しは判るかなと思ったのであった。

    私に判ったのは「本居宣長」はクソ真面目人間小林秀雄の独りよがりの著作で、本物の本居宣長は桜偏愛の歌詠み人間であったことである。小林のおかげで古事記に却って勿体が付いてしまった。

    橋本治は「小林秀雄の恵み」を書くにあたって「本居宣長」を10度も読んだのではないか。橋本が書くまで小林に噛み付く人間はいなかった。凄い物書きだ。
    その橋本に「三島・・・」があるのを知って読んだのだった。

    ~~~~~~~~~~~~

    今私は日本の世界的大作家であるM・Hを読まない。
    いや、それでも2,3冊は読もうとして買ったことはあるのだが、どうしても読み進められないのである。どうしてか判らないが読めない。

    望むらくは何年かたって、橋本治がM・Hについて解題してくれることである。そして”読めなくて当然だよ”と言ってもらいたい。

  • 橋本治って頭いい!
    難しいことをわかりやすく伝えるのって本当に頭のいい人、だと思う。

    三島由紀夫という大変興味深い人について、橋本なりの評価をわかりやすく伝えてくれる。

    そーよねー、とか私は違うなーとか、そう思いながら読めます。

    が、三島すべてを読み込んであるわけではないので、きっと楽しさは半分なり、かもな。

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「三島由紀夫」とはなにものだったのか (新潮文庫)の作品紹介

"同性愛"を書いた作家ではなく、"同性愛"を書かなかった作家。恋ではなく、「恋の不可能」にしか欲望を機能させることが出来ない人-。諸作品の驚嘆すべき精緻な読み込みから浮かび上がる、天才作家への新しい視点。「私の中で、三島由紀夫はとうの昔に終わっている」と語って憚らない著者が、「それなのになぜ、私は三島が気になるのか?」と自問を重ね綴る。小林秀雄賞受賞作。

「三島由紀夫」とはなにものだったのか (新潮文庫)はこんな本です

「三島由紀夫」とはなにものだったのか (新潮文庫)の単行本

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