「三島由紀夫」とはなにものだったのか (新潮文庫)

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (480ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101054148

作品紹介・あらすじ

"同性愛"を書いた作家ではなく、"同性愛"を書かなかった作家。恋ではなく、「恋の不可能」にしか欲望を機能させることが出来ない人-。諸作品の驚嘆すべき精緻な読み込みから浮かび上がる、天才作家への新しい視点。「私の中で、三島由紀夫はとうの昔に終わっている」と語って憚らない著者が、「それなのになぜ、私は三島が気になるのか?」と自問を重ね綴る。小林秀雄賞受賞作。

感想・レビュー・書評

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  •  三島由紀夫の作品をロクに読んでいない自分だが、橋本治の迫る三島由紀夫像に引き込まれた。他者と関わりたくて、仮面の下の彼は「無」である。「塔の中にいて、塔の外を望みながら、塔の外に出ることは拒む」という感覚に、身につまされる思いがした。
     同性愛、マッチョ、右翼、自殺という表層的なイメージで三島を捉えるのは間違いで、作品から滲み出ている彼のベースはとても繊細で中性的である。
     ただし、橋本の捉える三島像では、結局のところ彼は肥大した自己のためにコミュニケーションをうまくとれなかった人ということになるのだろうか?美意識や感情の拒絶、愛の表現方法など、一読では消化不良なことばかりで、三島作品とともに再読が必要であるとメモ代わりに。

  • 不在と拒絶による圧倒的な孤独。
    自分が選ばずに捨てたはずのものに不在として拒絶されるのは、あえて選んだはずだった孤独がもともと自分が孤独であると気付くのには十分すぎるほどの絶望である気がする。
    現実は拒絶しないのに、現実は受け入れないとする姿勢は、孤独に苛まれるしかないようにも思える。

  • 三島由紀夫をあまり読んでおらず、かつ新派など演劇にも疎い自分には難しい本だった。でも、くどいまでに分析を続ける論評にどうしても惹きつけられる。小林秀雄論も素晴らしかったが、こちらは本人の作品を読んでから、もっと考えたい。

  • 代表作ぐらいは読み込んでおかないと、この本を味わうことはできない。当然。
    それにしても著者の聡明ぶりが伝わってくる。

  • 「塔に幽閉された王子」のパラドックス    -2006.10.18記

    -「三島由紀夫」とはなにものだったのか-
    文庫にして470頁余とこの長大な三島由紀夫論は、三島の殆どの作品を視野に入れて、堂々めぐりのごとく同心円上を螺旋様に展開して、作家三島由紀夫と私人.平岡公威の二重像を描ききろうとする、なかなか読み応えもあり面白かったのだが、読み草臥れもする書。
    書中、「塔に幽閉された王子」のパラドックスとして繰りひろげる「豊饒の海」解釈はそのまま的確な三島由紀夫論ともなる本書の白眉ともいえる箇所だろう。

    塔に閉じこめられ、しかしその塔から「出たくない」と言い張っていた王子は、その最後、幽閉の苦しみに堪えかねて、自分を閉じこめる「塔」そのものを、投げ出そうとしている。「塔」から出るという簡単な答えを持てない王子は、その苦しみの根源となった「塔」そのものを投げつけようとするのである。
    なぜそのように愚かな、矛盾して不可能な選択をするのか? それは「塔から出る」という簡単な選択肢の存在に気がつかないからである。「塔から出る」とは、他者のいる「恋」に向かって歩み出ることである。「私の人生を生きる」ことである。
    なぜそれができないのか? なぜその選択肢の存在に、彼は気がつけないのか?
    それは、認識者である彼が、自分の「正しさ」に欲情してしまっているからである。自分の「正しさ」が欲情してしまえば、そこから、「自分の恋の不可能」はたやすく確信できる。
    「恋」とは、認識者である自分のあり方を揺るがす「危機」だからである。彼は「恋の不可能」を確信し、その確信に従って、自分の認識の「正しさ」を過剰に求め、そして、彼の欲望構造は完結する。
    彼を閉じこめる「塔」とは、彼に快感をもたらす、彼自身の欲望構造=認識そのものなのだ。肥大した認識は、彼の中から認識以外の一切を駆逐する。彼の中には、認識以外の歓びがない。
    「認識」を「病」として自覚することは、「認識以外の歓びが欲しい」ということである。しかし彼はそれを手に入れることができない。苦痛に堪えかねて「認識者」であることを捨てる――その時はまた、彼が一切を捨てる時なのだ。

  • p.2021/7/7

  • 禁色を読まなきゃいかんと思わされました。なかなか読み進めにくい三島論。豊饒の海読み直さなきゃ。。。

  • 膨大な議論によって
    兵士になれなかった三人の劣等意識を隠蔽しつつ
    「金閣寺」に書かれていたものは
    結局、ただの理由なき反抗にすぎなかった
    しかしそれにしたって中途半端なのは
    その時点の三島由紀夫にはとうてい理解できないだろう価値観
    …すなわち、ナメられたら終わりという
    本当ならあの作品が、それに基づくものでなければならなかったからだ
    それを外しているからこそ「金閣寺」はあらゆる面で上滑りなんだが
    戦後民主主義の申し子たる橋本治にも
    やはり「ナメられたら終わり」が理解できなかったようで
    三島由紀夫の人格を「行動者」と「認識者」に分けたまではいいけど
    肝心の平岡公威をどこかに捨ててきてしまうんである
    兵士として使い物にならないオトコオンナ
    そういう烙印を押されてしまった平岡公威の絶望に対して
    オトコオンナで何が悪いの?と
    冷たく言い放てるのが橋本治であろうから
    もちろん、それ自体いけないってんではないが
    三島論としてどうなんだ、という話

  • 文学

  • 自死についての本を読んだ後で、三島由紀夫をもう一回調べたいと思った。豊穣の海と金閣寺は読んだ。仮面の告白も読んだ。この本には他の作品も登場するのでやはり意味不明なところが多かった。

  • 小難しく、読むに耐えない

  • 誰かの言葉を借りない、筆者独自の三島論はとても説得力がある。
    切腹事件に振り回されて(幻惑されて)いないことも、当然なのですが爽快。

  • 三島由紀夫が死んだ時、それまで明確に信じられていた自己達成の道は、消え行く光を放つ不思議な幻想となり変わった。
    自分の想定した人生を認識することーこれこそが、三島由紀夫にとっての生きるだった。
    三島由紀夫はどこかで、自分の作品、そして自分の人生が、観念だけで作られた細工物のようだと感じていたのである。

  • 「小林秀雄の恵み」同様、なかなか、難しい課題に、橋本は、良く挑戦したものである。それにしても、良くも、これ程、膨大な三島の著作を、読み返したものである。こちらは、全部が、全部、読破したモノではないから、その論旨が、果たして、どうなのかは、自分が読んだことのある著作に関しては、ある程度、理解出来るが、そうでない部分は、とりわけ、同性愛的な部分に関しては、確固たる意見が持てないのも、事実である。その辺が消化不良を犯すことになるが、「戦後」という時代を考え直す時には、どうしても、この人物の著作と死に様が、余りにショッキングだったので、避けては通ることが出来ないことも、又、事実であろう。
    未だ、学生だった頃、その日は、友人達と一緒に、ヘリコプターが、頭上を旋回する騒然とする市ヶ谷の防衛庁の門の前まで、人混みに揉まれるようにして歩いて行ったことを覚えている。
    日本の知性の在り方に対して、要石のような存在の仕方をする、死に遅れた知識人、日本人は、ただ、馬鹿になっただけであると公言して憚らない時代の寵児、自分自身を嫌悪し、作家を拒絶した作家であると。代わりに、人間であることを辞めてしまったとも、、、、、、。豊饒の海=空虚とは、何を以てして、承知したのか?禁色から、金閣寺へ、そして、豊饒の海への内容の違い、とは、、、、、、、、。
    生きようとする意思をストレートに肯定する小説とは思われなかったが、金閣寺は、作者を死に至らしめるような小説ではないと、作者に、生きようと思わせたし、生きられると思っていたと。しかしながら、生きようと思ったが、それは無理だと、どこかで、何かが、変容した。何かが起こったのであると、禁色は、潜在的な同性愛者の存在を明確に表するものではないと、三島は、主人公の分身なのか?
    豊穣の海(春の雪、奔馬、暁の寺、天人五衰)は、他者と関わりたがった小説であると。一人の三島と転生したもう一人の三島=他者という構図なのか?禁色の中の三島は、南である自分に転生を遂げてしまうが、豊饒の海では、生き残った片割れの三島が、敗北してしまい、その転生の結果、別の人物(=他者)がもう一人の三島の前にあらわれるという構図であると、果たして、暁の寺は、桜姫東文章の書き直しであろうが、そんなことよりも、実際に、バンコクでチャオプラヤー河の水上から見た暁の寺(ワット・アルンラーチャワラーラーム)は、早暁の下では、もっと、崇高な景色に、きっと、見えたのではないかと思う。輪廻転生の難解なる議論の展開には、やや、疲れる。
    同性を決して知らなかったとは言いがたい三島は、同性愛を語らなかったし、書かなかったと、
    それが、時代の流れで、生きていた時代背景であったと、三島は、自らを幻想文学にしないために、自刃したのだろうか?終焉を知らせるリアルな文学の作者として、作品に殉じて、自殺したのか?
    仮面の告白に書かれた内容を事実とする為に、作者である自身を「虚」としてしまったと。
    裏返しの自殺:フィルムの逆廻しのように、崖下から、崖上へ逆戻りする「生の回帰」であったと。
    「死者の自殺」である。死の領域を放擲したが、「生に値する生」ではなく、仮構であるとしか言えない「実体のない生」であったのか?「虚」はここから始まったのか? それとも、時代に忠実に生きた為か?
    同性愛は、芸術家のみに、許されると、、、、、。今日のお姉系の露出は、一体、どのように理解したら良いのか?芸術の一かけらすらも、見られないが、、、、、、。三島は、同性愛をもっと、知ろうとする読者に対して、芸術という支柱の「その先」を語らなかったと、実際、この辺になると、もう良く分からない、、、、、。
    仮面の告白の「断絶」、「断層」とは、一体何だったのか?
    仮面が書かれた昭和23年は、(奇しくも、私の生まれた年である)、戦後間近で有り、これまでの人生の在り方と対比しながら、新たな自分の人生を生きるということが、要求されていた時代、そういう模索がなければ、戦後という時代は、未来に向かって動き出せなかった筈であると、
    そういう先の答を出さなかったのが、三島由紀夫である、言いにくい告白を事実とするために、自分自身を「虚」にしてしまった三島に、それを望むのは、酷かもしれなかったが、やはり、答を出して貰いたかったと、その問いを、戦後という時代は、そのままにして、やがて、一切の虚無と直面して、死を選ぶ。何故、自身を虚にしたのか?という問いと答は、とてつもなく、重大である。
    戦後民主主義をまるで、その鏡の裏表のように、或いは、印画紙のように、対比して見せた、或いは、対立とある種の共感を得た安田講堂での「全共闘との討論会」でも、今になって思えば、どこか、消化不良の「隠し球」のあるような、結局、その答は、最終的な「自刃」という形での回答提示しかなかったのか?今にして思えば、戦後の引きずってきたものが、その時に、初めて、裁ち切られたのか?だからこそ、その時に、当時の我々若者は、衝撃を受けたのか?当時提起された「言葉の責任と行動」という重い課題は、今でも、胸に突き刺さったままである。まるで、松下村塾の塾生達が、師の松蔭の生き様に触発されたかのような衝撃、死後に読んだ「天人五衰」も、本当に、それらの回答になっていたのだろうか?今でも、永遠の謎であろう、、、、。今日の日本を、維新ブームを、三島だったら、どのように、一刀両断するだろうか?本当に、戦後は、終わったのであろうか?重い課題を引きずりながら、それでも、残された我々は、生き抜かなければならないし、考え直さなければならない。
    今回の書評は、腰折れならぬ、筆俺の状態で、途中で、ギブ・アップというところだろうか?本来の著作を全て、読み込んでおかないと、何とも、コメントのしようがないのも、厳然とした事実であろう。
    腰折れてしまった。

  • おもしろい論考です。難しいことを平明な文章で語らせたら橋本さんは本当に巧い。三島は全作品読んだわけではないのですが、幸い本書で取り上げられているいくつかの作品は既読で、何とかついて行けました。こうなると「豊饒の海」シリーズ読みたいですよね〜。三島の文体が装飾過剰なのは「それはそんなもの」とアッサリ考えていて深く追求したことはなかったのですが、「真実を隠すために言葉を尽くさずにはいられなかった」とは。ここまで微分された考察を提示されると唸ってしまいます。余談ですが、カバーデザインもユーモアというかシャレがきいてて素敵です。「春の雪」は妻夫木くん主演で映画になってましたが、ほかの三作品は映画にして下さらないんですかね…行定監督。

  • 橋本治が、三島由紀夫という異彩を放つ作家の依拠する論理(ロジック)の特異性を、各作品のテクストから丹念に読み込みながら解き解していきます。特筆すべきは、ほとんど他の文芸評論家の引用や孫引きもなく、ひたすら自分の言葉で 「三島由紀夫」論を展開している点です。作家論が成功しているか否かは読み手の判断に依るでしょうが、少なくとも原典を読みたくなるかどうかという意味では素晴らしい出来栄えの一冊です。

  • 橋本治の「『三島由紀夫』とはなにものだったのか」(新潮社 2002年)を読んで(全体の20%しか読まなかったが)ホッとしたところである。

    三島由紀夫は1925年に生まれ1970年に死んでいる。
    私は彼の著作を殆ど読んでいない。彼は文学者としてスター作家であり常に時の人であった。ましてやあの死にざまである。多少の本読みであり1935年生まれの私が”読んでいない”のは、よほどの”読まない”意思を反映している。
    しかしこれほどの大文学者の著作を読まないことについて、常に”それでいいのかな”、”かたくなな独りよがりではないのかな”の思いも無くはなかった。

    今、ホッとして、敢えて三島を読まなかった私の感性も捨てたものではないと密かに自賛している。
    橋本治のこの著作の内容をここで紹介することはしないが、彼も三島を読まなかったのだそうだ。理由は自分を文学者と思わなかったから。しかし物書きとしてこの本を書くにあたってはすごい読み込みをしている。「豊穣の海」だけでも3度も4度も。
    そして「三島は日本がこのように変わっていくことを全く洞察していなかった。」と言っている。

    ~~~~~~~~~~~~

    私が橋本治の「『三島由紀夫』とはなにものだったのか」を読んだのは「三島」への関心からではなく、ちょっと前に彼の「小林秀雄の恵み」を読んだからである。
    この本のテーマは小林の「本居宣長」である。

    私にとって「本居宣長」はいかにも気になる本であった。書棚にあって、過去何度か読みかけては途中で挫折する本であった。
    「小林秀雄の恵み」が「本居宣長」を扱っていることを知って、これを読めば少しは判るかなと思ったのであった。

    私に判ったのは「本居宣長」はクソ真面目人間小林秀雄の独りよがりの著作で、本物の本居宣長は桜偏愛の歌詠み人間であったことである。小林のおかげで古事記に却って勿体が付いてしまった。

    橋本治は「小林秀雄の恵み」を書くにあたって「本居宣長」を10度も読んだのではないか。橋本が書くまで小林に噛み付く人間はいなかった。凄い物書きだ。
    その橋本に「三島・・・」があるのを知って読んだのだった。

    ~~~~~~~~~~~~

    今私は日本の世界的大作家であるM・Hを読まない。
    いや、それでも2,3冊は読もうとして買ったことはあるのだが、どうしても読み進められないのである。どうしてか判らないが読めない。

    望むらくは何年かたって、橋本治がM・Hについて解題してくれることである。そして”読めなくて当然だよ”と言ってもらいたい。

  • 橋本治って頭いい!
    難しいことをわかりやすく伝えるのって本当に頭のいい人、だと思う。

    三島由紀夫という大変興味深い人について、橋本なりの評価をわかりやすく伝えてくれる。

    そーよねー、とか私は違うなーとか、そう思いながら読めます。

    が、三島すべてを読み込んであるわけではないので、きっと楽しさは半分なり、かもな。

  • 三島由紀夫に対する橋本さんの批評に驚きました。私も三島由紀夫さんの作品をいくつか読んでいますが、あまり深く考えずに読んでいて不思議な物語だな程度しか認識していませんでした。同じ文章を読んでいるのにこの解釈の違い、なんか恥ずかしい気持ちがしました。

  • 自分がこれまで読んだ三島論のなかで最も面白かった

    [目次]
    第1章 『豊饒の海』論(二人の三島由紀夫―檜俊輔と南悠一;『金閣寺』の二人 ほか);
    第2章 同性愛を書かない作家(松枝清顕の接吻;同性愛を書かない作家 ほか);
    第3章 「女」という方法(三島由紀夫の「戦後」;囚われの人 ほか);
    終章 「男」という彷徨(不在の後;認識が「死ね」と言う ほか);
    補遺 三島劇のヒロイン達(『喜びの琴』事件;杉村春子から水谷八重子へ ほか)

  • 昨日、知人の名古屋今池、神無月書店で購入。前の日、他の書店で文庫で購入迷い、次の日。橋本治は『あのイラスト』以来
    ニット編み。『生きる歓び』、『源氏物語』等、常にぶれず.逆にしばしば浮ついた気の自分のナビゲーションになります。

  • 三度読み返して、そのたびにやるせなくなる評論です。<br>著者は三島作品を深く読みこむことで三島由紀夫特有のロジックを把握し、そこから、「なぜ『三島由紀夫』は死んだか?」「『三島由紀夫』とはなぜそうしなければならない人物だったか?」という問いに答えを与えていきます。その過程は面白く、読み応えがあります。しかし、著者の読み取る三島のロジックは、ずいぶん悲しいものです。<br>
    「三島由紀夫」とは何者だったのか、の答えはしっかりと出されています。しかし読むときにはかなり体力を使いました。

  • 「すごい」の一言。筆者の三島作品に対する思い入れと愛を感じたのは私だけでしょうか?ここまで深く作品を洞察して三島由紀夫の表現したかったことを詳細に読み取る(あくまで橋本氏の見解であり、真実かどうかはわかりませんが)ことができたのは橋本氏の中に、三島由紀夫に共感できる本質があったから、ではないかとまで邪推してしまうほどに深く深く掘り込んで解説してあります。
    頭の良い人って、、、すごい。

  • なにぶんここまで分厚い評論を読んだことがなかったのでだいぶ時間を掛けた。が、それ相応に得たものは大きい。自分はあまり賢くないので三島の言いたいことをすべて曖昧模糊にとっていたが、筆者のおかげで的確な言葉を与えられ、三島文学における理解がさらに深まった。

  • 1/1読了。今年最初の本。

    あ〜頭のいい人の頭の中身を知りたい!と思うときは、橋本治を読む。のたのたでありながら、直感的なひらめにき溢れた思考回路の一端がアホな私にもちょびっとだけわかるように、丁寧に示されていく。

    ふーん、三島由紀夫文学は、全編これ私小説だったんだぁ・・・。実行者と認識者という二つのくくりに若干安易な点も感じるけど、最後までゆるぎない論理で、ぐいぐい読ませる。エンターテーメントだなあと思った。

    芝居に詳しい著者だけに、三島劇に関する章が特に好きでした。

  • 三島は一般的には、「右翼」「同性愛」などのキーワードで意識されることが多いと思うのですが、この著者は「“同性愛”を書いた作家ではなく、“同性愛”を書かなかった作家」であると論じます。そうして『仮面の告白』から『豊穣の海』シリーズに至るまでの経過を辿っていくことで、不思議なほど説得力のある「三島由紀夫」のイメージが浮かび上がらせています。

    ただ(こういうことを言うと元も子もないのですが)、究極的には本人にしか判らない事を論じるのは空しさが消えないものですね。

  • 私の思ってた三島と近いとこも会ったり、違うとこもあったり。時々くどいなーと思ってめんどくなったりしましたが、三島が同性愛を書く作家ではなく「書かない」作家だという考察がとても興味深かったです。

  • 橋本治が三島由紀夫の「豊饒の海」4部作を中心に読みときながら、「三島由紀夫」と平岡公威について言及する大変優れた長篇評論。第1回小林秀雄賞受賞作品。ここには、よくありがちな「他説との比較や同調もしくは反論」というものは殆どない。あくまでも作品のみに向かい合って、他人のものではない自分の言葉でその「世界」を、三島由紀夫を語っている。この本を読みすすむうちに溢れ出て満ちてくる充実感は、何にも勝る。やっぱり橋本治の書くものが自分は好きなんだな、とあらためて思った。

  • 橋本治は平易な言葉をつかって大変難解というか私などではついていけない飛躍したことを言う人なので、うっかり読んだりしないよう長年警戒していたのですが、文庫の新刊で平積みされていてつい購入してしまいました。最初の「禁色」論でもういきなりわけわからんのですが【読書中】

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著者プロフィール

1948年東京生まれ。東京大学文学部国文科卒。小説、戯曲、舞台演出、評論、古典の現代語訳ほか、ジャンルを越えて活躍。著書に『桃尻娘』(小説現代新人賞佳作)、『宗教なんかこわくない!』(新潮学芸賞)、『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(小林秀雄賞)、『蝶のゆくえ』(柴田錬三郎賞)、『双調平家物語』(毎日出版文化賞)、『窯変源氏物語』、『巡礼』、『リア家の人々』、『BAcBAHその他』『あなたの苦手な彼女について』『人はなぜ「美しい」がわかるのか』『ちゃんと話すための敬語の本』他多数。

「2019年 『思いつきで世界は進む』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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