破戒 (新潮文庫)

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  • / ISBN・EAN: 9784101055077

感想・レビュー・書評

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  • 【読もうと思った理由】
    直近で読んだ三木清氏の「人生論ノート」の感想欄(雑感)にも書いたが、本書を読もうと思ったきっかけは、ロシア人YouTuberのAlyona(アリョーナ)氏の「これって渋い?好きな日本文学作品について語ってみた」の動画がきっかけだ。その動画では、島崎藤村氏の「破戒」以外の日本文学作品も、いくつか紹介してくれているが、僕が一番興味関心を惹かれたのは「破戒」だった。またAlyona氏が、別の動画で紹介してくれていたが、ロシアでは、文学と国語(現代文)は、そもそも教科(科目)が別々に別れているとのこと。日本だと現代文の中で文学作品も学ぶが、ロシアでは、文学は独立した教科になっているんだとか。なるほど。国家として、文学にそこまで力を入れているので、稀代の小説家や小説好きが多い理由に、深く納得できた。

    実はこの動画を見る前から日本近代文学も、そろそろ本格的に読み進めていかないとなぁと思い始めていた。最終的に理解したいのは、もちろん夏目漱石氏の世界観だ。ただその前にもう何人か近代小説家を読んで、もう少し慣れてからの方が良いかなぁと思っていた矢先だったので、ちょうど良いタイミングだと思い、読もう思った。

    【島崎藤村氏って、どんな人?】
    明治5年(1872)3月25日、筑摩県馬籠村(現在の岐阜県中津川市馬籠)に生まれる。本名:島崎春樹(しまざき はるき)。明治14年、9歳で学問のため上京、同郷の吉村家に寄宿しながら日本橋の泰明小学校に通う。明治学院普通科卒業。卒業後「女学雑誌」に翻訳・エッセイを寄稿しはじめ、明治25年、北村透谷の評論「厭世詩家と女性」に感動し、翌年1月、雑誌「文学界」の創刊に参加。明治女学校、東北学院で教鞭をとるかたわら「文学界」で北村透谷らとともに浪漫派詩人として活躍。明治30年には第一詩集『若菜集』を刊行し、近代日本浪漫主義の代表詩人としてその文学的第一歩を踏み出した。『一葉舟』『夏草』と続刊、明治32年函館出身の秦冬子と結婚。
     
    長野県小諸義塾に赴任。第四詩集『落梅集』を刊行。『千曲川旅情のうた』『椰子の実』『惜別のうた』などは一世紀を越えた今も歌い継がれている。詩人として出発した藤村は、徐々に散文に移行。明治38年に上京、翌年『破戒』を自費出版、小説家に転身した。続けて透谷らとの交遊を題材にした『春』、二大旧家の没落を描いた『家』などを出版、日本の自然主義文学を代表する作家となる。明治43年、4人の幼い子供を残し妻死去。大正2年に渡仏、第一次世界大戦に遭遇し帰国。童話集『幼きものに』、小説『桜の実の熟する時』、『新生』、『嵐』、紀行文集『仏蘭西だより』『海へ』などを発表。
      
    昭和3年、川越出身の加藤静子と再婚。昭和4年より10年まで「中央公論」に、父をモデルとして明治維新前後を描いた長編小説『夜明け前』を連載、歴史小説として高い評価を受ける。昭和10年、初代日本ペンクラブ会長に就任、翌年日本代表として南米アルゼンチンで開催された国際ペンクラブ大会に出席。昭和18年、大磯の自宅で、『東方の門』執筆中に倒れ、71歳で脳卒中で没。

    【感想】
    日本近代文学の礎を築いたという夏目漱石氏をして、「明治の代に小説らしき小説が出たとすれば破戒ならんと思う」と、森田草平氏宛の手紙に書いたという。そう、あの夏目漱石氏も絶賛した小説が本書「破戒」だ。

    日本近代文学って、もっと読みにくくて、暗くて、読むのにパワーがいる作品ばかりだと思っていた。ただ少なくとも今作は、僕が過去読んだ近代文学の中では珍しく、読後感が前向きになれて、最後に希望を感じられるエンディングだった。これはいわゆる、ハッピーエンドと言っても良いのではと思う。誇張でも何でもなく、最後数十ページはラストが気になり、家まで待てずに帰宅時の最寄駅のホームのベンチに座って、読み切ってしまった。

    今作であれば、日本近代文学にアレルギーを起こしてしまっている人でも、チャレンジしてみる価値がある作品だと思った。それほどに読みやすい。仮名遣いもほぼ現代と変わらず、漢字率は確かに高いが、難しい漢字にはルビを振ってくれているので、誇張ではなく、現代文学と比べても、遜色なく読み進められる。また島崎藤村氏は、もともと詩人でもあるので、文章が非常に流麗で、また凄く感情移入がしやすい文体だ。なので、藤村氏の世界観に比較的簡単に没入できる。

    このあたりで簡単にあらすじを書くと、以下となる。

    主人公は長野県の山奥で教師をしている瀬川丑松。若い彼にはたった一つの秘密があった。それは彼が穢多(えた)という身分の生まれであること。時代は明治後期、法改正がなされたとはいえ、身分による差別は、日本中にまだまだあり、ほとんどの穢多が蔑まれながら生きていた時代。よって丑松は父親から口酸っぱく「身分を何があっても隠せ」と言われ続けてきた。丑松は、真面目に父親の教えを守っていたため、周りに身分を知られることなく、穏やかな教師生活を送れていた。だが丑松には、心惹かれる人物がいた。それは同じ穢多出身であり、穢多であることを公言している、猪子蓮太郎という思想家だ。猪子の書籍をずっと読んでいた丑松は、猪子にかなり感化されていた。猪子にだけは、自分が「穢多」であることを打ち明けてもいいんじゃないかという、葛藤に日々苛まれてゆく…。

    そう、この物語のもっとも大事なポイントは、自分が世間で蔑まされている身分である「穢多」であることを、告白すべきか、言わざるべきか?ある事件をきっかけにして、その葛藤がより強くなり、丑松は苛まれてしまう。その丑松の心の機微を、ときに繊細で、ときに大胆に、われわれ読者に訴えてくる。丑松の苦悩する心情に、とても自然な形で導いてくれる。その筆致が、まさに島崎藤村氏の唯一無二の世界観なんだろうなと感じた。

    最近小説を読んでいて思うのだが、その小説を面白いと思えるかどうかの境界線って、まさにさっき書いた没入感だと思っている。もっと下世話な言い方をすれば、ハマれるかどうかだ。売れてる作家とそうでない作家の違いって、実はそんな難しいことではなく、つまりは、自分の世界観にどっぷりハマらせられるかどうかなんだろうなぁと。特に最近そう感じている。

    そういう意味でいうと、今作では、島崎氏はどっぷりハマらせてくれた。今までの他の書籍の感想でも何度か書いてきたが、ハマらせるためには、読み手の感情をいかに動かせるかがカギなんだろうと。それは多分読書だけでなく、普段のコミュニケーションにおいても同じで、聞き手の感情を揺り動かせるかどうかが、ポイントなんだろうなぁと、つくづく思う。そういう意味でいうと、本書のような、長年読み続けられた名著を思考しながら読むと、色々なヒントが散りばめられていたりする。それに気づけたとき、やっぱり名著は良いなぁと深く腹落ちできるので、個人的に古典の名著が好きだ。

    【雑感】
    次は、半年ほど積読で読めていなかった、浅田次郎氏の「壬生義士伝」を読みます。この本は会社の同僚で本好きの方から、勧められて購入した本です。その同僚の方は、浅田次郎氏の本だけは、極力単行本で購入するようにしているほど、浅田氏のことがファンなんだそう。「その浅田氏の本の中で最も感動する本ってどの本?」と聞くと、即答で「壬生義士伝」と返ってきた。新選組の吉村貫一郎が主人公の話ぐらいしか知らないが、まぁ、なにせ感動するんだと太鼓判を押されたので、期待して読みます!

  •  部落差別問題を描いた小説だとは知っていたが、まさか主人公が最後に亜米利加のテキサスに旅立つとは!
     近代自然主義文学の代表。藤村は詩人でもあったので、信濃の描写が非常に美しい。例えば
     千曲川の水は黄緑の色に濁って、声もなく流れて、遠い海のほうへ……その岸に蹲るかのような低い柳の枯れ枯れとなった様…
    とか
     北国街道の灰色な土を踏んで、花やかな日の光を浴びながら、時には岡に登り、桑畑の間を歩み、時にはまた、街道の両側に並ぶ街々を通り過ぎて……
    などの描写。
     信濃の人々の素朴で勤勉で貧しい人柄や生活の描き方も味わい深い。
     だけどまた、「俺は武士の家系の末裔だ」とか「あいつは実は新平民らしい」などということで、人を蔑み、優越感を感じることでアイデンティティを得てしまうのも、悲しいかな、人間という生き物の自然。
     そして、主人公のように被差別部落出身の者がその親の「出自を隠せ。絶対に喋るな。」という教えと“尊敬する同族の先輩のように堂々と生きたい”という思いの狭間で苦しみもがき続けるのもまた、人間の“自然”であり、(現在はまた、色んな差別があるが)この時代を隠さずに写実したものだろう。漱石や鴎外だけを読んでも、明治の現実は理解出来ないだろう。
     主人公は被差別部落出身であることを隠して、小学校教員をしており、生徒から慕われているが、権威主義の校長一派に貶めよう、貶めようとされ、出自の秘密を掴まれて、噂を流されてしまう。精神的に学校に出勤することが耐えられなくなってきたとき、尊敬していた被差別部落出身の思想家が壮絶な死をとげ、彼はカミングアウトする決心をする。
     生徒たちの前で「私は卑しい穢多です。どうぞ許して下さい。」と土下座した。そんなことしなくていいのに。だけど、生徒達は元から慕っていた教師のそのような姿を見て、却って尊敬の気持ちを高め、「どうか瀬川先生を辞めさせないで下さい。」と校長に訴える。
     父親からの「出自を隠せ」という掟を破り、カミングアウトした瀬川丑松は、それまで自分を取り囲んでいた心の壁も世間の固定観念も“破壊”し、“テキサスへ”とい自由な行動に出ることが出来た。旧態依然として、固定観念の枠の中で守られることを選んでいた、校長達のほうが、ちっぽけに見えた。
     間宮祥太朗主演で映画が公開されているらしい。だから読んだ訳ではないが。あの人、不良の役も真面目な役も出来るんですね。

  • 差別と偏見の中で生きてきた丑松(うしまつ)。
    明治時代、穢多という卑しい身分の部落で生まれ育った彼は、やがて教師となるが、父から身分を隠せと堅く戒められていた。
    上手く隠しながら生きていたが、隠さず正々堂々と戦う先輩に憧るようになり、何度も打ち明けたい衝動に駆られ、葛藤の末ついに父の戒めを破戒してしまう。
    秘密を一人で抱えて生きることも、自白して差別されながら生きることも、どちらを選択しても苦しい。ただそこに生まれただけなのに。正義感だけでは生きていけないのが人間社会なんだな。
    多様性が叫ばれる現代においても、差別や偏見が完全になくなることはない。どうしても多数派の意見が強くなってしまうところがある。
    時代の常識にとらわれず、物事の本質を見極めて生きていきたいな。

  • 2022年再映画化決定とのこと。この小説が、令和の時代に理解されるのか、共感されるのかと再読。

    ロングセラーにまだ作品名が残るが、教科書や国語便覧等に必ず登場するからではと思っていた。

    出自の隠蔽という理不尽な背徳感を抱え続けて生きる青年・瀬川。父の教え「隠せ」は、彼の絶対だった。彼は、身分を隠して教員となっていた。
    同輩への世間の非常な風当たり。
    周囲の人の何気ないその出自に対する蔑みの会話。
    彼は、いつかその事実が白日の下に晒されることに恐れ、常に緊張と束縛の中にいた。

    隠し続ける苦しさの中、同輩の先輩の理不尽な運命をも退けようとする生き様に、感銘を受ける。
    そして、遂に、教師であった彼は、生徒達の前で、自ら出自の告白をする。差別を受ける瀬川自身が頭を下げるのだ。

    この身分差別の問題が、理解できなくても、自分が隠して生活しなければならない事柄、出生・経歴等として、読んでも見ても共感できると思う。

    だが、日本の各地に残っていると思われるこの人種差別について考えて欲しいとは思う。日本のこの制度は、同民族間で歴史も長い。この問題を抱える地域では、未だ根深い。

    瀬川が、その葛藤からの脱却だけでなく、何を破戒しこのラストを迎える事ができたか、何を破壊できなかったのかを想いたい。

  • 昨年から細々と読み続け、やっと読了。一気読みするには苦しくなる作品。

    凄く良かった。
    自分の努力ではどうにもならない部落という偏見。
    父からの戒めを破った時、新たな人生がはじまる。

    丑松の内面の葛藤が、言葉巧みに描かれてあって、感動した。改めて昔の文学作品は今も尚素晴らしいと思う。
    日々揺れ動く感情。出来そうで出来ない。今日こそ!でも結局…自分の頭の中での葛藤が痛いほど伝わった。
    そして、信州の四季折々の風景や、生徒との関わりも、素晴らしく書けている。

    勤勉さと日々を真面目に積み重ねた結果の、友情や恋や、新たな人生。

    後ろ表紙のあらすじの印象が、中身を読んでみると少し違って、自分的には残念。自力でテキサスへの道を切り開いた訳じゃないし、あ、ここで終わるんだ…結末まで書いてるやん…みたいな。でも、分かった上でも、読んで損なし。

    読めて良かった。素晴らしい。

  • 大満足の一冊。穢多の家系に生まれた主人公の物語で、差別問題に目を向けた作品ともとれるが、個人的には、主人公の豊かな感情と揺れ動く心の模様を巧みに表現している作者の文章力そのものに非常に魅力を感じた。
    また舞台である信州の情景などが、よく表現されており聖地巡りをしたくなる一冊。

  • 人は差別という言葉の存在を無くさなければならない。同時に差別という言葉が存在したことを忘れてはならない。私はこの矛盾を破壊したい。

  • 被差別部落を扱った有名な作品です。高校生の頃に初めて読んで衝撃を受け、その後、何度読んでも主人公の丑松(うしまつ)の結末に首を傾げ、ときには憤懣やるかたなく最後のページを閉じる……その繰り返しでした。

    ところが、住井すゑの大河日本文学「橋のない川」を読んでみると、生まれてこの世を去っていくその日まで、執拗な偏見と差別に虐げられ、想像を絶するような貧困に喘ぎながら、村八分どころか国八部、いや人間八部にされてしまうことが、いかに人の尊厳を破壊してしまうものか……なるほど、結末は丑松のようになってしまうかもしれないな……という気がして、改めて考えさせられます。

    それでも、やはり当時の時代をさきがけた文学が、ことこの問題で丑松の結末を甘受するのはかなり違和感が残ります。いざ終盤に至ってトーンがかわり、リアリティを欠くのは惜しいな……。当時のテーマの先駆性については評価できるものの、リアリズムに根差した想像の限界だったのかな……と悩み続けた作品。

    • kuma0504さん
      アテナイエさん、こんにちは。
      レビューを読んで、コメントするようなことではないのですが、いろんなことを思ってつい書いたのですが、このままスマ...
      アテナイエさん、こんにちは。
      レビューを読んで、コメントするようなことではないのですが、いろんなことを思ってつい書いたのですが、このままスマホの中にしまっておくのも勿体無くて、コメントします。返事はいいですから。

      藤村の「破戒」は読んだことはないのですが、アテナイエさんのレビューを読む限りは、部落差別されてきた主人公がバッドエンドを迎えるにあたり、どうも藤村はその運命は「仕方ないもの」として捉えているようだ。それはどうも納得がいかない。という問題意識をアテナイエさんが持っているように感じました。

      これは重要な問題意識だし、きっと文学を読むということは、そういう感想を深めることで深化していくものだと思います。
      私ならば、もしそういう問題意識を持ったならば次のように進めます。何故ならば、私の大学の専攻は、全然不肖の学徒でしたが、日本思想史であるので、研究の仕方は心得ているからです。
      当然、それは「破戒」の核心部分なので、おそらくさまざまな研究書がでていて、普及本でも数冊出ているはずです。よって一冊ではダメで有名どころを数冊読んで、その部分だけでも読んで当たりをつける。
      果たして藤村は、主人公の運命を仕方ないと考えていたのか?
      考えていたならば、それは藤村の人生経験から出てきたものなのか?
      それとも藤村の性格から出てきたものなか?
      それとも、社会的制約からそう書かざるを得なかったのか?
      いやそうじゃなくて、本心では「仕方ない」とは思っていなかったのか?
      その根拠となる伝記的事実や、日記や、他の文学を出来るだけ原典に沿って読んで、自分なりの確信を持つ。
      また、そのことが明らかになることで、部落差別の思想史にとって、社会的にどういう寄与ができるか、についても考察する。
      その過程で、未だ誰も考えていなかった「仮説」を見つけることができたならば、
      あとはその後の処置はアテナイエさんに任せますが、私ならば、こういうブクログに書く以外は、「しめしめ」と思って密かに優越感に浸るぐらいで済ませます。大抵はそれは勘違いが、既に誰かが言っていることなので。

      もちろん、アテナイエさんの関心領域は日本の近代文学史にないことは承知しているので、そこまでする必要はサラサラないし、私も当面部落差別については深掘りしたくはないので、そこまでするつもりはサラサラないのですが、読書の喜びをこういうところに持つのは楽しいと話は思っています。私が西洋よりも、日本に興味あるのは、こういう研究が日本に限定すればとてもやりやすいし、かつ日本の社会に何らかの寄与ができる可能性を持っているからです。文学は、金がなくても時間さえあれば、こういう研究ができるので嬉しい。
      考古学も、発掘はできないけど、知られていないことばかりなので、未だ発見されていない「仮定」は山のようにあるという特徴があります。だから、旅して遺跡現場に立つということを止めることができない。いつかは大発見をしたいという夢があるのです。
      2023/05/24
    • kuma0504さん
      と、書いて送った後で他の方のレビューを眺めると丑松がアメリカに旅立つとな!!

      どうも私の勘違いのようです。
      それはそれとして、それを藤村が...
      と、書いて送った後で他の方のレビューを眺めると丑松がアメリカに旅立つとな!!

      どうも私の勘違いのようです。
      それはそれとして、それを藤村がどのように思って、そういう展開にしたかは、上のところに書いているような過程で解明できると思います(←苦しい)。失礼しました。
      2023/05/24
    • アテナイエさん
      kuma0504さん、こんにちは!

      嬉しいコメントをいただき、ありがとうございます(^^♪ 
      文学作品は、その作中人物の視点で、あた...
      kuma0504さん、こんにちは!

      嬉しいコメントをいただき、ありがとうございます(^^♪ 
      文学作品は、その作中人物の視点で、あたかも憑依したように楽しむのが醍醐味なのですが、ことこの作品はいろいろ考えさせられるところがあったので、拙いレビューですが、いまだに掲載しています。

      じつは、この作品、そこまでバットエンドではないと思います。どちらかというと、主人公の丑松(うしまつ)は最終的には救われたかもしれません。夢のある国?に行けて(苦笑)。いや、最後まで悩んだのか? どうもそのあたりのツメが甘くて、うやむやにされた感じで終わっている気がしてしまうのですよね。

      kumaさんは日本思想史のご専門のようなので、お許し願いたいのですが、島崎藤村(1872~1943)は、当時、自然主義派といわれ、文学に美化を排除した作風だとされているようです。たしかに、この作品は正面から被差別部落問題の渦中にあった丑松や親たちの境涯に体当たりして、決して美化されたものではないですし、わりとリアルな作風だと感じました。
      ところがいざ終盤にきて、え? あれ?? リアリズムに徹するならそれを貫徹してほしかったな~というのが本音です。苦渋や阿鼻叫喚でもがく丑松に共感やカタルシスがあったのかもしれませんが、蓋をあけると少々ゆるく団円的で、ある種の救済と美化? で終わってしまっているようで、それまでの小説のトーンからみても違和感が漂っている気がしました。

      海外から様々な思想や運動が流入した時代で、当時はこの問題、住井すゑ『橋のない川』あたりを読むと、とにかく大変だったようで、無政府主義や社会主義派の社会運動や人権運動のうねりも大きく、危機感を覚えた日本政府は1911年に大逆事件まで起こしています。人権活動家の幸徳秋水をはじめとする冤罪事件、たしか10人以上の人が死刑になっています。

      考えてみると、今のようにさまざまなメディアやネット通信であらゆる情報や楽しみが瞬時に手にできる社会とはちがい、きっと新聞や小説といったものは大きな社会的影響力をもっていたのでしょうから、この小説はただの読み物、あるいは娯楽的作品とするにはあまりにも重く厳しいテーマだったと思います。石川啄木あたりも相当動いていたようですし、彼と夏目漱石のやり取りは『Xと云う患者』という小説が、ファイクション綯い交ぜでおもしろかったです←いきなり余談で失礼しました。

      余談ついでに、じつは先日レビューしたイタロ・カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』のなかで、彼は、ルソーの本がどうにも気になって仕方ないようでした。そのくだりを読んでくすくす笑ったのは、じつはわたしはこの『破戒』が気になっていて、カルヴィーノの気持ちがわかる気がしたからです。そういう意味では、カルヴィーノのいう「自分だけ」の古典になっていたのです⇒「それは自分が無関心でいられない本であり、その本の論旨にもしかすると賛成できないからこそ、自分自身を定義するために有用な本でもある」という具合に。

      ということで、『破戒』という作品にはとても感謝しています。その後によんだ住井すゑの『橋のない川』で溜飲が下がり、『破戒』は自分だけの古典を無事に卒業したようです。ほんとに古典作品は深いです。何十年がかりで考えさせてくれ、わくわくします。

      kumaさんの言われるように、とくに古典は気になった作家の作品はいくつか読み、時代背景なども理解するために周辺部の作品をよむとより深まりますね。ちなみに島崎藤村の周辺部はそうそうたるメンバーです。夏目漱石、森鴎外、永井荷風、柳田国男、石川啄木、芥川龍之介、宮沢賢治などなど、たくさん憧れの作家だらけです♪

      kuma0504さんのコメントにもわくわくして、調査や思考方法を大いに参考にさせてもらうつもりです。わたしだけではなく、このやり取りを読まれている方にも啓示となりますように~。
      またいろいろ教えてくださいね(^^♪ 
      2023/05/24
  • 「蓮華寺では下宿を兼ねた」の、書き出しがいい。
    「全く、私は穢多です、調里です、不浄な人間です」という、破戒のシーンも秀逸。
    日本に根深く残る部落差別の問題を、切ないほど見事に描きだした作品。社会問題に対する正義とは何なのか?破戒の果てに光が見えるのか?
    再読必至。

  • 「蓮華寺では下宿を兼ねた。」

    という簡潔な出だしが秀逸

    「部落出身者」に対する世間の差別と
    本人が出身を隠して世間に出て(教師をして)いることを
    見つかる恐れと、正直に言うべき正義感とに
    迷い悩みにゆきくれるという
    明治時代の自然主義文学の先駆け作品

    文章は簡潔にして歯切れがよいし、今読んでも解りやすい
    近代国文学史で皆が習うが、読む人は少ないかもしれない

    まえに読んだのは20代であったから
    いろいろ世間を知った今は複雑な思いになる
    連綿として差別はあるし、あるからこそ差別に怒りを覚えるのだが

    この藤村の作品を
    丑松という主人公個人の悩みを描いていると見るか
    社会的問題提起を作者がしていると思うのか
    どちらにウエートをおいているのか

    解説では
    作者は個人の悩み「隠しているつらさ」の憂鬱を表現したいのであって
    差別問題提起しているのではないと言っている
    むしろ藤村自身も差別意識があったのではないかと

    しかし
    読み手が差別といじめに義憤するならそれでいいと思う

    丑松が父親の戒めを破ってついに
    自分は「エタである」「不浄である」と告白して土下座する場面の
    不愉快さがなんとも言えないやりきれなさのパンチが
    読み手に生きてこないと思う

    この21世紀
    差別やいじめは亡霊のごとく現れたり消えたり
    世間には、あいもかわらずあるのである

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著者プロフィール

1872年3月25日、筑摩県馬籠村(現岐阜県中津川市馬籠)に生まれる。本名島崎春樹(しまざきはるき)。生家は江戸時代、本陣、庄屋、問屋をかねた旧家。明治学院普通科卒業。卒業後「女学雑誌」に翻訳・エッセイを寄稿しはじめ、明治25年、北村透谷の評論「厭世詩家と女性」に感動し、翌年1月、雑誌「文学界」の創刊に参加。明治女学校、東北学院で教鞭をとるかたわら「文学界」で北村透谷らとともに浪漫派詩人として活躍。明治30年には第一詩集『若菜集』を刊行し、近代日本浪漫主義の代表詩人としてその文学的第一歩を踏み出した。『一葉舟』『夏草』と続刊。第四詩集『落梅集』を刊行。『千曲川旅情のうた』『椰子の実』『惜別のうた』などは一世紀を越えた今も歌い継がれている。詩人として出発した藤村は、徐々に散文に移行。明治38年に上京、翌年『破戒』を自費出版、筆一本の小説家に転身した。日本の自然主義文学を代表する作家となる。

「2023年 『女声合唱とピアノのための 銀の笛 みどりの月影』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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