野火 (新潮文庫)

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著者 : 大岡昇平
  • 新潮社 (1954年5月12日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (182ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101065038

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野火 (新潮文庫)の感想・レビュー・書評

  • 「戦争文学」の傑作と名高い作品を読む。
    なんか重そう、と今まで読むのを避けてたんだけど、まあ、面白い。濃い。しかも美しい。

    死を前にしたとき、南の島の自然がワサワサと押し寄せ感じる「自然の中で絶えず増大して行く快感」(P15)の感覚がなんともサイケデリック。
    「私は死の前にこうして生の氾濫を見せてくれた偶然に感謝した。」(P15)

    テレンス・マリックの美しすぎる戦争映画「シン・レッド・ライン」の映像を思わせる。

    月あかりのもと、「香しい汁と甘い実をつけた果実」があるながらも取ることのできない椰子の木の下、
    「私が命を断つべきは今と思われた。」(P47)
    と思ったとたんに生への執着に襲われ、まわりの椰子が過去の愛した女たちへと変わっていく・・・、というなんとも美しい幻覚。

    他人から見られている感覚、「贋の追憶」、自分を自分が見ている感覚、宗教体験・・・完全に飢餓からくる脳内麻薬ドバーッ!のドラッグ小説として楽しめる。

    さて、本題・・・・

    極限の状態での人肉を食べることの葛藤は、人間の尊厳といえるのか?
    「アンデスの聖餐」「生きてこそ」などの映画化で知られる、遭難者の肉を食べたウルグアイでの航空事故の際、キリスト教徒であったラグビー選手は、「聖餐」として友人らの肉を食べるのを受容した。教会も、死者の肉を食べることは罪にはならない、としている。

    本書の主人公の田村、「死んだら食べていいよ」と言って死んだ戦友を食べようと剣をむけると、左手がダメとおさえる。それは理性なのか?嫌悪なのか?道徳心なのか?
    「猿の肉」と言われて渡された干し肉は、人肉とわかりながらも食べるのに。
    これって、スーパーのパックの鶏肉はOKだけど、丸ままの鶏見ると無理、というのと同じなのか?
    丸鶏はOKだけど、首がついてたら無理、
    いや首はOKだけど羽がついててたら無理、
    とか・・・。
    あれ、なんか違うか?

    過去、市川崑が映画化していたけど、白黒でなんとも憂鬱な映画だった覚えが・・・。
    今年「鉄男」の塚本晋也による再映画化が公開、サイケデリックな映画・・・にはならないだろうなー。

  •  敗戦間近のフィリピン、レイテ島の戦線で、肺病にかかり
    部隊から追放された田村一等兵の姿を描く戦争文学。

     著者の大岡昇平さんは従軍経験があり、フィリピンにも戦闘
    に行った経験もあるためか、情景描写がとても濃密だったのが
    第一印象として強いです。

     また食料を持たない傷病兵が治療どころか医療所に
    入ることすらできないというのも驚きました。
    人間を人間扱いさせてくれなくするのがやはり戦争なの
    だろうな、と改めて思います。

     印象的な場面は飢えの中、田村が死体の肉に手を
    伸ばそうとする場面。
    死体の肉を切る刀を持った右の手首を半ば無意識的に
    つかむ左手。そしてその左手を奇妙な思いで眺める
    田村の姿に、極限状態の中で揺れる人の理性と本能の
    姿を強く感じる場面でした。

     そしてその理性と本能の戦いがどのような結末を迎える
    のか、というところはとても読みごたえがあり考え
    させられるところでもあります。

     概念や宗教的な場面もあって難しいと言われれば、
    難しい作品でもあるのですが、純粋に戦争の悲劇を知る
    という単純な意味で読み継がれてほしい作品です。

     ちなみに、この作品は田村の回想形式で書かれていて、
    終盤は病院に入院する田村が今、思うことが書かれて
    いるのですが、それがとても印象的だったので、引用文の
    登録ページとは別にレビュー内でも引用させていただ
    こうかと思います。

    『この田舎にも朝夕配られて来る新聞紙の報道は、
    私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとして
    いるらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、
    それが利益なのだから別として、再び彼等に欺されたい
    らしい人達を私は理解できない。恐らく彼等は私が比島の
    山中で遇ったような目に遇うほかはあるまい。その時
    彼等は思い知るであろう。戦争を知らない人間は、半分は
    子供である。』

     これからの日本がどの方向に転ぶかは分かりませんが、
    この言葉だけは全ての日本人の心に刻み込まれてほしいな
    と強く思います。

  • こういう本当に力のあるブンガク読むと、現代のチャラチャラしたものは読めなくなるなー。

  • 流されていく田村が、延々屁理屈(殺したのはこの銃のせいだ)をこねながら、状況的には堕ちていく。
    生きるか死ぬか、ではなく、死ぬことを前提としていたのに流されるままに生きてしまう、という展開の中で、
    人肉を食べること、だけでなく、その周辺に人が生きること、人間とは何か、といった思考が繰り広げられる。

    状況的な堕落の中でしかし、青春時代に(主に性の絡みで)憧憬を持っていたキリスト教が、折りに触れて蘇えってくる。
    内容は自己流、異端。
    この極限の状況で、神や救世主を思考するとき、自己流の宗教が生まれてくる。
    戦争はダメ、でもなく、道徳や倫理からも一歩退いて、思考思考思考がやがて混濁してくる。
    もはや花が振り向いて食べてもいいわよと言い出すくらいだ。
    そこにセイントが登場する。右手を止める左半身こそが理性であり神でありセイントと言えるのではないか。(そして現在執筆している私自身)
    「もし人間がその飢えの果てに、互いに食い合うのが必然であるならば、この世は神の怒りの跡にすぎない」
    という終盤での結論は、自己流宗教の開祖でもある。そして狂人でも。
    天使すなわち「神の怒りの代行者」として、殺したかどうか。

    猿肉をなかば予想しつつも食べ、猿肉のために殺人が行われていると目撃したあとも、知らなかったのだから自分は人肉食をしていなかったのだ、
    と書かせるほどの自己欺瞞を、せざるをえない人間の心理。

    終盤で唐突に、この手記は精神病院にいる私が(医師の勧めもあり)書いているもの、と明かされる。
    途切れた記憶の部分を書き継ぐことからもわかるように、完全な記録として、ではなく、精神病院にいる現在の想起という行為が、内容にまで絡みついてくる。
    この読みが正しいかどうかは不明だが、再三現れていた「見られている」という感覚は、現在書いている私が、過去の私を「見ている」、その裏返しの感覚なのではないか。
    とすると、右手を制止した左手の動きは、超自我でもあり、現在の私でもある。
    タイムスリップ? 文芸技巧? ともあれ小説でしか果たせなかった部分である。

    もとは「100分de名著」に取り上げられていて、中学以来再読したのだが、番組でその精神病院の現在がしっかり扱われていなかったのは、2015年に実写で監督した塚本晋也の作品では「小説の達成」には触れられなかったのではないか。
    もちろん映画も見てみたいが、小説ならではの偉業に着目して、読み込んでいきたい。

    「ライ麦畑でつかまえて」「河童」「人間失格」など同種の構造の小説でも、もちろん。

    ネットで感想を漁っていて、
    信仰の書であると同時に背信の書であるという捉え方、宗教文学というよりも超自我とエゴイズムとの葛藤の書であるという捉え方、をそれぞれ読んだ。
    個人的にはそれらに重なるようにして、新しい宗教観を身につけざるを得なかった人の書、とも主張したい。

  • 日本軍は一体何と戦っていたのだ。

  • 映画公開に寄せて「野火」を読んだ、読売文学賞受賞作。新潮文庫のあらすじに書いてあることは作品の本質に迫っていないと痛感。
    第二次世界大戦末期の日本兵の悲惨な状況が描かれるが、手記という形式をとり、戦争を振り返るという作品の構造によって作品には当時を分析する私が存在する。この私の手記の最後をどう読み取るか、大岡昇平の本心に迫る上で非常に重要なものだと考える。
    ただ、作品のタイトルは「野火」であって、野火は私の戦争の記憶に直接結びつくが、手記の最後との関連は一見感じられない。ただ、野火を小説内の記述のみに依拠し、そこで思考を止めるのはたやすいが危険なことにも思える。吉田健一が解説で述べるように幾通りにも読めるからこそ、ただ一つの作者の本心を知りたいのも事実。
    興味深いのはこの作品はポォの作品が元にあるという事実、「野火」をより楽しむためにも併せて読みたい。

  •  異国の島の情景や極限状態における心理描写が濃密に描写されていて、私の人生経験では到底消化しきれないものが詰め込まれているように感じた。

     美しく生命力に満ちた草木の中で、点々と転がる同胞の屍体。自分もやがてそこに行き着くのだという予感が、どれだけ人間性に影響を与えるか。
     飢餓に苦しみ、人肉食いの欲求と抵抗を繰り返していくことによって、しだいに主人公の自我は分裂していく。人肉を食べようとする右手と、それを抑え込む左手。もはや自分の意志だけでは抑えきれなくなっても、神の存在を作り上げてまで彼は抵抗を続ける。

     しかしそんな、人肉を拒む平凡な良心を持つ男であっても、異常な状況に順応できてしまうのだ。結果的に彼は人を殺し、「猿肉」も食べてしまった。
     彼にとって、唯一残された人間性…自分の意志では人肉を食さなかった、という事実が、どれだけ救いだったのか。しかしそこに神の導きを見出そうとするラストの文章に、どことなく不安な気持ちを誘われるのはどうしてだろうか。

  • おやつ食べながら読んでごめんなさいと心の中で田村に謝っていた。不可抗力で猿の肉だと言われて、人の肉を食べたことよりも、人殺しをしたことと食べていいよと言った男のこと、自分の肉なら自分のものだから食べたこと、神かもしれない何かがずっと見ていると言った田村。戦争はアメリカと戦っていたはずなのに、この『野火』ではそんなことはあまり書かれていなかった。人間の尊厳とかそういう言葉にしたらありがちすぎて、もっと違うもののようにも思った。怖くてずーっと読めなかったことも、ごめんなさい。塚本晋也監督の『野火』もみないといけないなと思った。心を殺すぐらい何であろう。私は幾つかの体を殺して来た者である。ずしんとした。 心が死んでも生きているのかな。深すぎてまた最初から読み返したくなる。

  • 結核に冒され、本隊と病院からも追い払われた田村一等兵。わずかな食料を渡された彼は野火が燻るフィリピン戦線の荒野を彷徨う。やがて、極度の飢えのため友軍の屍に目を向ける。仲間の兵士と争い、ゲリラに襲われ捕虜として結果的に生き残る。日本へ帰還した後、精神病院で戦時体験を綴る。回顧形式の構成で人肉嗜食を思い留まった兵士の心情を描いた大岡の代表作。

    国家の恣意に晒された一兵士は、戦場からの帰還も銃後の生活も全て偶然とみなす。偶然ゆえに飢餓のなか戦うことを強いられ、偶然がために生き残り日本へ帰ってきた。その意味のなさに耐えられない。偶然性というものに耐えられず人は首尾一貫した意味・意義(必然)を一回限りの生のなかに求める。
    野火のもとに人を求めその肉を食いたいとひそかに望んだ兵士の回顧録が、至るところでキリスト教に言及し、物語の結語に「神に栄えあれ」と綴る。その機微は、人肉嗜好を踏み止まったのは彼の意志ではなく神の意志であり、ここに偶然に翻弄される彼が必然性を見出そうとした。そのあがきの痕跡のように思う。だから本書は戦争文学だが、同時に著者の告解と信仰告白でもある。
    しかし、戦争文学は8月の暑さのなかで読むとなんだか胸焼けするなあ・・。

  • 100分で名著で紹介あったので読んでみた。

    想像以上にシニカルな内容で
    戦争の恐ろしさを考えさせられてします。

    戦争は殺される恐怖はもちろんだが
    殺す罪悪感・生き延びるための苦しさなど
    すべてにおいて非人道的である。

    現在、北朝鮮の核問題もあり
    今一度、戦争というものに対して
    考える時期に来ているのかもしれない。

  • 物語のちょうど半分(の、ちょっと手前あたり)で一つ目の山場を迎えるのだけれど、ここの前後での主人公の変化がとてもドラマチックだと思う。

    直接的な「教会」や「十字架」という象徴のみならず、鶏の鳴き声や「野火」という題名そのものや、文体の所々にも「神」の影が見え隠れしていた。主人公の田村一等兵は、飢え、渇き、水を求める人のように神を渇望し、ひかりかがやく十字架に導かれて歩き続けていた。それが物語の序盤である。

    しかし実際に教会で「神」に対面しみた時、「私」の中に起こった感情は意外なものだった。そして後に起きる「事件」を経て、同胞と再会すると、もう「神」は「私」には何も語らなくなっていた。そして、「人肉まで食って生き延びた」と噂される部隊と行動を共にするようになる。まるで悪魔との軍行である。

    この二つの対比がとても印象的だった。

    人が在ってこその神であり、人が居なければそもそも神は現れなかった。
    しかしその「神」によって、人は人で在らせられている。

    死者を弔い、そこに神を見るのも人であれば、
    死者を冒涜し、これを遠ざけるのもまた人だ。

    人と獣の絶対的な違いが2つ、この中に示されていた。

  • 社会において、人が人を信頼することは幻想なのかもしれないと思ってしまった。極限状況における人間のエゴイズムを経験してしまった人は信頼という安易な信仰を捨ててしまったらしい。しかし、猜疑心にまみれた集団は社会ではない。そう考えると、無用の用というか、人を信頼することは真理ではないにせよ、社会が社会たるためには必要だと思う。しかし、やはりその基盤の弱さから信頼に対する信仰を持たない人を狂人として囲い込むことでしか信頼に対する信仰によって成り立つ社会は継続できない。野火は戦記ではあるが、とても文学的で、非日常から見た日常の歪みとか異常性をあらわにしているという点で学ぶものが多い。人は死ぬ理由がないから生きているという言葉はやけに印象に残った。彼の壮絶なる臨死体験がそう言わせしめているなら承服せざるを得ない。野火が書かれている段階でも、少数の紳士が戦争を始めようとしていたようだが、少数の紳士はいつの時代もいるし、騙される国民も一定数いる。彼らは野火を読み、再考すべきであるとひしひしと感じた。

  • 芥川龍之介は「羅生門」のなかで
    生きるための悪が正当化されうることを書いているが
    大岡昇平の「野火」においてもやはり
    同じことは繰り返される
    生きるために共食いをする自由が、人間にもあるのだ
    主人公は最終的にそんな現実を、狂気において拒絶するが
    それは、戦場の中で、死こそ救済であると感じるような体験を
    経たことによるのかもしれない
    しかしその結論も実は
    社会性を保つためにおこなわれた演技かもしれず
    本当のところは本人にもよくわからないのであった
    恐ろしい小説です

  • 祖父の弟がカンギポット山付近で戦死している。その人がどんなところで亡くなったのか。ある程度、把握できたような気がした。「生きてゐる兵隊」を読んでいて思ったことだけど、日本軍、現地人からしたら迷惑な存在だよなあ。にしてもこの読みやすさはすごい。直接的な経験をしていないとはいえ、よくもこんなに間を置かずに書けたものだと思う。

  • 吉田健一が解説書いててびっくりしました。しかも絶賛。
    戦争文学ではかなり有名な作品なので、一度読みたいなあと思ってましたが、いざ読んでみると、思ってたのとかなり違いました。
    悲惨極まりないフィリピンの戦地で、主人公が飢餓状態に追い込まれ…という話ですが、戦争にくい、平和ばんざいという安易なストーリーではありませんでした。
    ぎりぎりの生死の淵でさまよう人間の精神の極限っていうんでしょうか、そういった凄まじさがあり、最後に主人公がたどり着く境地は、悲しいまでに異様です。
    冒頭に「たといわれ死のかげの谷を歩むとも」という文が引用されてますが、読み終わるとこの文がずっしりきます。
    平凡な戦争文学とは一線を画す物語でありました。

  • 主人公は結核を患っているものの、途中からは読んでいてそんなこと忘れてしまうくらいとにかくあちらからこちらへとさ迷い歩く。
    病気よりも飢えの苦しさの方が上回っていたということなんだろうか。
    食糧や仲間を求めて歩き回る中で、島の地勢の様子が詳しく描写されているんだけど、自分の理解力が乏しく情景がぱっと思い浮かばず…。
    島の地図が欲しかった。
    自決した人も多かった中で、無事帰ってこられた人たちがこうした作品や体験談を後世に伝えてくれることに、私たちはもっと感謝してしかるべきだと感じた。
    戦争を体験された世代が少なくなるにつれ、その記憶が社会から薄れていくのは本当にこわいことだ。

  • 『大学新入生に薦める101冊の本 新版』の63番目の本。
    第二次世界大戦、フィリピンに送られた日本人兵士が、敗北が目に見える状況下で病気を患い、数本の芋を渡されて部隊から追放される。
    洋画でよくあるような、サバイバリティ溢れる人たちが協力して生き伸びる話ではない。死を目前にして、自分のいるこの状況を笑い、偶然発見する教会に対する宗教心の芽生え、殺した人間の亡霊を恐れ、兵士を食らう戦友を見、神の出現を意識するなど、狂気をリアリティ溢れる描写で表現する戦争文学である。

  • 何度も挑戦したがそのたびに挫折していた小説だ。今回は最後まで字面を追うことはできた。が、読めたというには程遠い。
    生きるか死ぬかの極限状態において、人間は人間の肉を食べることができるのかを問うている。
    その時変なことが起った。剣を持った私の右の手首を、左の手が握ったのである。この奇妙な運動は、以来私の左手の習慣と化している。私が食べてはいけないものを食べたいと思うと、その食物が目の前に出される前から、私の左手が自然に動いて、私の匙を持つ方の手つまり右手の手首を、上から握るのである。p131-132
    人間は人を殺せてしまう、人を犯せてしまう、人の肉を食べれてしまう。ではなぜ日ごろ私たちはそれらをしないのか、あるいはできないのか。法律で罰せられるからしないというだけではないだろう。そうさせない何かがあるのではないか。レヴィナスならそれらの行為を押しとどめるもの(右手首を握る左手)を倫理と呼ぶだろう。

  • 今月の猫町課題図書。この手の陰惨な戦争の話はあまり好きではないので、課題図書でなければ読まなかっただろう一冊。小説のしての構成がわりと工夫されているため、まあ面白かったと言えば面白かった。吉田健一の解説が秀逸。

  • 短い薄い文庫で読むのは大変ではないが、描かれる描写はすごく重い。自分の心がとことん、追求されている。おびただしく身近に起こる「死」と同じくらい、むせかえるほど濃厚な南の島の「生」静かに深く描かれる。
    タイトルの野火、ジャングルに燃える火の描写は暗い。
    心の中にくすぶる暗い闇の中の火、生への執着であったり、肉を喰い生き延びたいという欲望だったりが心の中で燃えていて、自分の心を見つめるとその火を見つけてしまう。
    とうとう食べねば死ぬだろうというとき、目の前の死体の死は自分のせいではなく、魂とは別のものだと心に折り合いを付けた時に、なぜ田村の左手は剣を持った右手を止めたのだろうか?この左手は何なのか?そしてこの声は何なのか?戦争は人を殺す場であると思うのだが、人肉食は「殺人」を越える禁忌なのだろうか?
    疑似親子関係を形成して当初一緒に逃げていた安田と永松のエピソードが、やりきれないほど重い。同じようなテーマが描かれる場合でも、私の想像の範囲や過去に読んだものなどだと、もう少し救いがあったように思う。「もし人間がその飢えの果てに、互いに食い合うのが必然であるならば、この世は神の怒りの跡にすぎない」(p.160)と怒りを感じた田村は銃を取り安田を殺しさばこうとする永松に向ける。この怒りと銃口は何に向けられているのか?
    「この田舎にも朝夕配られてくる新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼等に騙されたいらしい人達を私は理解できない。恐らく彼等は私が比島の山中で遇ったような目に遇うほかはあるまい。その時彼等は思い知るであろう。戦争を知らない人間は、半分は子供である。」(p.165)1951年にこの作品は描かれたそうだが、今の時代に恐ろしいほどピッタリな警句ではないだろうか。

  • この作品は戦争小説とされているけど、むしろ本質は「集団遭難小説」じゃないかと思う。けっきょく、戦争はまっとうに働かないことを強制されることだと思う。銃などという役にたたないものを持たされて、よその島に上陸し、生産せずに食うものだから、乏しく奪いあうことになり、けっきょく、カニバリズムになる。
     戦争の悲惨のそもそもの根源は、生産活動を破壊活動にかえて、この暴力を思想でかざっているところにあるのではないだろうか。レイテ島をさまよう兵士の回想という形式のためか、この修飾物である理屈やら思想やらが多い。『戦艦大和の最後』などとは大いに異なる。
     「戦争を知らない人間は子供である」といういい方もみられるが、むしろ、こういう理屈をこねているところには幼児性がみられるんじゃないだろうか。最後の狂気は悲惨ではあるが、虚飾も感じる。人間はまともな頭で人間を食うかもしれない。

  • キリスト教者の話とは思っていなかったので意外。
    文学文学したこのような文体で虚ろになった無感覚、弱反応の人物の一人称というのがしみてくる。
    私の大好きな安部公房の作品のにおいがする(手記、という点もそのにおいを濃くしている)。
    まがまがしい色使いの水墨画とでもいえるか。

    にしても。
    私のじいさん世代はホント、よくあんな戦争を生き延びてくれたものだ(もちろん亡くなった方々も多いが)。
    ひるがえって、自分なぞにはこの小説に出てくるような状況で生き延びられるとは到底思えない。

    閉塞感満載の作品なのに、なぜか強い生命力を感じさせられた。

  • 作者が戦中に兵隊として遠征したフィリピンでの経験をもとに書かれた小説。

    一応、分類的には戦争文学に該当するかもしれないんだけど、決して“戦争にょる犠牲”や“戦争の悲惨さ”にフォーカスを当てているわけではないし、
    ましてや、死に直面し飢餓に苦しみ極限状態に陥った人間が食人行為(グロ注意!)に至るまでの心理状態が見どころってわけでもないと思う

    肺結核を病み、中隊からも野戦病院からも見放された主人公(田村一等兵)が、疲労と飢餓・それにいつ敵兵に殺されるかわからないという過酷な精神状態の中、
    殺人・食人・僚友との殺し合いなど残酷な現実を経て、独自の死生観を、神(キリスト)への信仰を交えつつ、編み出してゆく作品のように思える。


    作中の、死を自然なものとしてすぐそばに感じ受け入れる姿勢と、そうであっても矢張り生を選択して行動してきたその結果の相克が面白い。

  • 塚本晋也版の映画を観て衝撃を受け、原作を読もうと思い手に取った。

    人間であることの意味を考えさせられる。極限状態でも生き抜こうとする動物としてのヒトと、それでも単なる動物になりきれない人間との境目にある葛藤が、俯瞰的に描かれている。

    この作品に触れる前と後では、自分の中で何かが変わってしまったように感じる。

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野火 (新潮文庫)の作品紹介

敗北が決定的となったフィリピン戦線で結核に冒され、わずか数本の芋を渡されて本隊を追放された田村一等兵。野火の燃えひろがる原野を彷徨う田村は、極度の飢えに襲われ、自分の血を吸った蛭まで食べたあげく、友軍の屍体に目を向ける…。平凡な一人の中年男の異常な戦争体験をもとにして、彼がなぜ人肉嗜食に踏み切れなかったかをたどる戦争文学の代表的作品である。

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