- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101065038
感想・レビュー・書評
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映画「野火」(2015塚本晋也監督)を見て原作を読んでみなければと思い読んでみた。映画は原作をほぼ忠実に映像化したものだった。映画の最後の方で永松の赤い口が出てきたが、原作でも「永松は赤い口を開けて笑いながら、私の差し向けた銃口を握った」とあった。兵士の死骸の描写なども映像は原作の描写を忠実に再現している。映画を見ずに最初に本を読んだらどうだったか。文章は極限の生を見つめ内省的でフランス文学や哲学的比ゆに富みすらすらとは読みにくい。
映画では感じきれなかった思考が文章になっているところが随分あった。「出生の偶然と死の偶然の間にはさまれた我々の生活の間に、我々は意志と自称するものによって生起した少数の事件を数え、その結果我々の裡に生じた一貫したものを、性格とかわが生涯とか読んで慰めている。」極限の中でいくつもの生への思考が頭をよぎるのか。
映像と本と両方見て内容がより濃く入ってくる。(理解したという表現はできない)海戦ものとか空軍ものとかの戦争映画より、部隊から離れ1人になった兵士の死の彷徨、極限の戦争が描かれている。
しかし一番の被害者はフィリピン人だ。
「俘虜記」には軍隊仲間で会社重役の息子Sが銃後の資本家のエゴイズムに愛想をつかし前線に赴いたが、前線の状況を見て、軍は愚劣に戦っていると思い「こんな戦場で死んじゃつまらない」と思った、と書いている。
大岡昇平はM43年3月6日生まれ、S19年3月、35歳で補充兵として招集され7月マニラ到着、S20年1月米軍捕虜となる、と検索で出てくる。「俘虜記」も「私はS20年1月25日にミンドロ島南方山中で米軍の俘虜となった」で始まる。
実際戦場で戦った男性は親や親せきに身近にいたが(すでに皆死んでしまった)彼らには脱帽するしかない。
※実際に読んだのは、「俘虜記・野火 日本の文学18」(ほるぷ出版1984刊)図書館 (俘虜記の底本がS23.12月創元社刊で、米軍につかまるまでしか載っていない。収容所生活も続いているらしいのだが23年版は占領下で載せられなかったようだ。完全版もよんでみたい)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
おやつ食べながら読んでごめんなさいと心の中で田村に謝っていた。不可抗力で猿の肉だと言われて、人の肉を食べたことよりも、人殺しをしたことと食べていいよと言った男のこと、自分の肉なら自分のものだから食べたこと、神かもしれない何かがずっと見ていると言った田村。戦争はアメリカと戦っていたはずなのに、この『野火』ではそんなことはあまり書かれていなかった。人間の尊厳とかそういう言葉にしたらありがちすぎて、もっと違うもののようにも思った。怖くてずーっと読めなかったことも、ごめんなさい。塚本晋也監督の『野火』もみないといけないなと思った。心を殺すぐらい何であろう。私は幾つかの体を殺して来た者である。ずしんとした。 心が死んでも生きているのかな。深すぎてまた最初から読み返したくなる。
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物語のちょうど半分(の、ちょっと手前あたり)で一つ目の山場を迎えるのだけれど、ここの前後での主人公の変化がとてもドラマチックだと思う。
直接的な「教会」や「十字架」という象徴のみならず、鶏の鳴き声や「野火」という題名そのものや、文体の所々にも「神」の影が見え隠れしていた。主人公の田村一等兵は、飢え、渇き、水を求める人のように神を渇望し、ひかりかがやく十字架に導かれて歩き続けていた。それが物語の序盤である。
しかし実際に教会で「神」に対面しみた時、「私」の中に起こった感情は意外なものだった。そして後に起きる「事件」を経て、同胞と再会すると、もう「神」は「私」には何も語らなくなっていた。そして、「人肉まで食って生き延びた」と噂される部隊と行動を共にするようになる。まるで悪魔との軍行である。
この二つの対比がとても印象的だった。
人が在ってこその神であり、人が居なければそもそも神は現れなかった。
しかしその「神」によって、人は人で在らせられている。
死者を弔い、そこに神を見るのも人であれば、
死者を冒涜し、これを遠ざけるのもまた人だ。
人と獣の絶対的な違いが2つ、この中に示されていた。 -
社会において、人が人を信頼することは幻想なのかもしれないと思ってしまった。極限状況における人間のエゴイズムを経験してしまった人は信頼という安易な信仰を捨ててしまったらしい。しかし、猜疑心にまみれた集団は社会ではない。そう考えると、無用の用というか、人を信頼することは真理ではないにせよ、社会が社会たるためには必要だと思う。しかし、やはりその基盤の弱さから信頼に対する信仰を持たない人を狂人として囲い込むことでしか信頼に対する信仰によって成り立つ社会は継続できない。野火は戦記ではあるが、とても文学的で、非日常から見た日常の歪みとか異常性をあらわにしているという点で学ぶものが多い。人は死ぬ理由がないから生きているという言葉はやけに印象に残った。彼の壮絶なる臨死体験がそう言わせしめているなら承服せざるを得ない。野火が書かれている段階でも、少数の紳士が戦争を始めようとしていたようだが、少数の紳士はいつの時代もいるし、騙される国民も一定数いる。彼らは野火を読み、再考すべきであるとひしひしと感じた。
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芥川龍之介は「羅生門」のなかで
生きるための悪が正当化されうることを書いているが
大岡昇平の「野火」においてもやはり
同じことは繰り返される
生きるために共食いをする自由が、人間にもあるのだ
主人公は最終的にそんな現実を、狂気において拒絶するが
それは、戦場の中で、死こそ救済であると感じるような体験を
経たことによるのかもしれない
しかしその結論も実は
社会性を保つためにおこなわれた演技かもしれず
本当のところは本人にもよくわからないのであった
恐ろしい小説です -
祖父の弟がカンギポット山付近で戦死している。その人がどんなところで亡くなったのか。ある程度、把握できたような気がした。「生きてゐる兵隊」を読んでいて思ったことだけど、日本軍、現地人からしたら迷惑な存在だよなあ。にしてもこの読みやすさはすごい。直接的な経験をしていないとはいえ、よくもこんなに間を置かずに書けたものだと思う。
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吉田健一が解説書いててびっくりしました。しかも絶賛。
戦争文学ではかなり有名な作品なので、一度読みたいなあと思ってましたが、いざ読んでみると、思ってたのとかなり違いました。
悲惨極まりないフィリピンの戦地で、主人公が飢餓状態に追い込まれ…という話ですが、戦争にくい、平和ばんざいという安易なストーリーではありませんでした。
ぎりぎりの生死の淵でさまよう人間の精神の極限っていうんでしょうか、そういった凄まじさがあり、最後に主人公がたどり着く境地は、悲しいまでに異様です。
冒頭に「たといわれ死のかげの谷を歩むとも」という文が引用されてますが、読み終わるとこの文がずっしりきます。
平凡な戦争文学とは一線を画す物語でありました。 -
主人公は結核を患っているものの、途中からは読んでいてそんなこと忘れてしまうくらいとにかくあちらからこちらへとさ迷い歩く。
病気よりも飢えの苦しさの方が上回っていたということなんだろうか。
食糧や仲間を求めて歩き回る中で、島の地勢の様子が詳しく描写されているんだけど、自分の理解力が乏しく情景がぱっと思い浮かばず…。
島の地図が欲しかった。
自決した人も多かった中で、無事帰ってこられた人たちがこうした作品や体験談を後世に伝えてくれることに、私たちはもっと感謝してしかるべきだと感じた。
戦争を体験された世代が少なくなるにつれ、その記憶が社会から薄れていくのは本当にこわいことだ。 -
『大学新入生に薦める101冊の本 新版』の63番目の本。
第二次世界大戦、フィリピンに送られた日本人兵士が、敗北が目に見える状況下で病気を患い、数本の芋を渡されて部隊から追放される。
洋画でよくあるような、サバイバリティ溢れる人たちが協力して生き伸びる話ではない。死を目前にして、自分のいるこの状況を笑い、偶然発見する教会に対する宗教心の芽生え、殺した人間の亡霊を恐れ、兵士を食らう戦友を見、神の出現を意識するなど、狂気をリアリティ溢れる描写で表現する戦争文学である。