- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101065038
感想・レビュー・書評
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無言館の戦没画学生には、フィリピン・ルソン島で戦死している学生が少なからずいる。たとえば山之井龍郎「昭和16年に出征し、シンガポール、サイゴンなどを転戦したのち、一時帰国するが、すぐに再び出征、20年5月フィリピンルソン島で24歳で戦死」。日本の自然や可憐な少女を描き、人一倍「美しさ」を感じ取ることの出来た精神が、ルソン島の中でどんな地獄を見たのか、どのように精神が変容していったのか、わたしは大岡昇平の「野火」を読みながら、さまざまな若い命のことを考えていた。
お盆なので墓参りにいった。山の上の墓場に行くと、墓地の一等地にずらりと墓石のてっぺんが尖がっている墓が並んでいる。全て「名誉の戦死」をした人たちの墓である。当時の政府から多額の慰霊金が出るのでこのような墓になっているのだと知ったのはつい最近のことだ。
そこに私の母の兄の墓もある。母はそのとき、13歳だった。もう一人の兄も戦地にいる。家事の一切と畑仕事をするのは、母の仕事だ。幼い妹を叱り、病弱の父と母を助け、病気がちの身体に鞭をうって、朝から晩まで働いていた。そのとき兄の戦死の報が届けられる。「昭和20年8月23日ビルマにおいて没する」墓にはそう記してある。「本当に賢いお兄さんだった。優しくて……」いつだったか、そのような母のつぶやきを聞いた気がする。母の兄がどのような死に方をしたのか、とうとう母からは聞かず仕舞いだった。戦後、父親はショックのせいか、すぐ死に、もう一人の兄がシベリアから帰ってくるのは、ずいぶんと後のことになった。その母も32年前56歳で死に、シベリア帰還の叔父も15年前に亡くなった。
戦争とはなんだったのか、それを考えることの出来る記録文学、評論、映画、ドキュメンタリーは幸いなことに多数ある。けれども、数の問題ではない。何かが足りない。それは「自分と関係のあることなのだ」という実感をもてるかどうかということなのだろう。母の兄がどのような地獄を送ったのか。賢くて優しかった兄が、地獄の中でどのように変貌し、生きて死んでいったのか、その想像のよすががこの作品の中にはある。
‥‥食料はとうに尽きていたが、私が飢えていたかどうかはわからなかった。いつも先に死がいた。肉体の中で、後頭部だけが、上ずったように目醒めていた。
死ぬまでの時間を、思うままにすごすことが出来るという、無意味な自由だけが私の所有物であった。携行した一個の手榴弾により、死もまた私の自由な選択の範囲に入っていたが、私はただそのときを延期していた。‥‥
この作品の主人公は高学歴の人間だ。ベルグソンの言ったことがすらすらと頭の中から出てきたりする。また彼はクリスチャンか、あるいはその信仰を持っている人間でもある。聖書の詩句が彼の頭の中にある。しかし、信仰はどうやら彼の救いにはならなかったようだ。
‥‥しかし死の前にどうかすると病人を訪れることのある、あの意識の鮮明な瞬間、彼は警官のような澄んだ目で、私を見凝めていた。「なんだ、お前まだいたのかい。可哀そうに。俺が死んだら、ここを食べてもいいよ」彼はのろのろと痩せた左手を挙げ、右手でその上膊部を叩いた。‥‥
この薄い文庫本を読み終えるのに、二年かかった。一文節たりとも、おろそかにできない文章が続く。「戦争とは何か」を突きつけてくるだけではなく、「人間とは何か」を突きつけてくる。当たり前だろう。戦争とはそういうものだから詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
つい敬遠して今まで読まずにいた。やっぱり読もうと思わせてくれたのは、先日読んだ(ぼくらの戦争なんだぜ)がきっかけだった。想像以上に重い内容で難しかった。そしてある箇所では、ずいぶん昔読んだ武田泰淳さんの(ひかりごけ)を思い出した。
また《かつての戦争でもうけ損ねた人達は後に平和主義者になった》等と言った人がいた事も思い出していた。《現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼らに欺されたいらしい人達を私は理解できない。》小説の中にあった一文がとても気になった。
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この傑作の前に、
塚本監督の『野火』を鑑賞していて、
そのビビットなフィリピンの自然と、
説明が少ないからこそ迫りくるリアリティに圧倒されていたが、
原作を読んだらなんと内的な物語なのか!
極限の状況に置かれたからこそ見いだされる、
倫理性や人間性、そして宗教性。
内省することでしか生き延びられなかったという事実と、
そのような状況に貶める非情な戦争の愚かさとを、
両極的に浮かび上がらせる物語に、
体の芯が凍てつくようだ。 -
これまで読むことがなかった戦争文学の代表的な作品。思っていたよりずっとスマートで読みやすい。
文章がなめらかで映像的、自然描写は美しさすら感じる。著者の高い筆力があってこその技巧なのだろう。だからこその生々しさがある。敵との戦闘場面はほとんどないのにピンと張りつめた緊張感。極限の飢餓状態での人間の剥き出しの本性が淡々と内省的に表現されていている。
「戦争」と「人間」を濃密に描いた傑作。 -
俘虜記を読んだ時もそうだったが、戦時の比島、戦線離脱して彷徨う一人の兵隊の描きは、どうしても、作者自身の実体験を想起しながら読まされてしまう。極限状態に置かれて、生きる為に取らざるを得ない行為。意思の有無を自分自身確かめながら、本能か否か、飢えに襲われ、骨のみになる肉体同様、心も、剥き出しになるのだろう。その剥き出しを自ら扱いながら、生を繋ぐという事。人間とは何かという事を探る時、もしかしたから最も単純な手法が飢えかも知れない。ともかく、著者自身がフィリピンで俘虜になっているのだから、その辺の妄想三文文学とは一線を画した重さがある、ズシリとした小説?である。
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こういう本当に力のあるブンガク読むと、現代のチャラチャラしたものは読めなくなるなー。
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女は淫売で、男は人喰い人種。そう宣言することで大岡文学が始まったことを、いったいどれくらいの人が覚えているのだろう。
今や、その、大岡昇平さえ忘れられて、「戦争」や「軍隊」という言葉が軽佻にもてあそばれ始めている。この小説を原作とした映画「野火」を見た。戦場のグロテスクが評判だったが、大岡が「野火」で書いた人間の悲劇には、それでも、まだ、届いていないと思った。
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