- Amazon.co.jp ・本 (496ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101069227
感想・レビュー・書評
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麦畑の色は幸福の色。
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変わった男の子が、変わった町に住んでいて、子供の頃に幻覚?みたいな麦をふむクーツェにであるんだけど、それは本筋じゃなくて、
その男の子がいろんな人にであって、変わった人ともであって成長していく話 -
【246】
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今思うと笑っちゃうけど、幼稚園児の頃だと思うけど、よく押し入れに閉じこもった。真っ暗な中で何してたんだろ?よく思い出せないけど、何だか想像上の自分の世界を作って、そのなかで、誰かに話かけたりしていたような、ぼんやりとした記憶がある。親でもない、兄弟でもない、現実の友だちでもない“その誰か”と、心のなかで話続けていたような・・・
この物語の主人公の「ぼく」は、その生まれもった体格などから、小学校で同級生や先生から何となく「へんてこなもの」として遠ざけられる。それは、最初の方は、ほとんど独り言だけってことからもわかる。
そんなとき、ぼくは屋根裏で「へんてこなひと」に出会えるようになる。とん、たたん、とん、という足ふみの音とともに屋根裏に現れる“クーツェ”にぼくは、いろいろと話かけるようになる。でもクーツェの答えは謎かけのようなものばかりで、ぼくもわかったような、わからないような、という毎日を過ごす。
そうするうちに、主人公を取り巻く、おじいちゃんや父さんや、町のたくさんの大人たちのいろんな“事件”に巻き込まれていき、おじさんや先生や女の子という、他人からは見たら「へんてこ」と見えるかもしれない人たちに出会い、彼らに対して自分を不器用ながら、自分の言葉で伝えようとすることで、「へんてこ」は実は「へんてこ」じゃなく、ある意味輝きをもったものだってことが少しずつわかり始め、それが彼らやまわりの多くの人の共感となって広がり、ぼくは、すごい「仕事」をなしとげることができるまでになる。
最後に、ぼくは、おじいちゃんが生まれた土地を訪れる。ぼくはもう、自分の体格や生い立ちで卑屈になったり自分の殻に閉じこもったりはしない。自分のルーツを確かめるかのように、ぼくはクーツェがしていたように、自分で足をあげて大地を踏みしめる。その時、ぼくはクーツェに会いに行く必要はなくなっていた。
(2010/2/28) -
表紙とタイトルに惹かれて読んでみましたが、最初でくじけ
ました・・・意味がよく分からなかったです。
いしいさんの本は「プラネタリウムのふたご」もそうでしたが正直私の頭では理解できないです。
高評価ですが、ごめんなさい。
表紙だけの評価として★3つで。 -
思ったよりスケールの大きな物語。
人の死や「やみねずみ」、悪意、硬直化した心など、目を背けたいものもしっかり描かれている。
「ねこ」と呼ばれる大柄な少年と、数学者の父、自称ティンパニ奏者の祖父。
物語の後半はねこがそんな家族のもとを離れ、成長していく。
そこから物語のテンポがよくなってきて、だんだん読むのが楽しくなっていった。
そこで「クーツェ」が何者かがもわかる。
この本は十年位前、当時十代だった知人に教えてもらった本だ。
私もその頃読んでいたら、もっと多くのものを感じとれたかな…。 -
再読。体は大きいけど虚弱、猫の鳴きまねが得意で指揮者の勉強をしている「ねこ」、変わり者の数学教師のお父さん、町の楽団を指導しているお祖父ちゃん、スクラップが趣味で作曲もする用務員さん、切手収集が趣味の郵便局長さん、その妹でねこを下宿させてくれる料理上手なおばさん、盲目の元ボクサーちょうちょおじさん、その親友の盲目のチェロの先生、娘のみどり色、どのキャラクターも優しく魅力的で、本筋とは無関係なちょっとしたエピソードに、ふいに涙が出そうになる。ブラッドベリの「霧笛」を思わせる恐竜、色の名前のついた三匹の盲導犬、水夫とオウムなど、動物がらみの挿話も好き。変人のお父さんがどうしてオムレツだけ上手に作れるのか、最後の最後でわかったときにグッときました。
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完全な空想の世界。
とてもあったかい想像に支えられた、不思議な世界の話です。
色々な事に傷つきながら、色々な人に出会いちょっとずつ成長していく主人公が素敵です。
何があっても自分なりの一定のリズムでまえに歩いていく、そんな生き方をしたいです。