蒲団・重右衛門の最後 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101079011

感想・レビュー・書評

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  • 性欲とフェチ感丸出しのラストが有名ですが、現代人からしたら明治版ラノベ、というレベルの話かなというのが読後の感想です。

    悶々とするおっさんの内面と行動を、そこまで冷静に分析して、そこまで理知的に、しかもそこまで正直丁寧に書かんでもいいよ!と途中で突っ込みは入れてしまいましたが…。

    時は明治後期。妻子ある中年小説家・時雄の元に、彼の大ファンだという、女学生・芳子から熱烈なファンレターが届きます。文通へ発展する二人。
    女学校を卒業した芳子は、小説家を目指すために時雄の弟子になろうと、東京にやってきます。

    「妻に子供を奪われ、子供に妻を奪われて」いる単調な生活に味気なさと侘しさを感じていた時雄は、突然目の前に舞い降りた若い女の存在に、舞い上がってしまいます。
    自分を「先生、先生」と慕う芳子と両想いだと思い込む時雄。

    妻や親戚は当然ながら、不倫か!?と身構えます。
    しかし、芳子のほうはそんな気はなかったらしく、彼女自身の軽率な行動のせいで恋人の存在が割とあっさりばれます。しかも、その恋人が、時雄の目の前に現れてしまうのです。
    ここから、芳子の恋の最大の保護者のふりをしながら、実は憤懣と嫉妬に乱れ狂う時雄の姿が延々と描かれてきます。

    単調な日常に色を添えてくれたものに固執したくなる気持ちは理解できます。
    しかし、本文でどんなに小難しく文学的な言葉に包んで表現していても、(下世話な表現で申し訳ないのですが、)ありていに言って、「きっともう彼女は処女じゃないんだ…」という点にこだわって堂々めぐりしている妻子持ちの中年男性の姿には、「おいおいおい…」と思ってしまいました。

    それに、読んでいると、「この男、自分の前に現れたのが芳子でなくても、若くてちょっと綺麗な女なら、たぶん(いや、絶対)誰でもよかったよな」、という妙な確信がついてくるという…。

    そして、かの有名なラスト。
    本当に性を感じさせて生々しい。
    現代のコンテンツには、平凡な恋愛小説でも、もっと過激な性描写が溢れており、それと比べたら十分マイルドで使い古された内容ですが、明治40年(1907年)によく書いたよ!と、ここまでの呆れぶりを手のひら返して感心してしまう不思議。

    いえ、これがすべての始まりだったのかも、と思うから感心するのかもしれませんね。
    この作品がなかったら、後世の谷崎潤一郎の官能作品群とか生まれなかったかもしれないと思うと不思議な感慨を覚えます。
    私小説の出発点と言われるだけのことはあるのかも。

  • 時雄は芳子だから恋をしたわけではないと思う。惨めな自分の晩年に華を添えてくれる「女」という生き物なら、誰でもよかったのだろう。男の身勝手さを惜しげもなく晒した作品。建前などかなぐり捨てて書いてるから、真に迫っていてとても面白い。時を重ねても雄の性を捨てられない「時雄」と、匂いたつような若さと美しさを備えた「芳子」という名前設定が、最後のシーンを象徴しているようである。

  • 36歳の作家・竹中時雄が、女弟子の横山芳子に恋人ができたことに嫉妬する話。大人らしく分別ぶってみたり、親に知らせて二人の仲を裂いてしまおうかと悩んだり、イライラしてはやけ酒をあおって癇癪を起こす。

    自然主義の代表作とされているのでもっと淡々とした内容かと思っていたが、案外面白かった。

    「時雄は悶えた、思い乱れた。妬みと惜しみと悔恨(くやみ)との念が一緒になって旋風のように頭脳(あたま)の中を回転した。師としての道義の念もこれに交って、益々炎を熾(さか)んにした。わが愛する女の幸福の為めという犠牲の念も加わった。で、夕暮の膳の上の酒は夥しく量を加えて、泥鴨(あひる)の如く酔って寝た。」(p.27)

    「かれの経験にはこういう経験が幾度もあった。一歩の相違で運命の唯中に入ることが出来ず、いつも圏外に立たせられた淋しい苦悶、その苦しい味をかれは常に味(あじわ)った。」(p.28)

    「妻と子――家庭の快楽だと人は言うが、それに何の意味がある。子供の為めに生存している妻は生存の意味があろうが、妻を子に奪われ、子を妻に奪われた夫はどうして寂莫たらざるを得るか。」(p.67)

    そして、小さな山村の連続放火事件を扱った「重右衛門の最後」がそれ以上に面白い。前半は旧友との思い出と再会、後半は放火犯の重右衛門の半生を描き、最後は意外な結末を迎える。紀行文的な描写も美しい。

    自然の欲望のままに生き、村の掟や習慣とは相容れなかった重右衛門の死を目の当たりにし、厳しく雄大な自然を服従させようとしてきた人類の歴史、自然と人間の相克関係に思い至る。

    『金閣寺は燃えているか?』でも指摘されている通り、福田恆存の解説はまったく褒めていない。
    「おもうに『蒲団』の新奇さにもかかわらず、花袋そのひとは、ほとんど独創性も才能もないひとだったのでしょう。」(p.219)
    「たしかに花袋はわが国における文学青年のもっとも純粋で典型的な代表者だったといってよい。 (中略) 文学青年とは一口にいえば、芸術家の才能なくして、芸術家に憧れるものです。」(p.226)

  • この私小説は、田山花袋自身の身に起こった出来事を告白した自伝の様なものだったので、花袋がどういう人物だったのかや、花袋自身の当時の感情などが非常に近く感じられるものだったと感じた。
    この小説の思想性に関して、最後のクライマックス場面で(「女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。〜心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。」一一〇頁引用)とあるが、女(芳子)の油と汗、そして匂いと、においについて文字の使い方や表現の仕方が違うことに気づきその作者の思想性は何なのかを考えた。
    油と汗は本質的には同じで体内から排出されるものであるが、油といえば体臭の匂いなどが想像出来るまた、汗は油よりも体から出るものになるのでその女の身体から出たものを素肌で蒲団に触れて感じ取る事によって、少しでもその女に対しての感情や想いなどが思い出されたり、そこに居るはずの無い女(芳子)がいる様に感じ取られるのでは無いのかなと考えた。また、「匂い」と「におい」にしても、良いに匂いの「におい」と、例え少し臭くても愛している人の「匂い」は愛おしく思えたりすると考えたのである。したがって、筆者は故意に「匂い」と「におい」で書き方を変えているのではないのかと考えた。さらにまた、時雄自身が女の蒲団を引き出して匂いを嗅ぐ時に女の匂いを分析する程の敏感な神経(女を愛するあまりの)が非常に備わっていたのだと感じる。このことから女に対しての花袋のもの凄く深い愛がこの作品に強くあらわれていたと感じる。

  • 申し訳ないけど主人公がめっちゃ気持ち悪い!

    気持ちはわからなくもないけど、布団は嗅ぐんじゃないよ…

  • 嫉妬というと、"女の"嫉妬なんてわざわざ"女"を強調したりすることが多いが、なぜだか"男の"嫉妬、という言い方はあんまりしない。でも別に、嫉妬という感情に男女の別があるわけではない。ただ、男は嫉妬を「権力闘争」や「大人の対応」なんて言葉で都合よく包み隠しているだけだ。
    文学者である竹中時雄の元へ、文学を志す女学生からの熱心な手紙が届くようになる。彼女が後に正式な弟子として受け入れることになる芳子。かつて情を燃やしたはずの妻にも飽き飽きしていた時雄は、芳子にいつしか好意を抱くようになる。芳子の恋人である田中との仲を芳子の"師"として諭し心配するフリをして、内心は嫉妬心を強くするひとりの中年男性の苦悩を描く。
    話が進めば進むほど、この身勝手な中年男子が変態的にすら思えてくる。男が理想的な女を規定したがるのは現代にも通づるものがあるが、そのくせ自分は嫉妬心を燃やし、芳子を失えば彼女が使っていた蒲団の匂いを嗅いだりするのだ。
    こうした男の女に対する態度だけでなく、旧式の女性(時雄の妻)vs新時代の女性(芳子)という世代間での対立構造もまた現代に通づるものがあって、明治時代とて日本人は根本的に同じなんだなぁと思ってしまう。従ってそこまで大きな違和感なく読めるが、「あぁそんなに嫉妬したんだねー大変だったんだねー」以上の感想は抱きづらい。私小説ってやっぱりこんなもの?そしてちょくちょく出てくるロシア文学が知識があることだけをひけらかしているようで逆に嘘っぽくないか?

  • 恋が去って、
    悲しいのは直後かもしれないけれど
    哀しいのはもう少し後のような気がします。

    相手の残した表情や
    ただよう香りに
    相手の不在を強く思う。

    そういう哀しさは
    必ずやってきて
    なかなか消えてはくれないもの。

    この本の
    「蒲団に残る、あのひとの匂いが恋しい」
    という一文。

    わかるような気がしました。

    ちょっとだけ、だけどね。

  • ●読んでいるうちに哀れで惨めで、可哀想になってくる主人公。中年男性が読むと、妙に共感してしまうのではないだろうか・・・。

    実ることのない師弟関係の恋・・・主人公の先生は、恋人のいる女性を愛してしまい、権力によってどうにかこうにかこちらを振り向かせようとするけれども、結果は悪くなるばかり。遂に強硬手段でライバルを彼女の父親に遠ざけてもらうが、心には虚無感と叶わなかった恋への悲しみが残るばかり。卑怯な手を使わざるを得なかった先生の苦悩を描く。

    私は女性の立場なので、彼女は明らかに先生の気持ちを分かっていながらなびくことはしなかったのだと思いますが、そこらへんを信じて疑わない先生は、作者の意図するところだったのかが気になります。

  •  結末はあまりにも有名なので読む前から分かっていた。しかしながらいざ読んでみると矢張り名作の誉も宜なる哉。中年男性の悲哀と絶望、そして始末に負えない性慾と云う名のエゴイズム。それを最も巧妙に言語で表現したのが「蒲団」なのだろう。

     一方で「重右衛門の最後」の方がシナリオの起伏と問題意識に富んでおり読んでいて面白かった。日本自然主義文学の嚆矢と言えば上述の「蒲団」、それに藤村の「破戒」が有名だが、本作にもゾライズムの片鱗が窺える。本書を手に取るまで寡聞にして知らなかった作品なので何となくお得感があった。

  • 日本文学における私小説の走りと言われる田山花袋の代表作。

    そこそこ売れた作家である主人公(竹中時雄)の元に美しくて若い女学生(横山芳子)が弟子としてやってくるところからストーリーが始まる。
    時雄には妻子もあるが、やがて芳子に恋心を抱くようになる。芳子の恋仲である男子学生も後を追うように上京し、時雄は嫉妬を感じながらもやり場のない自分の恋心に悶えながら日々を送ることになる。

    この主人公は田山花袋自身がモデルであり、彼が自分の若い女弟子に下心を抱いていたというのも事実に近いものであるらしい。
    この作風というか設定が当時の日本の文壇に衝撃を与えた、と聞いて読んでみた。

    100年以上前に書かれた小説であり、時代背景や表現が古いことを差し引いてもあまり面白いとは思えなかった。
    これがなぜかを少しだけ客観的に分析してみたところ、こうした光景が現代にはありふれているからではないだろうか。100年の時を経てこのストーリーは陳腐化したのだ。

    印象的なのは、周囲の人間がやたらと芳子の貞操に拘り、かつ若い人の「ハイカラな」考え方を遠いものとして捉えているところ。時雄と芳子は精々十何歳しか離れていないのに、まるで考えが違うようなことを時雄や妻は折々で述べる。
    さらに、時雄は「温順と貞節とより他に何も持たぬ」自分の妻を比較して、芳子の闊達さを褒める。
    「女子ももう自覚せんければいかん。父の手からすぐに夫の手に移るような意気地なしでは為方が無い。」とまで言ってのける。

    これは明らかな矛盾であり、自分の思想と気持ちの折り合いがついていないように見える。それだけ当時の情勢(物理的にも精神的にも)の移り変わりが速かったということだろうか。
    10年そこらで、少なくとも精神や文化面でここまで変化することは現代では見られない。そうした意味では100年前の方が余程「VUCA」の時代だったのかもしれない。

著者プロフィール

1872年群馬県生まれ。小説家。『蒲団』『田舎教師』等、自然主義派の作品を発表。1930年没。

「2017年 『温泉天国 ごきげん文藝』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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