・書き出し:信じがたいと思われるでしょう。信じるとうことが現代人にとっていかに困難なことかということは、わたしもよく知っています。
・末尾:しかし、それが消えた時、わたくしは天にいるあの人が、それを摘み取ったのだと考えて、今はそれをさえ自分の喜びとするのです。
・手に取ったきっかけ:都内の古本屋をめぐっていると、薄茶の表紙(カバー無し)にさらに薄っすらとタイトルが刻まれたいて、セピアの帯が綺麗なのと、どこか『銀の匙』のようなタイトルの潔癖さを感じ購入。以降、約一年ほどの積読を経て読了。
【あらすじ】
わたくし(竜口・たつのくち)は大学在学中に下宿の女主人が死んだことをきっかけに、その娘の「あの人(あき子)」に出会う。わたくしとの本の貸し借り、文通などの交友を、彼女は交際と思い込んでおり、妻であり母親であることの立場を危ぶんだ彼女から彼は別れを切り出される。この一方的な告白に彼は彼女を意識するようになるも逢わないことを決めてふたりは別れる。
二年後わくしの父の死を悼んで彼女から届いた手紙をきっかけに交際が再会。肉体関係を持ち愛を深める。そんな折、二回目の拒絶の手紙を受け取る。
大学卒業と共に沼津の連隊に入営。兵役を済ませてからは、富士山麓の天体観測所で働き始める彼。そこで、下宿の近所の娘と交際を始める。娘の家族に結婚を迫られ、彼女に相談をしに行くと、結婚を勧められ、再び愛の拒絶に会う。
彼は彼女の勧めに従って娘と結婚する。看病など2年を過ごして離婚。東京へ転勤。電車で偶然彼女と再会するが、口論別れに。彼女の子の学校をつてに住所を割り出し彼女の家を尋ねる彼。そこで4度目の拒絶を受ける。
失意のなかで、彼は仕事を止め、二年間テント生活をすると、飛騨の山で小屋暮らしを始める。冬を越し下山し彼女に会いに行くと、今度は打ち解けて5年待ってくれと彼女の言うことを聞き、再び、山小屋へ戻る。下山し、使い果たした金は剣道の指南をしながら稼ぎ暮らし彼女との約束の時を待つ。
約束の前日。彼女から手紙が届き、死を知らされる。
【感想】
とにかく最初の印象がべたべたの恋愛、それも男主体の(男主体の純粋な恋愛の話って、なんだか気持ち悪く感じてしまうのはなんでなんだろう)つらつらくどくどとしたもので、拒否反応を抑えつつ読み進める。
主要なふたりは、働かなくても食うには困らないブルジョワ、その庇護を受ける人、ということで始末の悪いというか、相当な暇を持て余している背景が見えてきて、そもそも誰かの夢中は他人から暇と見られるものなのだけど、類は友を呼ぶといった感じで、暇な学生と暇な人妻が出会う、と書いたらあまりにも通俗すぎるかしら。
歳の差と、ほど良い(1・2時間で会える)遠距離、身長の差、人妻という、恋愛の燃焼率を高める幾つかの要素をクリアしてふたりは燃え上っていく。
添い遂げられないことが、結果的には、こうした皮肉な感想を持つ読者にとって納得のラストになるのだけど、本書を最後まで読み通す要因になった部分は“孤独”について言及があったからだと思う。
主人公は再三、女ごころという免罪符にもてあそばれた末に、隠居生活を始める。テントで二年。極寒の山小屋で三年。恋愛という超現実から、さらに大自然という超現実に跳躍する中盤からラストにかけてに引き込まれる。薪を作り、雪を掻き、狩りをする。そんな、デスクにつき、デジタルの情報を入力・出力、画面の向こう側の仮想世界に絶えず視線を注いでいる都会・現代人からすれば幻想的な日常と、恋愛下のわたしたちが陥る超幻想生活はよく似ていると気づいてしまった。旧石器時代に恋愛に似た概念があったかどうかは知らない。けど、狩る・食う・寝る・セックスの内、狩る(食料の入手)とセックス(生殖行為に纏わる色々)がかなりメタ化されてしまったせいで、ほとんど現実感を伴わない現代の状況に戸惑う。
この二人にしたって、結婚・人妻という虚構にたっぷりと腰掛けて、恋愛を構築しているのに変わりはないけれど。彼の山籠もりは、降雪に立ち向かいながら、移行していく春の雪解け、鳥虫獣草木花の命の息吹きのなかでの生活。その先にあったのは、きっぱりと俗世のことは忘れるなんてことはなく、猶彼女に恋焦がれる。寧ろ、孤独が強く他者を求め、他者を求める営みこそがわたしたち、ひと、の現実なのではないか。と、しみじみ考え、恋愛も結婚も虚構だけれど、確実な現実に基づいているのだなぁと再び気づく。さらに、現実を生きれば起こりうる、諍いや不和をできるだけ最小限に食い留めるために、虚構がその綻びを結ぶ役割を果たして、現実と虚構とが、社会を作り上げている。
名場面だなぁと感じたのが“「未亡人の再婚は……」「それは認めておりますわ」「じゃ、女の貞操については」「貞操は主観的なものだと思いますけれど」”
結婚という制度と貞操というモラルをこんなにはっきりと一人の登場人物のなかに共存している。ここに〝あの人〟の美しさを感じた。頭のなかと世間との折り合いが悪いわたしにとっては羨ましい。
また“わたくしたちはこの地上に生れて来て、愛についての空虚な言葉の幾つかを覚えてしまいます”これも、自由なようでいて、かなり条件化された恋愛市場を生きるわたしたち世代に響く文章じゃないだろうか。愛なんてそもそも言語化できない。けれど、論理の恋愛、論理の結婚を嗜好するわたしたち。定額課金して、スワイプで選択し、オススメを買う恋愛。年齢、年収、身長と条件から選択する結婚。教育費、医療費、食費の統計と両親の生計に対する計算に照らし合わせて、合理的に生まれてくるこどもたちが、合理的に生きて死んでいくタイパとコスパの世界。空虚な言葉どころか空虚な数字まで覚えて、幸福を探し求めて彷徨い生きていくわたしたち。わたしたち人は、恋という最も不合理な営みから生まれくる愛すべきいきものだと思う。
“この世に生れて来たことの寂しさの中にあって、あの人に逢えたということは、それだけでもわたくしにはありがたく、たとえようのない喜びに思われたのです”
こんな風に思える人生はどれほど幸せだろう。