- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101113074
感想・レビュー・書評
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ネットからの引用だが、「パルタイ(Partei)」とはドイツ語で「党」を意味し、当時の左翼勢力、特に新左翼勢力が「ブント」、「セクト」などカール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルスの影響からドイツ語を多く用いていたことの反映であり、「党」とは作中で明言こそされていないが、明確に日本共産党の暗喩である、とある。
本書は短編集だが、暗喩、メタファーが多い。尻尾の生えた人間、蛇を飲み込んだ男、貝のような部屋で暮らす女。世界観は労働者階級のオルグだが、これらのメタファーが何を示すのか。読みながら考えたが、答えにたどり着く前に思考にノイズが入る。つまり、メタファーを弄する時代や作家への欺瞞と、それを探る面倒臭さ、だ。
表現の自由が無い、暗喩を用いざるを得ない時代の事なら分かる。あるいは、詩的な表現で読み手に解釈の幅を持たせたい場合。しかし、それ以外の寓話化は、筆者固有の視点を正当化させ、大衆化するための作為的な所作に近い。それが政治問題なら、尚の事。
後付けの解釈でインテリを気取るのは衒学的だし、読み手に解釈を委ねて真意は異なるのだとニヤリとするなら悪趣味。なので、へそ曲がりを真っ直ぐにして、単純に小説として読んだという話だが、これはこれで面白かった。読み方を変えるだけで、大江健三郎っぽさが、川上弘美っぽさに変わる楽しさ。いや、「蛇を飲む」で「蛇を踏む」を思い出しただけという話もあるが…。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
抽象性に拘った表題作は地味ながら1番良かった。
他の数話はカフカ、安部公房等の水割りをした様に感じてしまった。
言葉選びは女性ならではの繊細さがあり、より自身の色が出た他作を読みたいと思った。 -
表題作「パルタイ」を含む5編の短編から成る短編集。ここでは、表題作の「パルタイ」にのみ触れる。
文庫本の裏表紙に、「パルタイ」のあらすじが、下記のように記載されている。
「革命党」に所属している「あなた」から入党をすすめられ、手続きのための「経歴書」を作成し、それが受理されると同時にパルタイから出るための手続きを、またはじめようと決心するまでの経過を、女子学生の目を通して描いた。
この短編は、倉橋由美子のデビュー作である。
明治大学在学中に大学の学長賞に本作で応募し、入選したもの。選者の文芸時評での推薦により話題となり、「文學界」に転載され、また、芥川賞候補となった作品。書かれたのは、1959年。「文學界」に転載されたのは、すなわち、倉橋由美子の文壇デビューとなったのは、1960年のことである。
小熊正二の「1968」を読んでから、当時の(あるいは、前後の)学生運動を扱った小説をいくつか読んでいる。三田誠広の「僕って何」や、島田雅彦の「優しいサヨクのための嬉遊曲」である。その流れで、本書も手にとったもの。
「パルタイ」とは、党・政党・党派の意味で、特に共産党を指して用いられた言葉であるらしい。この物語が書かれた当時、「パルタイ=党」といえば、日本共産党を指していたということであり、パルタイへの入党手続(あるいは、これからの退党手続)とは、日本共産党へのそれを指していたのだ。しかし、この物語は、政治的な問題を主題にしたものではないし、日本共産党に対して何らかの意思(賛同とか批判)を表明することを主題にしたものでもないと私は理解した。せっかく入党が認められたのに退党手続をすぐにとろうとするのは、もちろん、その党(日本共産党)に対して批判的な言動ではあるが、その批判の理路を物語にするというよりは、むしろ、もっと、主人公の女子学生の内面の変化(それが何であれ)を描いたもののように感じた。 -
パルタイと非人しか読んでないけど。この世代の閉鎖的な感じは伝わってきた
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1日中お腹がキリキリ痛い状況の中でパルタイに手が伸びる。一気読み。もうこの痛みがどこからくるものだか判別つかない。この本は私の少女期の形成に大きく関わっている。今でも自分の細胞の一部を成していることを確信。メビウスの輪のように表裏かわる世界と反世界。嘔吐もよおす存在自身。どうしようもなく魅せられる。この倉橋由美子の初期の作品群には「なぜ私は本を読むのか?」その理由が潜んでいるような気がする。
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共産主義的な舞台設定のうえで著者のさまざまな心象を描いたような短編集。どれもシュールでグロテスク。
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再読だが内容は忘れていた。ずいぶん前のことだけれど年数を経たからではない。やはりわかっていなかったということだろう。
あのころは倉橋由美子の「夢の浮橋」とか「されどわれらが日々」(柴田翔)「我が心は石にあらず」(高橋和巳)など友人に薦められて節操もなく興味を持った。しかし、柴田翔や高橋和巳ほどには覚えていなかったのだ。
カミユやカフカ、サルトルも一応は読んでいたが理解していたのではないから、その影響を色濃く受けたという本書が私には響かなかったのだろう。
時代を経て再会し、深い意味を理解するとはなんとも奇妙なことだ。
表題作「パルタイ」は倉橋由美子のデビュー作、1959年1月明治大学学長賞入選作品にて世に出たのである。
他は「非人」(1960年5月)「貝のなか」(1960年5月)「蛇」(1960年6月)「密告」(1960年7月)
度肝を抜かれた、すごいシュールだ!
のようでもあるが、世相を揶揄しているような内容でもある。
「パルタイ」…ある革命的な党に入ろうとした女子学生
「非人」…ある組織の経営の中で翻弄され、いじめられるる「ぼく」
「貝のなか」…女子寮における人間関係の憂鬱
「蛇」…カフカの「変身」を思わせる騒動、学生編
「密告」…銅版画の如く描かれる印象的で残酷な青春像
リアルであって現実離れ、ありえないようなグロテスクな世界。
『わたしと他者との存在関係であることばというものを逆手にとってもうひとつの世界、わたしにとってほんとうのレアリテがつまった世界を構築することをひそかな愉しみとして…』
と倉橋由美子自身の後記に書かれているように、存在論理を形而上学上にイメージするのに実在の日常性のなかに閉じ込めるから、歪んだ現実になるというのである。こんな日常はありえないけれど日常に近いのである。
著者青春時代の若々しい芸術的カタルシスでもある。これは最先端の芸術であった。感性の鋭い人たちがさぞ共鳴しただろうと思う。現代から見るとこのくらいは当たり前になっている。ああ、だから新しかったのだ。
「パルタイ」が一番普通。でも読み込めば読むほどにその重苦しさに呻く。苦しい芸術ってのもあるのだ。 -
再読。繙く季節を誤った。が、一度読み始めたらやめられないほどの濃密さと求心力を有する小説群である。倉橋由美子の文学は集団が蔑視し排除しようとするものの中に、むしろ個人を活性化させる、ある潜在している力を発見し明晰に表現する。この作品集ではオント(恥辱)を主題として、大衆に容易く迎合することで我が個体として存立しているという実感を保とうとする生の在り方を批判している。文学にしか置かれる場所がない反射鏡のような文体から人間のもっている異常異臭が感触として迫ってくる。凄絶な体感があって、読後はしばらくぐったり。