おとうと (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社
3.64
  • (76)
  • (103)
  • (176)
  • (13)
  • (3)
本棚登録 : 1098
感想 : 122
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101116037

作品紹介・あらすじ

高名な作家で、自分の仕事に没頭している父、悪意はないが冷たい継母、夫婦仲もよくはなく、経済状態もよくない。そんな家庭の中で十七歳のげんは三つ違いの弟に、母親のようないたわりをしめしているが、弟はまもなくくずれた毎日をおくるようになり、結核にかかってしまう。事実をふまえて、不良少年とよばれ若くして亡くなった弟への深い愛惜の情をこめた看病と終焉の記録。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  •  これは、幸田文さんご自身とご家族のことを小説化したと思われる。
     生母が早く亡くなり、文豪の父親(幸田露伴がモデル)と継母とげん(文さんがモデル)と弟の碧朗の四人家族。父と継母の仲は上手くいっておらず、継母と子供たちも折り合いが悪い。継母は何とか母の役目を果たそうと努力はするが、げんと碧朗のことをどうしても好きになれないのを隠せない。その上リューマチで家事が出来ない継母に代わってげんが女学生の頃から家事を任されている。
     碧朗は中学生になり、不良仲間に入れられ、どんどんグレていくのだが、げんはそれを一番近くで見て知っていても、父と継母には気を遣い相談することが出来ない。碧朗は万引きをして警察沙汰になり、退学して別の学校に転学後、どんどん遊び人になっていくのだが、父親はどうすることも出来ず、碧朗に言われるままに金を出してやる。幸田露伴は文さんには厳しく家事を仕込んだらしいが、息子には弱かったらしい。げんは碧朗が荒れていくのを悲しい思いで見つめながら、親が何も出来ないのを歯がゆい思いでみている。
     そんな家庭だから碧朗の体調が悪くなっているのを家族たちは気づかず、医者に行ったときには、相当進行した結核だった。
     不和な家庭の中で三つ違いの弟に母のような気持ちで寄り添い、それを疎ましがられながらも、最後には自分の縁談を諦めてまで結核の弟の看病をし続けた、げん。家事も弟の看病もげんに任せきりの父親。リューマチと二人の子供への心の距離から碧朗にもげんにも寄り添えない継母。げんはその真ん中に立って、娘として姉として実質主婦として必死で家族を支えていた。
     幸田文さん、厳しい娘時代を送られていたのだなあ。不和な家庭の中での唯一人の姉と弟の絆。微妙な年頃で不良化し、姉から離れていく弟をときには取っ組み合いのケンカもしながら見守り、病気になられれば疎ましがられながら面倒を見、最後には甘えられて、信頼されて看取った。
     どんなフィクションよりも文さんの実話を元にしたこの小説を文さんの素晴らしい筆致で書かれると、心にずっしりきた。
     幸田文さんの文章はパリっと糊の効いた浴衣のように清潔感があり、美しく、凛として、そして江戸っ子気っ風のようなものを感じるが、それはお父様から譲り受けた文才だけではなく、この小説のなかの“げん”と同じ芯の強さと厳しかった家庭環境と、それでもやはり良家の人が持つ美意識から育てられた文才なのだなと思う。

  • 実話をもとにしたお話。

    父親、クリスチャンの継母、3歳下の弟の面倒を見る姉。
    継母は、弟に興味がないのか?ってかくらい冷たい。

    弟が不良と呼ばれるようになったりしたものの姉と弟の関係は微笑ましい。
    継母はリューマチで家事ができず、17歳の娘に家事をさせる。
    姉と言うより母親だ。
    姉が弟の面倒を見るが最後は結核に侵され看病し、看取る。
    弟は姉が結核患者を看病しているから嫁に行けないのでは?とか心配する優しい。
    継母は不器用な人間であったが冷たすぎる。

  •  幸田文さん、なくなって、ずいぶん経ちます。忘れられるのが惜しい方ですが、お嬢さんの青木玉さんもですが、今やお孫さんの青木奈緒さんも文筆家ということで、露伴の女系文学はとどまるところを知りません(笑)
     とか何とか云いながら、幸田文の「おとうと」を読んで、ついでに「みそっかす」を読みだしたら止まらなくなりました。「おとうと」は、実の弟をモデルにした「小説」で「みそっかす」自分の思い出を書いた随筆というのが通り相場のようですが、そうなのでしょうか。いや、そうなのですが、この作品の肝は「自分」の姿を借りて、「人間」の「ほんとうの」姿を描こうとしている小説性にあるのではないでしょうか。
     どこから読んでも困らない、作家の息遣いの自然さは、単なる思い出話を越えていると思いました。二十数年ぶりの再読なのですが、感嘆ですね。
     ブログにもあれこれ書きました。
      https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/202112220000/
     すみません、これって「みそっかす」のレビューです。いやはや、勘違いではりましたが、とりあえず、これでも通じますね。修正はいずれ(笑)

    • workmaさん
      シマクマさんへ

      ほ~。有名な作品だけど、未読なので、読みたくなりました。図書館へ行ってみます(^ー^)
      シマクマさんへ

      ほ~。有名な作品だけど、未読なので、読みたくなりました。図書館へ行ってみます(^ー^)
      2021/12/24
    • シマクマ君さん
      workumaさん、コメント気づかなくて済みません。
      お読みになりましたか?
      幸田文はやっぱりすごいですね。
      workumaさん、コメント気づかなくて済みません。
      お読みになりましたか?
      幸田文はやっぱりすごいですね。
      2022/10/11
  • 【感想】~家族という共犯者~


     死に近づく度に美しくなっていくおとうと、碧郎が痛々しく、綺麗だった。看病する姉、げんは、誰も、自分でさえも素直になれない家族の間で、絶えず競り合って、碧郎を受け止めていた。
      
     ~信頼と甘え~
     「甘える」は信頼の裏返しなのかもしれない。子が親に甘えたいように、親も子に甘えたい。げんは、甘えられるばかりで、自分の甘えることのできる余地がほとんどなかった。喧嘩や言い合いも、信頼のある間柄だから、普段は抑えているようなことも、言い合えるのだと思う。そう考えると、げんだけでなく、この家族がぐっと、吞みこんできたことばが、重くのしかかってくる。

     げんにはその音が聞こえるようになる。

     姉の、半ば押し付けられたように取り組んできた家事は、家庭の衣食住を取り直しながら、布を縫い合わせることによく似ていた。碧郎の体が大きくなり、同級生の服が大人めかしくなっていくのを発見し、あつらえてやる場面がそれを象徴している。

     しかし、こどもらしい不用心が姉にも、おとうとにもあった。(機能していないという意味で)親のない姉弟を結核が襲う。親のいないこどもの辿る運命が、病という形になってはっきりと映し出されていく。

     文士の父親は、ふたりの子どもがいるところへ、家事のできない後妻を迎える。後妻はこどもと上手く打ち解けることができない。父親ないし、母親は、選択を迫られることになる。自分とこどもとを天秤にかけてどちらをとるかだ。
     げんの父親はどうだっただろう。
     こどものためを思うのなら、健康な妻を娶るべきではなかっただろうか?
     親は、人の親になったのならば、自分のでなくこどもを第一に考えるべきで、その選択を誤ってはいけないのではないか?

     しかし家族は共犯者だ。

     げんはおとうとの病を父のせいにも母のせいにもできない。何故なら、げんもまた姉として、おとうとの家族だったからあり、家族は家族の責任を持ち合うからだ。

     愛情という鎖、命綱は上に引っ張る力が強ければ家族皆を助けることもできるが、下に引っ張られる力が強ければ家族諸共助からない。

     おとうとの死は、結核に対する家族全員の敗北だった。

     おとうとが死んだとき、父はぐっと目を瞑り、母は祈り、看護師や医者は事務的だった。げんだけが取り残された。「死とはこんなにもあっけないものなのか」と啞然としているげんが、今しがた死んだ碧郎のことばをそっと代弁しているように思えてならない。

     死を受け入れられないでいるげんは、まだ何一つ終わっていないぞとどこか暗いところに怒りを隠し持っているようにも思う。病室で病人の汗の匂いや罵声や表情の変化なんかをずっと見てきた看病人と、そうした死に至るまでの泥臭い足搔きを看ずに、綺麗な死と病人の取り綺麗に繕う生の表面ばかり見てきた人間とではその態度が違って当然かもしれない。

     読み終えて、この小説の文体を改めて見つめ直してみると、闘病にその青春を捧げ最愛のおとうとを亡くす、悲運の女性といった雰囲気はどこにも感じられない。
     また、家族の誰かに責任を押し付けて、優劣を問うよなこともしない。おとうとが不良になっていく過程で、父親のおとうとへの愛情にある後ろめたさ、母の継母としての立場と家族との溝、姉のこどもらしさゆえの不行き届き。それらが、結果への証明として克明に記されていく。冷静を通り過ぎて、冷徹であり冷笑していいるようにさえ見てとれる。
     それぞれの落ち度をしっかりと書き、併せてそのようにことが運んでいった人間的な事情も書き、その上で、同情しない。あくまで距離を取った視点と書き手の情を全面には出さない姿勢が貫徹されていた。
     誰かや何かにどっぷりと甘えることで生まれる、安っぽい人間ドラマとは一線を画す点で、この文体の力強さは特別だ。

     改めて冒頭に立ち返ると、土手が現れる。おとうとと姉との物理的な距離があって、おとうとがしきりにうしろの姉を振り返る。姉が自分を見ていてくれるという安心感。おとうとを見失ってしまうような不安。

     ふたりのあいだというあいだにある何か。あるいはあいだそのものについて。

     この姉とおとうととの物語はここに帰結する。
     姉は遂に引きちぎられしまった。それ以上でもそれ以下でもない。物語は進行しない。あの土手のふたりのあいだは、終わってしまったおとうとの命でつなぎ留められている。

  • 平松洋子さんが幸田文のことを書かれていた。それで家事や着物について書かれたエッセイを手にしてみたのだが、歯が立たなかった。少し古い言葉が判らなかったのか、僕はこういう凛とした文が駄目なのか、敗北感が残った。

    立ち寄った本屋で見つけた本書。
    何事も蔑ろにしない文章。冒頭の向島の大川の土手の風景。風の感触、姉の自分の感情、弟の心情を慮る内容にすっと引き込まれる。
    作家の父、継母、長女の自分、弟の碧郎の物語。継母の立場や言い分も理解しつつ、納得できない自分の心根を語る。弟や父に対しても、同様。

    不良の仲間に引き入られたり、玉突きやボート等に遊び惚ける弟。何者にもなりたくない人間だったんだろう。平凡や平和がうっすらと哀しくてやりきれないという。そして姉のげんは自分にも通じるものがあると理解する。

    文さんは露伴から厳しく家事全般を仕込まれたと聞いていたが、本書の父はそんな厳格さはない。弟が遊ぶ金をこっそり渡しているし、学問をするでなし仕事に就くでないフーテンを許している。碧郎の発病でも医者の元に自分は足を運べない。子供に対する愛情が感情がカラ滑りしているよう。足が地に着かない息子の気持ちが判るし、しっかり者の長女に頼ってしまうのも納得してしまった。

    強くグイグイと押してくる文章だった。するするっとは読めなかったが、名文家だと思う。
    読み切れなかったエッセイや露伴の本も挑戦しようかな。

  •  
    ── 幸田 文《おとうと 19910210 新潮文庫》
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4101116032
     
    (20230405)
     

  • 主人公のげんと同い年です。
    偶然、私にも弟がいて碧郎(げんの弟)と同い年でした。
    私とげんは全く違う生活をしていますが、げんの碧郎に抱く想いに少し共感できたような気がします。
    “家族”とは特別な関係であり、げんと碧郎は何があっても“姉と弟”でした。

  • 読みおえたばかりで、もう悲しさにじわじわと打ちのめされてます。人は皆いつか死ぬもので、家族とも永遠に別れる日が来るなんてことは、頭では納得していても、実際に迎えるそれは果てしなくしんどいものだというのを強制擬似体験させられてしまったような気分です。文章の密度が尋常じゃないレベルです。幸田文おそるべし。

    『みそっかす』ではシモヤケとおねしょでベソをかいていた碧郎さん(一郎ちゃん)がこんなふうに青春を生きて、いっぱしの口を聞いて、ボートやビリヤードなんか嗜んだりして、若いまま最後を迎えたんだろうかと思うと、なおさらしみじみ悲しくなります。

    『みそっかす』には登場する長女も子供のうちに亡くなったのを考えると、これも持って生まれた虚弱体質と巡り合わせの結果だとは思うのですが、やはり、継子ゆえの不幸という気がどうしてもしてしまいます。

    いくらリューマチ病みの晩婚後妻だったとしても、義母は家庭を放置しすぎです。せっかくの信仰も現実逃避の手段にしかなってないし、長女に家事だけでなく弟の世話まで丸投げとは何なんですか。主人公げんは今で言うヤングケアラーじゃないですか。この奥様の大人としての責任はどこに行ったんでしょうか。

    そもそも父親も父親です。息子が結核で倒れてからは湯水のごとくお金を投入してましたけど、その前に女中さんを雇うなり何なりできなかったのか、本気出すのが遅すぎると、他人の家なのに不思議なほど文句が出てきます。

    ただ、碧郎本人は、悪戯っ子精神のままに人生を冒険し、楽しんでもいたように読めました。たくさんの人たちと交流して、最後の最後まで人に囲まれ、美味いものを食べ、家庭は機能不全だったとしても、皆から愛情こめて面倒を見てもらえて、一度も他人からこき使われる事もなく好きな事を好きなだけやれた人生だから、ぜんぜん不幸ではないと思います。どこまでがフィクションで、どこまでが思い出なのかは不明ですが、きっと幸田文さんが書くように精いっぱい生きた人だったんでしょう。

    変な男につきまとわれていた姉を、弟がご近所パワーでもって守ろうとするあたりがとても微笑ましかったなぁ。ほろり。

    今もまだ、げんと共に、真っ赤な扇子を握りしめたまま呆然と立ちすくんでるような気分です。

    なんというか、あまりにも描写力が高すぎるせいで、読み手を客観的なスタンスではいられなくさせられるくらいすごい作家なんだと改めて思いましたし、結核は本当にヤバかったんだなと実感を持てました。ちょっと無理な姿勢をしたり、笛をふくだけで肺が崩れるなど、想像するだけで気分が悪くなりそうです。

  • 実弟とマジ喧嘩したときに読んだ本がこれだったような。

  • うーん…姉から弟を見る心情には少し共感したけど いかんせん時代背景が違いすぎて。

全122件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

1904年東京向島生まれ。文豪幸田露伴の次女。女子学院卒。’28年結婚。10年間の結婚生活の後、娘玉を連れて離婚、幸田家に戻る。’47年父との思い出の記「雑記」「終焉」「葬送の記」を執筆。’56年『黒い裾』で読売文学賞、’57年『流れる』で日本藝術院賞、新潮社文学賞を受賞。他の作品に『おとうと』『闘』(女流文学賞)、没後刊行された『崩れ』『木』『台所のおと』(本書)『きもの』『季節のかたみ』等多数。1990年、86歳で逝去。


「2021年 『台所のおと 新装版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

幸田文の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×