天狗争乱 (新潮文庫)

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  • / ISBN・EAN: 9784101117386

感想・レビュー・書評

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  • 德川斉昭(烈公)を崇める水戸の尊王攘夷派「天狗党」が挙兵し筑波山に立て籠もって後、幕府軍の追撃をかわしながら、徳川慶喜公を頼って京に上る百里の道半ばにして、非業の最期を迎えることになったのは何故かを思案、苦悶しながら読んだ吉村昭氏の幕末惨劇篇。安政の大獄、桜田門外事変を経てなお、尊攘思想を幕政に訴えるも、変転する時代の趨勢を見誤ったとするだけでは、武田耕雲斎ら352人の斬首刑、妻子や一族郎党を根絶やしにされた者の無念を一片なりとも言い表せない。水戸藩門閥派の調略と慶喜の変心が悲劇を招いた、悶絶の歴史。

  • 勝者は讃え、敗者は美しく描く。幕末劇の定番。維新で日本は植民地になることを免れ、先進国の一員となる。開国派と攘夷派がせめぎあい幸運にも成し遂げられた奇跡。その過程で生まれた多くの犠牲。…元治元年、栃木町。悲劇が起きる。焼き払われた家並み。路頭に迷う町民。家族を殺され怒りは心頭に発す。天狗党憎し…舞台は水戸へ。門閥派対攘夷派。それぞれの言い分。どちらにも肩入れできない。…敗れた攘夷派と天狗党の合流。京への旅路。様相が変わる。畏敬もされる。…降伏。痛々しい結末。それが綴られるのも歴史。こんな人々もいたのだ。

  • 桜田門外の変の流れから続く水戸尊攘派の悲劇。
    水戸藩の苦しみが良く分かった。

  • 細かいことは覚えていないが、一度だけ著者の講演を聴いたことがある。確か創作についての内容だったと記憶しているが、手元にある『天狗争乱』の単行本に著者のサインを頂いており、1994年に『天狗争乱』が大佛次郎賞を受賞されたので、それを記念してのイベントに参加したのかも知れない。いずれにせよ今回本書を再読したのは、NHK大河ドラマ『青天を衝け』で数回にわたり天狗党が描かれていたからである。水戸藩と言えば徳川斉昭、藤田東湖らに代表される尊王攘夷の大藩である。しかし、尊攘派の改革に反発する門閥派(諸生党)の勢力も根強く、更に尊攘派も穏健派の「鎮派」と過激派の「激派」に分かれていた。もちろん、桜田門外の変や坂下門外の変を起こしたのは激派であり、筑波山で攘夷決行を唱え天狗党として挙兵したのもこの激派である。ドラマでは詳しく描かれなかったが、門閥派と激派との権力闘争は峻烈であり、藩内の闘争激化を心配して藩主徳川慶篤(当時在京)が名代として宍戸藩主徳川頼徳を下向させると、門閥派は改革派寄りの頼徳の水戸入城を拒否して戦闘に及んだうえ、頼徳は天狗党の同類であると幕府に讒言しこれを陥れて切腹させてしまう。帰るべき場所を失った旧頼徳勢と天狗党は合流し、徳川斉昭の七男で名君の誉れ高い一橋慶喜に実情を訴えようと、幕府の討伐軍に追われながら京都への苦難の進軍を開始するのである。しかし、京都を目前にした彼らの前に立ち塞がったのは、彼らが敬愛するその「一橋様」であった。著者の淡々とした文体が、彼らの悲憤を却って読者の胸に訴えかけてやまない。

  • 面白かった。天狗党一味の最後に涙する。。

  • 「天狗党は気の毒な人たちだ」という記述をどこかで見かけ、名前ぐらいしか知らなかった天狗党のことが少しだけ気になっていたので、吉村昭の小説が読みたかったので、これを選んでみた。

    吉村昭の小説の小説としての面白さは今まで幾度も書いてきたしいつも大好きなのでそれはそれでいいとして、歴史としての天狗党については、読みながらずっと納得できないでいた。
    挙兵の段階で、武力放棄としては脆弱すぎるし、社会運動としては過激すぎる。そもそも落とし所が分からない。
    こういうのを「政治集団」ととらえるか「大犯罪者集団」と取られるかは微妙だが、結局大犯罪者集団として扱われてしまった。まるでオウムみたいだ。
    慶喜を冷淡だというが、それは仕方がないと思う。割拠して武田耕雲斎だけ表に出るみたいなIRAみたいな活動はできなかったかとか思う。それは歴史をあとから見る者の勝手な言いぐさなのは分かるけど。

    「この非道な行為は、幕府が近々のうちに滅亡することを自らしめしたものである」
    という大久保一蔵の日記の記述(P531)が最後に残ったことなんだろうな。

  • 天狗党の悲劇について初めてしった。
    幕末の、難しい時代と幕府の暴走の様子が描かれている。
    慶喜についての逃げの印象が衝撃的だった。
    追討軍と天狗党との間のギリギリの折衝は読みごたえがある。

  • 吉村昭氏の天狗争乱は、桜田門外ノ変の刊行後、まわりの人から次は天狗争乱ですね。と催促されるほど関係の深い内容である。幕末は、3年という年月で価値観が変わっていく時代であることを象徴する出来事でもあった。桜田門外ノ変で井伊直弼を暗殺した水戸浪士の攘夷派の者たちが、粛清されたように、かつて、時代の象徴であった攘夷派は、水戸藩内部の有力派からも弾圧される立場に追い込められていた。すでに幕府にかつての力はなく、天狗勢が頼りにしていた慶喜までも、同様であり、天狗勢の最後は、最悪の形で幕切れとなったのであった。いつもながら、天狗争乱の中に身を置いて取材しているような緻密な書きっぷりに楽しく読了した。

  • 知らなかった史実

  • 2013/12/22完讀

    面對幕末的諸國入侵,会沢正志斎與藤田東湖奠定水戶學尊王攘夷的思想。東湖之子藤田小四郎因追隨慶喜上京,和各國藩士交流之後,決定聯合各地的尊攘勢力強迫幕府進行鎖國嚷夷(當時幕府下令攘夷,並未有任何實際作為)。但是1863年發生了8月18日政變,長州勢力被掃出京都,天誅組起義也失敗,當時正處於對尊攘派不利的大環境。水戶的年輕下級藩士支持尊攘派,被稱為天狗勢,反對市川三左衛門等的門閥派,尊攘派又分為鎮派和激派,當時正由鎮派的武田耕雲斎執政。1864年,藤田小四郎等人為了呼應全國的攘夷勢力,在筑波山舉兵。水戶藩內發生政變,改為門閥派執政,而天狗勢又有諸如田中愿蔵等人四處勒索商家,甚至發生縱火事件,幕府命令諸藩討伐天狗勢。宍戸藩主松平頼徳代替藩主慶篤進入水戶藩平息黨爭,卻反而被市川等人拒絕入城,頼徳反而被當作逆賊和天狗黨一起遭到討伐,但天狗黨的健鬥之下,幕府軍一直佔不到便宜。頼徳投降幕府後,天狗勢離開那珂湊(萬惡的田中終於被處刑),此時已由武田耕雲斎擔任主將,決意要前往京都向慶喜一訴衷腸,請他向朝廷建言。

    天狗勢沿中山道一路走,但到達美濃之後因為京都成立討伐軍,指定慶喜擔任大將,天狗勢便轉向北方,完成不可能的任務,度過冬日的山脈,轉向越前要前往京都,又遇到幕府的大軍。慶喜為了個人的安全,拋棄了天狗勢,只剩下加賀藩願意為他們奔走,天狗勢由於相信慶喜,耕雲斎力排眾議,決定棄械投降,但因此遭到極其過份的對待,八百人中甚至有三百五十幾人被斬首,其他人被流放、遠島,下場相當悽慘,水戶天狗勢就此消滅。

    **

    曾經讀過水戶的黨爭和天狗黨之亂,大削水戶的元氣,原本是尊王的本家,卻反而在到維新這段時間沒有躍上歷史舞台,讓薩長等雄藩一躍上歷史舞台將好處占盡。但對於水戶的黨爭或者天狗黨的詳細歷史我一直不是很清楚,以此為主題的書應該相較之下也比較少。讀完這本之後才有比較清楚的瞭解,也發現和自己所想像有一段很大的距離。

    田中隊的兇殘和目中無人,水戶的黨爭把頼徳捲入悲劇,在前半段令我印象深刻。後半段耕雲斎等人一心一意要上京直訴這種純粹的心,從那珂湊一路直奔京都,越過山派到越前這段故事實在很不可思議(讀吉村常常覺得現實比故事更具故事性),而這麼強大的一隻部隊居然不戰而降,耕雲斎那很純粹的、很高潔的舉動,也讓我深深感到,日本武士的情操和行為,真的是他國風土所無法孕育出的。最後加賀藩的永原和不破為了武士之情替他們奔走,和慶喜的無情與背棄,田沼意尊(其實我覺得他根本就是一個庸奴,一路追討過來都一直保持距離,最後卻那麼地不人道,完全沒有武士之情)兇殘的處置,也令人咋然。雖然慶喜一定遭很多人忌恨是必然的,一堆人等著扯他後腿(例如薩藩也希望用這件事讓慶喜失勢),但是當時有那麼多人說他是神君再世,英邁過人等等,但看很多他的決定和舉動,覺得他根本是個小器量的人(會答應大政奉還,我想應該也是認為朝廷沒辦法管理政治,把燙手山芋丟回去給朝廷的作法,他應該沒想到朝廷真的會接受,也想說就算接受應該不久就會來求他了)。如果有點武士之情,不論天狗黨的主張如何(更何況他是尊攘派的同情者),人家這麼相信他,憑著那赤誠來到這裡,並且還全面降服,沒有讓起衝突讓他立場為難,後續他就應該想辦法讓他們體面地面對後續的審判,而慶喜居然就把他們全部丟給田沼,下場想當然爾。幕府從組成討伐軍到最後的善後,處理整件事從頭到尾也相當糟糕,一個政權到風前殘燭的時候,還是可以用他的影響力繼續無意義地讓臣民喪失性命,也令人不甚欷噓。

    讀吉村,常常會看到人類的無比荒謬和愚蠢,這也是一段很難以置信的歷史。一開始我對天狗黨還不抱好感,但讀到最後卻覺得他們很可憐。當時對於國難,有時候會有一些不可思議的天真、純粹與至誠,夾雜變形變質的人性因素,做出一些毀譽參半的事情(事實上時時在流變),也讓人充分感覺到,其實沒有對錯,沒有智慧也沒有愚蠢,只看到被時代操弄的人類,在一個小圈圈中無頭亂撞,自鳴得意,自以為他們可以掌握一切,但不過是被定好的一齣鬧劇罷了,一曲終了,其他演員就換幕登場,一群被鬧烘烘地、殘酷地趕下舞台。

  • 今回2回目の読了。
    1回目に読んだ時は、党派の関わりが非常に複雑だったので、地元出身者の自分であっても話の筋を追うだけで精一杯だったが、2回目はだいぶ余裕を持って理解し楽しむことができた。
    天狗党の歩んだ道は、巻末にある地図で確認するだけでもよいが、wikiやGoogle map等を適宜参照しながら読むと、より面白いと思う。

  • 茨城県人なら読むべし

  •  水戸藩尊攘派による「天狗党の乱」を叙事詩的に描いた長編大作・・・だが、主人公もなく、ひたすら局地的な事実を時系列に追いかけるのみで、小説というより年代記に近く、あまりにも無味乾燥で途中で眠くなり、半分ほどで挫折した。歴史学において当該時期(元治・慶応年間)は、京都を震源とする朝廷・幕府・西南雄藩の関係の変容が重視され、「天狗党の乱」はある意味幕長戦争の先駆をなす内戦であったにもかかわらず、水戸藩の没落を招いただけで何ら有益な果実を残さなかったこともあって(維新後の水戸藩の存在の軽さ!)、東日本のローカルな武装蜂起として軽視されており(その暴虐ゆえに民衆から徹底的に忌避されたこともある)、そうしたアカデミズムの潮流への問題提起の意味があろうことはわかる。

  • 歴史小説は普段読まないのだがこの本は読んでいて少々疲れた・・・以下に詳しい感想があります。http://takeshi3017.chu.jp/file5/naiyou20201.html

  • 桜田門外の変から4年。
    水戸藩では尊王攘夷派が台頭し、横浜から外国人を打ち払おうと挙兵した。
    天狗勢と呼ばれる集団は、水戸で反攘夷派の市川ら門閥はと対立し追放された頼徳軍、武田耕雲斎と合流し、一橋慶喜への望みを抱いて進軍する。

    幕末の波に翻弄されながらも志を高く死んだ天狗勢の生き様を描く。

  • 幕末の水戸藩の尊皇攘夷の過激分子・天狗党が天皇に、そして頼みの綱と仰いだ一橋(徳川)慶喜に見捨てられ討伐の対象とされていく。武田光雲齋、藤田小四郎などの知っている名前はあるとはいえ、はっきりとした小説の主人公がいないようで大変読みづらかったのですが、京を目前にして越前へ向けて冬山を越える決死行から俄然盛り上がってきました。900人にも及ぶ日本大縦断の結果、慶喜に裏切られて無意味に死んで行った人たちが何とも悲惨です。そして57歳の女性が1人最後まで共について行ったのは驚きです。つい150年前ほどの世界が今と同じ地名(石岡、日光、本庄、藤岡、甲府、大野、勝山・・・)で登場し、非常に身近に感じられます。明治維新前夜は考えてみれば、全くの近代ですね。著者が登場人物の係累に直接会って取材した様子が目に浮かぶようです。

  • 舞台となった筑波山、毎日眺めているが、こんな事実があったとは全く知らず。ああ恥ずかしや。

  • 幕末時、水戸藩の尊王攘夷派である天狗党の悲劇を描いたもの。
    水戸藩は、御三家でありながら尊王の旗を立て、当初は政治思想的に幕末をお膳立てした藩であったにもかかわらず、内ゲバを繰り返すことにより、維新時には全く政治力を失った。その中心にあったのが天狗党の争乱であり、この過程で多くの有為な藩士を亡くしている。

    士道にも反するような数百名の天狗党の処分は、幕府及び徳川慶喜の権威を大きく損ね、結果的に幕末を早めるひとつの要因になった。
    その意味でも、この史実の考察を確りと行うべき。
    (薩摩藩の暗躍、一橋慶喜と幕府の関係、水戸藩と彦根藩の怨念等、興味深い歴史背景も理解できる)
    明治維新後に、今度は門閥派が厳しい処分を受けるのだが、その悲劇までは描かれていない。

    以下引用~
    ・西郷は、一橋慶喜との対立をふかめていて、天狗勢と京都から出陣している諸藩との全面衝突にとって、慶喜を窮地におとしいれようとはかっていたのである。
    ・慶喜は、狼狽した。追討の任をあたえられながら戦闘を回避しようとしている、とみられては、幕府の怒りをまねき、自分の立場が危うくなる。
    ・天狗勢を加賀、福井、彦根、小浜の四藩にあずけることも決定した、と伝えた。
    ・公(慶喜)は、かなり微妙なお立場におられる。幕府との関係は好ましくなく、ささいなあやまちをおかせば、たちまち身が危うくなる。
    ・352人が首をはねられたが、このような大量斬首は全く前例のないものであった。
    ・薩摩藩大久保利通は、「この非道な行為は、幕府が近々のうちに滅亡することを自らしめしたものである」

  • この天狗争乱が、はじめて読んだ吉村昭の本。

    独特の淡々とした文は、はじめ何も感情を感じ取ることができなく、
    これは小説なのかと戸惑った。

    しかし、読み進めていくうちに、この独特の文章から圧倒的なリアリティを感じることができるようになり、読後には、吉村昭の中毒にかかったように吉村昭の小説ばかりを読むようになってしまった。
    今でも、司馬遼太郎の次に好きな作家。

    もちろんストーリーも素晴らしかった。

  • 相変わらず小説としては「なってない」 (同じテーマなら山風の「魔群の通過」のほうが面白い) 。でも「こんな凄まじいことが現実としてあったのか」という事件としての衝撃性は相当なものだ。

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著者プロフィール

一九二七(昭和二)年、東京・日暮里生まれ。学習院大学中退。五八年、短篇集『青い骨』を自費出版。六六年、『星への旅』で太宰治賞を受賞、本格的な作家活動に入る。七三年『戦艦武蔵』『関東大震災』で菊池寛賞、七九年『ふぉん・しいほるとの娘』で吉川英治文学賞、八四年『破獄』で読売文学賞を受賞。二〇〇六(平成一八)年没。そのほかの作品に『高熱隧道』『桜田門外ノ変』『黒船』『私の文学漂流』などがある。

「2021年 『花火 吉村昭後期短篇集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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