他人の顔 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101121017

作品紹介・あらすじ

液体空気の爆発で受けた顔一面の蛭のようなケロイド瘢痕によって自分の顔を喪失してしまった男…失われた妻の愛をとりもどすために"他人の顔"をプラスチック製の仮面に仕立てて、妻を誘惑する男の自己回復のあがき…。特異な着想の中に執拗なまでに精緻な科学的記載をも交えて、"顔"というものに関わって生きている人間という存在の不安定さ、あいまいさを描く長編。

感想・レビュー・書評

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  • 読了:2019.1.9

    1951年「壁」で芥川賞を受賞した安部公房の1968年の作品。(これが50年前の作品とは…!)
    顔を失い、コンプレックスに押し潰されまいと、本人はあくまで理論的に、はたから見れば内省的で鬱屈した子供のような自尊心でそれっぽい言葉を並べながら、自分の顔と向き合っていく話。
    文章は妻に宛てられた手記として進んでいく。

    普通の小説と違い、風景や行動の描写が非常に少なく、ほとんどが自分の感情・意識・感じていること・それをコントロールすることなどの説明が多い。また、素直じゃないことから来る感情の矛盾や回りくどい説得やプレゼンのようなこちらへの働きかけに、はじめは非常に読みづらかった。
    ただ段々とこの文章から頭にイメージする作業に慣れてくるとぐんぐん引き込まれていった。

    そして、くどくどしたものが仮面の完成と共に解放され、肉肉しい解放感と困惑を必死でコントロールしようとする。その様は読んでいてとても気持ち良かった。相変わらず言葉で自分を説得しようとはしているものの、そうだよ、素直になればいいんだよ、冷静なんて装わないで必死になれよ、楽しめよ、ってかんじでした(笑)

    そして、ストーリーが8割進んだあたりで山場が来る。今までずっと主人公のオナ◯ーに付き合わされてきた私たちの形成逆転。この気持ち良さったら!
    安部公房ってこーゆー文章のひとなのかなぁって諦めかけてた頃にこれは、本当に騙された感(笑)
    やられたわぁ。すべては計算されてたんだ。

    手を差し伸べられたことに気付かなかったことに落胆し、そこでまた素直になればいいのに、そこは主人公。ほんとにこいつは…。

    最初から最後までこんなに手を抜かず一生懸命に生きてるのに、悩んで悩んで自己肯定できる材料を搔き集めるためにこんなに必死なのに。
    それなのに、こんなに応援したいと思えない奴っているかね?(笑)


    私は、この主人公がとても嫌い(笑)
    コンプレックスのくせにそれを認めず、延々と「コンプレックスに思う必要はない。なぜなら〜」って話をしてる。でも実は延々と自分を説得し続けなければいけないほどに囚われている。

    でも、昔は私もそうだったから、主人公の堂々巡りの言い訳の作業にとても共感してしまう。
    自分のそういうところが大嫌いだったから克服しようとした。(比較的できるようになったと思う)
    自分で自分を嫌悪する部分がモロに出ている主人公だから、私はこの人が嫌いなんだと思う。

    今まで生きてきた中で「自分とは考え方違うけど理解はできる。この人すきだなぁ。」って人間にはたくさん会ってきたけど、「すげえ共感するけど、そーゆーとこ大嫌い」ってこともあるんだなぁってこの主人公を見る自分を見てそう思った(笑)




    ◆内容(BOOK データベースより)
    液体空気の爆発で受けた顔一面の蛭のようなケロイド瘢痕によって自分の顔を喪失してしまった男…失われた妻の愛をとりもどすために“他人の顔”をプラスチック製の仮面に仕立てて、妻を誘惑する男の自己回復のあがき…。特異な着想の中に執拗なまでに精緻な科学的記載をも交えて、“顔”というものに関わって生きている人間という存在の不安定さ、あいまいさを描く長編。

  • 顔を失くした男の自己回復と、
    他者との交流の窓を回復する目的であったはずの仮面が、
    いつしかただ別の素顔を得るだけになる。

    執拗に繰り返される自問自答と顔に纏わる考察が、
    必死になればなるほど迫害的で妄想的な意味合いを強め、
    ひどく歪んだ自己愛的な主観へと埋没していく様が怖いが、
    それは蛭の巣窟になったからなのか。
    それとも妻が指摘することが真実なのか。

    男とその妻という形式を借りた、
    これまた安部公房が描き続ける普遍的な人間の実存をめぐる物語に仕上がっている。

  • 物語の筋は難しくないしシンプルなのだけど、織り込まれる思想や理屈がなかなか難しく、時間を置いて繰り返し読みたいタイプの小説。そうすることでようやく少しずつ理解が深まるような…。

    実験中の事故で顔一面に蛭のようなケロイドが残り、自分の顔を喪失してしまった男。
    失われた妻の愛を取り戻すために、他人の顔をプラスチック製の仮面に仕立て、それを着けてある計画に乗り出す。

    “顔”というものの重要性を普段は意識しないけれど、人を判別するために顔は最大の要素になる。ということは、身体のあらゆる部位のなかで、いちばんのアイデンティティーの塊が顔だ、とも言える。
    その顔を失ってしまった主人公の男の、もうひとつの顔を得るための行動はとても奇異だし、その後の行為に至るまでの思想もとても極端だ。
    でも、アイデンティティーを喪失した人間の心理は、その本人にしか解らない。奇異なやり方で自分を取り戻すために躍起になっても、おかしくはないのかもしれない。

    事故で顔を失うという物語上の設定はメタファーとも言えて、顔がある普通の人間にも、顔のことで苦しむ心理は一部共通しているのかもしれない。
    顔があっても気に入らず整形を繰り返す人もいるし、分厚い化粧で素顔を隠す人もいる。
    だけど中身は果たしてどうなのか。整形や化粧という“仮面”を着けることで人格にも影響は及ぶだろうけど、本質的な部分はなにも変わらないかもしれない。

    実際的なものだけではなく、嘘とかおべっかとか、そういう仮面も人間は便利に使うし、それ無くしては人と人が触れあう社会のなかで生きていくのも難しい。
    本物の顔の他に、誰しもが仮面を必要とする。

    誰にもばれないような“他人の顔”の仮面を得た場合、それを着けて周りの人の態度が変わったとしたら、その顔に嫉妬したり優越感を得たりするのだろうか。
    興味はあるけれど、恐ろしすぎて試したくはない、と思った。

  • 「他人の顔を付けること」は「他人になる」と同じこと?

    1968年(昭和39年)発行、半世紀以上前の作品。

    液体空気の事故で顔を失った研究所勤めの男が、
    「他人の顔」を作り上げてその顔で妻を誘惑し、
    妻の愛を取り戻そうとする。

    主人公の「ぼく」は、仮面を作るに至ったいきさつ、
    混沌とした迷い、仮面をつけた自分がなにをすべきか
    という決断までノートに手記を書き続け、手記の
    中で妻の「おまえ」に語り掛ける。最後に、その
    手記を妻に読ませる。「ぼく」の浅薄さと悲哀が
    鮮やかに浮かび上がってくる結末に、あっと
    思わされた。

    昭和中期の泥臭い雰囲気がたまらなく良かったです。
    モノクロか初期のカラーテレビの色を感じさせます。

    結末には関係ない箇所ですが、デパートの描写で

    「どこの売り場でもかならず陳列台一つがヨーヨー
    のためにあてられており、そのまわりに子供たちが
    ダニのようにへばりついている。」(P145)

    悪意も嫌悪もなく、デパートにいる子供をダニに
    例えるなんて令和にはありえないのかもしれない。
    文章で昭和中期にタイムトリップできる。



    しかし、さんざんノート3冊逡巡した結果が
    「やっぱり性欲」となったのはちょっと
    ヽ(・ω・)/ズコー でしたよ…、うん。

  • 「素顔も、仮面もない、暗闇のなかで、もう一度よくお互いを確かめあってみたいものだ。ぼくはその闇のなかから聞えてくるに違いない、新しい旋律を信じようと思っている。」

    失くした顔の中心からうまれた宇宙に潜むブラックホールが、すべてをのみこんでゆくよう。日々の虚無感に抵抗しようと試みれば、あっというまにそこに吸いこまれていってしまう。そうして、それが実は、今に至っているのかもしれない。VTuberや、マスクをした歌い手や、SNSももちろんしかり、ひとびとは、顔 をもはや必要としていないみたい。SNS上での攻撃的なやりとりはもはや彼のいう、仮面性における「自由の消費」をそこで存分に愉しんでいるのではないか。それは、人間で在る ということから逃げているようにもおもえてしまう。あるいは、美容整形などをして、ようやく刻まれてきた年月(皺)を無にしてしまったり。そうして彼らは覆面をして徘徊し、みずからを映す鏡のような仮面を探している。
    「想像のなかでは、仮面は自分をさらすものかもしれないが、現実には、自分を隠す不透明な覆いなのだ。」

    そしてこれはきっと男と女とで途中からの印象も変わってきそう。
    ねえ、女を見くびらないでよ?全部わかっていたわ。
    独りよがりの哀れみは、じぶんじしんの仮面から逃れることはできない。愛する人を(隣人を)、その感情に寄り添うことではじめて、その境界線がとけてゆく。
    って、わたしたちが(男と女が)まったくちがう生きものなのだという、そんなことぜんぶきっとわかっているはずの男たちの御託が、なんだかとても愛おしいのだった。




    「愛想の壁でさえぎられて、ぼくはいつも、完全に孤独だった。」

    「美とは、おそらく、破壊されることを拒んでいる、その抵抗感の強さのことなのだろう。」

    「ぼくらの沈黙は、べつに会話を押し出してしまったためにおきた、真空などではなかだたのだ。もともと、どんな会話も、すでに小さくちぎって悲しみにひたした沈黙にすぎなくなってしまっていたのである。」

    「自分を愛することが出来ない者に、どうして仲間を求めたり出来るだろう。」


  • 失踪シリーズに挙げられるが、個人的に安部公房作品でも砂の女と並び傑作。
    顔を失った男の自閉した内省・思考の流れが滑稽で面白い。読んでいくうち主人公と同化し沈み込んでいく引力がある。
    作品世界が非常に狭く、読後は疲労も残り要体力。

  • マスクをしていないと、奇異な目を向けられる昨今において。

    主人公はもはや妄想観念的な執着心でもって仮面を作り出そうとする。

    しかし、この執着心やら孤独感とはどこに源泉があるのだろう。

    顔、なのだろうか。

    P.74『怪物の顔が、孤独を呼び、その孤独が、怪物の心えおつくり出す。』

    こだわりの強さ、情緒交流の乏しさ。
    そこに、恐るべきボディイメージの歪みと疎外感が加わる。

    P.80『流行と呼ばれる、大量生産された今日の符牒だ。そいつはいったい、制服の否定なのか、それも、新しい制服の一種にすぎないのか』

    これは昨今でもまったく同じ現象を容易に思い浮かべられる。量産型女子大生とか男子大生とか、就活スーツ、或いはカジュアルオフィス、クールビズ等々。

    そこに根底に流れる疎外感と自尊心の欠如がさらに妄想分裂的心的態勢へ退行させる。

    P.82『ぼくに必要なのは、蛭の障害を取り除き、他人との通路を回復することなのに、能面の方はむしろ生にむすびつくすべてを拒否しようとして、やっきになっているようでさえある』

    このジレンマはマスクをすることで、他者と交流を試みて、しかしマスクという符牒がなければ交流できないという現在の我々のもどかしさとも重なるようだ。

    次第に、人格が徐々に交代する。
    しかし、これはマスクへ投影された自己像であって、そもそも欲求の投影をはじめから試みていた事もわかる。

    それは妻への攻撃であり、この主人公の性的欲求と攻撃性が未分化な未熟な人格構造の投影でもある。

    この物語が読みにくいのは当然でもある。

    妄想性障害。

    奇妙な数式と論理。訂正不能な認知がこの病理を想起させる。

    もっと詳しく生育歴を調べたいものだが、二重の父性など元来から葛藤深い人格構造のようでもある。

    そして、彼の知能は抽象的思考優位のようでいてその実具体的思考の域を出られていない事も妄想的思考たらしめている。

    数学のような体裁であるが、しかし実際は算数の域を出ていない、というべきだろうか。

    いずれにしても、読みにくく了解不可能な物語である。

    解説(大江健三郎)のアンバランスさ、とはまさに。

  • 安部公房でなければ恐らく手に取らない類の本。
    鬱な内容なんだろうなと訝っていましたが、
    思わぬベクトルに、良い意味でこっぴどく裏切られてしまいました。

    不穏漂う空気、妄想、狂気、独自の仮面哲学でギッチギチな主人公。
    けれど、なんだかんだ足掻きつつも理性に逆らう事ができず、
    妻への想いも、行ったり来たりな思考も、陰鬱でマニアックなひたむきさも、
    読めば読む程、何やらだんだん滑稽な事の様に思えてきてならず、
    一旦その滑稽さにハマるともう何もかもが可笑しくって、たまらなくって。
    勿論、そう易々と可笑しがってばかりもいられぬモチーフに、
    度々ぼんやりと思考を巡らせてしまうのですけれど。

    やっぱりこの感触と読み応えは長編ならではですね。
    ラスト数ページが印象的でした。
    流石。

  • 途中から嫌な予感しかしない。おっさんが空気読めないのは「通路」が壊れてるせいなの?

    顔を醜いケロイドで覆われ、コンプレックスに溺れたおじさんの迷走の記録。ダイエットに取り付かれる自分を見ているような錯覚。

    これまでの積み重ねで得た「社会的に安定した立場」と、突然の事故で押し付けられた「ケロイドに覆われた顔」。私は、前者が主人公の本質の証明で、後者は主人公に付随する、無意味な記号のひとつだと考える。たぶん、多少とも情を持つ人間ならそう考えると思う。主人公を取り巻く妻や研究室の人々もそうだったはず。ここには優しさよりも無関心が働いているのかもしれないけど。

    だけど、本人はそういうわけにはいかない。
    顔に包帯を巻き、そのことで得られる利権を力説し、自分は顔なんかどうとも思っていないこと、「自分を恥じて顔を隠している」わけではないことを全力アピールしなきゃいけなかった。(後々彼が痴漢に走るのも、覆面の利点を証明するためだった気がする)

    それで、「顔なんか気にしてる低俗な奴」てレッテルを周囲の人間に押し付けたかったんだろなぁ。
    髢の一件もそうだけど、自分がくだんないコトに捕われていると思われたくないんだろうな。そういうプライドの高さが、仮面をつけたときの派手な性格に現れてるんだと思う。私自身が見栄っ張りなので。

    能面のくだりで、表情は頭蓋骨の形そのものから来るという考えと、見る側によって変わってしまうのだという考えが交錯する。

    どちらも真実なんだろうけど、主人公は見る側の問題、外見ばかりに捕われているように見える。問題点が自分の中にあることを認めたくないんだろうなぁ。
    だから、「他人との通路を修復する」と大義名分を掲げながら、最も身近な他人、妻への復讐というよく分からない方向へ突進していく。

    そして鼻高々に復讐の顛末を記したノートを作成、妻から呆れられる。
    妻もなくしプライドもずたずたの主人公は、なおも言い訳しながら行動に出る。行動しなかった矮小な自分を捨て、まだ妻に否定されていない「禁止を破っちゃえるワイルドな」痴漢へ…って、結局しょうもないじゃないかw
    しかしおっさんは、しょうもない自分を受け入れるのだった、てオチ、なのかな。またしても、目的が手段に食われてる。

    解説では、妻の手紙は妻が書いたのではないかもしれないと仄めかしているけど、私はなんとなーく、そうは思わない。

    その方がエンターテイメント的だし、最後の場面でも都合がいいとは思うけど(女の足音=妻で実質的な復讐)、それ以外に、妻の手紙が捏造である必要ってないのでは…
    妻の匂いが偽装工作ってのもいやだし、このおっさんには一生しょぼく生きてほしいw

    お話としては惨めなおっさんの言い訳として捕らえたけど、「顔」についての考察、見るものと見られるもの、乗り越えたくなる禁止の柵など、安部作品ではお約束のキーワードはもちろん重要だと思う。
    一回読んだだけじゃ物足りないので、また時間があるときに読み直したい。

  • 最初の方と終盤は特に面白く読めたが、主人公の手記のていなので、ずっとくどくどとひとり語りを聞かされている感じで中盤は結構つらかった。
    『箱男』よりはとっつきやすかった気もするけど、それでも面白さをちゃんと理解するのはまだ私には早かったのかもしれない。

  • 現代(令和)におけるVtuberとかにも応用できる、予見してるなぁとか思った。

    自分の行動の動機や選びとる選択、何に起因し何に向けてるのか、日々の自分を内省せざるをえなかった。

  • ヤマザキマリさんが阿部公房を紹介してたのでよんだ。
    本当は砂の女を読む予定だったけどなかったので。
    文学的な文章は慣れてないので読みづらかったけど、とりあえず読み切ってよかった。
    人の本質は顔だけじゃないという本人だけれど、顔に対してのコンプレックスや偏見を一番感じとっているのが自分でもがいているのが読んでいて痛々しい。
    もし自分だったら、、こんなくどくどと言い訳せず
    整形技術も上がっている時代なので整形するだろう。
    ただ、仮面を作っている過程が具体的でなおかつゾワゾワするような感覚になった。
    また読んでもっと深く理解したいと思った

  • 自分で変身するのと、急に変身するの、どちらが性質が悪い?

  • 顔というテーマを現代日本社会の現象にまで敷衍して論じているのがすごい、が、体力はかなり消費します。
    ストーリーは終わり直前までスローペースで、ひたすらああでもないこうでもないという一人議論が続く。
    名言ばかりで、気付かされることも多く、再読必至

  • 妻の立場だったなら、「顔だけが変わったからって、あなただって気付かない訳ないでしょう」と思う。骨格、肉付き、爪の形、仕草だって、「あなた」だって気付かせるに十分すぎるくらいだと思うから。けれど人って、失われたと思うものに程執着するし、「顔」って常に外界に向けて公開されてしまうものだから、主人公がここまで執着して苦悩してしまうのも無理がないし私もそうなると思う。妻も主人公の悲しみ苛立ちを受け止めようと、また一部道徳的な自己戒律から仮面をかぶって暮らしていたんだと思う。その全てが見えなくなるほどに苦しんだ主人公を非難はできないけれど、妻からすれば、私の気持ちをくもうともせず自分のことばかり憐れんで、侮蔑的な目で私のことを観て勝手に粗ぶって付き合いきれないし次は何しでかすかわからない怖い。。と思うのも当然…。苦悩が性格をゆがめて、覆面効果が暴力性を強化し、怪物みたいだと嫌った見た目にふさわしい心と行動を作り出してしまったのかなぁ。心理学的に考察された論文がありそうだから、そんなのも読んでみたい。

  • 顔を作る工程の医学的SF。手記という形式の文学的比喩表現の応酬による渦巻くドロドロとした心情の描写。「おまえ」の予想外の態度。どこに到達するかわからないストーリー。良い意味で読み疲れるタイプの小説だった。

  • 難しいけど、なんかこの世界観が癖になる安部公房3作目。
    人にとって顔とはなんだろうか。確かにアイデンティティの大きい部分を占めるには違いないけれど。
    最後の「愛の片側」の引用がとても印象的。
    主人公の男は面倒くさくて、現実世界では絶対近づきたくない。

  • 圧倒的な筆力。全てが詩のようだ。美醜の奥へ奥へ掘り進めていく。

  • 『人は見た目が9割』なる新書が、かつてブームになったことがあった(不肖ながら、私は未読だが)。「9割」という数字に対しては各方面から批判を浴びたようである。だがそれでも、外見がその人の印象を決める大きな要素であるということは、認めざるをえないだろう。

    主人公は「顔」を亡くした男だ。「顔」の喪失は、いうまでもなく、外見の大きな変容となる。ましてや、「顔」である。他者からみた「顔無し」の印象はいかばかりのものか?

    人間がコミュニケーションをとるうえで、顔の存在は大きいようだ。「目は口ほどにモノを言う」ともいう。つまり、目のわずかな動きが感情を表す(相手が読み取る)のである。ムスクルス・ツィゴマティクス・ミノールを両側に引っ張ると、笑うことはできても微笑めない(『壁 第二部 バベルの塔の狸』参照)。このように、細やかな変化でさえ、他者への影響は大きく変わる。それが顔によるコミュニケーションだ。

    「顔」がなくなれば、こういった細やかなコミュニケーションはとれなくなる。孤立化は必至だ。

    ならば、「顔」を再生させれば、再び正常なコミュニケーションがとれるようになるのだろうか?

    この思考実験を実証するために、男は「顔」を再生させた。ただし「他人の顔」で。つまり、「顔無し」のコミュニケーション不可能性と「仮面」のコミュニケーション可能性をまとめて実証しようとしたのだ。

    では、実験方法は?――不倫である。「仮面」男が「顔無し」男の妻を寝取る。「仮面」男が妻をモノにできれば、実証成功だ。「顔無し」はご退場願うおう。むろん、そう容易く割り切れるものではない。なぜなら、実際は、寝取りと寝取られが同一人物なのだから。つまり、この実験はそれ自体が男の嫉妬を掻き立てるものなのだ。なんともいびつな三角関係だ。


    実験の結果はどうなったのだろうか…?

    そう、男は完全に勘違いしていたのだった…。

  • 他人の顔を借りて生きる。その本能的な喜びと悲しみこそが人間が核あるべきかを炙り出す。

  • 思弁的かつ実践的な葛藤が描かれていて難しかった。手記という体裁(読者=妻にたいし“おまえ”)で、欄外の注や末尾の追記など小説という枷からも外していくような印象をもった。顔認証やVR(顔を覆うデバイス)も登場した現在、主人公の仮面に対する懸念も現実味をおびてきた。

  • いろいろ経験してから読むのとでは、小説も顔を変えて、若い頃に読んだドキドキは感じなくて、自分が現実的に生きていることが寂しかった。
    物語も自分も視界は狭まり息苦しくて切ない。

  • 人はみな他人の顔を求めるものだと思う。 SNSで友人を作るのが当たり前になっている現代は、出版された時代と比べてもかなり「自分とは別の顔」が普及した世の中になっている。
    のみならず、コスプレやメタバース、ゲームのアバターなど「自分以外の自分」で自己表現ができる機会は多い。
    化粧や整形の普及もあって、顔がもたらすアイコン的特性自体も強くなったかなとも思う。

    本書の主人公は、他人の感情などまるで見ていない。妻・同僚の感情や思いやりに無頓着で、被害者意識で利己的な屁理屈と哲学をこねながら延々と同じ場所をぐるぐる回っている。結果として仮面と自己の同一性は歪み、現実との通気口となるはずの仮面は現実逃避の道具となってしまう。
    現実の抑圧を発散するためにSNSで認証欲求を満たすのも大概にしておけと、60年前には既に予告されていたのかもしれない。
    他者の存在なくして自己はあり得ない。他者の存在を無視した仮面もまた空疎なものに成り果ててしまう。

  • 中野スイートレイン で ベースの吉野さんとサックスませひろこさんと馬場さんが演奏した曲 映画の挿入歌ということで 原作を読んでみた。
    想像以上に面白い作品 私は奥さんは一目で見抜いていたと思った。
    附箋
    ・思考を一時中断させようと思うときには、刺戟的なジャズ、跳躍のバネを与えたいときには、思弁的なバルトーク、自在感を得たいときには、ベートーベンの弦楽四重奏曲、一点に集中させたいときには、螺旋運動的なモーツァルト、そしてバッハは、なによりも精神の均衡を必要とするときである。←これも結局聴き手本人の気持ちの持ちようなのかもしれない
    ・姉の髢 →「髪を結ったり垂らしたりする場合に地毛の足りない部分を補うための添え髪・義髪のこと。
    この主人公 何をしでかしたのだろうか まさか人を殺めたりしないよね

  • 安部公房、よく分かんない。

  • 顔という不確かなものを科学者らしく科学的に分析し、再現するとともに、顔の本質について思索を深めていく過程が多様な比喩表現で描かれ興味深く読める。
    だからこそ、最後の妻の手紙によって、主人公のこれまでの行動が全て無に帰されるところは読んでいるこちらまで顔が熱くなってしまった。

    人間関係一般に一貫した法則性を見出そうとする試み自体が無理のあるものなのに、主人公はそれに気づかない。
    主人公は顔に価値を置くことを無意味と言いつつ、周囲の人間がそれを認めないからという理由で仮面を作る。しかし本当は主人公自身が自分の醜い顔を認められないのである。 

  • 顔を失った男のあがき。
    精巧な仮面で手に入れた他人の顔。
    心の平静を求めた外見への追及はむしろ、
    男の孤独と剥き出しになった心をつまびらかにする。
    安部公房の独特の比喩表現がたっぷりで、どこまでもひたすらに暗い作品。

  • 安部公房の、昭和39年に刊行された長編小説。
    フランスでも高い評価を得た作品で、
    日本では映画化もされているそう。

    顔に蛭が蠢くような醜いケロイドを負ってしまい
    "顔"を失った男が、
    妻の愛を取り戻すために仮面を仕立てるという
    ストーリー。

    科学者である主人公が研究を重ねて
    "他人の顔"である仮面を作り上げていく過程が
    とても興味深く、面白い。

    またその中で彼が自身に問い続ける
    "顔"というものの意味、概念について
    深く深く考えさせられる。

  • 妻の手紙が秀逸。古女房は、もはや母親であり、母親は出来の悪い息子のやってることは、何でもお見通しなのだ。

    全体としては、主人公の延々と続く泣き言、嫉妬、妄想にうんざりしながら何故か読み続けてしまう。読み続けるうちに、不意に気づく。彼のように思考の渦に巻き込まれて、混沌として、訳の分からないことをしてしまう。そんな人、存外ありふれているのではないだろうか。

  • 言葉にできない…

    大江健三郎さんの解説が秀逸

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著者プロフィール

安部公房
大正十三(一九二四)年、東京に生まれる。少年期を旧満州の奉天(現在の藩陽)で過ごす。昭和二十三(一九四八)年、東京大学医学部卒業。同二十六年『壁』で芥川賞受賞。『砂の女』で読売文学賞、戯曲『友達』で谷崎賞受賞。その他の主著に『燃えつきた地図』『内なる辺境』『箱男』『方舟さくら丸』など。平成五(一九九三)年没。

「2019年 『内なる辺境/都市への回路』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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