方舟さくら丸 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (386ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101121222

感想・レビュー・書評

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  • ナショナリズムについて書かれた小説

    同じ思想を持つ仲間を選び抜くというのは、違う思想の人々を排除することでもある。

    ノアの方舟から着想、さくらは日本の象徴である。

    小説に登場するユープケッチャという昆虫は、他者と一切の接触をせず生きる閉じた虫であるが、人間は完全に閉じることはできない。

    ※ユープケッチャは船底のような腹を支点に回転しながら、自分自身の糞を食べると同時に糞をし続け生きる。日中は頭が常に太陽の方向を向き夜になると眠り、時計虫とも呼ばれる。

  • ページをめくる手が重くてしんどかったけど、なんとか読了。読み終わってみると、あれこれと気になってくる。
    外見にコンプレックスを持つひきこもりの排他性、選民思想、強がり。
    75歳以上の老人たちの中学生狩りは若さへの嫉妬か。
    なんでも流せる便器の象徴的な意味と、自らがそれに囚われてしまったことの意味。
    突然やってくる終幕と、抜け出した後にある透明すぎる世界は、希望でも絶望感でもないのか。

  • 高校生以来の安部公房。 内容よりもまず、文体と構成、言葉選びがかっこよすぎる。「物語」としての強度は言わずもがな、その独自の「形式」の圧倒的なセンス。ラインを引きながら読んでいたのだけれど、引く箇所があり過ぎた。 特に後半にかけてのスピード感と陶酔感、そして虚無感が素晴らしい。全編に散りばめられたブラック通り越した底が見えない、あの便器のように暗い黒いユーモア。

    閉ざされた巨大空間、方舟、=王国。自らの「排他性」を他者の介入により自覚していく主人公=モグラ。外の世界では「棄民」とされ、またそれを自覚して強度を増す「ほうき隊」と呼ばれる老人男性集団の躁状態。
    「統治」する快感と「統治」される快感。何も考えなくていい、という、平和。
    現実から目を逸らして、死なないように生きる事は悪?
    「信じていられれば、そのほうが幸せなのかもしれない。」
    最後まで、「女」としか記述がないまま閉じていく女。 「女性性」の扱いもかなりグロテスクで悲惨に思った。
    「女は女で、それ以上区別する必要なんかないと思ってるんだ。」
    名前のない女の言葉。ほうき隊には婆さんはいない。戦争が好きなのは男ばかり。女子中学生を雌餓鬼と呼ぶほうき隊の副官。

    めちゃくちゃに面白くて、最後、先述したが虚無感が半端なく。心して読むべし。

  • 地下採石場跡の巨大な洞窟に、核シェルターの設備を造り上げた〈ぼく〉。「生きのびるための切符」を手に入れた三人の男女と〈ぼく〉との奇妙な共同生活が始まった。だが、洞窟に侵入者が現れた時、〈ぼく〉の計画は崩れ始める。その上、便器に片足を吸い込まれ、身動きがとれなくなってしまった〈ぼく〉は―。核時代の方舟に乗ることができる者は、誰と誰なのか?現代文学の金字塔。
    「BOOK」データベースより

    裏表紙のあらすじから面白すぎた。その期待を裏切らない中身だった。

  • 安部公房 「 方舟さくら丸 」核シェルターを舞台とした近未来小説。

    仕掛け(著者が提示したアイテム)が多いので、いろいろな捉え方ができる

    著者にとって 人間の在るべき姿は、定着せず 移動し変化することであり、生きのびることより、最後まで 生の希望を持ち続けることであるというメッセージを感じた

    近未来への警鐘的なテーマ
    *自分の糞を餌として 移動せず 生きる虫(ユープケッチャ)と 便器にしゃがんだまま 旅を妄想する主人公を同一視している
    *核兵器や便器を リセットボタンのように描いているが、リセットされても悲観的な人間像しか出していない
    *生きのびるための切符配りやオリンピックの国家の出しゃばり具合にファシズムやナショナリズムを感じる


    著者は 最後に 人間や街を「生き生きと死んでいる」と表現し、現実感のなさを 悲観したように思う


  • こんなに不気味な喜劇があるのか

    起こっていることを羅列するならばひどく喜劇的、あるいは滑稽である
    しかし、どのエピソードも言葉では説明し難い不気味さを有している

    ひたすら現実逃避し続けている”もぐら”
    しかし、本人にとってはそれこそが現実であるという奇妙なコントラスト

    そして、ひどく世俗的な理由から方舟に乗り込む3人

    さらに、もぐらと一方では類似的な、”ほうき隊”の登場

    僕たちはただ、大きな物語の中で生きているだけなのかもしれない

    さらには選民と棄民のアイディアも秀逸

  • 安部公房で初めて読んだのが『砂の女』で、これが話が進まないのでとても読むのがしんどく、重い雰囲気に(そんな情景を作り出した氏が凄いからなんだけど)耐えながら読み終えたのだが、2作目に手を出した本作が全く違う雰囲気なのに驚かされるばかり。何より読みやすく、ブラックユーモアだらけなのに、こんな作家だったんだ、とびっくり。まず目次から不思議な匂いがぷんぷん。その章を読んだらなるほどと納得するが、目次だけ見ても全く何のことかわからないという奇才っぷり。
    起承転結に当てはめるとどこが転なのだろう、と読んでる途中で考えたのだが、ちょうど半分を過ぎた頃から転がいくつもあって、二転三転話がどんどん進んでいく。

    私はいつもあとがきを本文を読む前か序盤の途中で読むことが多いが、本作に関してはあとがきでこれから起こる意外な展開が一部わかってしまうので、読み終えてからあとがきを読むことをおすすめする。

  • 体型にコンプレックスのある男・自称モグラ(豚と呼ばれるとキレる)は、かつて採掘場だった場所の坑道を利用して「方舟(=核シェルター)」を一人でコツコツと造っている。方舟の乗組員を選ぶため、ぶらりとでかけたデパートの屋上の露店で彼は「昆虫屋」から「ユープケッチャ」という奇妙な虫を買う。自分の糞を食べて自給自足する足のない虫。なりゆきでその昆虫屋と、露店のサクラをしていた男と女を方舟に乗船させるはめになってしまったモグラ船長。しかし彼の方舟には侵入者がいて・・・

    公房らしい一種のドタバタ喜劇。善人でもないが悪人でもない主人公がなぜか負のスパイラルにはまり抜け出せなくなる経過は、笑えるけれど物悲しいし、とりあえず気の毒。モグラの方舟はつまり子供の頃に誰しも憧れた「秘密基地」で、その秘密の隠れ家を教えるのは信頼できる友達だけにしたいのだけど、これがノビ太くんならつまり、しずかちゃんだけを招待したいのにジャイアンとスネ夫もついてきちゃったみたいな状況の残念感、さらに自分だけの秘密基地だと思っていた場所が実はそうじゃなかったガッカリ感、あげく終盤はずっと片足をトイレに突っ込んだまま身動きできなくなるし、彼の「持ってなさ」加減につくづく同情。そもそもタイトル「さくら丸」だしね。もぐら丸じゃない時点でもう、ある意味オチが暗示されてるっていう(苦笑)

    かつてノストラダムスの予言が流行ったのは、たぶん多くの人間に終末願望のようなものがあったからだと思う。生き延びたい、という願望よりも、全部終わってしまえばいい、という破滅的な諦観。仕事や学校、煩わしい人間関係、自分自身の劣等感、そういう全部から解放されるならいっそ楽じゃない?という心理。逆にもし生き延びるなら、嫌いなヤツはみんな死んじゃって、自分のお気に入りの人間だけを選んで残して、それが可能ならむしろそこはユートピアじゃない?という身勝手な夢想もある。モグラのはこれ。いっそ終末=核戦争でも起きれば、デブでモテない自分、父親に虐待されたコンプレックスまみれの自分を全部リセットできるんじゃないかという希望。一方でサクラのように、借金取りに追われる外の世界からいっそ隔絶されたほうが幸せだという考え方もある。自給自足のユープケッチャが象徴する閉じられた世界。

    方舟を侵犯してくる「そうじ隊」の老人たちは醜悪で気持ち悪かった。女子中学生を「雌餓鬼」と呼び「狩り」、性的玩弄物にすることしか考えていない彼らは、生き延びたいというよりは死ぬ前に好き勝手なことをしたいだけにしか思えない。彼らよりモグラはマシだけれど、非モテ人生を送ってきた彼はとにかく目の前の「女」に触ったり気に入られたりしようとして必死すぎて、それはそれで憐みを誘う。大それた方舟を建設しようとした彼の根っこはただ結局「女にモテたい」だけだったのかもしれない。虚しい。

  • 醜い外見をもつ主人公は来るべき核戦争に備えて石の採掘場跡を改造した方舟を作り、乗組員を探している。百貨店の催事で見つけたユープケッチャなる昆虫(自らの糞を食べることで自己完結できる)を購入したあと、昆虫屋に乗船チケットを渡すが、男女二人組のサクラにチケットを奪われてしまい...。あとは読みすすめていくことをお勧めする。因みに、日本で初めてワープロで執筆された小説らしい。
    途中で出てくる女子中学生の下りあたりは随分唐突に感じた。掘り下げ方が足りないような。女子中学生獲得に躍起になる老人達は非常に滑稽。何処かふわふわした流れのなかで、ここだけが非常に人間くさい。主人公が女に触れて喜んでいたり、恐る恐る距離を詰めていこうとするあたりの心理描写は非常に上手。自己完結するユープケッチャは恐らく方舟の比喩なんだろうが、足などの器官が退化しているのに生殖は出来ないのでは?
    作中に出てくるホコリ取りの機械のほか、ギミックは非常に凝っている。理系作家だよなぁ。

  • この本を読んで、映画CUBEを思い出した。CUBEの製作は1997年で、1984年に出版されたこの本とは互いに何の関係もないのはわかっているけど。

    空間に閉じ込められた数人が、自分たちで予兆しえない事件や出来事に巻き込まれ、時間が進むにつれて当初の心理が微妙に壊れてゆき、その壊れる様子を追うという点では共通している。一般的に「不条理」とも括られそうな両者。非現実的な設定もさることながら、理解不能な状況の延々とした描写、そして「えっ!」って感嘆符と疑問符を幾つも付けたくなるようなラスト…
    これは好き嫌いがはっきり分かれるだろうし、正直言ってレビューは書きづらい。力点を置く場所を見つけにくいから。しかし知的好奇心はくすぐられる。だから自分の空想力を思いっきり駆使して、この本のもつ「本当の面白さ」は何かを、紙を火にかざしてあぶり出しで書かれたものを読むような作業を自分に課すしかない。

    この本の主人公は、核戦争による世界の終末を予測し採掘跡の広大な洞窟に武装してひとり立てこもりカウントダウンを待つ。ひとつ思ったのは、この本を現代言われるところの「引きこもり」の人が読めば、どういう感想を抱くか、ってこと。だって、自分だけの世界の構築、自己の肥大化、自分の容姿へのコンプレックス、他人に対する資格審査、選民思考、あげれば引きこもりに通じるキーワードはいくらでも出てくる。
    でも、安部公房は後に社会問題化する引きこもりの人を描きたかったのだろうか?私はむしろ逆で、世間一般の人共通の精神的属性を、安部はすべて引きこもり的なものに集約させようとしていると思う。

    結末で洞窟から外へ出た主人公が平和な日常を過ごす街全体やそこに住む人全体を改めて凝視し、死んでいると感じたという描写は、私たち誰もが宿命的に背負わされている疎外感を表現したかったのではないか。すなわち、引きこもって我が道を行く人生を送るのも、社会に出て日の光を浴びて暮らすのも、どちらも孤独だってこと。

    そうすると、現代の「社会的排除」という言葉で表されるような、自分が望む望まないにかかわらず社会にいながら外界との接触がほとんどない人が現実的な存在として表面化したのは、そういう点で見れば不思議ではない。

    CUBEは設定の妙から人間社会の不合理性をとことん突き詰めた形で一本の作品に結実させているが、この本はその不合理性を咀嚼したうえで、人が生きるうえでの孤立性を浮き彫りにしようとする意図を感じる。つまり、別に核戦争や自然災害を待つまでもなく、人はある意味孤独で、生きるうえで寂寥感を避けえないってこと。

    その現実を受け入れ、「絆(きずな)」なんて言葉を安っぽく使わずに、寂寥感や排除とどう折り合いをつけ孤独に打ち勝てばいいのか。同じところを時計みたいにぐるぐる回りつづけ自分の糞を餌に生息する昆虫“ユープケッチャ”を登場させ期待をもたせるものの、現代病とも言える孤独や疎外感を解消する具体的な手法までは書かれていないので、星1つを減じたい。
    (2013/1/2)

著者プロフィール

安部公房
大正十三(一九二四)年、東京に生まれる。少年期を旧満州の奉天(現在の藩陽)で過ごす。昭和二十三(一九四八)年、東京大学医学部卒業。同二十六年『壁』で芥川賞受賞。『砂の女』で読売文学賞、戯曲『友達』で谷崎賞受賞。その他の主著に『燃えつきた地図』『内なる辺境』『箱男』『方舟さくら丸』など。平成五(一九九三)年没。

「2019年 『内なる辺境/都市への回路』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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