留学 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101123035

感想・レビュー・書評

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  • 三章仕立てですが、前半部を工藤と荒木トマスの類似、後半部を田中とサド侯爵の対比として読みました。

    作中人物たちの葛藤が解消不可能であるだけに、バッドエンドであろうとわかっていながら、それでも救われてほしいという願いを込め、頁をめくりつづけました。「虚無に祈るような」と形容すれば良いのでしょうか、読者にこうした姿勢をとらせるのは、遠藤周作の作品に特徴的であるように思えます。

    さらにいえば、この姿勢に、作中人物、あるいは作者自身が異教ーつまりはキリスト教、あえてここでは「異教」と記しますがーの洗礼を受けながら、自らの信仰と対峙しており、自分自身が祈る先には、偽りを隠せない信仰の前には、何者も存在しないのだということを半ば悟りながら、それでも何かはわからない、地に足のつかないものに救いを求め、いつまでたっても誰からも「よそ者」となってしまう姿が、オーバーラップしているようにも思えます。

    「留学」と聞けば、一般的に華やかなイメージが想起されます。実際、作中人物も「留学」を目の当たりににするまで、それにあらゆる希望を見出していました。しかし、現実はどうでしょうか。作者は実体験を下地に、その偽らざる姿を描き、また問います。留学とは、かくも人を疲労の底へ、ゆっくりと、しかし確実に引きずり落とすのだと。それは一体いかなる理由からでしょうか。

    工藤、荒木トマス、田中は、一見するところ、いずれも西洋に留学をしたという共通点以外は無縁といえます。生きる時代も、留学をした年齢も、留学目的も異なる。けれども、彼らは同じ結論に至っています。それはつまり、西洋と彼らの間にはいかなる紐帯もないということ。そこに影を落とすのは、永遠の暗闇であり、救いの光が照らすことはないのです。

    彼らが根無し草であるのは、その土地やその文化に対してというだけでなく、彼ら自身の信条に対しても同様であり、意図してか意図せずしてか、ある種宿命的に、異教信仰や外国文学研究が今や彼らの自己同一性を担保する重大要素であるがために、この疎外感は尚一層深刻なのであり、そのために彼らの身は削られていくのです。(「宿命」は、作者の作品を解釈するキーワードとなりそうです。)

    この作品は絶対的なバッドエンドのようにも思えますが、田中は大体このようなこともいいます。日本人がサドを研究する必然性はなくとも、サド所縁の地に赴けば、その地を舐めまわしたい衝動に駆られる。これだけは確かであり、またサドの屋敷に残る赤色の塗料をみて、こうも思うのです。

    「しかし、俺に、この消すことのできぬ朱色はあるだろうか。決して亡びることのない朱の一点がほしい」。

    彼は絶望しながら、やはりこうして希望するのです。

    サドの城を前にして、男がひとり。降りしきる真っ白な雪の一点を溶かす、真っ赤な血。トロカデロをまわる向坂の横顔とともに、非常に印象に残った情景です。

    (向坂は、「我々は別の血液型の人から血はもらえない」といっています。田中が日本に残した息子を恋しく思っても、妻のことを忘れてしまうように、「血」もまた、作者の中心課題であるようです。)

    理解というのは、理解可能なことを理解するという意味ではないはずです。それはもう理解されたものであり、理解の対象とはなりません。まったく異質なもの、理解不可能なものを理解してこそ、理解となるならば、読者もまた、作者とともに祈るでしょう。彼らがどんなに無様であっても、その血が「朱の一点」であったら、と。


  • 当時の留学の苦悩と孤独感が苦しく、重い。
    この救いの無さ、読後虚脱感の最高峰は『侍』だと思うが、他の名作の影に隠れた良い作品だと思う。

  • 経験しているからなのかな、人の葛藤を描くのが上手いなあと思いました。昇進に悩む社会人とか勉学に励む学生とか、共感できる方は多いのではないかと思った。

  • 「選ぶということがすべてを決定するのではない。人生におけるすべての人間関係と同じように、我々は自分が選んだ者によって苦しまされたり、相手との対立で自分を少しずつ発見していくものだ。」

  • フランスに留学した人物を主人公とした作品三編で構成されています。

    第一章は、キリスト教文学について学ぶためにフランスにやってきた工藤という青年が主人公の短編です。彼は、日本でのキリスト教布教の希望を疑うことがなく、日本についての想像力を欠いた善意を示すフランスの敬虔な信者たちに、理解されることのない徒労を感じます。

    第二章は、17世紀にヨーロッパにわたり、日本での布教活動を託された荒木トマスという人物をめぐる短編です。著者は、信仰を捨て去ったことでキリスト教の立場においては顧みられることのなかったこの人物にスポット・ライトをあてて、日本に帰国した彼がいったいどのような悩みに直面したのかということについて想像力を働かせています。

    第三章は、サドの研究のためにパリにやってきた、大学講師の田中が主人公の長編小説です。彼は、サドの研究者であるルビイから、「なぜ東洋人のあんたが、サドを勉強するのかわからん」という問いを投げかけられ、研究者にとって外国文学がいったいどのような意味をもつのだろうかという悩みにとりつかれます。さらに、後輩の研究者である菅沼が彼を追ってフランスにやってきたことで、みずからの出世の道が閉ざされたことを知り、パリの日本人仲間たちとのかかわりを避けつづけたことで、彼の運命はますます暗い方向へと向かっていくことになります。

    キリスト教を中心とするヨーロッパ文化を学ぶ日本人が、彼我の文化のちがいに直面して思い悩むようすが一貫してえがかれており、このテーマについての著者の持続的な関心のありかがうかがえるように思います。

  • 由三篇不同時代的留學所構成。第三篇大學講師外國文學者田中來到巴黎留學。一開始感受到的不被尊重的屈辱感(在機場時風呂敷被亂丟,看起來貧弱又骯髒)、身為佛文科講師卻依然有無法充份用佛語表達所想的窘境、自己獨居在普魯斯特逝去的旅館手洗自己的衣物,忍受著巴黎沉悶的冬季,這些都是無法跟國內的人坦白的。在國內他可是被學生包圍的佛文講師,為了鍍金而出來留學,大家也簇擁歡送他出國。但在異國(他好幾次都想讓別人知道他是大學講師),他什麼都不是,單純就是一介異鄉人。而西歐用石頭堆砌起的強大文明,更是讓他不斷意識到這是一個怎麼努力都無法同化的鴻溝。比他更早入住旅館的建築家向坂,也是努力面對西歐文明,最終卻被壓垮的一分子,努力用短短的兩年面對人家數千年的文明,就只會被輾得粉身碎骨(但住得久也未必就是更在行,這也是一個諷刺,例如藤堂的佛語十分悲劇)。向坂最終壯志未成染上肺結核,田中送他到醫院時他一路拼命地看著窗外的風景想印在眼簾,讀起來十分哀愁,最後他當然就是只能回日本養病。

    而田中則是來到這裡在蒙帕拿斯咖啡館先與日本人社群吵架,身為外國學者的他明知這個無法跨越的鴻溝又必須研究,而研究薩德只因為單純的功利主義,因為這個領域目前日本沒有人研究,而畫家真鍋就指出這些外國文學者只是一群不會產出的九官鳥,拿別人的作品彷彿是自己寫的一般神氣,只不過是用他人的兜擋布在相撲而已。真鍋也是被壓垮的之一,在這裡看到的一流只會讓二流感到絕望,而拖著殘破的自尊心留在這裡他覺得只會更悲慘,所以真鍋回國了。而前日銀精英為了與佛人結婚而留在巴黎三十年的小原卑屈地繞著巴黎的日本人社群只為了想講故國的話題、留在巴黎12年的畫家藤堂則是自尊心不能容許回國但也不能正視自己畫作的低劣,只能無限膨脹自尊心,厚著臉皮逼人幫他介紹日本裝禎的工作,然後對回國後平步青雲的那些人充滿忌妒與不屑。

    回到田中,在咖啡館吵架就是一個不佳的起步,從此也被排擠在日本人社群(其中包含同業小野)外,而他的後輩菅沼居然也來了,引起他的忌妒心與警戒,這裡的生活也讓他漸漸扭曲到成為一個陰險老人般面對菅沼地問候都是一一帶刺,一開始雖然有"我比你早來"那種優越感不斷刻意以這種感受來搓揉出兩者間的力學關係,但菅沼轉知田中似乎被流放到外系去當佛語主任的消息,也讓他無法繼續裝鷹揚的態度,拒絕再與菅沼聯繫,因此更加孤立,每天往返於學校及圖書館。

    田中去拜訪薩德的研究家,本來盤算會受到歡迎,但實際上只是遭到對方的無視與不屑(送風呂敷那段實在太悲慘),而對方也是因為文壇的忽視滿腹苦水不斷地攻擊西蒙波娃,並詢問田中:你一個外國人為什麼做薩德?田中這樣一個小心翼翼的人,連買春都擔心性病沒有勇氣,除了太太以外也只握過一個女學生的手,面對外國文明只感到被壓倒的絕望和水土不服,卻振振有詞煞有其事地寫著薩德對基督教文明的反抗云云,讓他也覺得很心虛。然而就算如此他還是拼命地四處拜訪薩德的足跡,前往凡森監獄,前往馬賽,前往薩德領地ラ・コスト城尋找一點薩德的影子。第一次到了城前(為了逃避和菅沼見面而急忙於冬天出行)卻因大雪折返,第二次(之後要看X光結果感到很不安)在里昂遇到女學生當導遊有了一點酸甜的回憶,然而在ラ・コスト城卻嘔吐出了鮮血。因此田中領悟到自己的命運就是跟向坂一樣,面對這個跨越不了的異質文明,他也成為了犧牲品。菅沼來看他,留學生活非常充實還承接國內出版社編輯外國文學大系的翻譯案,與日本人社群也融合甚切,甚至回國要娶田中握過手而念念不忘的女學生。田中則是跟向坂一樣準備之後要回國養病,而他的房間馬上就要有剛來留學的日本人進住,一如田中到達的那個夜晚。爾,亦復如是。
    --
    「あなただけじゃないですよ。巴里にいると心身の疲れや、色々な人間関係のウルサさのために...妙に神経が刺々しくなるもんです。その上、外国にくると日本人同士には御殿女中のような職業的な競争心や嫉妬心が起きるのも、特徴ですよ。一番いやなのは、巴里の日本人のこの御殿女中的な競争心という奴だ。だから僕は、一人で生活することにしたんです」(向坂)
    「しかし、留学生活というもんは疲れるんだねえ。こんなに疲れるもんだとは日本にいた時思わなかったが」向坂はまた自嘲するように苦笑して「疲れるのも当たり前だ。二千年間のあいだにこの国が作り上げた文化を、たかが一年間二年間で吸い取ろうと言うんだから。それがもともと不可能だと知りながら、何一つ見落すまい、見逃すまいと毎日神経を弓弦のようにピンと張ってなくちゃならないんだし...田中さん。この病気は結局、この国との闘いでの敗れた憐れな結末ですよ」「二十世紀かかって作り上げたものを二年間で見ようとなさったから、いけないですよ」「そんなことは分かってますよ。しかし、何時か、言ったでしょう。この国に来る日本人には三種類あるって。この石畳みの重さを無視する奴とその重みを小器用に猿まねする者と、それから、そんな器用さがないために、僕みたいに轟沈してしまう人間と....」
    「田中さん。こんな詰まらん小さな美術館一つに入っても、僕ら留学生はすぐに長い世紀に渡るヨーロッパの大河に立たされてしまうんだ。僕は多くの日本人留学生のように、河の一部分だけをコソ泥のように盗んでそれを自分の才能で模倣する建築家になりたくなかっただけです。河そのものの本質と日本人の自分との対決させなければ、この国に来た意味がなくなってしまうと思ったんだ。田中さん。あんたならどうします。河を無視して帰国しますか。あんたも河を無視しないで、毎日、この国で生活すると言いたいでしょう。でもそりゃあ辛い留学生活だよ。さっき、あんだが思わず口に出たあの息苦しい重さに、今日も、明日も耐えなくちゃならないんだ。挙句の果てが、僕のように肺病になる。河に入るために、留学生は何かを支払わねばならないんだ。」
    「.(談兩個文明中雕刻也有相似性,例如中宮寺的彌勒菩薩與達文西的聖安娜表情等等)..私は心弱くなった時、こうした日本と西洋との相似た形相を心に思い浮かべ、巨大な熔岩の河などは、実際ありはしないのだと思おうとしました。その方は気が楽だからです。そんなものがなければ、自分はあの安ホテルであなたが来るまで一人ぽっちで、誰にも会わず二年間生活する必要もなかったでしょう、しかし、あのホテルで私が知ったことは結局、シャルトルの寺院と法隆寺との間の越えがたい距離であり、聖アンナ像と弥勒菩薩との間にはどうにもならぬ隔たりのあるということだけでした。外形はほとんど同じでもそれを創りだしたものの血液は、同じ型の血ではなかった。このくるしい事実に、私は二年間、毎日毎日生活したのです。なんだ。それだけのことかと人は言うでしょう。しかし、本を読むことと、それを生きることは別です。私はとも角、留学中それだけのことに生きたんです。我々は別の血液型の人から血はもらえない。私はそんな詰まらぬことをあの巴里の冬の夜、一人ぽっちで考えていたんです....」
    --
    「一年や二年の留学で、日本人と仏蘭西人との本質の違いがわかるものか、向坂君はそういう考え方が嫌じゃなかったんですか」「ご挨拶だな、これは。一年や二年の留学か。しかし十年、二十年、住めばこの国の文化の実態が掴めるというのも錯覚じゃないかな」
    「なぜ、こういう連中(小原、藤堂)がみすぼらしい姿になったか、考えたことありますか。彼らはこの国にでまあ、一流品に接するわけだ。何十年に一人という天才が作った一流の絵や彫刻を巴里じゃこの目でみることができる。それらは彼等を刺激するが、やがって少しずつ不毛にさせるんだね..(中略)..巴里というのは俺の短い滞在でも自分がどの程度の才能があるかを残酷なほど見せつけてくれる街だよ。自分の才能の限界や運命がここに来てわからぬくらいなら、それは鈍感という奴だ。そんな鈍感な連中がモンパルナスやモンマルトルにうようよいるよ。だがね。こいつらはやがて復讐をうけるんだ。二流のくせに一流の生き方をしようとした復讐をうけるんだ。」.(中略)..「向坂君も療養のために日本に戻るだろう。やがて病気が直れば、彼は日本で建築の仕事をするだろう、彼は日本でここの芸術家から見れば堕落した生活を送るかもしれ、日本で一流となっても、なるほど巴里のそれに比べれば三流の作品しか創れぬかもしれん。しかし、ここで自分の才能を過信してみじめに果てるのと、三流でも三流なりに自分の才能をともかく生かしたと、どちらが幸福かなあ」「しかし、一つの寂しさが生涯、向坂君につきまといますよ」「当然じゃないか。甘ったれたことを言うな。三流の者は自分が一流ではない寂しさを生涯もたねばならぬ。それは当然の事じゃないか」(真鍋)

  • 留学の苦しみ。理想と現実との葛藤。

    向坂の以下の発言が胸に刺さる。
    「ぼくら留学生はすぐに長い世紀に亙るヨーロッパの大河の中に立たされてしまうんだ。ぼくは多くの日本人留学生のように、河の一部分だけをコソ泥のように盗んでそれを自分の才能で模倣する建築家になりたくなかっただけなんです。河そのものの本質と日本人の自分とを対決させなければ、この国に来た意味がなくなってしまうと思ったんだ。田中さん。あんたはどうします。河を無視して帰国しますか。」

  • 重く長い。
    工藤も田中も遠藤周作自身なのだなと思った。
    彼らの中には必ず劣等感があり、その部分こそが私たちを同じ人間なのだと狂わせる。
    誰も同じなわけないのに。
    我々はいつどこの場所に生きても、思い悩み、一点の消えない朱色を追い求めるんだ、と思った。

  • 今年めちゃくちゃ本を読んでいないけど、久しぶりに本を読了した。
    そして超久しぶりにレビューを書いてみる。
    遠藤周作の本は今まであまり知らなかったけど、ブックオフで適当に買って読んでみたらすごくおもしろかった。特にこの本の内容が日本人が外国に留学する話なんだけど、第三章の『爾も、また』の主人公の田中が外国文学者で、しかも研究内容が私が好きなマルキドサドだったから余計に興味を惹かれた。買ったときは、そんなことまったく知らなかったのに、『爾も、また』を読んでいたらすごくサドの話が出てきたから僥倖って思った(笑)そもそもこの本第一章~第三章まであるんだけど、話の内容がつながっていると思ったらまったく別の話で、日本人が海外へ留学するっていう部分しか共通はしていなかった。解説にも書いてあったけど、第三章の『爾も、また』が全体の4/5を占めている。第三章の主人公が、サドが住んでいたラ・コストの城を訪れた時に、近くにいるのに雪が深すぎて近寄れないという描写があってカフカの『城』みたいだなと思ったらやっぱり解説にもそう書いてあった。
    もはや第一章と第二章はあまり覚えていないけど、この第三章の主人公の気持ちは体験したことはないけど、なぜか共感した。謎。この本読んでたら本当日本の文化人だとヨーロッパ文化の圧にやられてしまいそうだと思った。特に田中のように文化的なことをよく知っている人であればあるほど。
    『我々は別の血液型の人からは血はもらえません。』っていうフレーズを読んで、日本人には日本人の血が、ヨーロッパ人にはヨーロッパ人の血が流れていて、すべてを理解することはできないということを改めて思った。

  • BSフジ「原宿ブックカフェ」のコーナー「ブックサロン」で登場。
    http://harajukubookcafe.com/archives/651

    ゲストハービー山口さんの人生を変えた一冊。

    「これは僕が23歳の時にロンドンに行きまして、10年近くいたんですけども、そこで偶然日本人の昔住んでた人が残していった本なんですよね。日本人の僕がヨーロッパの文化・イギリスの文化を理解できるんだろうかと何度も打ちひしがれそうになった時にこれを読んで、ああ僕だけじゃないんだと救われた本です。」(ハービー山口さん)


    原宿ブックカフェ公式サイト
    http://www.bsfuji.tv/hjbookcafe/index.html
    http://nestle.jp/entertain/bookcafe/

  • 【選書者コメント】「留学したい」と考えている人でなくとも、勉学に励みたいと思う方は是非

  • 自分も留学している身だが、共感することが非常に多い。留学考えている人はネットにある留学体験談じゃなくてこの本を読んだ方が良い。

  • 三部作。最後の話やたら長い。本作も他の作品と同じく西洋文化キリスト教と日本の文化との対峙、本質的な相違について描かれている。
    主人公はもちろん遠藤周作ご本人がモデルなんだけど、しかし苦しい。なんでこんなに苦しまなあかんのか。時代ゆえなんか、芸術とか文学を志す者ゆえなんか、とにかく苦しい。文学者として、日本人して、クリスチャンとして、男として、人間としてと、いろんな、○○としての自分がのしかかってきて、押しつぶされている。重い。今時「私らしく」とかいう一言で済まされそうなもんなのに。重い重い。でもそんなものに縛られて必死に逃れようとしてまた何かに引っかかりけつまずき、劣等感を抱いたりプライドを傷つけられたり卑屈になったり、苦しんで苦しんで葛藤して、まさに「身を切り肉を切り」言葉を生み出して何かを伝えてきたのが日本の文士(この言い方は出てこないんやけど)なのかなと思える。私はサドよりそっちをベロベロ舐めたいわ。
    サドのことは全然知らんが、主人公が記したサドに関する考察はおもしろかった。しかし、サドの本が読みたいとはあんまり思わん。

  • 著者自身の留学経験を下に書かれたであろう、留学経験者で有れば誰でも思わず頷く様な、現地での葛藤や苦労を描いた作品です。 現代社会とは少し違った感覚、古臭い側面も多々有りますが、時代は変わってもこういった気苦労やコミュニケ―ションにおけるもどかしさや歯がゆさは、いつの時代でも変らないみたいですね。 遠藤周作もこういう感情になっていたんだと思うと少し感慨深いものが有る今日この頃です。

  • 仏蘭西に実際に留学して西洋文明の理解しようとつとめる日本人との間に存在している溝、それを解消しようとする苦悩が著者の小説の主人公を通じて、ひしひしと伝わってくる。異国情緒。そして絶望。でも、その感情の発露はある意味で正しく自然の成り行きなのかもしれないと感じた。

  • 三部作中、小説として完成度が高いのは前二編のように思う。遠藤作品で繰り返し語られるカトリックと日本人とのテーマ。だが自分に一番響いたのは三編目「爾も、また」インテリとしての自負、だが実の所平凡で俗的な自分を自覚し欧州文化に押しつぶされていく主人公。サドを研究テーマとしながら自分とサドの接点などまるでないと悩む。真理を追究もできず表面的にうまく立ち振る舞うことも出来ない。
    その姿は、表現すべき中身を持たず、表現の場を得るために上手くコミュニケーションすることも出来ず、それなのに表現することを辞められない自分に酷似。つらい。
    時々こういう自分を突きつけられるような体験をするから読書はやめられない。

    二回目に城を訪れた時の、喀血と雪のコントラストが実に映像的で鮮やか。

  • 情けなさ、悔しさ、屈辱、挫折、失敗…。時代が変わっても、異国で生活する時に直面する困難は同じ。共感する分、暗い気持ちになる。

  • 最初の短編しか時間の都合で読めなかったのですが


    ふまじめでまじめ。

    胃が痛くなった。


    遊びに行くんじゃない。
    でも勉強ってなんだろう
    博士になりたいとか
    論文を書きたいとか
    そんなご立派な勉強じゃないんだよ

  • 留学というタイトルにまとめられた三編。二つ目と三つ目が印象的であった。自身の留学体験をもとにして、日本と西洋の文化的、と言ったら表面的すぎるだろうか、心理の深層に流れるモノの根本的な差異を謳っている。これだけ読むとそれは混ざり得ないもののように描かれるが、基本的に遠藤の宗教的著作にはこの問題が底流にあり、それは時代をおうと共により「救い」として消化されていると思う。全体で一つの作品といっても言い過ぎではないのではないか。

    12/6/23

  • 第三章『爾もまた』について

    ものすごいリアルで、designerの太刀川さんがおっしゃっていた「具体的且つ主体的なストーリーの共有」という話を思い出した。

    主人公の田中は非常に悲観的且つ内省的で、自己肯定の難しさを非常に感じた。そこにポイントを置くという事は私もそうだからなんだろうけどw

    遠藤周作も留学で苦労したって言ってたし、いちいち田中と遠藤周作を比較してしまう。
    主人公の設定をものすごいコンプレックスを持ち、妻以外と関係を持ったことのない、気の小さい不器用な「田中」が「サド」を研究テーマにしたところ、本人もそれを思案しているようにしたところが非常に面白かった。

    また、サドについてはあくまで研究対象であり、一切「本人」として登場しないのにサドに感情移入してしまった。遠藤周作の凄さを感じる。


    田中のような悲観的な人間が物事を楽観視することって可能なのだろうかと思った。

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著者プロフィール

1923年東京に生まれる。母・郁は音楽家。12歳でカトリックの洗礼を受ける。慶應義塾大学仏文科卒。50~53年戦後最初のフランスへの留学生となる。55年「白い人」で芥川賞を、58年『海と毒薬』で毎日出版文化賞を、66年『沈黙』で谷崎潤一郎賞受賞。『沈黙』は、海外翻訳も多数。79年『キリストの誕生』で読売文学賞を、80年『侍』で野間文芸賞を受賞。著書多数。


「2016年 『『沈黙』をめぐる短篇集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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