- Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101123172
感想・レビュー・書評
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見捨てたイエスが処刑されるも弟子達を許してくれとかいってるし、すごく悪いことをしたなぁと。これはきちんと考えなきゃいけないぞと弟子達は恥じ、悔しく思った。誤解していた師を再発見したことで、イエスは人の中に復活した。こうして徹底的に考えたものがのちのキリスト教の母体となる。けどユダヤ教の枠を出ず、そのためか異教であるとはみなされずに容認されていた。けどちょっとずつユダヤ教に疲れた人たちにキリストが広まっていったので、あるとき弾圧されたもんだから逆にエネルギーが強まり、キリスト布教活動が本格化する。けどその後グループに亀裂が入る。異邦人相手に布教してもいいんじゃないかという派閥と、異邦人はやめようぜという慎重派。推進派のステファノが神殿よりも愛でしょっていったイエスに倣って、ユダヤ教が崇拝する神殿否定を行なったためにボコボコに殺される。殺しに参加したのがのちに出てくるボーロ。離散派とエルサレム残留派に完全に分かれていくが、離散派はどんどんユダヤ教以外の異邦人に浸透していく。その離散派にことごとく影響を受けたのがボーロ。彼はステファノ殺しに参加したが、それら はユダヤ教が重んじる律法主義に限界を感じでいたから、それを戒めるためにステファノに石打を食らわせたのだった。イエスか律法かと問われたかれはついに改宗し、異邦人布教活動の急先鋒となる。
その頃エルサレムでは事件が。暴君カリグラが即位し、自分を神として礼拝しろと言ってきた。もちろん反対したユダヤ人がカリグラの銅像を壊したところ、カリグラは軍隊を派遣しユダヤ人殲滅に動き始めた。世の終わりに近い終末観の中で、キリスト教は多くの改宗者を獲得していく。キリスは見捨てないと。カリグラ暗殺など諸所ありユダヤ教は難を逃れる。
なぜ、エルサレムの慎重派やユダヤ教が異邦人嫌うかというと、ユダヤ人は律法に定められている割礼と休息日を守っているから。それによって神に選ばれたものだと信じているから。それをしない異邦人は受け入れられない。それでも異邦人布教を続ける離散派にとのあいだに、とうとう会議が開かれることになった。これがエルサレム会議。離散派急先鋒のボーロは、かつてユダヤ教信者であったゆえにユダヤ教の律法の限界を考え抜いた末に感じていた。律法の限界とはつまり「私の欲している善はしないで、欲していない悪を行なっているのだ」とのこと。キリスト以前のイエスに焦点をあてていたエルサレム慎重派(弟子派)と、イエスではなくキリストとしての復活に興味があるボーロ。ボーロは律法の限界から人間を解放してくれ、神は人間とを和解するものとしてキリストを地上に送った。罪もない彼を人間の身代わりとし、人間の全ての罪を彼に負わせ、死を与えることで、救いの道を開かせた。ユダヤ教の枠を超えて布教しようとしたのだ。かたや弟子派も、そもそもユダヤ教から改宗したものも多い。それはそもそもユダヤ教は異民族に国土を蹂躙されてきた歴史があり、そのため常に異邦人を意識しなければならず、改宗したのもキリストこそがそのユダヤ人の苦しみを理解してくと信じだからであった。会議の結果、妥協点として異邦人達がいくつかの条件付きなら教団に入れようと決着した。
その後外で布教を続けたボーロも弟子派のいるエルサレムも滅亡するが、外に布教活動を続けた結果、西アジアやギリシャ、ローマ帝国の各地へ広がっていき、信仰は守られ続けていると。
成り立ち、仕組みが手に取るようにわかった。神の沈黙への課題はそれぞれどう昇華しているのかわからん。昨日飲んだ中山さんがクリスチャンだったのは驚いたけど酒の席とはいえこの手の話はご法度なので、わきまえて調べていきたい。 -
イエスの死後,「キリスト」が誕生するまで。そんなの考えたこともなかったけど,とても勉強になった。弟子たちってすごいなあ。
そしてここでもやはり「神の沈黙」がテーマとなっていた。
んんん・・・。 -
『イエスの誕生』の続編です。イエスの死後のキリスト教団を率いたペテロやパウロたちの姿を描きます。
著者がとくにこだわっているのは、イエスが十字架にかけられて死んだ後も、ふたたび人間的な弱さに躓くことになる弟子たちの姿です。ステファノのラディカルな主張についていくことができず保身に走ったペテロが、やがてユダヤ人以外に信者を求めるパウロに対して、またしても同じ弱さを露呈することになる姿を描きます。
そのパウロについては、キリスト教がユダヤ民族の枠を超え出ていくきっかけを作った人物として評価されながらも、彼の説く復活信仰の普遍性が、その後ギリシアや日本のような汎神論的な信仰の根づいている地域において引き起こす問題が示唆されています。
もう一つ、著者が熱心に解き明かそうとしているのは、「沈黙の神」と呼ばれている問題です。パウロが悲惨な死を遂げることになり、イェルサレムがローマ人たちの侵攻になすすべなく敗退していったとき、キリスト教徒は「なぜ神は沈黙したままなのか」という問いに直面することになったといいます。そしてこの問題に向きあうことが、キリスト教の信仰にとって課せられた大きな問題だと、著者は述べています。
使徒たちの人間的なの弱さに迫っていく著者のまなざしに感銘を受けました。 -
見返りを求めずに、ただ許し愛してくれる存在
こころに寄り添うもの -
『沈黙』、『海と毒薬』、『イエスの生涯』、『白い人・黄色い人』に続いて、「遠藤周作文学館に行く前に遠藤周作を読みましょうシリーズ」の第5弾。『イエスの生涯』の続編としても位置付けられる作品で、イエスの死後、イエスがキリストとして信仰の対象となる過程、原始キリスト教が成立していく過程を、弟子たちの視点で描いたもの。
率直に言って、おれは『イエスの生涯』よりは、興味が持てた部分が少なかった。たぶん弟子たち、というのはイエス自身よりもさらに馴染みがおれにとっては薄いからだと思う。それでも、ペトロとポーロという対照的な2人の生きざまがありありと浮かんでくる筆致が面白い。ペテロがポーロやユダヤ教と駆け引きをする部分には緊迫感があるし、70年のエルサレム攻囲戦の様子は臨場感がある。ステファノという弟子についても知らなかった。
キリスト教の歴史について、知らなかった多くのことが、歴史小説を読むように知ることができたことは良かった。(11/12/--) -
イエスの死後、どう彼が弟子たちから神の子として崇拝され、またたくまに欧州に広がるにいたったのか。
ヤコブ、ペトロ、ステファノ、ポーロら、殉教した弟子たち足取りから追う。
基本的には外へ外へというエネルギーをもちながら、その中で教団が分裂したり、新たな問いを投げかけられたりするたびに、そのつながりを強くなり、その輪も広がっていく。
なかでも大きな問題は、救われるべきはユダヤ人のみなのか、ヤハウェと契約していない異邦人もなのか。このユダヤ教の枠を超えるのは大きな反発があったし、超える中で得られたものも大きかった。
だから、異邦人に伝道した最先鋒のポーロの活動は高く評価されている。
結局は「不合理ゆえにわれ信ず」。
「キリストはなぜあんな最期を遂げたのか」「神はなぜ沈黙しているのか」「キリストはなぜ再降臨しないのか」といった難題に悩みもがき続けることで、キリストは人生の同伴者になり、みなの心に「復活」した。
と、不思議な結論でおわってしまった。
それを筆者も「私も書き得なかった神秘的なX」と結んでいる。 -
イエスの死、使徒たちの死、そしてエルサレムの陥落。葛藤と絶望に満ちた原始キリスト教団の姿と、解けない「謎」を提示して、遠藤周作の語りは終わる。もしかしたらエルサレム陥落後、なぜ神は救いに来てくださらないのか、という疑問が蔓延したからこそ、その答えとして、原始キリスト教においてグノーシス主義が一定の勢力を持ったのかもなぁ。という仮説。
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この作品も、読んだのはハードカヴァーで二十歳のころ。
タイトルのとおり、イエスの死後、弟子たちによって<誕生させられたキリスト>の背景。
すなわち、新約聖書の「使徒行伝」をベースに、キリスト教成立の物語である。
田川氏もコチラはそれなりに評価している。
(この項、書きかけ)
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アンドリュー・ロイド・ウェバーの「JCS」にはまって読んでみました。
キリストの今までのイメージが変わりました。