キリストの誕生 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101123172

感想・レビュー・書評

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  •  イエスの生涯の続編とでも言おうか、キリストの誕生という本書。単純に、何が違うのかと思ったが、読み進めるに従い、きちんと、イエスとキリストを使い分けて題名にしていたことに気付いた。

     いわずもがなだが、イエスは個人のことで、キリストは救世主という意味で使っている。本書は、イエスが十字架にかかって後、キリスト教が起こるまで、どのような騒乱などがあったか、ということだ。単純に、イエスが死んで直ぐにキリスト教が起こったわけではなく、既存宗教であるユダヤ教との確執など、大きな動乱があったことは思い浮かぶ。

     さて、イエスは死の直前、「主よ、主よ、なんぞ、我を見棄て給うや」という言葉を叫んでいるが、特に、ここの部分は、イエスといえども神に絶望したのか、と早合点してしまいがちだ。しかし、この解釈は、当時のユダヤ人の習慣を知らないために生まれたものであると著者は言う。この言葉は、詩篇二十二篇の「主よ、主よ、なんぞ、我を見棄て給うや」の悲しみの訴えであるが、詩篇を読んだ人は、この悲しみの訴えがやがて「我は汝のみ名を告げ、人々のなかで汝をほめたたえん」の神の賛歌に転調していくことを知っている。この言葉は、決して絶望の言葉ではなく、神を讃美する歌の冒頭部なのだ。事実、ルカの福音書によると、イエスがこの言葉の後しばらくして、「主よ、わが魂をみ手に委ねたてまつる」という詩篇三十一篇の祈りを口にして息を引き取るが、それはイエスが「主よ、主よ、なんぞ、我を見棄て給うや」から始まり、
    われ わが魂をみ手に委ねたてまつる
    主よ まことの神よ
    汝は我をあがなわれたり
    の三十一篇の祈りまでを苦しい息の中で祈っていたことをはっきり示しているのだ。つまり、十字架上で人々に語りかける力を失ってからもイエスは朦朧とした意識のなかで詩篇の1つ1つの祈りを唱えていたのであろう。

     生前のイエスは、ユダヤ教徒としても恥ずかしからぬ日常生活を守ったが、心のこもらぬ宗教規範や、義務だけのための宗教生活を重視しなかった。イエスはそうした形骸化したものよりも、人間の哀しみと愛だけに最も価値を置いた。「人が安息日のためにあるのではない。安息日は人のためにあるのだ」という言葉や「人の作った神殿の代わりに、私は三日のうちに別の神殿を建てるだろう」という発言は、彼がユダヤ教徒が何よりも大事にした律法やエルサレム神殿を人間の哀しみや愛よりも問題にしなかったことを示している。にもかかわらず、初期の使徒たちは、イエスを次第に人間以上のキリストとして崇めながらも、相変わらず、律法や神殿を重視する生活を続けていた。イエスの従兄弟ヤコブは敬虔なユダヤ教徒だったからこれらの二つを冒瀆するなど夢にも考えなかったろうし、慎重なペトロは、イエスの精神をしっていながら、表向き神殿と律法を尊重する態度を見せた。そこにステファノを中心とする「ギリシャ語を話すユダヤ人たち」がこうした使徒たちに不満を持ったとしても不思議ではない。ステファノたちはイエスをユダヤ教のすばらしい改革者だと考えていた。イエスはエルサレム神殿も律法も愛よりは低いことを人生をかけて教えたからだ。そのイエスの改革の精神は使徒たちに受け継がれていない。更にこの「ギリシャ語を話すユダヤ人たち」はかつて異邦人、つまり、ユダヤ教ではない外国人とも多く接触していたから使徒たちのように閉鎖的ではなかった。しかし使徒達はユダヤ教の枠の中で異邦人を仲間に使用とは夢にも考えなかった。ステファノたちはこのへんに不満を持ったのだろう。ステファノはこれらの使徒達と袂を分かち、独自にイエスの教えを伝え、広めていこうとするが、当然にして迫害に遭う。迫害の代表的な者はソウロという者だ。キリストの教えに同調する信徒たちは逃亡し、ステファノは石打ち刑にあう。しかし、信徒はこの迫害や逃亡によって、くじけるどころか、逆にその信念を強固にしていった。迫害によって、かえってイエスをキリストと頼む気持ちとイエスの再臨を信じる心は深くなっていた。

     ソウロは、信徒が迫害の苦しみに耐えてまで、なぜイエスの再臨を待っているのか、なぜ、彼らは神殿を否定しながら生き生きとした信仰をもっているのか、考えさせられたのは当然であろう。ソウロから見ると、彼らはイエスと呼ぶくだらぬ男をキリストと仰ぎ、その再臨を信じているのだ。

     我々日本人には理解しがたいが、当時、ユダヤ人の六百十三の律法のなかで最もきびしく守らねばならないのが、割礼と安息日の二つであった。割礼をユダヤ人たちはたんなる民族的風習とは決して考えていなかった。それは彼らの祖先に神が教えた神聖な契約の徴だった。割礼を行うのは神に選ばれた証明であり、神の民となった記号でもあったのだ。
     神はアブラハムに言われた。「男子は皆、割礼を受けねばならぬ。これは私とお前たち、及び後の子孫との契約であって、お前たちが守るべきことなのである」(創世記 十七の9~10)
    「割礼を受けぬ男子、すなわち前の皮を切らぬ者は私との契約を破るゆえ、民のうちから断たれるだろう」(創世記 十七の十四)
     この神の契約の徴をユダヤ人たちは行う。だが、異邦人たちは行わない。異邦人とはユダヤ人にとって割礼-神との契約をむすんでいない人間達のことなのだ。

     割礼と共に彼らが重視したのは安息日の厳守である。安息日とは週に一度、我々の暦の金曜の夕方から始まり、土曜の夕方に終わる。この間は今日でもエルサレムの店は閉じ、ホテルでさえ飲酒、喫煙は旅行者に許されぬ時もある。イエスの時代は更に厳格であり、エッセネ派では安息日に信者が排泄することも許されなかった。ラビ(教師)たちはさまざまの不可解な禁止事項を作ったが、たとえばその中にはランプを消すこと、綱を結び解くこと、二つの文字を書くことも許さぬというような常識を超えた項目さえある。我々には滑稽で不可解なこれらの禁止事項は、しかし安息日の神聖をあくまで貫こうとする信念から生まれたと考えれば、理解することができる。割礼も安息日もその根底には選ばれた民がユダヤ教の純粋を徹底的に保持しようとする意志のあらわれなのだ。それは観念などではない、血肉化された彼らの歴史であり、現実であった。割礼を行わざる異邦人を仲間にすること、それは、ユダヤ人たちにとって歴史を冒瀆することであり、神の神聖を犯すことであり、自分たちを裏切る行為だった。彼らはユダヤ教の会堂に異邦人が話を聞きに来ることは拒まなかったが、自分たちの共同体に入れることは拒んだ。もしそれに加わる意志があれば、割礼と安息日の義務を厳しく要求した。

     安息日と割礼の重要性。これを無視して我々は聖書をそのまま読むことは出来ない。あるいは、使徒行伝を軽々しく読むことも出来ない。たとえばイエスが「人は安息日のためにあるに非ず、安息日こそ人のためにあるなり」と発言したとき、それはたんに人間性の重視などという単純な問題ではなく、ユダヤ教が守った神聖に対して、愛の神聖さで挑んだ危険きわまる発言だったのだ。同時にまた、初期のキリスト教徒が異邦人に布教を試みるとき、いかに烈しい抵抗とためらいが教団の中でもあったかを考えねばならぬ。後世、キリスト教は、異民族に布教する時、その異民族の信仰と対立せねばならなかったが、イエスの死後十四年、原始キリスト教団がその母体であるユダヤ教を超えるためには、この割礼の障壁を破らねばならなかった。

     ただ一つの神以外のいかなうものをも信仰することを厳しく禁じたこのユダヤで、一人の男が神格化されることはほとんど不可能に近い。モーゼやダビデも神格化されなかった。なぜ、イエスだけがキリストに高められたのか。それを高めたのは弟子達と原始キリスト教団との信仰である。彼らの意志によってイエスは人間を超えた存在に神格化されていった。イエスは人の子といわれ、神の子となり、メシヤと呼ばれ、キリストになった。

  • 見捨てたイエスが処刑されるも弟子達を許してくれとかいってるし、すごく悪いことをしたなぁと。これはきちんと考えなきゃいけないぞと弟子達は恥じ、悔しく思った。誤解していた師を再発見したことで、イエスは人の中に復活した。こうして徹底的に考えたものがのちのキリスト教の母体となる。けどユダヤ教の枠を出ず、そのためか異教であるとはみなされずに容認されていた。けどちょっとずつユダヤ教に疲れた人たちにキリストが広まっていったので、あるとき弾圧されたもんだから逆にエネルギーが強まり、キリスト布教活動が本格化する。けどその後グループに亀裂が入る。異邦人相手に布教してもいいんじゃないかという派閥と、異邦人はやめようぜという慎重派。推進派のステファノが神殿よりも愛でしょっていったイエスに倣って、ユダヤ教が崇拝する神殿否定を行なったためにボコボコに殺される。殺しに参加したのがのちに出てくるボーロ。離散派とエルサレム残留派に完全に分かれていくが、離散派はどんどんユダヤ教以外の異邦人に浸透していく。その離散派にことごとく影響を受けたのがボーロ。彼はステファノ殺しに参加したが、それら はユダヤ教が重んじる律法主義に限界を感じでいたから、それを戒めるためにステファノに石打を食らわせたのだった。イエスか律法かと問われたかれはついに改宗し、異邦人布教活動の急先鋒となる。

    その頃エルサレムでは事件が。暴君カリグラが即位し、自分を神として礼拝しろと言ってきた。もちろん反対したユダヤ人がカリグラの銅像を壊したところ、カリグラは軍隊を派遣しユダヤ人殲滅に動き始めた。世の終わりに近い終末観の中で、キリスト教は多くの改宗者を獲得していく。キリスは見捨てないと。カリグラ暗殺など諸所ありユダヤ教は難を逃れる。

    なぜ、エルサレムの慎重派やユダヤ教が異邦人嫌うかというと、ユダヤ人は律法に定められている割礼と休息日を守っているから。それによって神に選ばれたものだと信じているから。それをしない異邦人は受け入れられない。それでも異邦人布教を続ける離散派にとのあいだに、とうとう会議が開かれることになった。これがエルサレム会議。離散派急先鋒のボーロは、かつてユダヤ教信者であったゆえにユダヤ教の律法の限界を考え抜いた末に感じていた。律法の限界とはつまり「私の欲している善はしないで、欲していない悪を行なっているのだ」とのこと。キリスト以前のイエスに焦点をあてていたエルサレム慎重派(弟子派)と、イエスではなくキリストとしての復活に興味があるボーロ。ボーロは律法の限界から人間を解放してくれ、神は人間とを和解するものとしてキリストを地上に送った。罪もない彼を人間の身代わりとし、人間の全ての罪を彼に負わせ、死を与えることで、救いの道を開かせた。ユダヤ教の枠を超えて布教しようとしたのだ。かたや弟子派も、そもそもユダヤ教から改宗したものも多い。それはそもそもユダヤ教は異民族に国土を蹂躙されてきた歴史があり、そのため常に異邦人を意識しなければならず、改宗したのもキリストこそがそのユダヤ人の苦しみを理解してくと信じだからであった。会議の結果、妥協点として異邦人達がいくつかの条件付きなら教団に入れようと決着した。

    その後外で布教を続けたボーロも弟子派のいるエルサレムも滅亡するが、外に布教活動を続けた結果、西アジアやギリシャ、ローマ帝国の各地へ広がっていき、信仰は守られ続けていると。

    成り立ち、仕組みが手に取るようにわかった。神の沈黙への課題はそれぞれどう昇華しているのかわからん。昨日飲んだ中山さんがクリスチャンだったのは驚いたけど酒の席とはいえこの手の話はご法度なので、わきまえて調べていきたい。

  • イエスの死後,「キリスト」が誕生するまで。そんなの考えたこともなかったけど,とても勉強になった。弟子たちってすごいなあ。

    そしてここでもやはり「神の沈黙」がテーマとなっていた。
    んんん・・・。

  • 『イエスの誕生』の続編です。イエスの死後のキリスト教団を率いたペテロやパウロたちの姿を描きます。

    著者がとくにこだわっているのは、イエスが十字架にかけられて死んだ後も、ふたたび人間的な弱さに躓くことになる弟子たちの姿です。ステファノのラディカルな主張についていくことができず保身に走ったペテロが、やがてユダヤ人以外に信者を求めるパウロに対して、またしても同じ弱さを露呈することになる姿を描きます。

    そのパウロについては、キリスト教がユダヤ民族の枠を超え出ていくきっかけを作った人物として評価されながらも、彼の説く復活信仰の普遍性が、その後ギリシアや日本のような汎神論的な信仰の根づいている地域において引き起こす問題が示唆されています。

    もう一つ、著者が熱心に解き明かそうとしているのは、「沈黙の神」と呼ばれている問題です。パウロが悲惨な死を遂げることになり、イェルサレムがローマ人たちの侵攻になすすべなく敗退していったとき、キリスト教徒は「なぜ神は沈黙したままなのか」という問いに直面することになったといいます。そしてこの問題に向きあうことが、キリスト教の信仰にとって課せられた大きな問題だと、著者は述べています。

    使徒たちの人間的なの弱さに迫っていく著者のまなざしに感銘を受けました。

  • 見返りを求めずに、ただ許し愛してくれる存在
    こころに寄り添うもの

  •  『沈黙』、『海と毒薬』、『イエスの生涯』、『白い人・黄色い人』に続いて、「遠藤周作文学館に行く前に遠藤周作を読みましょうシリーズ」の第5弾。『イエスの生涯』の続編としても位置付けられる作品で、イエスの死後、イエスがキリストとして信仰の対象となる過程、原始キリスト教が成立していく過程を、弟子たちの視点で描いたもの。
     率直に言って、おれは『イエスの生涯』よりは、興味が持てた部分が少なかった。たぶん弟子たち、というのはイエス自身よりもさらに馴染みがおれにとっては薄いからだと思う。それでも、ペトロとポーロという対照的な2人の生きざまがありありと浮かんでくる筆致が面白い。ペテロがポーロやユダヤ教と駆け引きをする部分には緊迫感があるし、70年のエルサレム攻囲戦の様子は臨場感がある。ステファノという弟子についても知らなかった。
     キリスト教の歴史について、知らなかった多くのことが、歴史小説を読むように知ることができたことは良かった。(11/12/--)

  • イエスの死後、どう彼が弟子たちから神の子として崇拝され、またたくまに欧州に広がるにいたったのか。
    ヤコブ、ペトロ、ステファノ、ポーロら、殉教した弟子たち足取りから追う。

    基本的には外へ外へというエネルギーをもちながら、その中で教団が分裂したり、新たな問いを投げかけられたりするたびに、そのつながりを強くなり、その輪も広がっていく。
    なかでも大きな問題は、救われるべきはユダヤ人のみなのか、ヤハウェと契約していない異邦人もなのか。このユダヤ教の枠を超えるのは大きな反発があったし、超える中で得られたものも大きかった。
    だから、異邦人に伝道した最先鋒のポーロの活動は高く評価されている。

    結局は「不合理ゆえにわれ信ず」。
    「キリストはなぜあんな最期を遂げたのか」「神はなぜ沈黙しているのか」「キリストはなぜ再降臨しないのか」といった難題に悩みもがき続けることで、キリストは人生の同伴者になり、みなの心に「復活」した。
    と、不思議な結論でおわってしまった。
    それを筆者も「私も書き得なかった神秘的なX」と結んでいる。

  • イエスの死、使徒たちの死、そしてエルサレムの陥落。葛藤と絶望に満ちた原始キリスト教団の姿と、解けない「謎」を提示して、遠藤周作の語りは終わる。もしかしたらエルサレム陥落後、なぜ神は救いに来てくださらないのか、という疑問が蔓延したからこそ、その答えとして、原始キリスト教においてグノーシス主義が一定の勢力を持ったのかもなぁ。という仮説。

  • この作品も、読んだのはハードカヴァーで二十歳のころ。

    タイトルのとおり、イエスの死後、弟子たちによって<誕生させられたキリスト>の背景。
    すなわち、新約聖書の「使徒行伝」をベースに、キリスト教成立の物語である。

    田川氏もコチラはそれなりに評価している。

    (この項、書きかけ)

  • アンドリュー・ロイド・ウェバーの「JCS」にはまって読んでみました。

    キリストの今までのイメージが変わりました。

著者プロフィール

1923年東京に生まれる。母・郁は音楽家。12歳でカトリックの洗礼を受ける。慶應義塾大学仏文科卒。50~53年戦後最初のフランスへの留学生となる。55年「白い人」で芥川賞を、58年『海と毒薬』で毎日出版文化賞を、66年『沈黙』で谷崎潤一郎賞受賞。『沈黙』は、海外翻訳も多数。79年『キリストの誕生』で読売文学賞を、80年『侍』で野間文芸賞を受賞。著書多数。


「2016年 『『沈黙』をめぐる短篇集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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