死海のほとり (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (432ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101123189

感想・レビュー・書評

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  • とてもよかった。

    沈黙、海と毒薬、深い川、白い人、黄色い人をこれまで読んできての本作。

    遠藤周作の考え方、向き合い方がだんだんとわかってきて、それでもまだ途上にいるんだなという感じがすごく伝わってきた。



  • [希求の末に]近くに赴いたついでにエルサレムに立ち寄った著者は、大学時代から聖書を研究していた戸田に案内を依頼する。キリスト教に対する熱度は往時の頃と比べて衰えながらも、イエスの足跡を必死に探す著者であったが、戸田は行く先々で皮肉な笑いとともにその思いを跳ね返してしまう......。エッセイ的記述に聖書の物語を挟み込んだ作品です。著者は、本書をしてもっとも「その人らしい」と言われる遠藤周作。


    遠藤氏が抱え込んでいた霧がかった心情を把握するために極めて適した一冊だと思います。個人的には遠藤氏はキリスト教の教え(特に無償の愛という点)そのものには共感を抱きつつも、現世に見られる数々の問題に対して人一倍の敏感さを備えてしまったが故に、その教えを最後まで信じきれなかったのではないかと。どこまで普遍化できるかは判然としませんが、遠藤氏の問題意識は極めて「日本的」「近代的」と言えるのではないでしょうか。


    純粋に物語として引き込まれることができるのも本書の魅力の1つ。人間の弱さを見せ続ける「ねずみ」と呼ばれた人物に関するエピソードは読む者をして深い思索に誘ってくれるはずです。なお、本作は『イエスの生涯』という作品と裏表をなしているのですが、個人的には『イエスの生涯』を読んだ後にこちらを読むことをオススメします。

    〜付きまとうね、イエスは。〜

    (涙を誘うものではなく)じーんと来る読書でした☆5つ

  • ■『死海のほとり』 遠藤周作著 新潮文庫

    【全編4 メシヤ降臨とその再臨の目的】
     遠藤周作の力作です。イエスの歴史的実像とは一線を画し、我々においてのイエス、そして救いとは何であるかを問うています。追記にありますが、同著者の『イエスの生涯』と表裏をなす作品であるということです。『イエスの生涯』はイエス自身の歩みとその真実にスポットを当てていますが、こちらの『死海のほとり』はイエスを取り巻く群像の目線からイエスを描き、2000年後のイエスから離れることができない男たちの目線からイエスを語ります。
     原理の理解としては、後編のイエス路程よりも、前編の「メシヤの降臨とその再臨の目的」のほうが、内容的には該当すると思います。イエスによる救いとは何であったのか、がより大きな焦点であると思いますので。

     作中は二つの視点が対位法のように独立ながらストーリーを組み立てていきます。時代的に2000年の隔たりがある二つの視点ですが、内的にはイエスを軸として、外的にはイスラエルを軸としながら最終的にはイエスによる救いの真実を実存的に問いかける地点で着地します。
     一つ目の視点は<巡礼>というタイトルで括られたもので、現代に生きる男がイスラエルの旧友を尋ねるところから始まります。男はカトリックの家に生まれ、親に連れられるまま教会に通い洗礼を受けた過去があります。戦時中、キリスト教系の大学寮に入っていたため、ノサックという神父とコバルスキという修道士との関係が生まれました。様々な同僚と共に厳しい環境を学生という身分で過ごしていきますが、自覚的な信仰など持ち合わせていない男はぼんやりとその神父や修道士の姿を見つめていました。ここで同僚として過ごしていたのが、のちにイスラエルにおいて訪ねる友人、戸田です。生まれながらのクリスチャンとしてぼんやりと自覚もないままに信仰を持っていた男に対し、ここで信仰に目覚めた戸田は、皮肉屋でもありますがバリッとした信仰を持ち、潔い姿で毎朝の祈りもささげていました。
     この話で肝になるのがここで登場するコバルスキという修道士です。ユダヤ系のポーランド人のこの修道士は、手足は細く子供みたいで、異常なほど臆病で、修道士かと疑うほどに狡く姑息な性格でした。非力で何をやらせてもぎこちなく、寮生からは「ねずみ」とあだ名されていました。戦時中なので信教の自由も拘束され、神父や修道士もひっそりとしかいることが難しい時代でした。そんな中でねずみは自分を守ることに必死で、最後には修道士の立場も追われ祖国に帰されるようになります。その後の噂では、ナチスにつかまり収容所に送られ、そこで殺された、ということでした。
     時代がすぎ、現代。作家になった男は、いろいろな夢も破れ信仰も捨て、諦めの中で人生を過ごしています。仕事の関係でヨーロッパに来ていましたが、その帰りにふと、イスラエルにおいて聖書研究をしている旧友の戸田を思いだし、その元を訪れることにしました。再開してみると、戸田も信仰を捨てていました。しかし二人に共通することは、信仰は捨てていてもイエスから離れることができない。何時までも心に付きまとうイエスの影に心とらわれながら、二人はイスラエルの巡礼をします。ほとんど観光地と化したイエス所縁の地を巡り、歴史を講釈し現実を鼻で笑う戸田と、そんな乾いた説明を聞きながら一々心に刺さるイエスに、「ねずみ」を思いだす男。巡りながらそんなイエス像とねずみが分かちがたく結びつけられることを、男は不思議に思います。

     もう一つの視点は<群像>というタイトルのもとにまとめられた、2000年前のイエスと関係した6人の男の記憶です。奇跡を待つ男、アルパヨ、大祭司アナス、知事、蓬売りの男、百卒長の6人です。それぞれが何らかの形でイエスと関係をします。ある者は救われ、ある者は裏切られ、ある者は政治的に利用し、ある者はストレスのはけ口として、ある者は仕事の患いとして、ある者は同情するものとして。しかし全てに共通するのは、イエスを捨てるということです。この中のイエスは、本当に力がない姿で描かれます。人々に奇跡を求められても「私にはできない」と悲しき顔を浮かべ、病気の人がいればただそばで手を取って祈ることしかできない。「愛」ということがたびたび使われますが、愛とはこんなに非力なのかと、打ちのめされるほど、弱き姿で描かれます。
     描き方として巧みなのは、既成のイメージでイエスを見ることを極力避けるようにではないかと思うんですが、福音書に登場する主要人物の名前をあまり登場させません。特にアルパヨの視点からは、12弟子たちが直接描かれますが、そのままの名前をほとんど使っていません。アルパヨというのもアルパヨの子ヤコブ(小ヤコブ)を指していると思いますし、最後まで共にいるシメオンはシモン=ペテロのことでしょう。ちょっと本が手元にないので、確認が難しいんですが、あと二三そんな弟子たちが出てきます。全部がそういうわけではないんですが、ある程度抽象化させながら、イエスの事実ではなく真実を伝える努力がうかがえます。そういう描写に導かれて、イエスの姿が浮き彫りにされていきます。

     最後の章で二つの視点が交わります。2000年前のイエスの真実。奇跡を起こした超人的なメシヤではなく、愛を尽くすことしかできなかった力ないイエス。そして二人の信仰を捨てた男が、それでも捨て切れることができずに心をつかまれたイエス。それは「同伴者イエス」という姿で結ばれます。
     収容所に送られたねずみの最後を知っている人物から手紙がきました。収容所でもどこまでもあざとく、自分を守ることしかできなかったねずみでしたが、年下の男(手紙の送り主)には多少優しさを見せることがありました。収容所なので労働力にならない人間はすぐに処分されてしまいます。そしてその死体に残る脂肪を集めて石鹸にされるそうです。非力なねずみは立場のある人間に阿りながら、なんとか死をまぬかれようとしますが、最終的には同じ受刑者たちからも捨てられ、獄卒からも労働力外の烙印を押され、死を突き付けられます。小便をたらし、涙を流し、動けないねずみですが、最後にひかれていく前、その男に一日一度の食事であるコッペパンを渡すのです。
     ひかれていくねずみのとなりにある幻が見えました。それは同じく足を引きずり、襤褸をまとい涙を流しながらよろよろと歩く男の姿でした。それは紛れもない、同伴者イエスでありました。
     
     救いとは何であるか、考えさせられます。奇跡では人間は変わりません。私たちの心が真実の愛を持たなければ、環境は変わっていかないのです。イエスができた事、それは共に悲しみ、共に苦しみ、共に泣く、それだけだったというのが遠藤のイエス像です。イエスは語ります。「それでもあなたのそばにいる」と。どこまでもいぎたなく生きたねずみでありましたが、最後にコッペパンをあげます。ねずみは救われたなと、私は感じました。同伴者イエスの愛が最後にしてねずみの心に現れます。痛ましさの中にも、意味のある者が生まれてくることを感じるのです。

     あくまでも遠藤のイエス像です。聖書を拡大解釈している部分はもちろんありますが、イエスの愛の姿に大きく迫る名作であります。

  •  遠藤の作品で五指には入る名著。しかし今までなぜか読む機会を失していた。私も33になり、イエスの昇天の歳であるから、特別な何もないけれど、思いだけは引き締まる中でこの書を読み始めた。過去に遠藤の著作にはどれだけ触れただろうか、20~30だろうと思われるが、その文体に触れるとなぜだか安心する。鮮烈な刺激とは違う、どこかこなれた、気を使わない暖かさを遠藤は与えてくれる。いつでも懐かしいのだ。早くに触れて、もう読み終わったというだけで意識から外れてしまわなくてよかったと思う。今だからこそ深い感慨があった。

     二つの視点が対位法のように独立した旋律を奏で信仰する。一つのイエスという内的軸とパレスチナという外的軸を中心として。その視点には<巡礼><群像>というテーマが与えられ、現代のイエスを捨てきれない男の記憶と、2000年前のイエスを捨てた人々の記憶が、最終的には一点において交わる。
     <巡礼>においては、キリスト教の信仰を捨てた男がイスラエルを訪れ、大学時代の同僚に案内をしてもらいながら、イエスの足跡をたどる。同僚は大学時代に回心し、聖書研究の為にイスラエルに定住し、しかし信仰的情熱はすでにさめてしまっている男である。観光地になっているイエスにまつわる聖地を、でたらめとばかりに鼻で笑いながら案内する同僚。信仰は当の昔に失ってしまっているはずなのに、そんな同僚のもの言いに何か腹を立てる主人公。二人ともイエスを忘れることができない。キリスト教系の大学の寮で共同生活をしていた二人。その記憶をたどりながら、会話をぽつりと続ける。主人公の男がどうしても忘れることができない修道士の男がいた。コバルスキというユダヤ系ポーランド人で、ねずみと呼ばれていた。身体が子供のように細く、いつも泣きはらしたような眼をしている。人が怪我をすると貧血を起こし、自分が病気にかかると死にたくないと喘ぎ、人のおこぼれにはなんとかあずかろうとする、狡いねずみ。男はなぜかこのねずみが記憶から離れないのであった。
     <群像>の視点には様々な男が立つ。2000年前のパレスチナ。イエスの短い生涯に関わった6人の男がイエスを捨てる話である。病に倒れた子の回復を、イエスの奇跡にすがった男。イエスの弟子アルパヨ。大祭司カヤパの叔父である大祭司アナス、ユダヤ知事ピラト、ヨモギ売りの男、イエスの十字架をみとった百卒長である。全員がイエスに関わり、イエスを捨てる。個人的に、政治的に、信仰的に、義務的に、扇動的に、イエスを捨てるのである。全ての視点に通じる情念は、力なき男。愛だけを語った男。犬のように死んだ男、イエスである。

     二つの視点が交わる点は「同伴者イエス」としてである。修道士を追われポーランドに戻ったねずみはナチスの収容所に収監される。非力で何もできないが、自分のことにだけは執着するねずみは、収容所でも狡く出来るだけ楽をして、生き延びようと努める。しかし、労働力外とされてしまったねずみは小便をたらし、いやだいやだと泣く。待っているのは死のみである。最後にねずみは、自分の命のパンを年少の男に渡し、ひかれていく。そのコバルスキ・ねずみのとなりに、幻を見たという。同じように足を引きずりながら襤褸をまとい引きずられる男、イエスである。
     イエスは奇跡を起こさない。ただ、悲しきものの、苦しむものの、泣くもののそばにいて、共に悲しみ、共に苦しみ、共に泣いただけだった。イエスに人を救う力はなかった。しかし、どんな者のそばにいて、その重荷を共に負う、それだけをなしたのだ。「同伴者イエス」それが、二人の信仰を捨てた男をつかんでいる。

    J.S.バッハ『マタイ受難曲』を聞きながら

    13/12/30

  • イスラエルツアーで一緒になったひとに薦められた本。実際に行った土地が舞台なので、とても読みやすかった。時期も合っていたのでますます。漠然と疑問に思っていたキリスト教についての取っ掛かりになる。

  • 本の全体に涙が流れている、そんな印象を受けました。イエスと出会う人々の苦しみや、救いを求める切実さが胸に沁み、それを救うことの出来ない、イエスの悲しさが胸を打ちました。

    イエスが捕まった際、本書の中で言った「すべての事に失敗すると、自分には分かっていた」という言葉が忘れられずに残っています。

    愛とは何か、愛の為に生きるとは何か、遠藤さん自身のイエス像を元に書かれた、繊細な文章だと思います。悲しみにいつも寄り添ってくれる、そんな本です。

  • 信仰を失おうとする私とゴルゴダの丘に至るイエスの物語が最終章に重なっていく。

    深い感動が静かに胸に刻まれる作品。

  • 聖書の奇蹟の数々をうさんくさく感じていたが、キリスト教徒でも同じなのだろうか。
    イエスの最期をたどる男たちの旅と、イエスに死を与えた者、死を見届けた者たちの断片。 イエスの受難は戦時中の人間の弱さと絡みついていく。
    罪ある者も赦されるという母の愛があるからこそ、ひとは救われるのだろう。

  • この物語は、同じイスラエルの地≪死海のほとり≫を舞台に、時代の異なる二つの物語が対位的に展開される。すなわち、主人公がイエスの足跡をたずねてイスラエルを巡礼する現代の話と、イエス・キリストが伝道のためにパレスチナの地を旅する過去の話が交互に進行する。昭和48年の文学としてはこのような技法は画期的といえるのではないだろうか。主人公<私>はカトリック信者である作者の分身であろう。救い主としてあまりに無力であるが、隣人と共に喜び共に苦しむイエスの姿を描き、「永遠の同伴者」としてのイエス像を鮮烈に打ち出した作品である。

  •  この小説は二つの話が交互に出てくる。
     一つは現代(といっても戦後30年後くらいの話だが)においてかつてキリスト教系の大学に通っていたが、信仰を捨てた(あるいは見失った)、同級生だった二人の中年の男がイエス・キリストの足跡を辿る旅をする。
     もう一つは過去のイエス・キリストの生涯が書かれている。
     過去の話は実際にイエス・キリストと出会った人々が彼に対して何を感じたのか、ということに焦点が当たっているように思える。現代においては聖書やその足跡を辿って見えてくるイエス・キリストに対して何を感じるかということが主題に感じた。ただ、現代においては、後半はネズミと呼ばれる神学校時代の修道士に焦点が当たってくる。
     ここで過去の話に出て来るイエス・キリストは、奇跡も起こせないただ愛を説くだけの無能な人間として描かれている。そして、それは現代においてもそう見えるように描かれている。
     これは従来のキリスト像を持っている人にとってもしかしたら強烈なイメージを植え付けるかもしれないが、単にキリスト教への信仰というものを一度フラットに考えさせるためであると思う。
     奇跡を起こせないキリストが何故信仰を得るに至ったか。それを過去に出会った人の心情と現代における棄教者の旅を通じて描かれている。
     私はキリスト教徒ではない。しかし、キリスト教徒の気持ちが知りたいとは思う。彼等は奇跡ゆえにイエスを信仰するようになったのか。ただ、それはおかしな話で奇跡を起こすから家族を愛するのか。奇跡を起こすから他人を愛するのか。そんな自己利益のためだけに人を愛するのか。そうではないだろう。人を愛するという行為はそうではなくもっと呪いに近いように語られている
    (『「あなたは忘れないでしょう。わたしが一度、その人生を横切ったならば、その人はわたしを忘れないでしょう」
    「なぜ」
    「わたしが、その人をいつまでも愛するからです」』
    250ページ)

     小説内に明示されている謎は以下の二つだ。

    ・「なぜキリストは死ななくてはならなかったのか」
    ・過去と現代において「なぜキリストを信仰し、一度捨て、再度信仰するのに至るのか」

     「なぜキリストは死ななくてはならなかったのか」については、作中でキリスト自身が発言している

    『(すべての死の苦痛を、われにあたえたまえ
     もし、それによりて
     病める者、幼き者、老いたるたちのくるしみが
     とり除かるるならば)』
    『「もっとも、みじめな、もっとも苦しい死を……」』
    (359ページ)

    というのが全てなのかもしれない。彼は愛のために生きた。だから、最後は愛ゆえに、全ての人類の罪を背負って死ななくてはならない。仮にそれが無意味な行為だとしても。
     だが、結局のところ「愛」とは何なのだろうか。自己犠牲の利他的な行動、共に苦しみ、共に悲しむことが単なる「愛」なのだろうか。神の愛は無償の愛だとして、人間の及ぶところではないとしたら。所謂神の救いや奇跡の類は愛ではないとして、我々は何を信じればいいのか。正義とは、正しさとは。もしかしたら、それを知っているのはイエスだけなのかもしれない。どことなく終末思想にすら感じた。イエスは神の怒りや律法に耐えかねて愛を求めた(150ページ)。そこに必要だったのは「愛」。経済でも子孫でも科学でもパンでも人類の永遠の発展でもなく「愛」。
     
     過去と現代において「なぜキリストを信仰し、一度捨て、再度信仰するのに至るのか」について。
     まずなぜ信仰を得るのかについては、過去においては単純にキリストの優しさや人となりに触れたからだろう。現代において、「私」は親がそうさせたからというのが分かる(ちなみに、これは遠藤周作本人もそうらしい)。戸田については分からない。何か強烈な体験があったのだろうか。
     なぜ信仰を捨てるのかについては、過去においては、その惨めな奇跡も起こせないキリストの姿に失望したからであると書かれている。現代において、「私」については具体的には書かれなかったが、戦争体験やその後の小説家人生を経て、徐々にキリスト像を見失っていたのかもしれない(ただ、「私」は学生時代からそこまで深く信仰していたわけではない)。戸田については、聖書の研究をしていくうちに、従来イメージしていたキリスト像とかけ離れた現実のキリストが見えてきて、失望したのかもしれない。この二人は信仰の大きさに違いがあれども、ともにキリストを見失うというのが面白い。「私」は奇跡も起こせないキリストに失望するが、戸田については仮に理想像と現実がかけ離れていたとしても、そこまで失望してしまったのだろうか。
     そして、過去においても現代においても、再度信仰を得ることになる。ここでいう信仰は一度所持していた、ある意味で盲目的な信仰とは異なる。キリストが愛ゆえにその人の人生を横切ったために、キリストに付きまとわれ、囚われ、忘れることができなくなる。そして、人によっては、愛ある行動を他の人にも行っていくのかもしれない。

     やっぱり難しいと思うのが、キリストが言う「愛」の意味が自分でもよく分かっていないからかもしれない。また、その「愛」に殉じて生きることの意味、正しさ、正義、ひいては人生の意味。それがうまく自分の中でも答えが出てこない。そして、これからも戦い続け、消耗していくのかも。
     この作品は「イエスの生涯」と表裏一体と作者が仰っているので、引き続き読んでいきたい。

著者プロフィール

1923年東京に生まれる。母・郁は音楽家。12歳でカトリックの洗礼を受ける。慶應義塾大学仏文科卒。50~53年戦後最初のフランスへの留学生となる。55年「白い人」で芥川賞を、58年『海と毒薬』で毎日出版文化賞を、66年『沈黙』で谷崎潤一郎賞受賞。『沈黙』は、海外翻訳も多数。79年『キリストの誕生』で読売文学賞を、80年『侍』で野間文芸賞を受賞。著書多数。


「2016年 『『沈黙』をめぐる短篇集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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