燃えあがる緑の木〈第3部〉大いなる日に (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (422ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101126203

感想・レビュー・書評

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  • 燃えあがる緑の木
    三部作ということで長かったですが、本当に読んで良かった。
    今年は大江健三郎を読み続けてきました。後期の作品はまだ1作も読んでいませんが、一旦ここで大江さんからは離れようと思います。
    この作品を自分に落とし込むのに十分な時間が欲しいため、そして後述しますが、”勉強”による“集中”も行なっていきたいため…。
    以下、感想ですが、冗長で妄想まじりです。

    ギー兄さんは、膨張しすぎた自らの教会の構成員に対し、“魂のこと”にあらためて個人個人がそれぞれ専念するため、こう説教します。
    「本当に“魂のこと”をしようとねがう者は、水の流れに加わるよりも、一滴の水が地面にしみとおるように、それぞれ自分ひとりの場所で『救い主』と繋がるよう祈るべきなのだ。」
    さらに、こちらは引用されている、哲学者シモーヌ・ヴェイユの言葉。
    「神は不幸の苦しみを慰さめない」

    これらの言葉に触れて考えたこと。
    第一部、第二部と「“魂のこと”=魂の救済」と解釈して読んできましたが、私は部分的に間違っていたことに気づきました。
    孤立無援で真っ暗闇の“道”(=“魂の暗夜”)を進んでいく、光がどこかに見えてくるかはわからない、光の方から近づいて来てくれることも期待できない、だがしかし、私にできることはただ一つ、光が現れることを、孤独に強く祈り続けること…!
    これが私の“魂のこと”の再解釈です。
    魂は救済される、と私たちが能動的に祈り続ける、この効果のアヤフヤな祈り自体が魂の救済であり、超越者の差し伸べる手を待ち続けること自体は救済に繋がらない、これが内実だと思います。

    この再解釈に伴って思い出したのは、高校生の頃に聞いていたBon joviの誰もが知る曲の歌詞。
    “We’re half way there/ Livin’ on a prayer”
    これは前述した、魂の暗夜で祈る私(たち)そのものではないか?
    さらに話を広げて、一時期YouTubeでよく流れてきた、電車の中でBon joviを熱唱するボンジョビおじさん。
    彼はBon joviの詞を祈りの言葉として、自分ひとりの場所で(実際には電車内で周りに沢山人がいたわけだが)祈り続けていたのではないか?
    そしてある時、周りの人々まで彼につられて熱唱しだす。それは、彼のアヤフヤな祈りが、彼の祈りの中心にある“何か”に届いた、その顕現なのではないか??
    その大合唱の光景は、おそらく彼自身から見ても、部外者の私が映像として見ても、まさに「一瞬よりはいくらか長く続く間」の光景だった…

    もうひとつ、私の凝り固まった考えを、解きほぐし良い方向へ矯正してくれた話がありました。
    またシモーヌ・ヴェイユですが、
    「祈りが注意力によってなりたつ」
    そしてヴェイユは著書で、祈りに必要な注意力・集中力は、学校の勉強に取り組む時の注意力・集中力に鍛えられるといいます。(今読んでいる『神を待ちのぞむ』より)
    私はとくにここ最近、中期の大江健三郎やイェイツを読んでいて神秘主義(オカルティズム)に傾倒しすぎることを恐れて、オカルトと、いわゆる学校での合理的な勉強(自分は理系なので)とを、意識的にキッパリと隔てて考えるようにしていました。
    だからこそ、勉強での集中力、祈りの注意力がお互いを増強し合っている、すなわち隔たりがあるどころか、良い結びつきをもつ両者をひとつながりに考えることに、かなり衝撃を受けたのです。
    そしてこの2つの対極が、しかししっかりと繋がりをもつイメージ。これは作中で何度も登場したイェイツの”Vacillation”の、以下の冒頭そのものではありませんか?
    “Between extremities / Man runs his course;”

    最後に、僕のこれからの“魂のこと”の話だけ。
    前述した「祈りが注意力によって成り立つ」ことについてですが、人が人に眼を向けるとき、または気を配るとき、このようなときも“集中”“注意”を向けているのであって、祈りの一つの形態であると大江さんは言います。
    このような場面を読んでいて、ふと思い出したのは、そこそこ親しくなったバイト先の社員さんが辞職する際に私にくれた手紙。
    「優しくて色んな人のことを見てて、考えてくれるんだろうな〜と思います。」(晒してごめんなさい)
    第一部、第二部と読んできて、私は“魂のこと”なんて今まで取り組んでこなかった、これからも“魂のこと”に向かう分岐点に立ったとき、ちゃんとそちらへ向かうことができるだろうか、と煩悶してきました。
    しかし、この手紙を思い出した後、私はしっかり祈ってきたのだ、無意識に“魂のこと”に取り組んできたのだと、慰められるようでした。

    これからも、自分の内外どちらにも注意を向けていきたいと思います。
    この祈りを忘れないように、作中でも祈りの言葉とされてきたこの英単語を、私も絶えず心の中で響かせていきます。

    ———Rejoice!

  • 3部作の完結編を読了。小説を読み終わって、これほどの感動に身体が震えたのは実にいつ以来だろう。本編の主人公、ギー兄さんは自分自身を一貫して「繋ぐ者」と自覚していた。すなわち、ヨハネの果たした役割である。しかし、その最後はあたかもイエスのごときものであった。終章はこうなるしかないという終わり方だが、それもまた予言が実現したかのごとくである。物語の全体もまた、サッチャンによって語られたいわば福音書としての体裁を持っていた。すなわち、何度も何読み返されることによって、常に新たな意味が付与される物語がこれなのだ。

  • カテゴリ:図書館企画展示
    2020年度第3回図書館企画展示
    「大学生に読んでほしい本」 第2弾!

     本学教員から本学学生の皆さんに「ぜひ学生時代に読んでほしい!」という図書の推薦に係る展示です。
     川津誠教授(日本語日本文学科)からのおすすめ図書を展示しています。
     展示中の図書は借りることができますので、どうぞお早めにご来館ください。

  • 大江健三郎 「 燃えあがる緑の木 」 3部 大いなる日に

    土地の伝承から始まった宗教集団が、個の信仰に分裂し、魂として土地に帰還する物語

    神に帰依する信仰でなく、死者と共に生き、人間と集団をつなぐ信仰を対象としている。伝承、詩、文学など読み継がれてきた言葉が人間と人間、人間と集団をつなげている。

    集団化によって起きる問題に対して、弱い人間、障害のある人間が 暗闇の中のヒカリになっている。両性具有や燃えあがる緑の木(露が滴りながら燃える木)などの両義的なモチーフは、弱い人間と強い人間の共生や集団維持の象徴として用いている

    救い主の自己犠牲による死は必要だろうか。キリストの復活を想起させることが、神に帰依する信仰との類似性を強調しているようにも感じた

  • 神のない祈り

  • 新興宗教が最大まで膨張した結果、そこから萎んでいく過程を描いた3冊目。
     前半は物語の語り手である両性具有のサッチャンが記録者としての客観的立場ではなくなっている。
    自分が特別な存在だと思っていたのに、それが裏切られた結果、存在価値を追い求めて、ひたすら自暴自棄に生きていく姿が読んでいて痛々しかった。その中でギー兄さんが両膝を潰されてしまう事件が発生。ますます「救い主」として神格化は進み、組織が大きくなる一方で、教団間での軋轢や教団の対外的なポジションの難しさなど課題が山積していく。それらに対する各自の所感、対処方法がドラマになっていて、お決まりの過激派と穏健派の覇権争いがオモシロかった。
     ギー兄さんは特に自分の意志とは関係なく教会の中心に据えられて、皆の崇拝の対象となる人生を余儀なくされる。自分のコントロールが効かないまま流されていくしかない人生は虚しいものなのかもしれない。喜んで世襲に乗っかる人もたくさんいるけれど、たとえば天皇制は?という疑問も沸く。大きな意思を大事にしすぎてもしょうがないという著者の思いを感じた。
     原発が1つのテーマとして大きくフィーチャー、当時から明確にNOを示していて、311以降の今読むと小説とはいえ大江健三郎の言葉としてグサグサ刺さる。今生きている我々は次の世代に渡すバトンをあくまで持っているだけ、と言われると環境問題などのタイムスケールの大きいことも身近に考えられる気がする。先ほどの大きな意思がここでは重要視されている。特定の対象を偶像崇拝せずに世界全体の未来を考えて行動することを信仰と呼ぶのなら、信仰することも悪くないのかもしれない。
     あとがきにも書かれているとおり、身もふたもない言い方すれば本作は新興宗教の栄枯盛衰物語だけれどそんな矮小化されたものではない。仏教ベース/ほぼ無宗教に日本において祈ることの意味がどこにあるのか、そもそも何に対して祈るのか?を問うてくる小説。最後に本読みとして刺さったパンチラインを引用しておく。

    本に出会うことの幸不幸ということを話しておきたいんだ。運と不運といった方がさらに正しいかもしれない。本にジャストミートするかたちで出会うことは、読む当人がなしとげる仕業というほかないんだね。選び方もあるし、時期もある。たまたま貰った本にジャストミートすることもあるし、自分が買って来た本で書棚にしまっておいたのが、ある日、ということもある。

  • フレーズ参照

  • やっぱりこうなるか、という感じだったけど、これで集大成っていうのは何か違う。彼が書き続けてくれてよかった。もっとも生きている限り彼は書かずには生きられない人なのだろうけれど。

  • もうこれ、たいへんだー。
    大江健三郎さんは本当に妥協しない人ですね。
    信仰を背負う人を真面目に書くって、もうとんでもなく疲れるはずなのに…

    新・ギーおにいが現代のキリストでありブッダであって、でも宗教=インチキの図式も人々の中にある。
    宗教や奇跡や祈りなんて曖昧なもの、今時力を持たないんですよね。
    原発の方が余程信頼されてしまう。
    そういう部分を物語に都合よく誤魔化したりしないで、新・ギーおにいの葛藤をちゃんと言語化して、投石で殺してしまう。

    あまりに真っ当過ぎてハラハラ感がなかったのは残念ですが、もうこういう話が書ける作家なんてほとんどいないんだろうなぁ。

    12.06.25

  • それぞれがそれぞれの場所で存在しない何かを信じて『集中』する。でもその強さはどこからやってくるのだろうと思う。たくさんの人と一緒に目に見えるものを信じた方がずっと楽だから。でもボクはいやだけど。

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著者プロフィール

大江健三郎(おおえけんざぶろう)
1935年1月、愛媛県喜多郡内子町(旧大瀬村)に生まれる。東京大学フランス文学科在学中の1957年に「奇妙な仕事」で東大五月祭賞を受賞する。さらに在学中の58年、当時最年少の23歳で「飼育」にて芥川賞、64年『個人的な体験』で新潮文学賞、67年『万延元年のフットボール』で谷崎賞、73年『洪水はわが魂におよび』で野間文芸賞、83年『「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』で読売文学賞、『新しい人よ眼ざめよ』で大佛賞、84年「河馬に噛まれる」で川端賞、90年『人生の親戚』で伊藤整文学賞をそれぞれ受賞。94年には、「詩的な力によって想像的な世界を創りだした。そこでは人生と神話が渾然一体となり、現代の人間の窮状を描いて読者の心をかき乱すような情景が形作られている」という理由でノーベル文学賞を受賞した。

「2019年 『大江健三郎全小説 第13巻』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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