楡家の人びと 下 (新潮文庫 き 4-7)

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  • Amazon.co.jp ・本 (476ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101131078

感想・レビュー・書評

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  • 明治・大正・昭和、そして戦争…敗戦。その時代の世相と背景の模写は自然主義の繊細さを思わせ、作家の技量の確かさを感じさせた。
    上巻のレビューでも触れたが、楡家と取り巻く人々の存在そのものは喜劇
    でありながらも、その緻密なまでの世相の模写は、敗戦に向かう皇国の憂いを余す事無く伝え、下巻では悲劇へと人びとを導いて行く。
    しかし。敗戦に立ち向かう龍子が物語を締めくくる事で、戦後の日本を敷衍し、尚且つ、楡家の人びとは、時代の移り変わりとは無関係にどこまでも滑稽で有り続けた。

    しりあがり寿の『サザ江さん』よりも、笑える『サザエさん』なのかもしれない(苦笑)

  • 著者自身の生家、齋藤脳病院をモデルにした楡脳病院を舞台に楡家が没落していく様を描いた作品。とにかく、変わった人がどんどん登場してきて、かなり後半に登場するある人物も実は結構前から病院にいたみたいな話があって、どんだけいるんだと思うけど、実社会でもそんなもんかと思ったり。全編通してユーモアにあふれた作品で、それが笑わそうというのではなく、話の最後にポンと落とすというか、落語のさげのような感じ。
    大正の華やかな時代から戦後までの雰囲気が生き生きと描かれていて、特に周二が戦時中に兵器工場の仕事をさぼって映画館に行ったりする描写には、そんなことも出来たんだと驚いた。周二のモデルは北杜夫自身だからこれはリアルな話でしょ。
    楡徹吉は齋藤茂吉、楡欧州の妻千代子の実家旭飴は浅田飴のことだなと、モデルを推測出来ることも少しあり、それも楽しかった。

  • ずっとこのまま楡家の各々の話が長く続くのなら、もう読むのをやめて違う本に移ろうかなという気持ちになる。
    こうして文章を追い、疲れたらスマホに持ち替えて、と過ごしていると、私自身についてぼうっと考える時間、誰かを思い浮かべる時間が少なくなっているなぁと思った。
    ぼうっとした時間が必要ない状況なのかな。

    戦時中の話になると、『この世界の片隅に』『仮面の告白』とか、今までに読んできた小説や映画の世界が浮かぶ。
    城木さんが瑞鶴の乗って軍医をしているときに、片隅ではすずさんが呉で生きていて、三島は工場で勤労動員させられていたんだなぁと。
    呉で山の斜面に作った畑から、軍艦をスケッチしていたすずさん、あれは内火艇よと指差していた晴美さん、青葉という船に乗っていた哲さん、この世界の片隅にのそういう部分が、楡家の人びとの戦艦の描写と重なり合い、あぁ彼らは同じ時を生きていたんだなと思う。
    中国にいたときに終戦を迎えた熊五郎がシベリア、バイカル湖畔に捕虜として連れて行かれたと語られるだけで終わるが、ここでは石原吉郎の『望郷の海』が浮かぶ。
    経験のない太平洋戦争は、歴史の教科書で学んだときは、その当時を生きる人の事は具体的に想像できなかったが、小説や映画によって、だんだんと具体的になってきた。
    小説や映画は、そういうことができるようだ。
    戦争というと、戦うことを想像するが、その戦いは、人対人の戦いではなく、戦闘機で空から街に爆弾を落とすスイッチを押したり、船の大砲のスイッチを押したりして攻撃する手先の機械操作なんだな。 遠くからスイッチを押す。 それらの被害にあうときは戦いらしく痛みや苦しみがあるのに。
    はじめは島とかで戦っていて、本土では戦いはなく食料が無くなったり家族が戦地に行ったり。
    本土に敵が来るようになっても、空から焼夷弾や爆弾を落とし、遠くにいて顔も見えない。
    本土の人は防空壕に逃げるしかない。
    地上からでは戦えない。薙刀も槍も使いどころがない。戦いというか、空の脅威から逃げることしかできない。 無力感があるだろうな。
    ロシアとウクライナは、戦車で戦っていて、日本の時とは違う。陸続きの大陸的戦い。


    これはとても長い小説。
    1日で読み終えてしまう小説ではその1日しかそれを手に取らず、読み終えれば次に読む本をすぐに求めるの。
    この小説は、1日読んでも終わらず、次に読む本を借りてもこれが終わらなければ次に進めないと思い、朝毎日バスでこの本を開く、1ヶ月近くこの小説以外は読まなかったので、その間この小説を頭の隅に置いたまま過ごしている。
    どうしようもなく長く一緒にいた小説。

    戦地となったカタカナの島の名が沢山出てくるが、それらについてに理解が無く、中国の地名も分からない。
    戦争について知らないことが多い。

    戦場から帰った男の人が、家族のいる家に戻って再会して喜び泣き、良かった良かったとはならない。
    戦場での壮絶な経験は、終戦後に食べ物もある程度あり攻撃によって命を奪われない本国に帰ってきても癒されないで、痴呆のようになってしまうんだな。そんな映画を見た『マイブラザー』PTSD。

    やっと読み終えた、長かった。
    翌日、NHKスペシャル「中国残留婦人たちの告白」を観た。
    戦時中に中国にいた若い女性が、中国人男性と結婚し(望まぬ結婚も)、戦後、1972年まで中国と国交が無く、長く中国に残留した人が多くいた。
    中国は、残留日本人を帰国させること外交のとっかかりにしようとしたという。
    戦後処理という言葉を新鮮に聞いた。
    戦後の混乱の中で、もう中国に移ってしまい向こうで家族を持った日本人1人1人のことを思って、帰国の意思はありますか?と世話してくれるのはすごい細かいなと思ってしまった。
    放って置かれてしまいそうなのにと。
    結婚して子を生んでしまうと、もう中国に居ようと諦めた人もいるんだろうな。
    証言した人は、中国男性の本妻が子を産めないから自分が産んだとか、お金と引き換えに嫁に行ったと言っていた。
    子を生んで、どんな家族になるんだろう?
    いろいろな人がいるけれど、こういう背景のある家族が周りにもいるのかもしれないな。
    中国や台湾の方を見かけるが、どういう事情で住んでいるのか私は知らないなぁ。
    中華街も、そういう人がいるのかな。

    小説を通して、戦前、中、後に生きた人を知り、戦争を少しづつそういうものかと知っていく。
    いつも、戦争といえば第二次世界大戦だ。
    それ以前の争いは、全然知らない。
    満州事変、日中戦争あたりは、第二次世界大戦のすぐ前の繋がりとしてもっと知っていた方がいいのに。
    戦争を、政治の動きから知る道もがあるだろう、評論文から知る道もあるだろう、我よ、手を伸ばしてみてはどうだろう?




    【雀躍】じゃくやく
    こおどりして喜ぶこと。

    【眇たる】びょう
    とても小さく、取るに足りないさま。または、遥か遠くに見えるさま。

    【開闢】かいびゃく
    天と地が初めてできた時。世界の始まりの時。

    【倉皇】そうこう
    あわてふためくさま。あわただしいさま。

    【沮喪】そそう
    気力がくじけて元気がなくなること。

    【けんもほろろに】
    無愛想に人の頼みや相談事を拒絶して、取りつくしまもないさま。つっけんどんなさま。冷然としたさま。

    【銃後】じゅうご
    戦場の後方。また戦時、直接の戦闘に加わらないで、前線の背後にあってこれを支援すること。また、その一般国民および国内をいう。

    【無聊】ぶりょう
    退屈なこと。心が楽しまないこと。気が晴れないこと。

    【屠蘇】とそ
    一年間の邪気を払い長寿を願って正月に呑む縁起物の酒であり風習である。

    【枯尾花】
    枯れたすすきの穂。枯れすすき。

    【飛蝗】ひこう
    大群をなして移動し、通過する土地の青い草を食べ尽くすバッタ類をいう

    【あまつさえ】
    別の物事や状況が、さらに加わるさま。多く、悪い事柄が重なるときに用いる。そのうえ。おまけに。

    【なかんずく】
    その中でも。とりわけ。

    【跳梁】
    はねまわること。転じて、好ましくないものが、のさばりはびこること。

    【敝履】へいり
    破れた履物。また、何の価値もないもののたとえ。

    【魁偉】かいい
    顔の造作やからだが人並外れて大きく、たくましい感じを与えるさま。また、いかついさま。

    【頑是ない】がんぜ
    まだ幼くて物の道理がよくわからないさま。
    あどけないさま。無邪気だ。

    【霏々と】ひひ
    雪や雨が絶え間なく降るさま。

    【点綴】てんてい
    ひとつひとつをつづり合わせること。また、物がほどよく散らばっていること。

    【やおら】
    ゆっくりと動作を起こすさま。おもむろに。
    静かに。そっと。

    【駘蕩】たいとう
    さえぎるものなどがなく、のびのびとしているさま。

    【眇たる】
    非常に小さいさま。取るに足りないさま。

    【須臾】しゅゆ
    少しの間、しばし
    漢字文化圏における数の単位である。逡巡の1/10、瞬息の10倍に当たる。

    【笈を負う】きゅう
    遠く故郷を離れて勉学する。

  • 「楡家の人びと(下)」北杜夫著、新潮文庫、1971.05.25
    500p ¥700 C0193 (2019.08.13読了)(2019.01.23購入)(2004.11.30/51刷)

    【目次】(なし)
    第二部  5頁
    第六章

    第十章
    第三部  182頁
    第一章

    第十章
    解説  辻邦生  493頁

    ☆関連図書(既読)
    「楡家の人びと(上)」北杜夫著、新潮文庫、1971.05.25
    「どくとるマンボウ航海記」北杜夫著、新潮文庫、1965.02.28
    「幽霊」北杜夫著、新潮文庫、1965.10.10
    「どくとるマンボウ昆虫記」北杜夫著、新潮文庫、1966.05.30
    「若き日と文学と」北杜夫・辻邦生著、中公文庫、1974.06.10
    「喋り下し世界旅行」斎藤輝子・北杜夫著、文芸春秋、1977.05.30
    「マンボウ夢遊郷」北杜夫著、文芸春秋、1978.03.25
    「難解人間VS躁鬱人間」埴谷雄高・北杜夫著、中央公論社、1990.04.25
    「若き日の友情」辻邦生・北杜夫著、新潮社、2010.07.29

    内容紹介(amazon)
    楡脳病院の七つの塔の下に群がる三代の大家族と、彼らを取り巻く近代日本五十年の歴史の流れ……日本人の夢と郷愁を刻んだ大作。

  • ホテルのビュッフェみたいな作品。新しさ、面白さ、文章の美しさ、読み応え、あらゆる食に関する欲求をこの本は満たしてくれる。

    病院ってのはすごいところだ。金と力と名声の集積地だね。祖父母が商売をしていたので分かる気がするけど、いい思いをすればそれが起点になるわけで、そうなるとマラソンの記録みたいにベストを更新していかない限り満たされなくなる。つまりいい思いをすればするほど「いずれ不幸になるかも」と感じる神経が鈍くなってより反動が大きくなる。楡家の人々は、基一郎に与えられ過ぎた分、不幸になっていると言い切っていいと思う。戦時中であることを差し引いても。

    それにしても虚構に見栄を厚塗りしたような楡家の人々を清々しいほど滑稽に表現する作者の心意気は、実に痛快そのものだった。普通に表現すればいいものをあえてボロカスに言いまくるあたり、術中にはまった感あるけど本当ににやけるほどに面白かった。特に187項あたりから始まる米国と熊五郎のやりとりなんか最高だわ。

    下巻から印象的だったのをいくつか抜粋

    ・峻一は一年ほど前から、とある飛行機マニアの同好会に入会していた。世間にはマニアと呼ばれる人種がざらにいる。飛行機に関しては峻一とそっくりの、彼よりも年下からずっと年長者までを含めた、主に横浜と東京に居住する十五、六名の飛行機気ちがいの小さな会があって…(51項)

    ・しかしそれは、たとえば以前にだしぬけにフルーツパーラーへ行こうと提案した時のように、弱者の追い詰められた短絡的な反応、一時的にかっとなった余裕のない反射に過ぎず、後に一層の自己嫌悪と絶望を残すのを常とした。(201項)

  • 北氏および斉藤家の自伝的小説の下巻。破天荒な基一郎が中心であった上巻から打って変わって、戦争の描写が大部分を占める。

    第二部の後半、第二次大戦が始まる直前からスタートするのだが、新型の戦闘機を眺める峻一など、一部を除いて全体に暗い。また、少なくとも二部の間は、あまり「ふざけた北杜夫」は姿を現さず、真に迫った戦争描写を行っているところは特筆であろう。

    終戦が近づく第三部では、時折「ふざけた北杜夫」が顔を出すが、第一部ほどに気にはならない。ただ、明らかに「狙った叙情的表現」が出てくるのは鼻につく。

    また、この作品の中では非常に少ない戦死や戦傷の表現も、えげつなく、回りくどくない適当な表現が使われている。

    戦争中のトータル4回の冬の表現も僅かではあるが、特に年を書かれないため、「まだ終らないのか」とジリジリさせられるのは、当時の雰囲気をよく現しているのではないのか。

    最終的に、楡家は一部だけ復活することは出来ても、家族のそれぞれがバラバラで、癖があって、仕事嫌いという、かなり難しいキャラクターの設定の書き分けを、これだけ長い間書き続けられているのは、なかなか出来ないものであろう。

  • 戦局が徐々に悪くなる。第二次大戦を通して市井の人々の姿、戦争の実態がよく描かれている。2015.5.31

  • 『とにかくさまざまの事柄が起る。だが、さて思い返してみると、一体何があったのか?あんなこと、こんなこと、それは確かにあったのだ。しかし今は何時だろう?正月が、院長の参内が、あの途方もない事件が起ったのはついこの間のように思っていたのに、もう暮が迫っている。ふたたび賞与式が、餅つきが、大掃除が近づいている。一体この一年なにがあったのか?~しかしそれがどうしたというのだ。人々は考える。なんにせよ一年が経ったのだ、と。そして人間も病院も変わらない。~そしてその繁栄は永久に続くように思われる。~だだ、それは錯覚というものだ。時間の流れを、いつともない変化を、人々は感ずることができない。刻一刻、個人をも、一つの家をも、そして一つの国家をも、おしながしてゆく抗いがたい流れがある。だが人々はそれを理解することができない。一体何があったのか?なんにも。』

    『一体、歳月とは何なのか? そのなかで愚かに笑い、或いは悩み苦しみ、或いは惰性的に暮らしてゆく人間とは何なのか? 語るにつまらぬもの、それとももっと重みのある無視することのできぬ存在なのだろうか? ともあれ、否応なく人間たちの造った時計の針は進んでゆく。もっともいろいろな時計がある。~しかし機械にすぎぬ時計を離れて「時」とは一体何なのか? それは測り知れぬ巨大な円周を描いて回帰するものであろうか。それとも先へ先へと一直線へと進み、永遠の中へ、無限の彼方へと消え去ってゆくものであろうか?だが、そもそもそんなことはわかりはしない問題なのだ。一体誰がそんなことを考えよう? 少なくとも楡家に住む人間が、楡脳病科病院に関係する者すべてが、どうしてそんなことに頭を患わせる必要がある? なにはともあれ時は移ろってゆく。なるほど「昔と今」を人々は見分けることができる。~久方ぶりに会う者、遠くから離れて見られる者だけが、いくらかずつの、或いは思いがけない変化を感じとることができる。~そしてその中に暮らす人々のほとんど変わらぬ日常は、そうして歩みを怠っている「時」の中に埋没している姿なのだ。~だが、そんなことはそもそも「時」の本質とはかかわりのないことだ。たとえ関係があるとしても、それは片手間のちょっかい事にすぎぬ。「時」はもっと大きなことをやってのける。楡病院の人たちが、その存在をわきまえないで暮らしているうちに、「時」は小さな些細事を集積し、或いは夢想もできなかった大鉈をふるう。それは間断なく何事かを生じさせ、変化をもたらし、大抵の人間たちの目には見えぬ推移と変遷のかげで、そしらぬ顔をして尚かつ動いてゆく。どこへとも知れず・・・・・・。~そもそも時はそんな事件とは関係がないのではないか? だが、なにはともあれそれは動いてゆく。移ろってゆく。一刻また一刻、とどめることもできず、抗いがたく、茫漠とまた確実に、何事かを生じさせていく。一体どこへ向かって? 誰がそんなことを知ろう。誰がそんなことをわきまえよう。』

    『精神医学史という一つの限られた領域にせよ、それはまぎれもなく人間全体の、人類の歴史に違いなかった。そこには人間たちの偏狭さ、その迷妄、同時に栄光にまで結ばれる強靭な努力の後がまざまざと刻みこめられていた。そこには古来から絶ゆることのない精神異常者の姿があったが、またその異常者たちはいわゆる正常者と質が異なり、あるいはその性格が誇張されているため、なおさら人間というものを浮彫りにしてくれた。彼らに対する社会の反応は、またこのうえなく人間らしい際立った反応でもあった。~なるほど彼は数多の書物をむさぼり読み、個々の歴史、個々の症例に通じはした。しかし知識の堆積は、彼の視野を拡げはせず、深めもしなかった。ちょうど煩雑な分類学に狂奔した学者たちが、肝腎の病人から、人間自体からますますかけ離れていったように。それは対象から離れること、冷静に展望することではなく、密着であり埋没でありすぎた。』

    「か、かいびゃく以来の・・・・・・開闢以来の不良少女、あたしのバッグをちょっと持ってて」
    「なによ、あなたこそあたしのを持ってよ、さあ開闢以来の不良少女」

    『無代で持ってきた品物であると思われては受け取る兵士の感銘が薄かろうと考え、わざと幼なっぽくこう書いた。「私は毎日朝早く起きて家じゅうの人の靴を磨きます。それからおうちの前の通りを綺麗に掃除します。お父さまがお小遣いをくださったので、私はこの慰問袋を兵隊さんに送れるわけです」」すると何ヶ月も経って、藍子の出鱈目な手紙よりずっと心の籠もった返事がきたりした。~さすがに藍子はこわくなりそれからそのような手紙を書くことをやめた。』

    『戦争をやるかやらないかの問題ではない。いつかは、どこかで、新しい解決方法をとらざるを得ない立場に日本は追いこまれているのだ。やるより方法がないのだ。城木も当然そう感じたが、心の一方では、まさかという気持ちが理窟よりも根強くはびこっていた。なかんずくアメリカと事をかまえるなどとは、いくらなんでも、まさか。』

    『~母親にも、仲の良い友人にも、城木のことを彼女は一言も打明けていなかった。この少女には、自分の運命は自分で決めるという矜持があった。龍子から伝わる一風変わってかたくなな、藍子の場合には未だ小さく可愛らしい矜持が。』

    『建物の崩壊する重苦しいひびき、硝子の割れる明るく乾いたひびき、破壊することは彼らはなんでも大好きであった。そして仲間にまじって、この無益な行為にふけるとき、周二はいつものじめじめした自意識から離れ、柄になくのびのびと呼吸できるような気がした。~敵機に対するおおらかな憎悪、ひろびろと焼けはらわれた光景に対する訳もない爽快感が、こもごもに周二を訪れた。彼は思った。なんであれ焼けてしまえば似たようなものだし、どのように生きたにせよ死んでしまえば同じようなものだ。~~~人間を一人くらい殺してそれがどうだというんだ。ばかばかしい。何にもないのだ。実際この世には何もないのだ・・・・・・』

    『~~むしろお前たちを不幸に陥れた。だが、これがわかって貰えるだろうか? 決してお前たちを愛さなかったというのではない。だが、何かが。自分の生れつきが、性格が、何か諸々のものが、ある宿命のようなものが、物事をこのように運んでいったのだ。だが、弁解はすまい。自分は確かに冷たい父親であった。世間のよき父親ではなかった。~そうして、そのままに今、その生涯が過ぎようとしているのだ。愚かであった、と撤吉は思った。自分は、――自分の一生は一言で言えば愚かにもむなしいものではなかったか。あれだけあくせくと無駄な勉強をし、そのくせ僅かな批判精神もなく、馬車馬のようにこの短からぬ歳月を送ってきたにすぎないのではないか。いや、愚かなのはなにも自分一人ではない。賢い人間がこの世にどれだけいるというのか。自分の周囲、少なくとも楡病院に暮らしていた人々は有体にいえばすべて愚かであった。誰も彼もが愚かであった。だが愚かなら愚かなりに、もっと別な生き方もできはしなかったか?少しは妻ともなごみ、子供たちをも慈しみ、せめて今の意識をもう少し早く持つことができたら!』

    他人の噂話を聞いているような感じがした。確かに思うことはあるんだけど罪悪感を感じるような。いつの時代も人間は基本的に人間だなあというようなことを感じてそれが嬉しいような悲しいようなそんなに人間わかんないけどとか言い訳するような。こういうのもやっぱり外から覗くから思うようなことでもあるなあ、と。面白さは人によって違うと思うけれど読みやすかった。上巻のほうが好みだけど引っ掛かりがあるのは下巻が多い。わたしの時のイメージはメビウスの輪っかだ。回っても良いし、それを切っても延々と広がって続いていくかんじでもいい。

  • 日本全体が戦争に突き進んで行き、楡家の人々もまたそれぞれに否応なく戦争に巻き込まれて行く。 上巻でもそうであったが、この下巻でも登場人物は客体的に描かれ、突き放されている。そして、みんながみんなそれぞれに孤独だ。楡家という家族はとうとう像を結ばない。

  • 奥付をみると私が中学生のときに買ったことになっているが,たぶんその頃は読んでない(読めてない)から,たぶん初読.
    著者の家族をモデルにした家族史.その背景となる明治,大正,戦前の日本の歴史、社会が非常に良く描かれている.それが堅苦しさを感じさせず,あらゆる登場人物がある種のユーモア,愛情をもって書かれているのがこの小説の良さだと思う.
    なお,北杜夫のいろいろなエッセイや,斉藤茂太「精神科医三代」にはモデルになった人たちの実像が書いてある.

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著者プロフィール

北杜夫
一九二七(昭和二)年、東京生まれ。父は歌人・斎藤茂吉。五二年、東北大学医学部卒業。神経科専攻。医学博士。六〇年、『どくとるマンボウ航海記』が大ベストセラーとなりシリーズ化。同年『夜と霧の隅で』で第四三回芥川賞受賞。その他の著書に『幽霊』『楡家の人びと』『輝ける碧き空の下で』『さびしい王様』『青年茂吉』など多数。『北杜夫全集』全一五巻がある。二〇一一(平成二三)年没。

「2023年 『どくとるマンボウ航海記 増補新版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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