恍惚の人 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (448ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101132181

感想・レビュー・書評

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  • 今年の6月5日にオープンした有吉佐和子記念館(和歌山県和歌山市)に先日訪れた。建物は氏の東京都杉並区にあった邸宅を故郷和歌山市に移したもので書斎も見学できる。しかし…あろうことか著書を一冊も読まずに来てしまい、帰宅後多くの方からオススメの作品を教えていただいた。「大変失礼致しました…」と氏に謝意を表しながら、その内の一冊から読むことにしたのである。

    ある雪の日、仕事帰りの昭子は離れで暮らす舅 茂造が、コートも着ずにあてもなく雪道を歩く現場に出くわす。この茂造の様子がどうもおかしく、タイトルの通り恍惚としていた…
    これは言わずと知れた認知症だが、1970年代を生きる登場人物らを見ていると、老化によって発生する自然現象とでも認識しているように思えた。実際「認知症」という名前は2004年に銘打たれたものらしい。
    単なる「耄碌(もうろく)」と見られていた認知症をただならぬ病だと捉えた著者の見識たるや……作品が長く受け入れられているのも非常に納得した。

    発症前から昭子をいびり倒していた茂造を彼女が主体となって世話しなきゃいけないのがまず不憫でならなかった。息子 敏を除く家族・ご近所・老人向けレクリエーション施設や福祉事務所の職員とヘルプを求める範囲が広がっても、結局は「家族が見てあげるのが一番」と振り出しに戻(され)る。
    自分の近親者に該当する者はおらず、何がお互いのためになるのか今でも分からずにいるが、ワンオペがアウトなのは想像に難くない。

    本書に出てくるような、健康体で頭脳明晰な高齢の方をどこでも見かける一方で『認知症世界の歩き方』といった関連本が今でもよく売れている。手に入れたのが不老長寿の長寿だけだったとしたら…?
    昭子や夫の信利が、茂造の衰えを通して自分達の将来像に不安を抱くのも無理はない。人生100年時代の現在、50年も前の作品を前にしていると言うのに、やっぱり著者の見識たるや…(以下略)

    昭子があの境地に至ったのは驚いたが、気難しかった茂造をあそこまで生まれ変わらせたのだと思えば、彼女の苦労も偲ばれる。

    「ママ、エキスパートになったね」

    たった一人でエキスパートになっても、全てが終われば今まで通りの、自分らしい人生がちゃんと返ってくるのだろうか?
    涙ぐむ昭子に視線を注がずにはいられなかった。



    度重なる感染拡大によって、またもや気軽に会えないご時世が続くなか、ブクログ以外でオススメ本を教えてもらえたのが今回何よりも幸せでした。勿論ブクログでもこうした交流を継続させていきたいです。今後とも宜しくお願いします! 

  • ◯名作。大変面白かった。
    ◯現代人であれば必ず読むべき一冊。将来の自分をあらゆる意味で見通す。

    ◯現代における個人の孤独を鋭く描写している。鋭角過ぎて突き刺さるほどである。
    ◯文章表現・演出も巧みである。言葉の選び方が場面を活かしている。

    ◯昔から認知症はあったはずである。しかし、核家族化が進む中で、認知症の存在は忘れられ、血縁である家族ですら、認知症を忌避することとなった。
    ◯また、個人を尊重する世界の中では、他者のことはまさしく他人事なのである。それは家族であっても。現代の孤独の構造を先鋭化して我々に突きつけるのが認知症であり、その故に文明病なのである。

    ◯この小説が描かれたのは高度経済成長の最中であり、今以上に福祉制度が発達しておらず、それを補完する形で家族制度が維持されているという悲しい幻想の中で、極めて個人・個が浮き彫りとなってしまった実態との乖離が人々を悩ませている。
    ◯現代においては、介護保険制度が成立、運用され、老人への福祉制度は充実したかに見えても、今度は子育て世帯が孤立を深め、虐待へと繋がってしまう。あわせて少子化がどんどん進んでいく。現代人の孤独の構造は全く変わっていない。むしろ、制度が充実するほどに、矛盾してより深い傷となっているのではないか。現代の孤独が、現代の社会問題すべての原因とも考えられる。

    ◯この小説に出てくる人間たちは、実に現実的で、それ故に我々の共感を呼ぶが、全員自分の事しか考えていない。結末で孫が言ったことは悲しい。それに涙した母は、最後に義父と家族になったのかもしれない。

    ◯登場人物たちのそれぞれに共感する。しかし、その共感には違和感を覚えていいのかもしれない。我々の孤独に対してどのように対応していくのか、今もって結論は出ていないのだから。

    • kamitakoさん
      突然の投稿、スミマセン。確かに社会にインパクトを与えたという意味では貴重な作品なのですが、この領域でお仕事させていただいている身としては違和...
      突然の投稿、スミマセン。確かに社会にインパクトを与えたという意味では貴重な作品なのですが、この領域でお仕事させていただいている身としては違和感しかありません。
      心理行動症状にフォーカスしてしまい、当事者の生き辛さがないがしろにされている。
      このラベリングによる弊害は今も払拭できていないのです。
      正しい当事者理解に繋がればと思います。
      2020/06/10
  • 何考えてるんだ、こやつは・・・

    認知症の親の瞳を覗き込む。

    でもそれは、「恍惚」と言った陶然とした表情でなく、単に感情が読めない、そんな感じ。

    「恍惚の人」を知ったのは、高校生だった昭和57年、文学史の教材で。

    それから40年、気になっていたが、老人問題なんて・・・読むのを後回しにしてきた。

    この小説のすごいところは、昭子の介護の奮闘ぶり。

    僕も介護の入り口に立った経験からわかるのだが、時間的にも体力的にも精神的にも、食事と下の世話までしなければならず睡眠も妨げられる、となれば、限界はあっという間にやってくる。

    介護保険が整う前、昭子のように舅の介護に全力を尽くす主婦が珍しくなかったとすれば、その献身・実行力には驚嘆するしかない。

    この作品は、1972(昭和47)年に一番売れた本であり、その後の介護制度・人々の価値観の礎となった・・・

    ということを先ほど知った。

    この作品の小説を超えた偉大さは理解したつもりだが、読んでいて決して楽しいものではない。

    老いは家族と自分、いずれは誰にでも訪れる、避けては通れない未来ではあるが、それが実際に訪れたとき、看護師やヘルパーや介護施設、病院の助けを借りて、自分らしい、充実した人生を送ることができるよう生活環境を整えていく。

    これも、今の時代を生きるには、とても大切な価値観だと思う。

  • 最近どうしても読みたくなって、30数年ぶりに再読した。このベストセラー本が私の実家の本棚に入ったのは、確か昭和48年。私は中学生だった。読んだのは、高校に入って数年後、埃をかぶった箱カバーを開けた。夏休みの無聊を慰めるためだったと思う。この物語の一人息子敏くんとは同年代になっていた。

    当時の私の家には「老人問題」が勃発していた。80歳後半になろうとしていたおばあちゃんは、もう一人で外出は出来ず、家族の顔も時々間違えるようになっていた。廊下に失禁の後が延々続くのは、もう少しあとだったか?

    昔読んだ時は、茂造老人の人格の豹変、家族の名前をいびり抜いた嫁と孫しか覚えてない、突然の徘徊、キリのない食欲、夜中の幻覚、そして糞の畳への塗り付け等々にショックを覚え、それぐらいしか覚えていなかったことを読みながら思い出した。

    今回再読して、ものすごく新鮮だった。いま敏世代は介護する側に回っている。私も数年前には父親の最期を看取り、一昨年から叔母夫婦の介護計画を立て悩んでいる。嫁の昭子の右往左往、仕事を辞めないで介護しようとする彼女の工夫と努力と間違いには、大いに共感した。今回は完全に昭子の立場で、あるいは茂造老人の立場で読むことができ、景色は大きく広がった。

    昭和47年刊行のこの時代、介護保険はおろかヘルパーさえいない。高度経済成長の最中の老人介護問題という面であらゆる矛盾が噴き出てくる直前に、この本が出てきたのだろう、と今ならわかる。

    私のおばあちゃんは結局看護婦長をしていた叔母が毎日介護にきてくれて、刊行から約10年後92歳で家の中で往生した。その叔母ももういない。

    恍惚の人は認知症の人と名前を変えて、私の現在と未来を未知のモノにしている。

    2014年2月8日読了

  • 昭和47年刊行された小説。空前の大ベストセラーだったらしい。
    今でいう認知症の老人(老人性痴呆と書かれていた)を介護する息子の嫁。当時は老人ホームに預ける=親の面倒を見るという義務の放棄という世論だったことがよくわかる。50年後の今は施設やヘルパーが増えて介護問題がだいぶラクにはなった。公共の老人クラブはデイサービスの原型かな。いろいろ興味深い。

  • 乾いた筆致で有吉さんが「老い」や「死」、「家族」を淡々と描く。特段の美化も遠慮もなく、今の時代であればおおよそ差別的意味合いを以てして使ってはならないとされている単語が跳ねる。

    夫の両親と敷地内同居しながら、法律事務所で職業婦人として働く女性昭子。
    専業主婦が当たり前であった時代、仕事と家事、受験生である息子のサポート、加えて義理父母の老いや死に全速力でぶつかり切り拓く昭子の姿は当時新鮮だったことだろう。

    老いの現実、死に伴う儀式の空虚さ等々、飾ることなく淡々と粛々と。疲れ果てながら舅の老いに向き合う自分の不寛容さや、不甲斐なさが細やかに綴られ、また自らの親でありながら介護に逃げ腰の夫に不満を感じながら時間が経過する。

    よく言われることだが、同じ苦労でも成長していく育児と異なり、ゴールや前進が定まらない介護。目標も充足も見いだせず時が経過するのは辛い。
    世間体に右往左往し、医療と福祉のはざまのどうにもしようのない事態に困難を極める様に読み手の心も塞ぐ。

    年を取ってこうはなりたくないと、老いて生産性がなくなるどころか、周囲を困らせる舅の行動の連続に介護する昭子と夫が自分の将来の老いに絶望する。

    私も子どもたちを食べさせること、育むことに無我夢中だった今までの時間。
    子どもたちが巣立った今、気づくとコントロールできない老いが足元にあった。
    自分が年を取るなどと想像だにできなかった若い頃から一足飛びに時間が経過する。

    高齢化と少子化に待ったなしの現代。有吉さんの1974年の作品は今を予言していたかのようだ。
    嗚呼、ピンピンコロリが私の夢。子どもたちには迷惑をかけたくないなあ。

  • 有吉作品の代表作として押さえておきたかった一冊。
    老人の問題に自分の行く末を見るから憂鬱になる。それがよくわかった。
    身近な人がこうなったらどうするかを考えておくためにも、読んでおいたほうがいい。でも現実的には全然どうしたらいいかわからない・・・。

  • 認知症がいる家庭がリアルに描かれていて、亡くなった祖父母を思い出しては泣いて考え、を繰り返して読み終えるのに時間がかかりました。それほど影響力のある本だったと思います。
    若い世代は老後の面倒を見るところまでは考えられるけれど、自分が見られる側になる想像までは至らないというところにまるで自分だったのでひどく納得しました。

    泰山木の白い花を見つめるシーンがとても印象的です。

    昭子さんよう頑張った。。

  • 高校生くらいの頃から、自分が年老いたらどうなるんだろうと考え続けてきた自分にとってはとても読み甲斐のある作品だった。あまり表立って語られることのない介護の問題は、現代の日本においては年齢問わず必ず皆が知っておくべき事で、この本にはそうした学ぶべき事が多く書かれていた。それは単なる事実に依らず人間としての在り方も含めて。

  • 「ひとごとが自分になったとき」
    と思いながら再読した

    才女といわれた作家の文章はやはりすばらしい
    てだれている
    読みやすいとはこういう文章をいうのだ

    大ベストセラーになった
    あの時、 読んだわたしは30代だった

    それから40年あまり
    「恍惚の人」は「認知症」と言う病気なり
    と世間で認知され進化しているが
    老人人口がますます増え
    老人問題も多角化してしまったこの時代

    あの時の衝撃が
    今や違った意味での衝撃と共振になった

    まず
    この小説は主人公の昭子を40代後半に設定してあるので
    昭子が舅の老化現象から「老い」を看取るの大変さと
    自身が「老いに向かう不安」を感じたようには
    まだまだわたし自身深刻に考えていなかったこと

    そして
    わたしが当年になった現在の状況を踏まえたとき
    どーすらゃいいのか、ひとごとではないのだから
    なんとも皮肉な小説であることよ

    もちろん
    冷静なふりをして、この老後問題に
    理知的な行動をとっているつもりになっているんだ
    けどこころのなかは不安だらけ、、、、、

  • まるで実在の家の出来事をそのまま移し取ったようなリアリティで、舅の認知症が始まり、亡くなるまでのごたごたを描いた作品。

    茂造の認知症が進行していくのは、醜悪でありながらどこか可愛らしく、怖いもの見たさでぐいぐい読んだ。
    だんだん昭子の介護は、子育ての様相を呈してくるが、どんなに大切に世話をしても、介護の最後に待つのは死だ。ラストの昭子の涙は切なかった。

    自分に置き換えると、母がまず介護する側になるとして、私は信利のように、苦労に気付かぬふりで任せてしまわないだろうか、敏ほど手伝えるだろうか、この時代よりは福祉が進んだであろう今、逆にご近所がこんなに助けてくれるのか…とあれこれ考えさせられた。
     

  • 姑が亡くなり、残された痴呆症の舅・茂造の介護から看取るまでの話。
    この時代(昭和47年頃)まだ社会的な介護システムはなく、老人ホームも少なく、
    多くの場合、高齢者の介護は嫁ひとりに押し付けられていた。

    主人公である嫁・昭子は、この時代には珍しい「職業婦人」だ。
    今日のように家電が充実していないので、
    週末は1週間分の掃除・洗濯・翌週の食事の下ごしらえと忙しく、のんびりする暇もない。
    そこに持って来て介護の上積み。
    茂造の息子である夫は、全く我関せず。
    痴呆の発症以前は昭子をいじめ抜いた茂造だったが、
    自分の面倒を見てくれるのは、昭子しかいないという本能が働くのか、
    彼女の後ばかり追廻し、息子のことは認識もできない。
    添い寝・風呂・下の世話と、大嫌いだった茂造の世話が迷惑で堪らない昭子だったが、
    ある事をきっかけに、茂造を生かすことに自分の使命を感じるようになる....。

    現在、法的な介護システムの整備が進み、施設が増えたといっても、
    それにも増して高齢者の増加が著しく、入居まで何年も待たねばならないと聞く。
    訪問ヘルパーも導入されてはいるが、やはり在宅介護で嫁の肩にのしかかるものは大きく、
    根本の問題は以前と何ら変わりないように思う。
    この時代に問題提起した作者の先見の明には驚くばかりだ。

    ずいぶん前に同作者の「非色」を読んだ時に、襲いかかる数々の困難に屈する事なく、
    女性が逞しく、力強く生きて行くストーリーが一番好きだとはっきり自覚した。
    本作の主人公・昭子も同じく、介護を通して人間的に成長し、強く温かく変わっていく。

    「血は水よりも濃い」と言うけれど、人生の最終章で大切なのは血ではなく、
    愛なのか情なのか分からないが、その人に対する深い思いではなかろうか。
    茂造の死で泣いたのは、昭子ひとりだった。

    • comuchiさん
      フォローいただいてありがとうございます。m(..)m  私も「非色」に出てくる、強い女性が大好きです♪「不信のとき」も、主人公の奥さんがしっ...
      フォローいただいてありがとうございます。m(..)m  私も「非色」に出てくる、強い女性が大好きです♪「不信のとき」も、主人公の奥さんがしっかり働いていたりしてるんですよね。有吉さんの作品は昭和までの時代が舞台で、かつ、お仕事小説ではないのに、女性が普通に職を持っているところがステキだなと思います。
      2014/03/21
    • 夢で逢えたら...さん
      comuchiさん、はじめまして。
      こちらこそフォロー有難うございますm(μ_μ)m
      「不信のとき」もずいぶん前に読んだので忘れかけてい...
      comuchiさん、はじめまして。
      こちらこそフォロー有難うございますm(μ_μ)m
      「不信のとき」もずいぶん前に読んだので忘れかけていましたが、comuchiさんのレビューで思いだしました。かっこ良かったですよね(^^)
      有吉作品に出てくる女性達は運命に翻弄されず、自分の力で道を切り開きますよね。女性差別がまだまだ多かった時代に、男性に頼らず自立した女性が増える事を願ってらしたんでしょうね。
      comuchiさんの本棚&レビューを拝見していくつか興味を持ち、読んでみたくなりました(^^)これからもよろしくお願い致します。

      2014/03/21
  • これが、40年以上も前に書かれた本だなんて。
    名作は年月が経っても色褪せないように、時代を感じさせても古臭さを一切感じさせない1冊でした。
    「愛」と同じく「老い」というのは、時代を越えて語り継がれる普遍的なテーマですよね。

    中でも焦点が当てられているのは、「認知症」について。
    300万人以上の認知症高齢者がいる現在、65歳以上の10人に1人は認知症だと言われています。その割合は年齢が上がるにつれ増えていき、85歳以上の4人に1人は認知症なのです。寿命が長くなればなるほど、避けては通れないのが認知症に関すること。
    それを40年以上も前に取り上げ、社会に大きな影響を与えた著者の功績は大きいですよね。

    とはいえ、私は最初この本に対していいイメージを抱いていませんでした。
    認知症というとネガティブなイメージを抱く人が多いですが、この本こそが認知症のマイナス面ばかり取り上げ世間に広げた本、という誤った認識を持っていたのです。
    衝撃的な書き出しから始まりますが、この本は真摯に老いる人、介護をする人、そしてそれらを取り巻く社会について向き合い描き出した1冊だったのです。

    介護保険が始まり15年ちかく経ち、介護の社会化も随分進みました。それでも希望する人がすべて施設入所できるわけではなく、むしろ私たちは限られた財源の中、地域で包括的にケアしていく道を歩んでいくようになります。
    仕事柄認知症の方と接する機会が多いですが、人はその人が生きたように老いていくのだと感じます。私もいつかは、老いてかわいいお婆ちゃんになりたい。

    本書で登場するような働く嫁と介護の問題、施設入所を希望してもできない現状、徘徊への対応など課題は今もなお残されていて、超高齢社会を生きる私たちにとって、「老い」は避けて通れないものであるからにして、早いうちからしっかり向き合っていきたいものですね。全ての人に1度は読んで欲しい1冊でした。

  • 有吉佐和子本をいろいろ読んでいても、痴呆症がテーマということを聞いてなかなか手が出せなかった本。意を決して読んでみたら、さすが有吉さん、暗さ一辺倒の本ではありませんでした。

    私が有吉さんの本が好きな理由としては、ちょっと前の時代のイキイキと働く女性の姿に共感できるから、というところがあるんだけど、まさかこの本でも主人公が働いているとは思わなかった。40年近く前に書かれたこの本の中で、主人公の昭子は働きながら家事をこなしています。昭子は「うちの家計に余裕があるのは私が働いているから」と自負していてデパートで高級な冷凍食品を買ったりするけれど、夫の信利は「あいつは好きで働いているだけ」と、昭子の働きを評価しません。また昭子は「家事と仕事の両方をこなすためには、文明の利器はフル活用しなきゃ」と当時まだめずらしい冷凍庫付き冷蔵庫や洗濯乾燥機を駆使して毎日を乗り切っています。・・・これってなんだか、つい良い食材を買っちゃったり、ルンバを買ったりしてる働く現代女性と同じじゃないすか!すごく親近感が湧いてくる描写でした。でも小説の中盤で彼女の仕事がタイピストだと知り、ああ、今はない仕事なんだなーーーと感慨深いものがあったり。

    そうこうしているうちに、舅はどんどんボケていくのですが、信利はまったくヒトゴトモードで手伝いなんて何もしてくれません。もう、信利には腹立たしいの一言であります。そして、赤ちゃんがえりした舅に「あー面倒くさい。早く死ね!」と、つい思ってしまうのですが、物語の意外な終わり方を見届けた後では、ああ、痴呆の介護ってそんな単純な問題ではないよね・・・と短絡的思考の我が身を反省いたしました。ごめんなさい。

    大変な状況を乗り切った昭子には、賞賛の言葉がかけられるべき。なのに、当時は全然そんなことなくて、そんな扱いが当たり前だったんだよね。切ない。せめて私から、「大変だったね!40年後のいま、介護をめぐる行政サービスはそれほど変わっていないけれど、夫たちの協力する姿勢は少しは改善しています。そして高齢化社会は予想通り加速し、世の週刊誌は毎週毎週介護特集ですよ」と慰めの言葉をかけてあげたいです。

    そして、痴呆症を陰の存在から、みんなの共通する話題へと引き上げてくれた有吉さんは、ほんとにすごい人なんだなーと思う次第です。

  • 姑の突然死により、痴呆の舅の面倒を看ることになった女性。

    徘徊癖のある舅のため夜は添い寝。
    毎晩外でする小便につきあう。
    入れ歯を取り外して洗う。
    果てには下の世話まで。
    兼業主婦である彼女の肩に全ておいかぶさってくる。

    この小説はかなり昔の小説で、時代は戦後の昭和。
    面倒を看る嫁は大正、舅は明治生まれ。
    今の人間とはかなり感覚が違うだろうけど、ここまで出来るだろうか?と思った。
    主人公の女性は本当に優しい人だと思う。

    姑が無くなったその瞬間から、彼女は葬式の手配から親戚への連絡、舅の世話と全て家の事をこなしてきた。
    その間夫は感傷にひたっていただけ。

    途中彼女も疲労とストレスで夫にその事をなじるが、普通ならもっと早い時点で夫を責めてただろうし、そこまでもしないだろうと思った。

    面倒を看てもらう舅は頭がハッキリしていた時は気難しく家族から嫌われていた。
    ボケた方がまだマシだというのを見て、はぁ~という感じだった。
    ボケた舅が認識できたのは嫁と孫だけ。
    それで孫(主人公の息子)がなるほどと思う事を言っている。
    「犬だって猫だって飼い主はすぐ覚えるし忘れないんだから。自分に一番必要な相手だけは本能的に知っているんじゃないかな」

    あとこの小説では、今と違って近所のおばあちゃんが一緒に老人ホームまでつきあってくれたり、家に痴呆老人がいることをスーパーなどで立ち話できるのが何となく救われた。
    今ならこの状況、短絡に殺人とか自殺といったところまで話が飛びそうだけど、どこかのんびりした雰囲気を感じるのは時代のせいかな?と思う。

    最近車に毎日乗らなくなってから、私の車はあちこちガタがきました。
    最初は原因不明の電気系統の故障。
    次はブレーキ。
    そして、今は雨になるとエンジンの調子が悪く、ブレーキをかけて止まる度にエンジンも一緒に止まりそうになる。

    この「恍惚の人」に正に同じような文章が出てきます。
    「人間は頭でも躰でも動かしていればいたむのが遅いんですよ」
    車も人間も同じ。
    使わないところからサビがくるのかな~。
    そう思えば歳とっても働ける内はせっせと働こうと思いました。

  • 40年も前には介護サービスもなかったが、ここ(人格欠損)まで恍惚の人も身の回りには居なかったという記憶。
    そういう延命治療もない時代に書かれたお話なので、とことん生かせてやろうという気持ちにもなれたのかなぁ・・・

  • タイトルと、認知症を題材にした話ということ、映画化されている、という情報のみ知っていた。
    昭和47年に書かれたものだと知って驚いた。昔の小説なのに読みにくさはなかった。
    昭子が私の祖父母世代、敏が私の親世代だと気付いた。茂造は明治生まれだから私の曾祖父母世代か。
    昭子は、さんざんいびられたのに、仕事も続けながら舅の介護をやり遂げた。当時にしては珍しい、職業婦人で、電気洗濯機、さらには電気乾燥機まで持っていたというのには驚き。(私の祖父母世代は、桶と洗濯板で洗っていたと聞いていたし、乾燥機なんて当時存在していたのか⁉️東京はそんなに進んでいたのか⁉️)当時にしてはかなり先駆的な家庭だったのでは。
    昭子は、「私が仕事を辞めて介護に専念すればいいと思ってるんでしょ?」と夫にイライラし、信利は自分の親なのに「将来の自分を見ているようで辛くなる」と言い、オロオロするばかりで何もできないところは、現代もあまり変わっていないと思えた。
    息子や娘の顔は忘れても、嫁と孫の名前は覚えている茂造のことを敏が、「誰が自分の世話をしてくれるか、役に立つ人か、本能で覚えているんじゃないか」と言ったのはすごい考察だ。

    茂造の妻は、夫が耄碌していることを隠していたのかな。夫を立て、周りから変な人だと思われないように、息子夫婦に迷惑をかけないように、毎日世話をしていたのかな。
    昭子は、嫁いびりされていたのを思い出すと怒りが湧き、「昭子さんのことが好きなんじゃないの」と言われてゾッとしていたが、だんだん息子の世話をするような気持ちに変わっていき、ついには「私の手でできるだけ長く生かしてやろう」という境地に至る、心情の変化が描写されている。よく頑張った!!

    当時の福祉サービスについても垣間見ることができた。老人会館というのが今のデイサービスのようなもので、老人ホームもあったが、人格欠損した人、身寄りのない人が入る所で、福祉職員でさえも、「あそこへ入れるのはかわいそう。家で見るのが一番。」という考えが一般的だったのかな。
    昭子は、家に福祉職員が来て話をしたのに、老人ホームはいっぱいで、何も建設的な意見が聞けることなく落胆した。だからみんな仕方なく最期まで家で見たんだな…すごいの一言に尽きる。

    茂造は、娘から、「お父さんの人生って何だったんだろうね。妻にも優しくできず、息子にも孫にも興味なく、嫁いびりして、自分の胃腸のことばかり気にして、最後には耄碌して」というようなことを言われている。そんな茂造が、最後には赤ちゃんのようにニコッと笑うようになって、小鳥と花とオルゴールを愛でる天使のようになって、こんな日が来るなんてねぇと昭子や敏が言い合っている。本当に、幸せなおじいさんだと思った。

    門谷さんのお嫁さんも言っていたが、「あんなに憎かった人のお世話をすることによって、今は神様にご奉仕しているような気持ちになる。今頑張れば自分も安らかな老後を迎えられるような気がする。」と。終わりの見えない辛い介護の中、みんなそういう気持ちで耐えてきたんだろうな。

    この本に出会えて良かった。
    森繁久彌さんの映画も観てみたいと思う。

  •  妻は、私に介護が必要になったらすぐ施設に入れると。頑張って、健康維持に努めなくてはいけませんw。遅れ馳せながら、有吉佐和子さんの「恍惚の人」(1972.10)を読みました。これが、50年前の作品とは。全312頁を一息に読了しました。老人性痴呆が始まり、息子や娘がわからなくなった立花繁造84歳、息子の嫁の昭子だけはわかって、昭子さん、昭子さんと。この小説は、ボケが進行していく義父と、働きながらも義父をしっかり面倒をみる昭子が描かれています。昭子さんが素晴らしいです!

  • ★4.0
    本書が初めて出版されたのは1972年。それから50年が経過したけれど、全く古さを感じさせないことに驚くばかり。むしろ、現在進行形の問題と言える。当時に比べると、施設やサポートや手当は増えたのだろうと思う。が、全ての人に行き届いているとは到底言えない。そして本書の巧いところは、認知症を患う茂造の年齢に近い人だけでなく、子の世代や孫の世代の視点からも見られること。例外なく、誰もがいつかは老いる。若いうちは分からなくても、それは必ずやってくる。自分の親と自分自身のその時を、否応なく考えさせられる。

  • 途中、読み進めるのが辛いと思うくらい、生々しく描かれているが、だからこそのめり込んで読み切ってしまった。生きるということ、死ぬということについて考えさせられる作品。何かの答えを示してくれるというよりは、高齢社会について考えるきっかけを与えてくれる作品だと捉えています。

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著者プロフィール

昭和6年、和歌山市生まれ。東京女子短期大学英文科卒。昭和31年『地唄』で芥川賞候補となり、文壇デビュー。以降、『紀ノ川』『華岡青洲の妻』『恍惚の人』『複合汚染』など話題作を発表し続けた。昭和59年没。

「2023年 『挿絵の女 単行本未収録作品集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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