指揮官たちの特攻: 幸福は花びらのごとく (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101133287

感想・レビュー・書評

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  • 終戦記念日が近いこともあり、手に取った一冊。

    神風特攻隊の第一号に選ばれ、レイテ沖に散った関行男大尉。最後の特攻隊員として敗戦を知らされないまま玉音放送後に沖縄へ飛び立った中津留達雄大尉。二人の人生を対比させながら、戦争と人間を描いたドキュメンタリー。

    昔、鹿児島へ旅行した時、まさに特攻の地である知覧を訪れたことを思い出した。
    片道分の燃料しか積まずに、その分爆弾を積んで自らもろとも敵艦隊へ突っ込んでいく。まだ10代の青年が殆どで、その心境とは如何なるものだったのだろう。
    その知覧には所狭しと父母や妻あてに書かれた手紙が展示されていた。とても10代とは思えないほどね達筆で…すみからすみまで読み返した記憶が蘇った。もう一度、いつの日か知覧という地へ足を運ぼうと思った。

    ウクライナの紛争しかり、今、少なくとも平和な日本の世の中に感謝しなければならない。

  • 大戦末期のなりふり構わない特攻作戦の惨さを改めて教えてくれる城山氏晩年の作品。「回天」や「桜花」はまだしも、海に潜った人の手による「伏龍」や水上機特攻に至っては何をか言わんやである。自身の入隊体験をまじえながら描かれる指揮官2人の過酷な運命。彼ら所縁の地を目で確かめたり、遺族を探り出して取材敢行したり…戦争の本質を後世に伝えたいとする氏の使命感や熱意がとても強く伝わってきた。ちなみにここで語られるエピソードの数々は「永遠の0」でも引用されている。

  • またこの季節がきました。今の日本の繁栄の影で命を捧げた英霊達に敬意。

  • ご存知、ビジネス小説作家城山三郎氏による、渾身のノンフィクションである。城山氏自身が戦中海軍に所属していたようだが、若年だったため身分は訓練兵であり、出征は免れた。
    著者の無念さが全編を通してにじみ出ている。著者自身の、特攻隊員たちへの最大限の弔いとして本書が書かれたに違いない。というのは、巻末の参考資料が何十冊というすごいリストなのである。何としてでも正確な記録を残そうという著者の執念というか、真摯さが感じられる。
    表紙にある写真は、一人目と最後の特攻隊である。最初の関氏は、「僕ほどの技術を持ったパイロットに攻撃をさせずに特攻をさせるとは、バカげている」と言いながらも、命じられて散った。最後に特攻をした人は、何と終戦を知らず飛び込んだのであった。これら23歳の若者たちはともに家庭を持ったばかりで、何とも惜しい。また信じられないのが、戦後その母親たちが後ろ指をさされながら暮らさざるを得なかったということだ。特攻専用機の桜花や、人間魚雷の回天の記述には胸が痛んだ。
    若者だった著者自身の回想も入っており、ちょっと読みにくい個所もあるが、極力分かりやすく書く努力が見受けられる。著者の使命感を感じさせる本である。

  • 特攻一号士官の関大尉と、宇垣中将と最後の特攻をした中津留大尉を核とした特攻の物語。数々の醜悪な特攻兵器と司令部の指揮。戦争を賛美する者に呪いあれ。

  • 2001年に小説新潮に短期集中連載された城山三郎氏の小説。日本海軍初の神風特別攻撃隊「敷島隊」の隊長だった関行男と最後の「第七〇一航空隊艦爆分隊」の隊長だった中津留達雄、2人の人生を中心に特攻に関わる海軍の動向を描いたものです。他にも様々な特攻隊員や特攻兵器が登場します。他の特攻を扱った作品と異なるのは、特攻隊員の家族のその後をきちんと描いているところだと思います。特攻を美化することもなく卑下することもなく淡々とした文章ですが行間から作者の気持ちが溢れてきます。作者の丹念な取材による優れた作品です。



  • 明日、死ね。
    国家のため、国民のため。皇国の軍人として散れ、と。
    いきなり、告げられるのである。
    昭和2年生まれの昭和を丸々生き抜いた著者自身の海軍体験を散りばめながら、神風特攻隊として殉じていった海軍兵学校の同期生二人の人生を対比しながら、綴られる一冊。
    本書中にも記されているが、茅ヶ崎でかつてサザンオールスターズを誘致して球場でライブを行ったことがある。その際、照明演出のために二射の光線が上下左右、夜を飛び交った。
    かつて戦中、この球場は対空砲ではなく対水上の敵機を撃つ為の海軍の高角砲陣地であった。
    探照灯である。
    遠浅の茅ヶ崎海岸は、米軍の日本本土上陸作戦コースに予想されており、海岸に接近してくる米艦船めがけて砲撃するのだが、そのときには敵艦船からの集中砲火を浴び、空からは爆弾の雨。加えて、北方台地に布陣する陸軍の重砲隊の砲弾まで浴びかねない。その中で仮に生き残れたとしても、次には爆弾を抱え、敵戦車の下に飛びこんで終わり。探照灯を見て、そんな悪夢を思い出されるわけだ。
    自分が10代だったあの時、地元でサザンが来るってんで浮かれてた中で、爆弾を抱え肉片が飛び散るあの頃を無理矢理思い出させられていた世代がいると。
    無知とは酷く残酷だ。細かな史実も知らないとならないな。戦争を知らない世代が、新たな悪夢を生むやもしれん。
    本書表紙右が、最後の特攻隊長中津留大尉。左が最初の特攻隊長関大尉。
    無知が罪を生むということを痛感した一冊でした。

  • 戦争とはなんて残酷なものなんだろう。
    そして、もっと残酷なのは、戦争を理由に人間の命を軽く扱った当時の軍のトップたちだ。
    「一億総玉砕」という言葉の持つ意味を本当にわかっていたのか。
    国民がいない国家など存在しない。軍は日本が滅びるまで戦争をやめるつもりはなかったということなのだろうか。
    現代でも何故こんな簡単なことがわからない?と思うような発言をする政治家がいる。
    誰が考えても最優先すべきは他にあるだろう!と思うのに、企業利益を真っ先に守ろうとする企業家がいる。
    本当に大切なものは何か?
    トップに立つ者が優秀だとは限らない。
    上に立つ器でもないくせにトップに立ってしまった人間の下につく者は、悲劇しか待ち受けていない。

    関大尉は実は特攻の第一号ではなかった・・・というのは別の資料で読んだことがあった。
    先に出撃した者の戦果が確認されていない(出撃にあたり機関銃・無電は不用との本人申し出あり)。
    掩護機もなく、何よりも兵学校出身者ではなかった。
    特別攻撃隊を「神風」と言い、特攻で散った者を「軍神」と言うためには、第一号はどうしても兵学校出身者でなければならなかったらしい。
    周囲からは「軍神」と持ち上げられながらも、戦後は一転、世間は冷たく遺族が石を投げられるようなこともあったという。
    戦争が終わっても悲劇は終わってはいない。
    宇垣纏中将が第五航空艦隊の司令長官に着任したのは終戦の年。
    幾人もの軍人を輩出している一族の出身である。
    それまでは通常爆撃が原則であり、あくまで特攻は例外とされていた。
    しかし、着任早々に宇垣は主客転倒を宣言する。
    すなわち「特例の無い限り、攻撃は特攻とする」と特攻を原則としたのだ。
    戦争は人を狂わす。
    「桜花」や「回天」に代表される人間を兵器の一部として使う武器。
    いかにして身を守り相手を斃すかではない。最初から死ぬことが決まっている戦術である。
    「桜花」の初出撃の結果は悲惨なものだった。
    70機以上の戦闘機による掩護が必要だと訴えたにも関わらず、配備されたのは55機。
    実際の掩護機はさらに少なく30機しかいなかった。
    重い爆弾を抱えて動きの遅い一式陸攻は、アメリカ戦闘機集団のかっこうの獲物となった。
    「桜花」ごと全機が撃墜されてしまう。
    「桜花」隊員15名、一式陸攻隊員135名、掩護機隊員10名の命が一瞬にして失われた。
    軍のトップにとって人の命とは何だったのだろう?
    戦争がすべて悪かった・・・と言い切れるのだろうか。
    当時次々と開発されていた特攻のための特殊兵器。
    多くの人間が兵器の部品として出撃させられた。
    しかし、隊を組んでの出撃であっても、ほとんどは海軍兵学校出身者は隊長のみ。
    あとは予備学生出身者と予科練出身者で構成されていた。
    口では「一億総玉砕」と言いながら、職業軍人たちは温存されていた事実。
    理由はいろいろあるのだろう。
    けれど、こうして時間が経てば、予備学生や予科練出身者に多くの犠牲者が集中していることは明らかである。

    「特攻を原則とする」と宣言した宇垣中将は、結局歴史にその名を残した。
    終戦の日、玉音放送があったことを宇垣中将は部下たちに隠したまま出撃したのでは?と筆者は伝えている。
    米軍キャンプ地に特攻をしたとき、飛行機に爆弾は積まれていなかったようだ。
    米軍キャンプ地にたどり着いた特攻機は2機。
    ともに直前で進路を変更し、岸礁と水田に突っ込んでいる。
    隊長でもあった中津留大尉は操縦士としての技量はトップクラスだった。
    だとしたら、意図的に米軍キャンプ地を避けた・・・と考えるのが妥当だろう。
    もしもこの特攻が成功していたら。
    戦争終結後に攻撃をした日本は、国際的に立場を無くし、戦後の復興にも影響がでていただろう。
    宇垣中将は終戦の勅命をどう受けとったのか。
    死なずにすんだ若者たちを何故道連れにしたのか。
    「宇垣さんが一人で責任をとってくれていたらなぁ」という遺族の言葉は、宇垣中将に届いているだろうか。
    戦争は哀しい。戦争は残酷だ。そして戦争は人が人として生きることを許さない。
    二度とこんな時代がこないように、心から願う。

  • 2015年の15冊目です。
    海軍の神風特攻隊作戦を最初の特攻退院関行男大尉(レイテ沖)と終戦の玉音放送後に最後の特攻隊員として沖縄に出撃し帰ることのなかった中津留達雄大尉の二人の生き方を対比させながら、史実を丹念に調べ書きあげられている作品です。ともに結婚し家庭の幸せも手に入れていた若き指揮官の人間ドキュメントです。
    70年前の出来事と私の生きている今とは、繋がっているはずだが、積み重ねられた惜別と悔恨の情を知るすべもなくなりつつある。こんなことに思いを馳せる年になったということかもしれない。

  •  長編『官僚たちの夏』をそろそろ読もうと思っていたので、その準備も兼ねて。

     特攻隊第一号の関行男大尉と、最後の特攻隊員中津留達雄大尉についてのドキュメント。涙無しには見られない悲劇のストーリーというよりは、淡々とした描かれ方。それでも、訳の分からぬ作戦を断行した上層部への静かな怒りが伝わってくる。

     著者自身が昭和初期の生まれで、海軍に志願し入隊していたとのこと。現代では理解の外にある考え方であり、そんな考え方を持ったまま入隊した海軍の腐敗と終戦がどれほど堪えたのか、これもまた理解の外にある。

     海軍の腐敗だとか特攻隊の評価だとか、そういったものはこの短編を読んだ程度で語れることでもないし語りたくもない。その一方でこの本を読んで印象に残ったのは、登場人物から垣間見える信念の強さだと思う。陛下に捧げた体であるとして我が子への輸血を拒んだ高橋赫一。東京裁判で一言もしゃべらず一身に罪を引き受けた広田弘毅。終戦後の米軍基地への特攻を直前で避け、平和への軟着陸の一翼を担った中津留達雄。などなど。

     もちろん、現代の価値観に照らすと善悪の問題にはなろう。しかし、自分を貫くことができたのは、教育による洗脳などではなく、自分の中に折れない芯のようなものがあったからなのかな、と思う。それは著者がその身で経験した海軍の腐敗描写との対比で明らかだ。

     戦争について多くの著作を残した城山三郎も、強い信念に突き動かされたのだろうか。次に読むのは『官僚たちの夏』だが、広田弘毅について描かれる『落日燃ゆ』も読んでみたいと思う。

著者プロフィール

1927年、名古屋市生まれ。海軍特別幹部練習生として終戦を迎える。57年『輸出』で文學界新人賞、59年『総会屋錦城』で直木賞を受賞。日本における経済小説の先駆者といわれる。『落日燃ゆ』『官僚たちの夏』『小説日本銀行』など著書多数。2007年永眠。

「2021年 『辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件 新装版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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