新史太閤記 (下巻) (新潮文庫)

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著者 : 司馬遼太郎
  • 新潮社 (1973年5月29日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (450ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101152110

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司馬 遼太郎
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新史太閤記 (下巻) (新潮文庫)の感想・レビュー・書評

  • 『のぼうの城』石田三成がやりたかった水攻め、本家本元、秀吉が仕掛けた高松城の落とし方がやっとわかった。
    三谷幸喜の『清須会議』、出席者が違うではないですか、『太閤記』では滝川一益が会議に出てる……等々事実はどうだったのか私には判断出来ないけど、読み比べ出来るのが楽しい。
    解説によると、司馬遼太郎は「日本歴史(地理)について何の知識もない人」が読者なんだという前提で書いているという。丁寧な人物描写、地形や気候の説明で、あたかも現実にそれらが起きているように錯覚する。歴史の知識が有れば一層楽しく読めるだろうが、教科書程度の知識でも十分楽しめる。
    そして、この秀吉に関しては、彼が『野の涯から出た、それもひとりで出てきた男』で、大名の子として生まれ、先祖代々からの家来がいて、忠誠な家臣がいる織田信長や徳川家康とは根本的に違うこと、秀吉がなみいる強豪を統率できているのは、ひとえに秀吉の稀代の才気と大気と演出力によるものだから、秀吉が消滅すればその勢力は雲散霧消してしまう儚さがあることを秀吉自身が一番良く知っている、という設定が、教科書で習った秀吉没後の歴史に照らしても、秀吉を魅力的にしている点だと思う。だからこそ、最後の秀吉の辞世が胸にじんとくるし、寧々ゆかりの高台寺の屏風に大きく『夢』と書かれていたことが、今更ながらに、胸にすとんと落ちる。

  • 人の好意によろこばぬと、人はかえって裏切る。ーなるほど

  • 秀吉の一代記、最後どこまで描かれているんだろう・・・と思ったら、秀吉が頂点に登りつめたところまで、だった。司馬遼太郎の前に、他の小説家の戦国時代小説を読んだので、いかに全ての時代小説において司馬遼太郎が影響を与えているかが分かる。「下」は家康が多く登場した。鳴かないホトトギスを「殺す」織田信長。「鳴かす」豊臣秀吉。「待つ」徳川家康。最後の勝者は「待つ」か。興味深い。

  • 豊臣秀吉の生まれから天下人になるまでの半生を描いた作品。他の歴史小説で断片的には読むものの、ここまで詳細にわたって語られる作品は初めてであり、知らないことも多くあった。言うまでもなく天下一の人蕩らしであり、人の心の機微を察することで、結果自分の思うように相手を動かす人心掌握術は、実生活においても繋がる部分があるように感じる。晩年、朝鮮出兵など人が変わったような施策を行うのであるが、そこまでは触れず、天下人としてのピークで終わっているあたりが非常に心地よい。

  • 今までの「豊臣秀吉」像が、この本を読んで少し変わった。
    知略と武功とユーモアとを兼ね備えた面白い人だったんだな~~。
    何でも明るくやってのけるのが素晴らしい。
    戦も、城攻めも、織田家乗っ取りも、じめじめせず快活にやってのけるのもこの男の「人たらし」さがあってこそ!
    センスがありカリスマ性もあり徹底的な冷淡さの中で統率をとった信長さん。一介の下層民からのしあがり、いつの間にか天下を手中に収めた秀吉さん。その両者の蔭にはいつも家康さんの忍耐力があった...そりゃ爪噛むわ!!
    次は、徳川家康についても読んでみよう。

  • 終盤、秀吉の焦りを記述しているあたりから、特に人物描写が繊細になっている。非常にリアルな秀吉を感じることができた。何度読んでもやはり面白い。

  • 信長が死んでからが面白かった。

  • 平成28年9月30日読了。秀吉の人心掌握術の鮮やかさが心地よい。その心地良さのためには家康上洛のところで終わるのも仕方ないか。

  • 再読了、そうやったね、こんな終わり方やった。
    まぁこの作家と言えばそれまで、どんな作品でも陽しか描かない(描けない?)人だから。
    この人物は人間の両面性を醜く描くにはもってこいだと思うんだけれども、この作家は絶対に負の側面をどこまでも追求しないから。まぁこの司馬遼の楽観性(ちょっと厳しく言えば能天気さ)こそが日本のサラリー親父さん達を虜にするんでしょうが。

  • 心地よい始まり方、心地よい終わり方。
    司馬遼太郎とはこんな著者であったのだろうかと思えるほど、淀みなく秀吉を感じることができた。
    竜馬がゆくのように、蛇足が一切ない点も逆に現代に続く事実が導かれやすく面白い点である。
    陰湿な先の見えないと言われる時代において、秀吉の生き方はなんと示唆に富んでいるだろうか。
    暗いものには希望は寄ってこない。
    そんな場面をことごとく見せつけられた私は、たまたま人生の岐路に立っているからこそ、この作品にはまったのかもしれない。
    しかしながら、面白い作品に出会えて幸せだった。さて、今夜はどんな芝居を打とうかなあ(笑)

  •  敵は京であり、戦場ははるかに遠い。しかしながらこの間、秀吉はたえまなく軍令をくだし、使者を放つなど、すでに戦場にあるように多忙であった。行軍しているかれの鞍の上がすでに作戦所であった。この点、かれの作戦思想は、かれ以前の軍事的天才たちとまるでちがっていた。かれ以前の軍事的天才たちーー上杉謙信、武田信玄でさえーー敵を肉眼で見てから合戦を開始した。しかし秀吉の合戦は、敵を見たときにはもはや合戦のほとんどがおわっていた。あとは勝つだけであった。
    (戦さとは、そうあらねばならぬ)
     そうおもっている。戦さは勝つべき態勢をつくりあげることであった。味方を殖やし、敵の加担者を減らし、戦場に集結する人数は敵の倍以上ということを目標としていた。合戦のもつ投機性を減らし、奇蹟を信ぜず、物理的にかならず勝つ態勢へもりあげてゆく。
    ーーかならず勝つ、という態勢ができてからはじめて戦さをする。戦さは、それをはじめる前にすでに勝っていなければならぬ。
     というのが、かれの思想であった。後年、この男は越後へゆき、神秘的名将ともいうべき上杉謙信の故郷をたずね、
    ーーしょせんは、田舎大将だ。
     と評した。謙信のやりかたは投機性がつよく、つねに現場の技巧主義であるということが、田舎ーー旧式である、ということを、秀吉は言いたかったのであろう。


    「ぜひぜひ、岐阜さま(三七信孝)にお力添えを、賜りますように」
     といった。勝家にすれば要するに「自分は雪で南下できない。幸い貴殿は東海の暖地にいる。すぐ兵をさしむけ、信孝を援けよ」ということであった。
    (そういうひとだ)
     と、家康は柴田勝家という人物の身勝手さがおかしくなった。
    (なんのためにわしが三七信孝をたすけねばならぬ)
     理由がなかった。理由は勝家の側にこそあるが、家康の側にはない。勝家はつねに相手の側の都合や役割を考えようとはせず、自分を中心に轆轤でもまわすように物事をまわそうとする。そういうひとだ、と家康がおもったのはそのことであり、
    (相変わらずらしい)
     と、そのことがむしろおかしかったのである。家康のみるところ、勝家は調略のできる男ではない。調略をしようと思えば、いまは家康がなにを欲し、なにを怖れ、なにに魅力を感じているか、ということについて犀利な分析がなければならないが、勝家にはそういう感覚がまるで鼻が欠けたように欠けている。

  • この本を読み終えたあと、
    秀吉が始めて、治めた城下町 長浜に行ってみます。

  • 秀吉が改めてすごいなと思うのは、その処世術。上から気に入られ、下から慕われるための行動力が天才的すぎる。現代の仕事の人間関係にも通じる要素だなあと思った。

  • 最近私の中で戦国時代ブームで再読。言わずとしれた秀吉の話。

    信長に使える前の下郎の生活の描写が想像力を刺激し何ともよい。また、秀吉の出世していく様や信長、家康との性格の対比も興味深く、人間関係形成方法の勉強にもなる。
    話も秀吉の絶頂期で終わっているところも小気味良い。

  • 何と言っても本能寺の変からの。
    中国大返し、山崎の戦い。そして織田家内での柴田勝家との仁義なき戦い。
    このあたり、天と運とに恵まれて。
    泥の中から出てきた快男児が、日本史上初めての天下統一への坂道を、朗々と登って行く眩さを、わしづかみに描き切っています。
    毎度思うのですが、司馬遼太郎さんは実に、クドく無い。
    とある場面が目に浮かぶ気がするんですが、実はその前後は、バッサリザックリ、省略だらけ。
    そこの省略具合が、俯瞰的で、結局のところクサく無い。幼稚な感じがなくなり、実に大人な味わいになる。関西風味、薄味。でも出汁はしっかり取ってます、という感。
    終盤、秀吉が、天下統一の先陣の最中に。
    ふっとタンポポを口に入れます。
    かつて、タンポポを食べるしかなかった惨めな少年時代を思い出します。
    そんな場面の鮮やかさ。
    司馬遼太郎さんは、明朗で合理的で、農民的と言うより商人的な豊臣秀吉が、生理的に好きなんでしょうね。
    活き活きと楽しそうに、陰謀と殺戮にも満ちた秀吉の半生を歌います。でも暗くないんですね。そんな道のりを明るく踊りながら登って行く、そんな風景です。
    そして、土地と農耕に拘らず、商業と流通と冒険を好んだ、秀吉と言う歴史存在のワクワクさを、浮かび上がるように解説してくれます。
    唯一、小説の終りは、パキンポッキリ尻切れトンボ。
    晩年の20年くらいは一切描きません。
    それでも面白いから良いのですが、やっぱりちょっと残念。…なんですけれど、実はコレ。秀吉さんの晩年は、ちょっとイカれてしまって、無益な朝鮮侵略を繰り返し、かつ失敗し、傲慢な独裁者として不安な死を迎えているんですね。その辺、司馬さんとしては筆が乗らなかったんでしょうね。
    (その辺りの空白期間を司馬さんの語り口で楽しめるのが「功名が辻」「豊臣家の人々」ですかね)

  • まさにイメージどおりの秀吉、といった内容の時代小説。その魔術的な調略等には、そこまで見越すのか!という驚きの連続だった。どこまでが史実で、どこまでがフィクションなのかわからないのが、司馬遼太郎の長所でもあり短所でもあると個人的にはおもうのだが、全編を通じて、秀吉は「そうだったのかもしれない」と思わせるような書きぶりはさすがである。

  • 単純に、昔って大変だったんだなー、と思いました。現代も、昔とは違う大変さがあることは分かっているんだけど、自分があの時代を生き抜けただろうか、と自信がなかった。
    豊臣秀吉がお寺に預けられていたことは知らなかった。農民の出で、尚且つお寺でいろいろ体験したことが、武将としてのし上がっていくのに役だったんだろうか。
    私がこの作品から学んだのは、逞しく生きていこう、と思えたこと。

  • 上下巻ともに読み終えました。特に下巻を読み通して思ったこと、秀吉公の人生をまた別の視点から描いた物語も読んでみたい。そんな動機付けをされる一冊でした。

  • 対中国毛利 三木城攻め 辺りから。秀吉は得意の人心掌握術によって天下をおさめていく。家康が上洛するあたりで完となる。歴史ものを読むといつも思うのだが、いつの世も人が人を動かし、世の中を変えていく。秀吉は、自分の一挙一動が人にどのように映り、伝わっていくのかを天性の勘で計算し、振る舞う。そこに本心や本当の自分との乖離が存在する場合、陰湿な感や鬱屈とした感情が芽生えたりするが、そういったことを感じさせないほどに自分をコントロールし、それが本心であると自分自身が信じ込む。かつそれを客観的に見る視点もしっかりと備えている。こんなすごい人物、ちょっと気持ち悪いが、そんな想像を超える人物であるからこそ、このような壮絶な仕事をやってのけたのだろうと思う。

  • 毛利攻めあたりから本能寺の変を経て全国統一へ。それにしても中途半端に終わってるな。個人的には秀吉が気が狂ったような行動を起こす晩年の方にも興味があっただけに、ちょっと期待外れ。秀吉は信長に拾われ、彼が死んだのでチャンスを得たようなもんだと思った。そういう意味では本当に運が良い男だなと。ただし、いくら調略がうまくて運が良くても徳川家康には勝てなかったことが印象的。秀吉は旧信長家臣討伐に忙殺されたけど、家康はそれを傍観し、力を蓄えていた感がある。この物語の後に展開される朝鮮出兵や関ヶ原について読みたいなぁ。

  • 終わりはあっさり

  • 下巻は本能寺の変での中国からの大返しから、天下を取るまで。織田家の重臣たちや、家康との駆け引きの心理描写が絶妙です。

    これまで司馬作品は幕末以降のものばかり読んでいましたが、戦国物も最高に面白いですね。史実資料が幕末以降に比べて少ないため、逆に物語の描き方が大胆で、小説としての魅力はこちらのほうが上かもしれません。

    他の司馬戦国物もいろいろと読んでみたいと思います。

  • しかしまあ、秀吉とは読めば読むほどにおよそ実存したとは思えない。これほど血筋にこだわる国で、あの時代にいかに天分に恵まれたとはいえ、不器量で好色で…

  • 再読。秀吉の人となりが生き生きと描かれていて、読んでいて爽快。中国大返し~清洲会議~柴田勝家との戦の流れは、何度読んでも心が鳴る。
    何を志にするか、志のためにどのように行動するか。達成のためにタスクを淡々とこなすだけでは不十分。人を魅了してこそ。

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