- Amazon.co.jp ・本 (560ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101152196
感想・レビュー・書評
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動乱の幕末期に忽然と現れ、第二次長州征伐で幕軍の戦意を喪失させ、討幕軍総司令官として彰義隊を駆逐した村田蔵六こと大村益次郎は、「勝って当然」と勝ち戦に無頓着、誰彼問わず不愛想、孤独に徹し〝田舎医〟で〝技術屋〟として〝我ハ一個ノ機械ナリヤ〟と自嘲する、時代が要請した稀に見る特異な人物を描く圧巻の憂愁編。西郷隆盛が独走する西南戦争を予見し、京都での対戦準備の最中、刺客に襲われてしまう。知らせを受けて駆けつけたシーボルト・イネが臨終まで付き添った記述と併せ、木戸孝允や勝海舟らの賞賛と敬服の念が湧き上がる。
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坂本龍馬の仲介で薩摩藩と手を結んだ長州藩。蛤御門の変では敵だった両藩は討幕を掲げ手を結び京へ上る。江戸幕府の世が終わると誰も予想していなかったが、鳥羽伏見の戦いで形勢は薩長に傾く。
明治維新へのターニングポイントがこの鳥羽・伏見の戦いで、諸藩が「ひょっとして・・」と思わせた衝撃があった。この時期の課題が大政奉還を行った徳川慶喜の処遇。死刑に、という声もあったそうだが、西郷と桂による助命運動により、慶喜は明治の世を生きることになる。
そして西郷と勝海舟による江戸無血開城。内乱になれば欧米の介入を招くかもしれず、日本は清のように植民地化されてしまう、という危機感のもと江戸っ子・勝さんの西郷どんの話し合い。双方の知略と政略がダイナミックで格好いい。
この頃、桂が再び大村を呼ぶ。薩長連合内における緩衝役として、または、偉いのか偉くないのかよく分からない新政府の軍務大臣としてその任に就いた。形の上では討幕軍総司令官である。東へ東へと新政府軍は日本を征圧していく。戊辰戦争を現場で指揮したひとりに土佐の板垣退助がいるが、総司令官である大村益次郎は江戸にいる。薩長肥土の雄藩連合体の新政府軍では兵が足りない。そもそも金がない。
これでよく勝ったと思うが、ここでも大村が頑張る。
現場から「武器と兵を補充してほしい」と懇願される。大村はじっと目を閉じて沈黙したあと一言「それはできません」。なぜだ!と食い下がる士官。大村はいう。洋式銃などの武器数と銃の飛距離、人員と行程を計算すれば、いまの編成で充分であると理詰めで説明する。
「これでできぬならあなたが無能か、軍資金を隠して私腹を肥やしている証拠です」と大村。
云われた士官は激高し、ここで腹を切る!と騒ぐが大村は取り合わない。「話がわからんなら、担当変えるから」とつれない。
このつれなさは昔から。周防の村医者時代、患者から「今日は暑うございますね」と挨拶されたら、「夏だから当たり前です」と大村は答えたという。不愛想なので人気がなかったが総司令官になっても同じ。新政府内でも「なんだアイツ」と人の感情を逆撫でする言動が多い。特に薩摩の海江田信義とは反りが合わなかったようで。結局、この因縁がきっかけで大村の最後が決まってしまう。とにかく超合理主義者。他人の感情の機微に疎い。というか興味がない。
長州藩出身者からも「なんだよ、あいつ」と思われつつも、軍事は大村さんに任せましょうと新政府内で調整したのが薩摩の西郷隆盛。ここの件は西郷どんの器の大きさと人間性が感じられるエピソード。西郷どん。。
ただ戦略家としての大村益次郎の才は天性のものでこのときも存分に輝く。兵員を緻密に使いこなす戦術の綾と戦場で計算外のことが起きたら「さっさと逃げなさい」とあっけらかんと指令できる合理性。戦争だから予想外なことが起きる。そのときは無理をしない。無駄に武器・人員を消耗するより逃げて力を温存し計算し直したほうがよい。(昭和の軍人に聞かせたい言葉である)
上野寛永寺を拠点にした彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争が大村の名を歴史に刻んだ有名な戦だろう。佐幕派の部隊として結成された彰義隊は江戸へ下った薩長連合軍に徹底抗戦し、江戸中で新政府派の兵を斬りまくった。ずいぶん彰義隊をただの無法者集団として描いているところに司馬の悪意を感じるが。
ここで新政府が彰義隊に敗ければ江戸の人心が離反する。新国家の正統性が疑われる。絶対に敗けられない戦いを前に大村はどうしたか。刀や火縄銃という前近代的な武器をもち、規律も軍律もない烏合の衆である彰義隊相手に洋式軍が勝つことは簡単。課題は別にあった。
大村がなにより心がけたのが江戸を火の海にしないこと。現在の東京のように当時の江戸も人口密集。だが、家屋のほとんどが木造。ぼやが大火事になり、あっという間に大火災となる。死者が増え、戦いが長引けば江戸は焦土になる。これだけは避けねばならない。だから決戦は短期で素早く終わらせること。
大村は過去に起きた江戸の大火の歴史を徹底的に調べる。特に明暦の大火を調べ、風の方向と火の広がりと早さ、罹災家屋、死者数、火災の条件など詳細な情報を頭に叩き込んだ。その上で江戸の地図を印刷し各部隊に配布、火消し部隊まで作り火事に備えた。上野攻撃日は大雨の翌日。なおかつ昼。夜襲だと彰義隊員たちが闇に紛れて街に散り江戸に火をつける恐れがあるから夜の攻撃は避ける。当日も小雨が望ましい。家屋にたっぷりと水を含んでいる条件を整え防火に備えた。ドラマや絵巻で上野戦争が雨とともに描かれる理由がここにある。
そして条件が整った1868年(慶應4年)7月4日。上野寛永寺へ総攻撃。ここで活躍したのが肥前佐賀藩のアームストロング砲。ただ、藩主の鍋島閑叟は「海戦ならともかく威力があり過ぎるから内乱で人を殺傷したくない」とこの兵器の使用に賛同しなかったという。
本郷台に据えられたアームストロング砲が火を吹き、砲弾は不忍池を飛び越え、彰義隊が拠る山内の建物を破壊し炎上させた。彰義隊は壊滅。大村は江戸城内で上野方面から黒煙が盛んに上がる様をみて、勝利を確信・確認する。結局、上野戦争は1日で終結した。大村の知略がはじき出した結果か。
反乱を鎮め、明治の世に変わった。でも大村は立身出世を望まない。やはり適塾の教えと血が流れていたのだろうか。この頃、大村は西南戦争をどこまで予見していたか分からないが、いずれ九州から足利尊氏が現れる、と云うほど先を見通していた。
しかし、近代兵制を整えるため京阪の練兵場と兵器工場の視察のついでに京に立ち寄った茶屋で、不平士族や浮浪人たちに暗殺されてしまう。
大村の死の8年後に西郷が死ぬ。
超合理主義者・大村益次郎は仕事に没入し自分を機能化させることでひとつのシステムを作り上げた。彼が死んでも残ったのは仕事だけで存在の痕跡はない。無であったところに大村という男の不思議がある。と司馬は物語を結んでいる。なんとも言い得て妙だ。
「花神」とは花咲爺さんのこと。日本津々浦々に近代という花を咲かせ歩いた男という謂いで、タイトルが「花神」。ずいぶんと駆け足で時代を駆け抜けた花咲爺だったというお話でした。 -
解説
「蔵六というのは不思議な人で、自ら地位や栄達を求めない。」
まさに自らを世の中に機能化してそれ以上を求めない、私心を捨てている大村益次郎をよく言い表した言葉だと思う。それはP.486の豆腐と国家の話にも現れている。
時代が彼を押し出したに過ぎないのだろう。適塾に始まり、彼を登用した宇和島藩、幕府、そして長州藩。自分が求められるところに行き、そこで自分を機能化させ、最後には新政府軍の基礎を作るに至った。才能だけでなく、人との出会い、運命とは分からないものだと思った。 -
明治維新を推し進め、日本国を変えようとした蔵六や大久保利通のような人物が、軽挙妄動にはしる凶徒らに暗殺されてしまったということに関心を持ちました。社会の変革期には、悪い方向に振り切れてしまう人物も現れるのでしょう。
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司馬さんの他の幕末物で出てくる場面が、当然沢山再登場するわけだけど、異なるアングルからなので、全く飽きることなく、あっという間に読めました。
大村益次郎のような人は普通嫌われるもので、事実その通りだったようですが、私はこういう人好きです。 -
年を跨いで下巻読了。
「花神」とは「花咲か爺さん」のこと。著者は、大村益次郎のことを「花咲か爺さん」と見たてて、この物語を「花神」としたそうですね。
「花咲か爺さん」と言えば、何かパァ~と周りを明るく華やかにしてくれるイメージを持っていたので、それとは正反対のキャラクターである大村益次郎のイメージからすると少々しっくりこなかったというのが正直のところ。
しかしながら、不可能と思える戦いをことごとく勝利に導く彼の姿はまるで「枯れ木に花を咲かせる」イメージでもあるなと思い直しています。
明らかに、時代の変革に大きな仕事をした重要な人物の一人として認めざるを得ない存在ですよね。しかし、そのキャラクターは強烈すぎるくらい「変人」的要素が強いですね(笑)。合理主義のバケモノでしょうね。
小説の中に存在するのなら許せますが、自分の周りのこの種の人物がいると、果たしてこれはなかなか苦痛でしょうね(笑)。ただ彼には、大事なところで理解者が存在している。桂小五郎は中でも大きな存在ですね。
彼は天才的な軍師だと思いますが、人間力的な魅力はむしろ欠如したキャラとして描かれてますね。そういう意味で、この小説をヒーロー小説として期待するよりも、一人の人物を介して時代の変革の流れが理解できる、そっちのほうに楽しさの軸足をおいて読むべき本だろうと思います。
司馬遼太郎の歴史小説は、史実に忠実に書かれている点で、時代小説とは異なり、登場人物への著者の感情移入は行われず物語はけっこう淡泊に進んでいうように感じますが、一方で「なぜこんな風に歴史が転回したんだろう」ということを様々な角度からストーリ立ててくれるところが司馬遼太郎の小説の魅力だろうなと思います。 -
下巻読了。
さすが、司馬さんの幕末モノ。
西郷さんや、坂本さん、高杉さん等のようなスター性のあるキャラとは程遠い、大村益次郎(村田蔵六)さんという地味キャラが主人公でも、こんなに面白く読ませてしまうとは。。。
蔵六さんは、どんな時でも自分軸を貫き、淡々と軍の総司令官としての仕事をこなし、見事に倒幕軍を勝利に導きます。
ただ、あまりに合理主義で、コミュ障的な無愛想さが祟って人の恨みを買ってしまい、命を狙われてしまう訳で。
襲われて大ケガしても、医者だけに、冷静に自分で手当てしまうところがまた(笑)。
ケガ療養中に、イネさんが駆けつけてくれて、良い方達に囲まれての終盤だったのが救いです。 -
(2016.05.01読了)(2003.03.18購入)(1999.07.15・69刷)
幕府は長州に敗れ、徳川慶喜は、大政奉還を受け入れ、鳥羽・伏見の戦いへと進んでゆく。
大村益次郎の出番は、上野寛永寺に立てこもった彰義隊の掃討であった、
戊辰戦争については、江戸で後方支援を受け持った。各所からの要求に対しては、自分で計算して根拠を示し、大村さんがこれぐらいあれば十分という分だけ渡した。
西郷さんが、応援に行くといったことに対しては、つく頃には戦は終わっています、と言ったら、その通りだったとか。
江戸での戦乱を避けるために勝海舟は、新選組を甲州に追いやり、榎本海軍を江戸湾から北へのがれさせたとか。
司馬さんは、村田蔵六を主人公に、よくも三巻にもわたる本を書いたものだと感心してしまいました。勝海舟や桂小五郎についての本は、書かなかったですね。(そうかどうかは司馬さんの本を全部読んだわけではないので自信ないけど)
【見出し】
豆腐
京の風雲
京都占領戦
京と江戸
彰義隊
江戸城
攻撃
あとがき
解説 赤松大麓
●高杉と西郷(50頁)
高杉は西郷を嫌い、時にはこれを奸物視し、さらに驚くべきことには西郷と何度も会う機会がありながら常に避けわざと無視し、ついに生涯会わなかった。
●幕末の長州(51頁)
一言で幕末の長州集団を言えば、小粒の血気者どもが無数に表れ、一つのイデオロギーに動かされて藩の権柄をとり、多分に無統制に騒ぎまわったという印象が濃い。
●造語(162頁)
長州藩は薩摩藩とは違い、言語感覚において優れていたのか、行政上の言葉や社会機構上の言葉で多くの造語を作り、それらの多数が近代日本語として定着した。この病院もそうであった。医院という言葉も、この藩が最初につかった。
軍隊の隊や、総督、総監という言葉を初めて作ったのもこの藩であり、やがて幕府までがまねた。
●軍事(323頁)
軍事というのは元来、天才による独裁以外に成立しないのである。
☆関連図書(既読)
「最後の将軍 徳川慶喜」司馬遼太郎著、文芸春秋、1967.03.25
「新選組血風録」司馬遼太郎著、角川文庫、1969.08.30
「燃えよ剣」司馬遼太郎著、文芸春秋、1998.09.20
「竜馬がゆく(一)」司馬遼太郎著、文春文庫、1975.06.25
「翔ぶが如く(一)」司馬遼太郎著、文春文庫、1980.01.25
「世に棲む日日(1)」司馬遼太郎著、文春文庫、2003.03.10
「司馬遼太郎スペシャル」磯田道史著、NHK出版、2016.03.01
「花神(上)」司馬遼太郎著、新潮文庫、1976.08.30
「花神(中)」司馬遼太郎著、新潮文庫、1976.08.30
(2016年5月7日・記)
内容紹介(amazonより)
周防の村医から一転して官軍総司令官となり、維新の渦中で非業の死をとげた、日本近代兵制の創始者大村益次郎の波瀾の生涯を描く。 -
3月中旬から読み始め、約1ヵ月半かけて上中下の3巻を読破。明治維新成立の2年後、主人公:村田蔵六(大村益次郎)は元薩摩藩士:海江田信義の刺客により人生の幕を下ろす。「竜馬がゆく」が幕末の表舞台を陽からに描いたものとすれば、本作品は陰から描いたように思える。事実、「竜馬がゆく」でも昨年の大河「龍馬伝」でも大村益次郎の名前は登場しない。一般的な認知度も低いだろう。
しかし本作品を読了し、日本陸軍の創始者である大村が明治維新の立役者の一人であることは充分に理解できた。出自が良かった訳ではなく、地方農村出身の村医師から様々な人との出会いによりいつのまにか大舞台に上がってきた人生というものも非常に面白かった。自身が「これだ」と見込んだ分野を極めることで、他の分野・畑での応用が可能であるという証明である。大村の場合、医学を極めて医師となり、医学書を読む必要性からオランダ語を極めることとなり、洋書の兵学書を読むことから兵学者となり、幕長戦争と戊辰戦争の実質的指揮者となる。
まさに驚きの転身であるが、私はこんな話が好きである。「この道、苦節○十年」というのも勿論尊敬に値するが、華麗なる転身に成功した話の方が夢が膨らむ。「不毛地帯(山崎豊子)」の主人公、壱岐正も大本営参謀から総合商社のトップに上り詰めた。
私自身、前職は某専門学校の講師をしており、そのコンテンツ(教授内容)を現在の保険実務の仕事に活かしているという経歴があるため、そんな話に共感を覚えるのかも知れない。また、現在の仕事が将来的に別の仕事や人生に活きてくるかもしれないと考えるとワクワクするではないか。(別に、具体的に転職を考えている訳ではないことを申し添える。念のため。)
そんな訳で、大村の数奇な人生を愉しんで読むことが出来た。ちなみに「花神」とは中国で「花咲か爺さん」という意味らしい。「時代に花を咲かせる爺さん」という意味でタイトルがついたとのこと。私はいまいちそのイメージは受け入れがたい気がするが(笑)。ともあれ、本作品は1977年の大河ドラマであり、総集編DVDで観てみたいものである。中村梅之助がどのように大村を演じたかが非常に興味がある。
本書巻末に収められた論評によると、本作品は「世に棲む日日(吉田松陰と高杉晋作が主役)」と姉妹関係にあるという。司馬作品はまだまだたくさん読みたい候補があるが、近いうちに「世に棲む日日」もチャレンジしたいものだ。「竜馬がゆく」「燃えよ剣」「酔って候」「花神」などとはまた少し違った角度から幕末史を楽しめるだろう。-
凄く納得のいくレビューでした。「竜馬がゆく」が陽、「花神」は陰との指摘は本当にその通りだと思います。凄く納得のいくレビューでした。「竜馬がゆく」が陽、「花神」は陰との指摘は本当にその通りだと思います。2011/06/04
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ykeikoさん、初めての心温まるコメントをありがとうございました。ブクログ初心者の私にとって非常に嬉しいです。
今、司馬遼太郎先生の作品...ykeikoさん、初めての心温まるコメントをありがとうございました。ブクログ初心者の私にとって非常に嬉しいです。
今、司馬遼太郎先生の作品にはまっています。今後ともよろしくお願いします。2011/06/04 -
色々コメント有難うございます。私も2カ月程前からブクログに本棚を置くようになり、取りあえず本を登録し、時間を見つけて少しずつレビューを入れて...色々コメント有難うございます。私も2カ月程前からブクログに本棚を置くようになり、取りあえず本を登録し、時間を見つけて少しずつレビューを入れている次第です。一通り終わったら特に印象深い本に関しては、takagidさんのような長いレビューを入れ直したいと思っています。2011/06/05
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だだの狂人集団から、維新政府へと移り変わっていく長州。<br>
村田蔵六こと大村益次郎は、そうやって移り変わる時代と共に、討幕軍の総司令官となった。<br>
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村田蔵六はただの技術者であり、ただの技術者であることが彼の信念でもあった。<br>
人目を気にせず、人間関係を円滑にしようなんて微塵も考えない彼は、周囲の人間から見れば全くの馬鹿のように見えるかもしれない。事実彼は、実力こそあったものの、周囲からの評価は『えたいのしれない奴』であった。だが、彼はそんな人間であるからこそ、こんな偉業を成し遂げたのだろう。<br>
村田蔵六は総司令官であったので、ほとんど戦場には出ずに、討幕軍と戦っていた。人の命の潰える戦が行われていたことは事実であるが、村田蔵六のみにスポットを当ててみると、彼はいつものように『ただの技術者』でしかなく、室内に篭っていただけである。彼はやるべきことは何であるかを知っており、それをやれるのは自分でしか無いということも知っていた。そして、やる必要の無いことは何も行わなかった。そんな『明治維新』もあるのだな、となんだか不思議にも思った。<br>
そして、何よりも不思議であるのが、村田蔵六自身の終焉である。彼は、本当にあっさりと消えた。彼の役目が終わると同時に消えたのだ。これが一年前であったら、歴史が変わっていたかもしれない。しかし、そうではなかった。それがなおさら、村田蔵六らしい。<br><br>
こんな人間がいたのだと思うと、彼は本当に神が使わしたのかもしれない、と感じてしまう。きっと、村田蔵六自身はそれを否定するだろうが。 -
ようやく、なぜ「花神」なのか分かった。死に方も、蔵六らしい。
解説にもあるように、司馬は変革期を描きたかったらしい。そういう意味では、今一度、もっと読まれても良い作家かもしれない。大村の先見の明も。
次は松蔭&高杉かな。 -
2階開架書架:913.6/SHI/3:https://opac.lib.kagawa-u.ac.jp/opac/search?barcode=3410164142
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これは珍しく、この著者さんの幕末ものとしては英雄史観論が強く出ていない作品で読みやすかったです。というよりも、恋愛小説としてすごくいい出来です。そして切ない。
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中国では花咲か爺さんのことを指す、花神。
吉田松陰という思想家、高杉晋作という戦略家が種を蒔き、苗を育て、技術屋たる村田蔵六が明治維新という革命の花を日本に咲かせる。
タイトルに込められた意味が、かっこよい。
司馬史観における大村益次郎は、まさに、時代に求められた技術屋。
桂小五郎に発掘され、西郷隆盛と相容れないながらも認められ、その手腕で反発する者を黙らせる。
自分の損得とか、周りがどうとかあまり考えていない感じが、どこか自分に似ているような気がした(我ながら畏れ多いけど……)。 -
大村益次郎の生涯を記した司馬遼太郎氏作の小説。靖国神社の参道のほぼ中央に銅像があり学生の時からこの像も、この人も気になってました。今回初めて人となりを本を通して知りました。幕末はほんとに面白い。ほんの数年の間に日本が変わってしまった、と思っていたら、それには背景があって、バトンを渡すようにその時その時の人物が役割(未来の私達が評価する上での枠組みかもしれない)を果たして、結果明治維新が成功した。
長州藩はそれがはっきりしていて、吉田松陰、高杉晋作、大村益次郎だったんだと、司馬先生は書いている。
また、人となりとして、医師として、翻訳家、技術者、軍人として、職業は違えど全て同じ考えをもって取組んだ合理主義的な実務家、つまり天才、こういった人間は強い、今にもつながるような人物だったとも思った。
とにかく面白かった。夏休みを使って一気に読んだ。
次は前後するが、姉妹作品の「世に棲む日日」を読んでみようと思う。
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上中下3巻あっという間に読み終えました
おもしろい
やっぱ幕末だなあ -
約3ヶ月かけて上中下読了しました!司馬さんの作品はやはり深いです。暫く休んで翔ぶが如くかな
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非常に濃い中身だった。明治維新はいよいよクライマックス。
天才的な直感と合理的な計算、相反するようで両立する2つの才能。この捉えようのない偏屈オヤジはなぜか異様に魅力的で、対比させられる狭小な器の平凡な人たちが少しかわいそう。
彰義隊のあたりを読んで改めて、上野周辺を散策してみたくなった。
この時代については、ぜひ西郷の視点でも読んでみたい。 -
司馬遼太郎の合理性を尊ぶ考え方に加えて、一方、合理性の道具のように生きることの虚しさが織り込まれた傑作。
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久しぶりに幕末の歴史小説を読んだが、やっぱおもろい。
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読み終わるのがもったいないと思いながらの読了。
海江田あたりの描かれ方を見ると、陰湿な人を嫌悪するあたりもいいなぁ。忘れたころ再読しようと思う。 -
幕末期のいろいろは興味深いけれど文章がちょっとやだ
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あとがきにも書かれてますが大村益次郎(村田蔵六)という人は、つかみどころのない奇妙な人でした。自らを機能としてしか考えない、小説の主人公としては成立しづらい人でした。
最後に戊辰戦争で活躍しますが、個人的には最初の方で緒方洪庵の適塾で蘭学を学んだり、医者なのに宇和島藩で船を造らされたり、シーボルトの娘のイネと恋愛したり、故郷の長州藩に低い身分で迎えられたりの苦労した時期の話が一番良かったかな。
なお、花神とは中国の言葉で花咲爺を意味し、日本全土に革命の花が咲き、明治維新の功業が成るためには、花神の登場が必要であったということです。 -
初読は高校3年生の受験直前。43年ぶりの再読です。今回も読み始めたらやめられず、睡眠時間を削って読みました。
本書は周防の村医から一転して討幕軍の総司令官となった近代兵制の創始者大村益次郎(村田蔵六)の生涯を描きます。
「大革命というものは、まず最初に思想家があらわれて非業の死をとげる。日本では吉田松陰のようなものであろう。ついで戦略家の時代に入る。日本では高杉晋作、西郷隆盛のような存在でこれまた天寿をまっとうしない。3番目に登場するのが、技術者である」
吉田松陰と高杉晋作を主人公にしたのは「世に棲む日々」。一種の技術者を主人公にした本書は、その姉妹作品と言えます。ただ、大村益次郎は「どこをどうつかんでいいのか、たとえばときに人間の生臭さも掻き消え、観念だけの存在になってぎょろぎょろ目だけが光っているという人物」。したがい、小説の主人公としては扱い難い人物なのか、主人公の登場する場面は他の作品に比べると少ないという印象です。この作品の主人公は、むしろ「時代」であり、その時代に生きた「日本人」かもしれません。
「日本人を駆り立てて維新を成立せしめたのは、江戸埠頭でペリーの蒸気軍艦をみたときの衝撃である」。「衝撃の内容は、滅亡への不安と恐怖と、その裏うちとしての新しい文明の型への憧憬というべきもので、これがすべての日本人に同じ反応をおこし、エネルギーになり、ついには封建という秩序の牢獄をうちやぶって革命をすらおこしてしまった。この時期前後に蒸気軍艦を目撃した民族はいくらでも存在したはずだが、どの民族も日本人のようには反応しなかった」。
「余談ながら」とか「話は脱線するが」と断った上で司馬遼太郎が展開する日本人論は一種の研究本であると言っても過言ではありません。
もちろん、歴史小説としても本書は面白い作品であり、幕長戦争、戊辰戦争、村田蔵六と緒方洪庵、福澤諭吉、西郷隆盛たちとのやり取りを通して、明治維新の名場面が描かれます。そして、大村とイネ(シーボルトの娘であり、女医)のとの恋のような関係も描かれ、小説に色も添えられています。
全ての人に読んで欲しい本ですが、やはり「世に棲む日々」を先に読んだ方が楽しめます。 -
再読。長州藩は四境戦争を有利に進め、将軍家茂の死去により幕軍は撤収、休戦となる。蔵六と共に軍事面で活躍した高杉晋作はこの時期に病死。大政奉還、坂本竜馬の暗殺とめまぐるしく時代は動き、やがてついに鳥羽伏見開戦。そして蔵六の人生で最大のハイライトとなる彰義隊討伐の上野戦争。1日で彰義隊を殲滅し蔵六の名は軍神として不動のものとなる。
しかし司馬さんが「天才であったと同時に強烈な変人」と書くように、技術者としては天才でありながら人間的にはコミュニケーション能力にいささか問題のある蔵六、慕ってくれる人間もいるけれどいかんせん敵をつくりがち。西郷隆盛との間は西郷のほうの謙虚さ、器の大きさもあり直接的なトラブルには至らないが、薩摩の海江田信義という粘着質な男の恨みを買ってしまったことが蔵六の命を縮めてしまう。
五稜郭が降伏して戊辰戦争が終結したのが明治2年5月、そのわずか4か月後に蔵六は暗殺者の襲撃を受ける。幸いその場では一命を取り留めるが、重症でのち悪化、2か月後ついに落命する。享年45歳。
「花神」というタイトルの意味は下巻のかなり終盤で明かされる。以下引用
「蔵六がなすべきことは、幕末に貯蔵された革命のエネルギーを、軍事的手段でもっと全日本に普及するしごとであり、もし維新というものが正義であるとすれば、(蔵六はそうおもっていた)津々浦々の枯木にその花を咲かせてまわる役目であった。
中国では花咲爺のことを花神という。蔵六は花神のしごとを背負った。」
上巻で司馬さんは下記のようにも書いている。
「大革命というものは、まず最初に思想家があらわれて非業の死をとげる。日本では吉田松陰のようなものであろう。ついで戦略家の時代に入る。日本では高杉晋作、西郷隆盛のような存在でこれまた天寿をまっとうしない。三番目に登場するのが、技術者である」
松陰先生のような思想家が種を蒔き、その後の数多の志士たちがその木を育てる、そして維新の最後の仕上げの段階でようやく技術者の蔵六が登場し、花を咲かせて去ってゆく。蔵六はいわゆる英雄豪傑タイプではないけれど、その能力のみを時代に必要とされた稀有な人物だったのでしょう。
女性関係も、常にモテまくりの坂本竜馬や土方歳三と違って蔵六の人生を彩るのは妻のお琴のほかはおイネちゃんのみ。でもこのおイネちゃんが賢くて健気で、こんな偏屈男を好きになっちゃうあたりも含めて大変可愛らしくて大好きでした。 -
時代が彼を見つけ出したんだと思った。こんなにも社会のニーズに応え、将来を予知し、歯車となって動いた人間っているのだろうか。合理主義者でありながら人間臭い。不思議な人だ。
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大村益次郎。
大村益次郎は大村益次郎になってもやはり村田蔵六から変わらない。
村田蔵六のままの大村益次郎と、桂小五郎、西郷隆盛、シーボルト・イネ、そして有村俊斎。
司馬氏の幕末でも竜馬の土佐、脱藩志士、通史的でもなく、慶喜の幕府、朝敵側でもなく、新撰組の幕府、会津側でもなく、桂小五郎・高杉晋作の官軍、長州だけでもない幕末が手に取るように見れる。 -
【いちぶん】
この稿のこのくだりは、歴史の主流のなかでにわかに開花した蔵六というひとりこ蘭学者が、花の凋むことも散ることもなく、樹そのものが伐りたおされたことを書く。
(p.364)