続・泥流地帯 (新潮文庫)

  • 404人登録
  • 3.89評価
    • (60)
    • (68)
    • (77)
    • (1)
    • (1)
  • 49レビュー
著者 : 三浦綾子
  • 新潮社 (1982年8月27日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (537ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101162072

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

続・泥流地帯 (新潮文庫)の感想・レビュー・書評

  • 前作「泥流地帯」で、北海道の十勝岳が噴火。拓一と耕作兄弟は一瞬にして祖父母、姉、妹、そして田畑を失う。貧しくとも真実に生きてきた彼らに与えられた結果がこの報い。折れそうな心を懸命に立て直そうとする耕作だが、復興に取り組んだところで、またも裏切られるのではないかという疑問は消えない。

    若い頃の苦労が大事なのは今も昔も変わらない。それはわかっているんだけど、誰もがこの兄弟ほど真面目に生きられるのか。苦労は報われないこともあることを理解し、納得できるのか。考えれば考えるほど、人生は理不尽だと思う。

    本作品では、復興に取り組む村民の中で悪事に走る者もいれば、宗教にすがる者も登場する。そんな様々な人間模様が描かれつつ、耕作たち家族にかすかな希望が見えたところで幕を閉じる。

    おそらく、その希望も一瞬で、さらなる苦難が待ち構えているんだろう。真面目に生きていればいいことがある、なんて単純なことを作者は語らない。じゃあ、どんな生き方が正しいのか。そんな作者の問いかけに考えさせられる。

  • 苦しみを超えてこそ人生。天北原野のバッドエンドとは異なるハッピーエンドが三浦綾子作品にあっても良いでしょ。

  • ここで終りかー

  • 先の巻を読み終わった時の不完全燃焼を持ちつつ
    (ラスト厳し過ぎるでしょー…と、もやもや)

    続・泥流地帯を見つけたときは即買いでした。有ったんだー!やったー!どうなったのか気になってたー!って言うか、あれで終わったら本気で苦しい。うん。

    三浦綾子さんの小説を読んで、不幸とか幸せとか
    罰が当たるとか当たらないとか
    徳を積むとか積まないとか、
    献身とか見返りとか、何の為に生きるとか…
    この方はクリスチャンですが、宗教に囚われずに
    発信する方だな、と思いました。

    アナ雪じゃないけど、ありの〜ままを〜受け入れて生きるって簡単じゃないよね、でも迷うのも生きてるからだよね。とか。
    哲学的w←似合わん。

  • 修一おじさんが登場する度に涙が出そうになる。今の世で考えれば聖人のような、耕作と拓一と福ちゃんだけだと「作り話」感が否めないが、彼はとても人間らしく、重要な役回り。
    節子もいいキャラクターだと思う。

    「因果応報は人の希望」
    であって、現実はそうではない。
    なぜ、いい事ばかりしている人がこんなにも辛い目にあうのか。なぜ、悪い事ばかりしている人が悠々と生きているのか。
    このあたりを考えるのが終盤のテーマ。

    私は無宗教なので、人生の大道は「先祖の行い」で決まっているが、細かい部分は自分次第って考えている。ちょうどいいところ。笑

    ラストシーンは、情景が浮かぶ。
    白いハンカチかあ。映画で見たいなあ。

  • 泥流地帯の続編。主人公兄弟が被害にあった土地を懸命に再生させようと件名に努力する姿が描かれる。兄の拓一がちょっと聖人過ぎているのと、二人のヒロイン、節子と福子の描き方に個人的には不満が残り、泥流のカタストロフが強烈な前作に比べるといまひとつな印象。でも、ヨブ記を引いて、善因善果、悪因悪果はそうあって欲しいと思う人間の願望なんだというのはなるほどと思わせるし、因果応報的な発送から離れて、真摯にまじめに生きていくことの大切さを教えてくれる。 

  • 2015.12.18
    突然爆発した十勝岳の泥流は開拓部落に襲いかかり、一瞬にして、家族の命を奪い、田畠を石河原に変えた。地獄と化した泥流の地から離散していく人々もいるなかで、拓一・耕作兄弟は、祖父・父の苦労の染み込んだ土地を、もう一度稲の実る美田にしたいと、再び鍬を手にする。そんな彼らに、さらに苦難が襲いかかる。苦闘の青春を描き、人生の報いとは何かを問う感動の完結編。(裏表紙より)

    こんなに感動させられ、勇気付けられる小説があるものかと。モチーフとしては、「泥流地帯」とそこまで変わりはない。真面目に正しく生きる人間が、不幸や苦難に遭いながらも、力強く生きていく姿を描く。しかし私は、そういう強く生きる拓一の姿に、畏敬の念を抱きながらも、耕作の視点に非常に共感を覚える。なんで正しく生きる人が馬鹿をみるのか。なんで卑怯な人間がのさばるのか。「泥流地帯」では、真面目に生きても馬鹿臭いという耕作に、拓一が、馬鹿臭いとは思わない、生まれ変わっても自分は真面目に生きると答える。ここに私は、誇りある生を見た。報われるかどうか、結果が出るかどうか、認められるかどうか、そういう自分の外にあるものは関係なく、自分が自分で、認められるような生き方、自分に反しない生き方、馬鹿と言われようとも俺はこう生きたいんだという生き方、自分で自分を誇りに思える生き方の大切さ、美しさを見た。続編である本作でもその主張は一貫しているように思う。p275あたりで国男が、甲斐のない苦労、報われない努力をすることに意味があるのかと問う。拓一は、報われないかもしれないという覚悟の上での努力には価値があるのではないか、報われるとわかってるなら人は誰でも努力する、努力の結果ではなく、結果の約束されない覚悟のある努力そのものに価値があるのではないか、と答える。これは痺れた。そしてヨブ記の話などを通しながら、善因善果、悪因悪果、勧善懲悪は人間の理想であり、善く生きれば幸運になるでもなければ、悪く生きれば不運になるわけでもないという結論が提示される。人事を尽くして天命を待つ、というが、まさに人事を尽くすとは誇りある生を生きることで、幸運不運は人間の能力の外側にある、天命なのだ。そしてその天命すら期待せず、ただ自らの信じる生き方をする、自らがよしとする生き方をする。どんな苦難が襲いかかろうとも、それを苦難とすることなく試練とし、負けずに生きていく。試練という解釈は、フランクルの「夜と霧」を思い出させる。しかし私は、どんな苦難も試練と捉えることによる強さが、誇りある生き方を生む、というのとは別の捉え方をしている。この捉え方は結局、自分の外に神という想定をしているし、内なる基準でのみ生きているわけではないからだ。私はこの小説に、耕作の問いと拓一の生き方に、どんな苦難にも負けない誇り高き強さの根っこに、繋がりを見た気がする。拓一はなぜ地獄と化した土地に残ったか、祖父母と父の努力を無駄にしたくなかったからだ。なぜ足が悪くなったか、耕作をかばったからだ。人がもっとも力強く生きるための力とは、人と人の繋がりの中にあるのではないか。そしてそれは目の前にいるあなたと私というだけではない。過去の人々、未来の子どもたちもある。例えば我々日本人は先人の苦労により築いていただいた平和の上にあぐらをかいて生活している。ここでただ、その平和に甘んじて自己中心的に生きれば、それは先人の努力に唾を吐くようなものではないだろうか。私という人間が今この瞬間に生きていられるのは、過去の人々との、父と母との、兄弟との、先輩や後輩や、そして友人との繋がりがあるからであり、さらにまた私の生き方が、未来の世代に繋がっていく。その繋がりひとつひとつを大切に、彼らを裏切らないよう、彼らのためを思い生きることが、誇りある生の基盤になるのではないか。つまり、誇り、それは自らで自らを名誉に思うこと、名誉に思うとはつまり自分で自分を褒められること、褒めるのはよいことをしたからであり、ではよいこととは、結局人と人の間で決められることである。自分のもつ時間的空間的広がりをもつ繋がり、それを自覚して、それに背を向けずに生きることで、その繋がりの中で生まれるのは愛ではないか。つまり、愛に裏打ちされた誇りある生こそ、人の生きる道ではないだろうか、なんてことも考えたりした。どこまでもやはり、自らを生かすのは人なのだと改めて思った。苦難があれば、それは運命に問われているのだと、試練だと解釈し、また愛と誇りを持って、日々、納得できる生を生きる。すべきと思うことを為し、また愛をもってしたいことをするというか。儒教的に言えば、繋がりから見出される、仁義の徳というか。仁義を尽くして誇りを得るのかな。こんなに、生きることを教えられた小説はないかもしれない。苦難の意味、人生の報いを説いた名作。

  • 大正15年,北海道十勝岳が大規模な爆発を起こし,当時,上富良野を中心に死者・行方不明者144名,負傷者200名、流失・破壊家屋372棟という大災害となった。本作品は,この時の噴火を描いた小説です。十勝岳の麓で暮らす一家。貧しい農村の暮らしの中でも真面目に生き,心豊かに暮らす人々。しかし,自然はどんな人間に対しても平等に牙をむく。本作品の中では,数々の苦難にあっても、強く正しく生きる兄弟の姿に心が打たれます。

    *推薦者(図職)T.K
    *所蔵情報
    https://opac.lib.utsunomiya-u.ac.jp/webopac/catdbl.do?pkey=BB00085858&initFlg=_RESULT_SET_NOTBIB

  • 苦難は宝物。
    善因善果、悪因悪果は思い込み。
    ヨブ記。

  • やはり三浦綾子、後半からは基督教色が出てくる。
    戻った母親はなんて良い人だろうと思うべきキャラ設定だが、私は一番嫌い。

    ちょっと不思議だったのはあの時代、親に女郎に売られる娘が、結婚には否やを言えるところ。

  • 実際の自然災害をベースに、筆者が取材を重ねて書いた小説。続編では災害が起きたあとの復興に場面が移るが、人々の心情の変化や、いろいろな価値観がぶつかり合うシーンは面白い。過酷な運命の中で、貧しいながらも誠実に生きていく主人公の一家が、人生の価値について語るシーンは考えさせられる。特に、主人公の兄の行動や言葉には心を洗われるような気がする。

  • 泥流地帯の続編。十勝岳の爆発・泥流による壊滅状態から、一体耕作たちはどうなったのか?
    正しい者が災難に遭い、悪者が繁盛する。
    聖書の「ヨブ記」が作中では出て来ますが、私は「伝道者の書」を思わせられました。
    すべては神のみわざであり、はじめからおわりまで人間には見きわめることはできない…。

    特に印象に残ったのは、「因果応報という考え方は人の願望がつくったものなんじゃないか」という旨の耕作のことば。
    希望を見いだせる結末に、読後はほっとしました。

  • 実直な兄、拓一は噴火後の硫黄まじりの土地を無駄といわれようとも開拓する。
    それに反対しつつも手伝う弟、耕作はやがて兄の生き方や考え方の尊さに気付く。
    遊女になった福子、遊女屋の娘であるが心根がしっかりしている節子が兄弟の人生に影響を与えていく。

    前作の節子の不可解な笑いが気になっていたので続編があって良かったと思ったけど、あの不可解な笑いの謎は解けず。病んでたのかな。

  • もう一度稲の実る美田にしたいと、再び鍬を手にする兄弟。
    そんな彼らに、さらに苦難が襲いかかる。

  • 聖書で学べる考え方を兄と弟を通じて対照的に表現させている。兄の考え方は立派ではあるが、作品として古い分、考え方としても古くさくなっている面は否めない。
    ストーリーは様々な場面を通じて、どのように考えるかといった視点で描かれているように思われて、伏線が多い割に、全く回収されていないのが、残念か。
    あるいは読み取れていないだけかもしれない。
    読みやすく、厚さの割に短時間で読めるので、後年、読み返してみようと思う。

  • 拓一と耕作、その周辺にいる善き人々の話。電車の中で不覚にも涙。年を取り涙腺が弱くなってきた。

  • 報われない。まじめに生きても報われず、でもまじめに誠実に生きる。
    辛くてやりきれない。

  • 『泥流地帯』の続編。
    前作が良かっただけに、それほどの感動は得られなかったのが、少し残念です。

    ただ、登場人物のその後を知りたいのであれば、一読する価値はあります。

  • 困難にぶつかったときに、「大変だ」と思って憂うか、試練だと思ってたち向かうか。
    できれば私は後者でありたいと思うけれど。
    実際にその場面に遭遇したときに、そうできるか確信が持てない。
    気がついたら拓一耕作兄弟の年をとうに越してたのにな..(*´ω`)

  • 苦難の中に生きる意味を問う。白々しくなくじっくりと読者の胸を打つ、著者の筆力。ラストシーンは「幸せの黄色いハンカチ」を彷彿させた。12.7.10

  • 前作があまりに名作だっただけに、続編はインパクト減。それでも、良い作品であることに変わりはない。

  • 不幸のどん底を更に掘って掘って掘りまくったら一瞬の光が見えた・・・そんな結末。

  • 一生懸命、真面目に生きている人に何故、辛いことばかり起きるのか。諦めずに生きていく事の意味を問わずにはいられない。お薦め。

  • 作家、三浦綾子さんは私達に作品を通して人間の持つ倫理、道徳、正義などを常に問いかけてくる。あの忌わしい3.11の大震災から一年、今現在においても、被災地では人間が苦しみのなかで生きる意味を探し続けている人達が数多く存在しているはずである。なぜ生きるのか?なぜ生きなければいけないのか?なぜ生かされているのか?この人間の根源的な疑問の回答に導くヒントがこの作品には用意されている。

全49件中 1 - 25件を表示

続・泥流地帯 (新潮文庫)に関連する談話室の質問

続・泥流地帯 (新潮文庫)を本棚に「読みたい」で登録しているひと

続・泥流地帯 (新潮文庫)を本棚に「読み終わった」で登録しているひと

続・泥流地帯 (新潮文庫)はこんな本です

続・泥流地帯 (新潮文庫)の単行本

ツイートする