目覚めよと人魚は歌う (新潮文庫)

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著者 : 星野智幸
  • 新潮社 (2004年10月28日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (152ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101164519

目覚めよと人魚は歌う (新潮文庫)の感想・レビュー・書評

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  • どこが素晴らしいのか不明。
    つまんない。
    三島由紀夫賞受賞作

  • 【213】

  • とにかく読みにくい。誰一人登場人物に共感できないけれど、圧倒的な筆力でぐいぐいと引き込まれてしまう。偏執的で気持ちが悪い人物しか出てこないし、得体のしれない気持ち悪さがずっとつきまとっていて、不快なんだけど読むのをやめられない。この違和感はなんだろうとモヤモヤしながら読み終える。
    角田光代さんの解説が個人的にとてもしっくりと来た。異国への旅とは全く思わなかった、気持ち悪い他人の夢に悪酔いさせられているようだったけど、それでもこの異様さを描けることは秀逸な筆力なんだと思う。

  • 早稲田。三島賞、野間文芸賞。

    冒頭からめっちゃ「文学」してる。

    伊豆高原。疑似家族。ペルー人、サルサ。

    ふーん。ぼやんとした読後感。

    「読んでも得しなかったなー」が本心。

    良くも悪くも文芸誌に載ってるような作品。

    もう星野さんの本は読まないだろうな。

    合縁奇縁。それが無かった。

  • う~~ん、難解な小説。
    タイトルの意味は??

  • 高校生の頃、図書館の本棚から手当たり次第小説を引っ張り出していて、現代小説の奥行きのなさを感じさせられていた中で「あ、この人は違う」とはっきり感じた冒頭、書き手の頭の中のイメージの奥行きがどこまでも広がってる安心感というか。
    それにしても最初のところの甘いしびれのようなものは殆ど官能的ともいってもいいほどで、そこから蜜夫がそこに実在しないと分かったときのショックといったら。しかも蜜夫は死んだんだろうなと何となく予想していたらそうではなく、まるで『パリ・テキサス』みたいな生き別れ状態だし。

    この『目覚めよと人魚は歌う』は、著者が書いた中で一番普通に小説的に楽しんで読める作品だと思う。そして高校生のときの私のように、普通に上質な肌触りの作品、と思って読むことも可能なのだけれど、この作品の中には日系ペルー人を扱うという社会的なテーマ以外にも、もう一つ別の「欲望のあいまいな対象」いうコードも隠されている。

    この「欲望のあいまいな対象」とはこの著者が好きらしいルイス・ブニュエルが監督した作品のタイトルでもあるのだけど、(原題は「 Cet obscur objet du désir」)私にとってこのテーマが浮かび上がったのは、彼の名前の付け方、そして言葉の交わりに関する意識についての記述からです。

    彼はデビュー作である『最後の吐息』で、主人公の恋人になる女の人が、「ジュビア」(スペイン語で「雨」)と「雨子」を登場させているのだけれど、自然の出会いとして生まれた恋人関係を描く場合にも、「我々は恋人に同じものを求めているのではないか?」という疑問が読み取れる。

    同じ現象はこの小説の中にもあって、ヒヨの恋人は「あな」。そして彼がペルーで恋人だった女の人の名前も、「アナ・マリア」。どちらも個性的に描かれているし、あなに至ってはすごく強烈にヒヨにぶつかってくるのだけど、物語の中の登場人物たちは意図してもいないらしいところで、著者の手で恋人の名前があまりにも近似したものと設定されているのは、私の上げているテーマについて、直接語っていないものの、気付いて欲しいものとして物語の中に潜めているからだとも思える。

    この著者は、言葉の魔術を確かに信じていながら、その力の及ぶ範囲の弱さというか脆さもすごく自覚しているようなところがあって、例えばこの作品では主人公の「日曜人」(ヒヨヒト)は、日系ペルー人の間のもめ事に対して、俺が日曜日の人になってバランスをとる、なんて言いながら結局その役割を果たせなかったと嘆くことになるし、ヒヨがあなのことを考えながら部屋の中を歩き回るシーンで「あなが必要、穴が必要、あながひっよー、あながひよ」と、「あながひよ」という言葉による「あな」と「ヒヨ」の交わり(というか最早同化かこれは)を行うけれど、現実にはその結果「…などと支離滅裂な日本語が渦巻き、混乱は深まるばかりだ」となってしまう。

    ここ思いがけず爆笑だったのだけれど、糖子が息子の蜜雄(夫の蜜夫と同音)がヒヨとサルサを踊ってる場面を見て、また私を置いてきぼりにするの、の意味で「またなの」と思うところもすごく馬鹿らしくて笑える。でもこの糖子のくだりもまた重要で、彼女が愛しすぎて関係が破綻したの夫との子供に、おなじ響きの蜜夫という名前を与えてはばからず、現に今でもかつて夫であった蜜夫のことを思い出して恍惚としているといつも息子の蜜雄のことをすっかり忘れてしまうくらいで、関係が破綻したのも、蜜夫が蜜雄と仲良くしている状態、「みつお」が二人いる状態が原因だとすると、彼女の愛の対象は一体なんだったのだろう? という疑問がわいてくる。
    そしてこれは糖子に限ったわけじゃなくて、あなとアナマリアもそうだし、『最後の吐息』のジュビアと雨子も同じなのだけど…。
    「あなた」の存在は絶対ではない、呼びかけとしての「あなた」でしかないという悲しみがある。

    この著者の小説の中では登場人物たちがこれでもかというくらいぶつかる場面が多いのだけれど、それは表層的な意見やなにかの衝突というのに留まらず、根源的な自分にとっての愛の「対象」の曖昧さへの、著者のジレンマというかいら立ちというか、あるいは簡単に馴れ合ってはいけないのだ、そんなものまやかしなのだから、というような自戒のようなものが隠されているような気がする。

    このジレンマが加速して「あなた」は実は僕だった、みたいな地点にたどり着く設定は『俺俺』にまで通じている。

  • どうも文体の相性が悪かったのか、しっくりこなかった…。

  • MDのような物語。ひとつのディスクの中にたくさんの人格があって、それぞれが依存し協調しハーモニーをつくる。そして語りかける。

  • キヨとあなと糖子さんの話。あんまり、印象に残らなかった。

  • 書店で題名買い。作家については前情報はまったくなかった。
    ともかく、ゆらゆらと漂うような文章が印象的。それも喩えるなら川のような流れる水ではなく、真夏に容器にためられたまま温くなった、どこか退廃的なよどんだ水。
    特徴的なのが地の文の書き方だ。糖子の一人称で始まった物語は、ヒヨについて語る時は三人称になる。
    そしてそのまま読み続けると、三人称で描かれる文章中でいきなり何の前触れもなく糖子の一人称に切り替わり、また三人称に戻る。
    正直最初は面食らったものの、その文章構成自体から夢と現実の境界が曖昧に溶け込んでいく様を感じさせて、素直に感心してしまった。
    だがこれは文章の基本がしっかりしているからこそだろう。本来なら私が嫌がる書き方なのに、この作品に関してはすっと受け入れられたのもそのためだと思う。

    内容については、何とも難しい。共感するかと言うと全くそんなことはなく、心は凪いだまま最後のページを迎えた。強い痛みも、喜びもなく。
    そのため、「面白かった」という言葉は出てこない。「楽しかった」も違う。強いてあげるなら「読んでよかった」。
    ただ美しい風景を眺めるように読み終えた。解説の中で、この作家の作品に触れることを「異国を旅する」と喩えてあったが、まさにそういった感じだと思う。
    不思議な読後感だが、これがこの作品だからなのかこの作家だからなのか。また機会があったら別作品を読んで判断してみたい。

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