ルネサンスとは何であったのか (新潮文庫)

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著者 : 塩野七生
  • 新潮社 (2008年3月28日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (338ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101181318

ルネサンスとは何であったのか (新潮文庫)の感想・レビュー・書評

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  •  ローマ教会が何かおかしい、から始まって400年もかけてローマ教会の支配を解放。
    解放したというより、芸術科学の進歩により、ローマ教会の矛盾点が炙り出され、自滅した時代。

    「神がそれを望んでおられる」が、通った、今から見たら偽りの世界。
    今の世も、数百年後の人類が見たら、偽りの世界と言われる点があるのだろうか。

    なお、異教徒の遺産といって、古代ローマの遺産を破壊しつくしたのが惜しい。

  • 地元の駅で購入し、ドトールで読む。読んでいて、疲れました。その理由を考察すると、以下のようになります。歴史の本を読むには、客観的知識と心理的共感を必要とします。客観的知識とは、豊臣秀吉は関白になったが、将軍にならなかったという事実です。心理的共感とは、豊臣秀吉が好きだとか嫌いだとかいう感情です。前者は、新書等を読めば、学ぶことができます。また、塩野さんの本は、知識がなくとも、ストレスを感じさせず、解説を加えてくれます。この部分に問題はありません。問題は、後者です。テレビドラマ、映画、演劇、小説に触れることより、後者は生まれるものです。日本の歴史であるならば、大河ドラマ、映画、小説に触れることは自然なことです。それに対して、イタリアものは、塩野さんの小説だけなのです。少なくとも、僕には、イタリアの英雄たちに、心理的共感を持つ人物はいません。これでは、イタリアの歴史の本をよめるはずがありません。

  • ルネサンスが花開いた順にフィレンツェ、ローマ、ヴェネツィアと舞台を移しながら、マキアヴェッリよろしく対話形式でルネサンスを説いた一冊。巻頭の「ルネサンス人一覧」の図がとてもわかりやすい。入門書としておすすめ。昨年、まさにローマ、フィレンツェ、ヴェネツィアを訪れたのだが、その前に読んでおくべきだったと少し後悔している。

    ルネサンスとは、簡単に言うと、キリスト教を基盤として純粋培養を続けたローマ法王庁や封建諸侯が中世後期に危機に陥ったのに対して、通商の活発化によって経済力をつけた都市国歌(=頭脳集団)の台頭と、既成の概念への疑問・新しい価値観への目覚めを通して、大衆が自分の目で見、自分の頭で考え、自分の言葉で表現する魅力に目覚めた結果として発生した、古代文化の復興と創造が生み出した一連の文化的活動である。こう書くとなんだかよく分からないが、ルネサンスが生み出した素晴らしい作品をみれば、新しいものを生み出す力に単純に圧倒されるだろう。

    現代は、科学技術はルネサンス当時とは比較にならないほど発展し、発展を続けているし、言論統制もなく自由に表現もできるし、確立された価値観を持った成熟した社会といえるかもしれないが、同時に、経済の行き詰まりや各地での紛争・テロリズムに見られるように、西欧的な価値観が崩れつつある時代でもある。

    これまでの概念・価値観・体制・手法に立脚しつつも、それに囚われることなく、飽くなき探究と創造により新しい時代を切り開いたルネサンスに学ぶことは多いはずだ。

  • この人の本は「チェーザレ・ボルシア」に続き二冊目だが、塩野七生は天才だと思った。

    司馬遼太郎にしろこの人にしろ、歴史をこれだけ面白く、好奇心を擽りながら伝えることが出来るというのは本当に偉大だ。

    聖フランチェスコやフリードリッヒ二世、コシモ・ディ・メディチ・・・時代の変わり目に活躍した人々の生き様を、この人の著作からもっともっと知りたいと思った。

  • 引用
    「創造すると行為が理解の本道である。ダンテも考えているだけでは不十分で、それを口であろうとペンであろうと画質であろうとノミであろうと、表現して初めて知識ないし理解になる」
    「人間ならば誰しも現実の全てがみえるわけではない。多くの人は見たいと欲する現実しか見ていない」 ユリウス・カエサル
    「強烈な批判精神は強烈な好奇心と表裏の関係にある」
    「人間は個性が強いほどその人の好みがはっきりと出る」

    内容
    理系のボクでも楽しく読めた。ルネサンスの入門書としてはいいかと。次はもう少しダークな視点からルネサンスの歴史と背景を見てみたいな

  • フィレンツェに始まり、ローマを経て、ヴェネツィアへと、舞台を移しつつ、自由について考える文章。
    そしてルネサンスは歴史的事象と考えるよりも心のあり方ととらえる、著者の自由さこそルネサンスらしい。
    文庫のために加えられた対談で、80年代、90年代と日本の歴史学会から無視され続けたことが明かされている。今でも日本のいろんな学会が排他的で、ある分野のあるテーマは某先生の専門とみんなでたこつぼを作っているように思う。そんなことでは本当に知るべきものには至らないと思う。

  • ルネサンス時代のローマ周辺を塩野さんが対話形式で書き進める物語。
    異世界に入って行ったような錯覚を覚えます。
    前提知識はあまりなくても楽しめると思います。

  • ルネサンスや古代ローマをテーマに数多くの歴史小説を執筆してきた著者が、「ルネサンスとは何であったのか」を、対話編の形式で語っている本です。フィレンツェにおけるルネサンスの開花から始まり、ローマ教会の動きや大航海時代に触れた後、ヴェネツィアという都市の繁栄にまで説き及んでいます。

    「ルネサンスとは何であったのか」という問いに対して著者は、「見たい、知りたい、わかりたいという欲望の爆発」によって特徴づけられる精神運動だったと答えます。ルネサンスの巨匠たちにとって、創造するという行為は理解の「本道」であり、それが美術を中心にした「作品」に結晶したと著者は言い、この点が宗教改革や反宗教改革などの精神運動とルネサンスとの最大の違いだと主張します。そして、宗教改革や反宗教改革はキリスト教徒でない人には「関係ないこと」と言うことができるけれども、「見たい、知りたい、わかりたい」というルネサンスの精神は、キリスト教世界以外の文明圏に属する人びとにとっても「関係あること」だと語られています。

    むろんルネサンスの作品も、特定の時代に特定の地域で作られたものであり、一定の文化的背景によって染め上げられているには違いありません。しかしながらそれにも関わらず、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロの作品は、見る者に「美の普遍性」を強烈に感じさせるように思えてなりません。おそらくそこに、誰にとってもルネサンスが「関係あること」だという著者の主張に通じるものがあるのではないかという気がしています。ルネサンスの巨匠たちの創造を通じての「理解」を、著者は一種のscientiaだと述べていますが、ルネサンスという時代が私たちに訴えかける「普遍性」が言い当てられているように感じました。

  • 筆者はルネサンスを「見たい、知りたい、わかりたいという欲望の爆発が、後世の人々によってルネサンスと名づけられることになる、精神運動の本質でした」と定義。

    そしてなぜダビンチやミケランジェロといった天才がうまれアートが芸術がうまれたのか?について、何かを見聞きするだけではほんとに理解できない、それを語りあたり字にしたり絵にしたり建築にしたりといった「創造するという行為が、理解の「本道」につながると。知りたい、ほんとに理解したい、だから造る。

    ほんとうの理解とは創造やアウトプットを通じて生まれるということを以下のようにも指摘。
    「言語には、他者への伝達の手段としてだけではなく、言語を使って表現していく過程で自然に生れる、自分自身の思考を明快にするという働きもある。明晰で論理的に話し書けるようになれば、頭脳のほうも明晰に論理的になるのです。」

    ルネサンスは、中世の反動でいっきに見たい、知りたいが爆発。ほんとうにもっと深く知りたいという欲求が創造を生み出した。

    とくにフィレツェト、ローマ、ベネチアの3つの都市国家の重要性を指摘。
    都市国家とはそれまでの農村国家とはまったく別のスタイルの街。
    中世は、土地を資産とする経済構造下にあり、その土地を所有する封建領主が主導権をふるっていた時代でした。これに対し、土地は持っていないが頭脳は持っている人々が集まって作ったのが都市国家。都市とはイコール頭脳集団、と言ってよいくらい。いろいろな種類の人があつまるがゆえに、いろいろなものがうまれていく。
    一方で、ローマ法王庁や封建諸侯たちのような、異分子導入によるカルチャーショックを嫌って純粋培養をつづけた組織が危機に陥ったのが、中世末期であり、ルネサンスという精神運動を生む端緒になった。

    ルネサンスはフィレンツェからはじまりローマへ。そして最後はヴェネチアにうつっていく。初期のフィレンツ、ローマ時代を代表する人物は
    ダビンチとミケランジェロ。この二人に共通するのは「絵画、彫刻、都市計画、解剖、機械器具等々に手を広げたレオナルドや、絵画と彫刻と建築の傑作でイタリア中を埋めた観のあるミケランジェロのように、専門別に分けることが不可能な人が出てくる。分類不可能ということで、「万能の人」(uomo universale)と呼ぶしかなかった天才たちです。」という普遍性。
    一方でベネチア時代にはいると「画家は絵だけに、建築家は建築だけに専念していたヴェネツィア人とは、大きなちがいですね」に変容していく。
    筆者はその背景を「専門化とは、相当な成果があがった後ではじめて効果を発揮できるシステムだから。反対にスタート期には、分化されていない渾然一体のほうが新しいことの創造には適している。新しい考えとは必ず、既成のわくからはみ出たところから生れるものだからです。」と定義。時代に大転換期は普遍性のある天才が、そしてある程度、成熟してくると専門性の天才が生まれてくると。

    また、芸術にはお金が莫大にかかる。ルネサンスといえばメディチ家だが、じつはメディチ家の繁栄は十五世紀になってから。それなのにフィレンツェのルネサンスは、明らかに十四世紀からはじまっていると指摘。ルネサンス=メディチ家の見方をしていたけど自分は勘違いしていた。

    また、当時はペストによる人口の大激減があった。しかしながらそれをむしろプラスに転換したのが当時のイタリア。「人口の激減とは、やむをえずにしろ人々の関心を効率性に向けざるをえなくする。それ以前は都市に流れこんでくる人の量を頼りに上昇していたフィレンツェ経済も、ペスト以後は、質を重視し個々の生産性の向上を期すやり方に変わってくる。ヴェネツィアでもまったく同じです」。少子化を叫ぶ日本でも同じことがいえる状況だ

    また芸術は金にならない、といわれやすいが、以下の一節を読むとその考えを改めざるをえない。
    「わたしは、この都市の気分を知っている。われわれメディチが追い出されるまでに、五十年とは要しないだろう。だが、モノは残る」。これはルネサンス後期をささえたメディチ家の当主の言葉。しかし、そんなパトロンによって生み出された芸術に、ローマ、フィレンウェ、ベネチアはいまだに飯をくっている。
    あれから五百年以上も過ぎた今のフィレンツェを埋めている観光客の群れを眺めるたびにこのことを思い出すと筆者は語る。

    京都のような歴史都市も同様であろう。当時の富裕層によってさまざまな彫刻や寺院が建築され、それによっていま飯をくっている現実。
    芸術は金にならない、ビジネスこそ金になるとはいうが、一方で1000年前の京都でつくられたビジネスはほぼ残ってなく、いっぽうで芸術はのこっていてそれで飯がくえている。

    最後にルターによる宗教改革への言及が興味ふかい。もともとはルターは、神ー教会ー人の中抜をおこなった。それによって人々は、余計な教会をはさまずに聖書を信じればいよいというふうになった。しかし教会は弊害もあったが、狂信的にいきがちな宗教活動を中庸にする緩衝にもなる。これは現在の社会にもあてはまることで、_?
    純粋に理念に準じると美しいが狂信さと紙一重になる。意味のある中間組織、中庸さをもたらす何かの重要性をかんじる。

  • ルネサンスに興味を持たせてくれる一冊。

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