ローマ人の物語 (12) ユリウス・カエサル ルビコン以後(中) (新潮文庫)
- 新潮社 (2004年9月29日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101181622
感想・レビュー・書評
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先輩に薦められ手に取った作品。
教養として古代ローマ史を学びたい方の必読書です。
ハンニバルからカエサルまで一気に通読してしまったぐらい面白かったです。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
戦争に政治に、カエサル八面六臂の大活躍の巻( ´ ▽ ` )ノ
ハゲが来るから気をつけろ!、には笑った( ´ ▽ ` )ノ
2018/04/29 -
カエサルと同時代に生きた著名人にキケロがいますが、一級の弁護士であるだけでなく政治にも情熱を持っていました。内戦状態の時にポンペイウス側に付いたため、カエサルの自分への処遇に慄いている心境が手紙に綴られています。作者もカエサルが「真の貴族精神の持ち主」であったため、キケロさえも彼を理解していないと嘆いていますが、その様子は小心者といった感じでガッカリします。帰国後キケロと会った時のカエサルの寛容な態度を作者は、人間の品位の違いとさえ表現しています。
カエサルはその後、アフリカやスペインの地でのポンペイウス派の残党制圧を成し遂げ、世界国家とも言える帝国を築くべく独裁者の地位に就きますが、暗殺されてしまいます。その死を知ったときの暗殺者に送った手紙もまたキケロの人格を表す内容でした。この巻の最後にカエサルの書いたキケロ宛の親愛の情のこもった手紙が引き合いに出されているので、余計に虚しく思えました。
人たらしのカエサルのこの手のエピソードには事欠かないようですが、その中でも凱旋後にカエサルの子飼いの兵士たちがアフリカへの従軍を拒否した場面、このエピソードは圧巻です。「カエサルはただの一言で兵士たちの気分を逆転させた」と古代の史家たちが異口同音に言っているようですが、当にかっこいい〜の一言でつくづく感心させられます。 -
「来た、見た、勝った」のアフリカ戦役から、その後の国家改造、そして暗殺直前まで。まさか暦の改定までカエサルの手がけたことだったとは。。。
戦いも含め、カエサルの行っていることは、短期~長期それぞれの射程で、解くべき課題を適切に解いていて、しかもそのスピード感が半端じゃない。昔からすべての問題について考えていたわけではないだろうから、ほぼ直感的に解いていったのだと推察。キケロとタメをはる教養人だったというから、そこで培われた直感なのだろう。凄すぎ。
P16
パクス(平和)とは、優劣なき国々相互の話し合いによるものよりも、絶対的に優勢な国による調停とか裁定とか、やむをえないとなれば力で押さえつけるとかで成り立つ可能性のほうが高いのが、人間世界の現実でもある。パクス・ロマーナ、パクス・ブリタニカという呼称からして、この「現実」を示している
P68
どうしたって敵が戦闘せざるを得ない状態にもっていくには、敵が放置を許されないどこかを攻撃する必要がある
P98
「市民たちよ、女房を隠せ。禿の女たらしのお出ましだ!」(凱旋式時の兵たちの賑やかし)
P157
ローマ人にとっての神とは、人間の生き方を律する存在ではなく、行き方を律するのは法律と考えていたからだが、法律によって生き方を自ら律する人間を、保護しその努力を助ける存在なのである -
ルビコン川からCaesar暗殺まで。
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エジプト帰りのトルコはゼラの会戦を『来た、見た、勝った』の三語にまとめられるほどあっさり勝利し、北アフリカはタプソスの会戦では寡兵なのに相手の騎兵を歩兵で抑え、相手の歩兵を騎兵で抜くというわけのわからない勝ち方をし、スペインはムンダの会戦でかつての副将ラビエヌスを倒して全てが終わった。
とうに共和国の枠を超えていた超大国の実権を一人手中に治めたカエサルは、暦、税制、交通、医療、教育と全てを変えていく。既にこの頃、共和国という名前ではあれど終身独裁官として全てを一人で決めるその体制は帝国の兆しであったわけだが、思うにカエサルが成しつつあった帝制とは、果てなき権力を求めて辿り着いた目的地ではなく、超大国となってしまったローマを即断即決で超大国に適した体制に造り替えるための手段でしかなかったように思える。対して共和制は、制度の変更にコストはかかるが、長期的に幅広い人材をプールするのに適していたわけで、もしもカエサルが生き残っていたとすれば、独裁官という急事に全てを作り変える手段を残しつつ、平時の維持運用のための共和制を基本としたのではないだろうか。
しかし、その先行きもわからぬまま、カエサルは暗殺される。
こんな何でもできる、自在に人を扱えるような傑物をも殺す弱点とは一体なんだったというのか。
戦場においてさえ、捕虜にした敵や降伏した敵は決して殺さず、反対派の粛清などもってのほかであったカエサルのそれは、人柄からくる寛容なのではなく、実利を考えての寛容ではなかったか。恐怖による社会的混乱を避け、経済の活性化を第一に考えたからこその行動であり、結果、先のスッラの時代とは違い、ローマは大いに発展することになった。だが、寛容により許された全ての人が、過去を忘れその後の人生に没頭できたわけではない。許すという行為は勝者にのみ可能な行動であり、特に生死に関わることであった場合は、文字通り生きることを"許"可されるということだ。
許されたものに"許"可される生き方とは、キケロのように一生頭を下げ続けるか、ヴァッロのように厚顔無恥に全てを忘れるか、ブルータスのように敵に回るかの選択肢しかなかった。かくして至る結末は、次巻に続く。