- Amazon.co.jp ・本 (160ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101181875
感想・レビュー・書評
-
詳細をみるコメント0件をすべて表示
-
ローマの防衛力の低下、経済の低迷から帝国を維持するために、さまざまな政治システムの変化、変貌は理解できましたが、そもそも、帝国の経済低迷と、防衛力の低下の決定的要因がなんだったのか、よくわからないまんまです。
-
2011/12/17 購入
2011/12/31 読了 -
コンスタンティヌスがなぜキリスト教に肩入れしたのかがようやく判った。自分と自分の子孫の権力を確実なものにするために神を利用しただけのこと。
ただそこに着目して1歩1歩事を進めていくところは本当に凄い政治家だなあと思ってしまう。血を分けた長男でさえ用済みとなればあっさり切ってしまう冷徹さも権力者になるべくしてなった人という感じ。にしても長男のクリスプスが可哀想すぎます。
と、ここでどうしても疑念を感じてしまう。父親のコンスタンティウスはやはりこの人が殺したのではないかと。タイミングが良すぎるし、この人ならやりかねんと思ってしまうのです。 -
約300年続いた帝政ローマ帝国が、ローマらしくなくなっていく過程が描かれている。カエサル・アウグストゥルスから始まったローマ帝国は、ローマ市民と元老院が主権者であり、その人達の平和を守るために統治権が皇帝に委任されていた。ところが、コンスタンティヌスの治世からは帝国の存続自体が目的化して、皇帝は神からの委任となり、ゆえに戴冠するようになる。人々の安寧は目的ではなくなったのだ! 共和政~帝政のローマは、人々がお互いを認め合う平和で ”理想的” な世の中だったのに残念。
それにしても、同時代は日本では弥生時代から古墳時代で、政治や社会のことが書き物やコインとして残っていない。時代の差を感じます。
ローマ人の物語、完結まであと6冊。 -
ローマ帝国の領土を維持するために皇帝が最後の努力をしたという内容でしたが、この時の改革(?)が滅亡の原因を作ってしまったようですね。
この本を読み始めた最大の動機は「ローマ帝国滅亡の根本原因を探ること」だったのですが、このシリーズ(文庫本では35~37の三分冊)で、私としてはその回答が得られたようで、気分が爽快です。
今の日本の政治家も選挙の度に「改革!」と言っていますが、それが長い目で見て良い方向に向かっていたかどうかは20年程経過すると明らかになるのでしょうか、それとももっと早く結果が見えてしまうのでしょうか、気になるところです。
また、キリスト教が急激に普及した理由(メリット)を塩野氏は多く挙げていますが、私が最も庶民の立場から納得したのは、キリスト教徒ならば日曜日の週一回、神に祈りを捧げるということで休むことを認められたことにある(p127)でした。
以下は気になったポイントです。
・新しい都市の存続は、仕事をできる人がどれだけ多く住みついたかにかかっていた。これが新都:コンスタンティノポリスに課せられた使命(p19)
・コンスタンティノポリスには、ギリシア、ローマ、シリア、エジプトの神々に捧げる神殿は許されなかった、一神教とは他の神々を認めないことに特質がある(p22)
・ローマ帝国では、兵士たちは1年ごとに交代させても、将校たちだけは最前線に立ち続けた、司令官クラスと兵士クラスの戦死率の差は驚異的、それが元老院主導の時代(p28)
・ガリエヌスの法により、軍団叩き上げから元老院するキャリアパスを奪った、これをさらに徹底させたのが、ディオクレティアヌスによる軍事キャリアと政務キャリアの完全分離政策であり、元老院は安全保障という最重要事から締め出された(p35)
・皇帝の考えは元老院で採血されることもなくの立法機関としても存在理由がなくなった(p35)
・国境線で早くも敵を撃退する安全保障システムの象徴であった「防衛線:リメス」は、滅びる100年前には放棄された(p40)
・コンスタンティヌスは通貨について、銀本位制を金本位制に変更した(p43)
・流通貨幣であるにもかかわらず貯めこまれて市場に出てこないのは、ローマ人が自国通貨を信用しなくなったということ(p46)
・ディオクレティアヌスが東方を、マクシミアヌスが西方をという形で帝国防衛を分担する「二頭制」が始まったのは、紀元285年から(p68)
・コンスタンティヌス皇帝による皇帝資産のキリスト教会への寄贈行為は、ミラノ勅令に違反しただけでなく、ローマ帝国皇帝の公人としての身の処し方としても違反していた(p86)
・コンスタンティヌス皇帝の寄附行為は「コンスタンティヌスの寄進状」として中世時代に欧州の王や諸侯を縛った証文であったが、1440年になって偽物であることが証明された(p88)
・キリスト教の聖職者は、国家の公職から軍務に至るまであらゆる公務につかない権利を認めた、これで聖職者階級の独立が公式に認められた、更に司教区内での司法権も認めた(p89、125)
・コンスタンティヌス皇帝は、エジプト産小麦をすべて、コンスタンティノポリスへ送ることに決定し、首都ローマへは行かなくなった(p97)
・ニカイア公会議できまった形のキリスト教が、今にいたるまでのキリスト教になった、つまり、神と、その子イエスと、精霊は同位であるが故に一体であるとする「三位一体説」(アタナシウス派)である(p106)
・キリスト教徒の兵士には、神に祈りを捧げるという理由で日曜を休日にすることを認めたが、異教徒の兵士たちには日曜も訓練を課した(p127)
・紀元330年5月11日に、新都コンスタンティノポリスの完成を祝う式典が挙行された、この年をもって首都機能の全てが完全に、ローマから移転した(p131) -
カエサルが構想し、アウグストゥスが構築したのが帝政ローマ
ならば、ディオクレティアヌスが改革し、コンスタンティヌスが盤石
にしたのが絶対君主制のローマである。
「ローマ帝国」の名称は同じでも、国の実態であればまったく異なる
ものとなった。
「ローマ軍の背骨」とまで言われ軍団中の精鋭揃いだった国境の
防衛軍は、「攻めて守る」から「攻め込まれて撃退する」までに堕ちた。
それは、軍団が守るものがローマ市民の安全ではなく、絶対君主となった
皇帝を守る為に存在するようになったからだ。
「これほどまでして、ローマ帝国は生き延びねばならなかったのであろうか」
全く同感である。4世紀のローマ帝国は、既にローマ帝国ではないし、
キリスト教徒からは「大帝」と呼ばれるコンスタンティヌスだが、私は
「大帝」とは呼びたくないね。笑。
コンスタンティヌスについては著者もあまり好きではないのか、人物像に
ついてはほとんど描いていない。やはり、著者の大好きなカエサルの
構想したローマと、あまりにもかけ離れたローマを再興したからなのか。
尚、ハドリアヌス帝以降のローマ史に疎かったので、コンスタンティヌスは
キリスト教を国教にしたのだと思い込んでいた。そうじゃなかったんだな。
キリスト教をも公認しただけ…だったんだ。 -
11/5/7
コンスタンティヌス帝。防衛線を放棄し、キリスト教を振興する。ローマンスピリットが生き続けた古代は終わり、中世が始まる。キリスト教を振興したのは、一神教の絶対神によって皇帝権を授けられたとして権力の安定を計れるということには同意するが、コンスタンティヌス帝は実力により皇帝にのしあがっており、どれだけキリスト教振興のメリットを享受したかの記述があまり無く、ピンとこなかった。 -
コンスタンティヌスの時代
コンスタンティノープルへの遷都、ニケーア公会議の招集、キリスト教の公認と活用と振興。中世の始まり。
2011/02/27読了