ローマ人の物語 (40) キリストの勝利(下) (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (176ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101181905

作品紹介・あらすじ

ユリアヌスは数々の改革を実行したが、その生涯は短く終わる。政策の多くが後継の皇帝たちから無効とされ、ローマのキリスト教科は一層進んだ。そして皇帝テオドシウスがキリスト教を国教と定めるに至り、キリスト教の覇権は決定的となる。ついにローマ帝国はキリスト教に呑み込まれたのだ。この大逆転の背後には、権謀術数に長けたミラノ大司教、アンブロシウスの存在があった。

感想・レビュー・書評

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  • 皇帝テオドシウスを信徒にし操り、ローマ時代の象徴の元老院を屈服させたアンプロシウスによりキリスト教の勝利は確定した。それに伴いギリシャ・ローマの文化、芸術が破壊されまくる。初期の教義からはずれた宗教の偏屈が貴重な遺産を破壊していく。なんて悲しい時代なのだろう。この後、東西に分割されローマ帝国は滅亡のカウントダウンに入る。

  • キリスト教の勢力拡大に大きく貢献したアンブロシウスの話が中心ですが、宗教の怖さやその偽善ぶり、いい加減さがイヤと言うほどよく判る内容です。
    キリスト教会とは縁もゆかりもなかった官僚のアンブロシウスを司教にスカウトしたミラノ信徒達こそ聖人に列せられるべきだろうと思ってしまいました。
    ただ、アンブロシウスは何を目指して司教を引き受けたのか、最初から皇帝を凌ぐ権力者となることを目指していたのか、その点は良く判らない点でした。
    それにしてもこの巻を読んだ後では、ユリアヌスの一本気さが本当に可愛らしく思えてきます。

  • ユリアヌスの死後、帝国のキリスト教化はさらに進み、ついにテオドシウス帝によりキリスト教が国教となります。
    アンブロシウスとシンマクス、途中までの境遇なら似ている二人の「これからの時代」と「去る時代」を象徴しているかのような対照的な生き方には考えさせられるものがあります。
    「異端」と「異教」の排斥、「宗教」と「権力」の関係が古代の終わりと中世の始まりを告げているようです。

  • 帝国が東西に二分され、キリスト教以外は処罰の対象となる。それまでの帝国と完全に別物になっていく様が書かれた巻。ここまでずっと読んできた身としては、とても切なくなった巻でした。

  • ネロのあたりでしばし中断しているのですが、大森君の結婚式の往復の新幹線用に厳選した構造デザイン論を読もうと思ったら間違えて持ってきた嫁の購入したしつけの本だったので失意の中、駅の本屋で次善の策として購入。ローマ帝国もかなりきつい状況になっちゃってます。
    国のシステム化はもうできちゃっているので、創造の瞬間も、その創造を可能にするアルゴリズムも出てこない。だから読んでいて「こいつは」って人物も、「そうだったのか」っていう史実もあんまり出てこない。代わりに忍び寄るのはキリスト教、宗教が国のシステムを乗っ取る。宗教ってのは、つまりは、想像上のもので、想像上のものに関して理論を研ぎ澄ましたシステムはたいていのシステムよりも強くなる。一神教をめぐる多数の宗派による理論の戦いによって、このキリスト教のシステムは一番強力になっていったのでしょうね。

  • 司祭アンブロシウスvsシンマクスの書簡対決が、時代を映し出しているようで興味深かった。キリスト教化されていく帝国。皇帝も羊として、羊飼いの司教に操られていく。

    2011/03/19読了

  • ずいぶん遠くへ来てしまったなあと何だかしみじみしてしまった40巻目。
    巻末の光輪つきの皇帝には何だか複雑な気持ちに。
    これも残すところあと3巻かな?
    次が出る前にまたちょこちょこ読み返したい。

  • キリスト教が国教になりもともとの宗教が消えていく過程がよく分かる。
    ローマの宗教も考え方もシステムも変わっていく。

  • ユリアヌスの時代を読み終わった。
    ユリアヌスがどれだけ大変な時代に皇帝になったかを思い知った。
    彼が皇帝位についた時、ローマ帝国は既にかつての帝国ではなかったのだ。
    リメス(防衛線)のタガは緩み切り、蛮族は易々とリメスを突破して侵入してくる。
    ローマ帝国を根底から支えた<寛容の精神>は、キリスト教によって完璧に葬り去られていた。

    キリスト教を政治的手段として採用したのは、ユリアヌスの叔父である、コンスタンティヌス大帝だ。
    そして、この<大帝>という名が曲者だ。
    <大帝>の名を与えたのは、後の権力者たるキリスト教徒であり、キリストを公認した初めての皇帝であったという理由から、コンスタンティヌスは<大帝>と呼ばれたのだ。
    一方、ローマ帝国の崩壊を食い止めるために、再び<寛容さ>の復権を果たすために、キリスト教一党独裁を否定しようとしたユリアヌスは、キリスト教徒から<背教者>の烙印を押されたのだ。
    本来、<背教者>に対するならば、<大帝>ではなく、<容教者>とでも呼んだら十分だ。

    叔父の皇帝の政治的な決断が帝国内でのキリスト教の躍進を齎し、ローマ帝国は一神教によって内部を空洞化されていく。
    ユリアヌスは皇帝にならずに哲学者としての一生を終えることが出来たら幸せだった筈だ。
    それは、哲人皇帝マルクス•アウレリウスに対しても言うことが出来る。
    ユリアヌスの稀有な純粋さが、彼の美しさであり、その純粋さが彼を滅ぼす運命でもあった。

    <五賢帝の世紀>五賢帝のラストを飾るマルクス•アウレリウスの巻を読んで、民族大移動の胎動は、我々がゲルマン民族の大移動の年として知っている375年から、200年も遡ったマルクス•アウレリウスの時代に始まっていたことを知った。
    民族大移動は、突如として起こったことではなかったのだ。
    ゲルマン民族大移動が堰を切ったように始まる10年前に死んだユリアヌスの時代、民族大移動のエネルギーは既に爆発寸前まで高まっていたと言える。
    この歴史の巨大な不可逆の流れに、だった一人のローマ人皇帝の思想•哲学で立ち向かうことなど出来よう筈もないのだ。
    しかし、その不可能ごとを自らの運命として敢然と受け入れて、全身全霊を賭けて取り組んだ彼の崇高さ(太宰であれば<甲斐ない努力の美しさ>と呼んだ筈だ)は、ローマの歴史に大きな刻印を残している。
    だから、作家辻邦生は、ユリアヌスに惹かれたのだ。
    そして大作「背教者ユリアヌス」を作り上げるのだ。

  • とうとうローマ人がローマ人らしくなくなってしまった。
    残念、心の広いローマ人が好きだったのに。

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