知ろうとすること。 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101183183

作品紹介・あらすじ

福島第一原発の事故後、情報が錯綜する中で、ただ事実を分析し、発信し続けた物理学者・早野龍五。以来、学校給食の陰膳(かげぜん)調査や子どもたちの内部被ばく測定装置開発など、誠実な計測と分析を重ね、国内外に発表。その姿勢を尊敬し、自らの指針とした糸井重里が、放射線の影響や「科学を読む力の大切さ」を早野と語る。未来に求められる「こころのありよう」とは。文庫オリジナル。

感想・レビュー・書評

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  • どなたかのエッセイか何かに出てきてメモしていたもの。タイトルだけでは何かわからないけど、福島の原発事故にかかわる科学的視点からの事実認識の話。
    糸井重里さんと物理学者の早野龍五さんによる対談形式で読みやすい。

    一般人の感覚からすると、普通に生きていても自然から被曝していることは意識の外に行ってしまう。さらに、人体の中にもカリウム40という放射線を放出するものが存在していて、人間は必ず内部被曝しているということは知らなかった。
    また、人間を構成する一番多い原子である水素は、138億年前に宇宙誕生と同時にできた水素原子がリサイクルされたものだということもとても驚いた。もう自分の思考の範疇を超えた話だけど、なんかすごくロマンがあるし、物理という学問も壮大で面白いと思った。

    コロナ禍でも通用することだけど、データなど科学的根拠に基づき「正しく恐れる」ということに尽きるなー。

  • 2011年に起こった東日本大震災から4年が過ぎたが、福島原子力発電所に残された被害の修復には、まだ多くの時間を必要とする。

    一方で、つい先日も日本製食品輸入に関する新たな検査表示規制を要求するなど、科学的根拠のない風評被害が続いている。

    著者である物理学者の早野氏は、震災直後からツイッターを立上げ、福島原発での被害状況や影響度を、客観的な事実の蓄積で外部に発信し続けてきた。早くから早野氏の活動をフォローしてきた糸井氏との対談。

    客観的事実も人による感情、非論理的行動で歪められてしまう。理屈は分かっていても行動は・・・という事だろうか。それ故、科学者は信頼できる客観的事実を公表し続けなければならない。

    科学的判断も限界があり、限られた制約条件の中での真実であることを理解しなければならない。早野氏も多くの場面で迷いがあった。しかし地道な事実の蓄積と検証を止めることはなかった。

    多くの情報が瞬時に手に入る中で、ニュースソースも多様である。時にセンセーショナルで興味を引く題材のみ取り上げられたり、エキセントリックな表現が人目を引いたりはするが、そんなときでも真実を「知ろうとすること」を基本スタンスとして忘れないでおこう。

  • 【感想】
    ――科学と社会の間には絶対的な断絶がある。「混乱した状態から、より真実に近い状態と思える方に向かって、手続きを踏んでいく」というサイエンスとしての考え方を、一般の人たちに理解してもらうのは、とても難しいと知ったのです。
    ――これからの科学者は、正しいデータだけでなく、態度や表現によって、人々に「伝える」ための行動を取っていくしかない。また、それを言っている発言主体が、みんなから信用されるというような生き方をしないといけない。

    本書のキモはこの部分に凝縮されている。

    未知の現象に対して、科学は想像以上に答えを出せない。いくら実験とデータを積み重ねても、科学のもとで「100%絶対」はありえず、確実なことは決して言えない。
    しかし、「はっきりとは断定できません」という言葉では、一般の人々は納得してくれない。

    では、そのとき科学者が取るべき行動はなにか?それはデータを提示することよりも、「何としても伝えたい」という態度を見せることだ、と早野氏は述べる。

    震災から10年、世界はコロナウイルスという新たな危機に直面した。そして震災のときと同じように、大量のデマが人々の不安をかきたてている。
    早野氏の警句は今でこそ生きる。正しい情報を発信し混乱を鎮める方法について、科学がなすべき役割を10年前から論じていた。そのエッセンスは決して古くなく、コロナ禍の今だからこそ輝くものがあるだろう。

    ──────────────────────────────────
    【メモ】
    早野氏は3.11後、事故に関するデータをグラフにまとめ始めた。
    医療被爆と中国の核実験に伴う個人的な体験から、「事故による東京での被ばくに、大きな健康被害は出ない」とツイート。
    そこから各原子炉の状況を、公開情報をもとに何ヶ月にもわたって集計し始める。そしてTwitterで事故に関する情報発信を積極的に行うようになったのだ。

    早野氏は給食まるごとセシウム検査、ホールボディカウンター検査など、放射能測定に関するさまざまなプロジェクトの立役者になる。福島の内部被曝の現状についてまとめ、調査論文を書くまでにいたった。

    調査から分かったのは、福島の食べ物は放射線濃度が相当低く、内部被ばくの危険性は低いということであった。
    内部被ばくを論じる上で目を向けるべきは「被ばく量」である。福島原発の事故の規模に対して、福島の人々の内部被ばくや外部被ばくの量は――チェルノブイリや1960年代の核実験と比較しても――きわめて低かった。また、イラクやコロラドなど、自然状態でも放射性濃度が高い国と比べても極めて低かった。

    しかし、それが伝わっていない。未だに「次世代への健康被害」が起こるのではないか、と考えている人々もたくさんいる。
    これからの科学者は、正しいデータだけでなく、態度や表現によって、人々に「伝える」ための行動を取っていくしかない。また、それを言っている発言主体が、みんなから信用されるというような生き方をしないといけない。

    早野氏はベビースキャンという4歳以下の子供の放射線量を測る巨大な装置を作ったが、本人は「科学的には必要ない」と言っている。大人の方がセシウムの代謝が遅く身体に残りやすいため、一緒に暮らしている親から検出されなければ子どもからも検出されないからだ。
    しかし、「どうしてもうちの子を測ってください」という親が現れたため、製作した。今ではむしろ、子どもを連れてきた親が何に困っているかを話すためのコミュニケーションツールになっている。

    今回の事故で「社会に巣立っていく人たちにとって科学的なリテラシーがいかに必要であるか」ということが、よくわかった。科学的なリテラシーというのは、教わって得られるものではなく、自分で鍛えて身につけていくものだと思っている。

    科学と社会の間には絶対的な断絶がある。「混乱した状態から、より真実に近い状態と思える方に向かって、手続きを踏んでいく」というサイエンスとしての考え方を、一般の人たちに理解してもらうのは、とても難しいと知ったのです。

    科学というものは、間違えるものなのです。だから科学者は「こういう前提において、この範囲では正しい」というふうに説明しようとする。でも、これは一般の人にはわかってもらえない。

    人は大きな物音や騒ぎに目や耳を向け、簡単に興奮し、恐れたり脅かしあったりしやすい生き物です。しかし、本当に大変な事態になったときには、事実をもとにして冷静に判断をしなければなりません。そういうことに当たるときの姿勢というのは、もともと身についていないものですから、あらためて習う必要があります。

  • いまだに「福島産」というだけで拒絶する人がいる。福島に近いというだけでも拒絶反応を示す。スーパーで「茨木産」という表示が増えたのを見て「福島産を隠すための陰謀だ」という。国や電力会社の発表する数字は信用できないと自分たちで計測している人もいる。がれき処理の持ち込みに断固反対している人もいる。
    そういう人たちを見て、私自身どう判断していいのかわからなかった。大雑把に「大丈夫だよ」と言ってしまうのも違う気がするが、だからといって、わけもわからず「なんとなく怖い」というだけで右往左往するのも嫌だ。
    この本を読むと、「冷静に判断する」とはどういうことかがわかる。「冷静に怖がる」とはどういうことかということもわかる。
    計測して出てくる数字はただの数字で、それをどう読むか、どう受け取るかで全然違ってくる。
    危ないものをすべてゼロにせよ、という願望は、感情としては理解できなくもないが、やはり無茶な要望だと思う。そんなに危ないのが怖いなら生きるのをおやめなさいな、と言いたくなる。
    さまざまなリスクとどう折り合いをつけていくか、どれを避けて、どれは受容するか。そういう判断を「科学的な態度」というんだろう。
    この地球に生きている、というのがどういうことなのか、落ち着いてよく考えた方がいい。そのための方法や考え方を、この本は教えてくれる。

  • 気になってたこの本。本当に読んで良かった。

    もう10年以上前だけど『海馬 脳は疲れない』を読んだ時も同じような興奮と感動があったなぁ。と思い出した。

  • 有事の際の素人の心得は信頼できる専門家、メディアを見つけることだろう。そして信頼性の判断軸の一つが「ヒステリックに騒いでいない」こと。逆に一番信用できないのが「大騒ぎする素人の方々」。そういう方々は、自我までゆらいでいるように見える。

  • 物理学者の早野龍五さん×糸井重里さんの福島第一原発をテーマにした対談集。
    一度持った疑いを晴らすのは本当に難しい。でもその疑いの種はどこから来たものか。その種は自分の考えを動かすほど信頼に値するものか。根拠のない声に踊らされないようにしなければと思う。
    「大丈夫です」「安心です」その言葉も、いつか科学的に覆るかもしれない。お二人の会話でもっても明確な結論は出ないけれど、情報に常に更新していくことが大切だという。情報が溢れすぎて何が正しいのか分からずつい蓋をしてしまっていただけに、少し踏み込んで自分のなかの原発関連の情報を更新してみよう。

    巻末の糸井重里さんの「もうひとつのあらすじ」は近年の情報化社会すべてにあてはまるように思う。
    「人というのは、おもしろい生きもので、野次馬というやつをこころのなかに飼っています。」
    十人十色様々な視点や考えがあることは良いこと。但し事実が曲げられたり膨らまされていないか見極め、時に柔軟に、時に良い意味で疑り深く情報と付き合っていこうと思った。

  • 「知らない」と「知っている」この雲泥の差。
    そして、知っていてもなんとなくできないことがある。
    本屋さんで積んである雑誌の2冊目を取ってしまうこと。
    でも、知っていれば、そのうち2回に一回は一番上の雑誌を手にするかも・・・。これが雲泥の差なんだと優しく丁寧に伝わってきました。

    伝えるのに「言葉」は本当に必要ですが、それに人の納得が加わるには事実という要件も必要なのですね。
    いろいろわかると共に、わからないことも一つ。
    データでいろいろ危ない物質の量が少ないのはわかったのですが、大きな事故がありながら、どうして少なくてすんだのかはわからなかった。理由もわかるといいのにな。
    そして、物理学者という人のアタマの構造はもっとわかりませんでした。紙には書けないけど数式として答えが出る・・・????うーん、違う人種ですね。
    でも、とっても興味ですし、面白いとは思いましたが。

  • 無意識のうちに塞き止めていた福島に関する情報を、3年と半年を経てやっと更新できた。それもまた、すごく確実に。しばらくは本棚に戻さず、持ち運んでいたいなぁ。
    (文中の言葉の交差ひとつにしても、早野さんの説く科学的な確信でグッと安心、もうひとつ糸井さんのすごく人間的なユーモラスでホッと安心だったり。個人的にはそういったとこも魅力的だったな。)

  • 「地球はまあるい」

    実際に見たひとはほんのわずか。
    見てきたひとが言ったんだし映像もあるしせんせいからもそう教わったし。
    だからわたしたちはまあるいと思うことにしている。

    わたしたちは、往々にして体験していないものを実体験したような感覚になり信じて知識にしているものがたくさんある。

    2011年3月11日以降、わたしも科学的な言葉がどんどん入ってきてただ悪い方向ばかり想像していたひとのひとり。

    だからこそ読んだ。

    起きてしまったことはしゃーない。
    ここから未来をまた築き上げていこう。
    スキャンダラスではないほうを選ぼう。
    そう思わせてくれた一冊。

    斜め読みしたので、今度は時間をかけてゆっくりと読むことにする。

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