あらゆる場所に花束が… (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社
3.03
  • (21)
  • (22)
  • (130)
  • (29)
  • (14)
本棚登録 : 582
感想 : 69
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (185ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101184418

作品紹介・あらすじ

どこからか聞こえてくる「殺れ!」の声。殺意と肉欲に溢れる地上を舞台に、物語は進む-。暗い地下室で拳銃に脅かされながら、絵ハガキを作らされる男。河川敷で、殺人リハーサルを粛々と敢行するジャージ姿の一団。ペニスを露出させ、謎の人物を追う中年ルポライター…。それぞれが複雑に乱舞、絡み合いながら、前代未聞、仰天の結末へと突っ走る。異才が放つ、三島賞受賞の超問題作。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 大好きな小説。日本文学の乱暴者・極北を行く中原昌也の三島賞受賞作。これはとにかく笑える。まず文章の素人っぽさ。「あまりの迫力に圧倒されっぱなし。」「アスピリンを発見。」「怒りが爆発して、顔面に平手打ち。」「黒飴キャンディをプレゼントしますよ。」など分別のある作家ならまず使わないであろう表現に力ない笑いがこぼれること請け合い。登場人物の独白を「うるせえ!」の一言で片づけてしまったところにあきれたと同時に新しい日本文学の可能性を見た。そして無意味な暴力シーン。会社の友人を公園の木の幹に向かって投げ飛ばしたり、チンピラの鼻柱をテレビで見たサッカーの要領で熱狂的に何度も膝で打ったり、猥褻壁画が崩壊して子供たちが大量死したり、ダンプカーで美容室の女主人を轢き殺したり、気球のオーナーを包丁で刺すために体のあちこちにマーキングしたり、やりたい放題である。物語の明確な筋というものはなく、主人公も誰だかよくわからない。一応一貫して出てくる登場人物は何人かいるが、そいつらが果たして生きてるのか死んだのかもよくわからない。実験的といえばそうだし、適当に書いたといえばそうなってしまう。この本は読まなくても人生に全く影響しない類なので暇な人だけ読めばいいと思う。余談だが俺はこの本を友人との読書会の課題図書に選んだことがある。友人は東野圭吾の『怪笑小説』を持ってきた。メシを喰いながらああでもないこうでもないとメチャクチャな文学論を喋りまくったのだが、あることに気付いて俺は愕然とした。友人が持ち込んだ小説とこの小説の共通点は「笑えること」だが、東野圭吾は綿密な計算の上に成り立つ上質な笑いを『怪笑小説』で提供しているが、『あらゆる場所に花束は』にはそれがない。つまり俺は下らねえ下らねえといいながら笑っているだけなのである。友人に比べて俺の人としての器が小さいことがこの読書会を通じてハッキリしてしまったのである。まあ関係ない話はいいか。おすすめです。

  • 暴力的に短かった『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』とは違って、『あらゆる場所に花束が…』はまとまった長さがある中編小説だ。長さが変わったからといって、脈略のなさや無意味で理不尽な暴力、紋切り型の表現といった中原昌也の作風は健在である。
    一見すると脈略のない小説に見えるが、一定の規則性に従って反復を繰り返す小説になっているように思う。理不尽な暴力のイメージをつないでいく手法で小説を展開させていく。共通したイメージを繰り返して展開させる手法は、斬新で面白みがある。フランスの文学運動ヌーヴォー・ロマンに通じるものがある。中原昌也の小説はあらすじにまとめるのが困難で、要約されるのを拒んでいるように思える。文章の流れに身を任せて読むような小説だ。物語的に小説を展開させているのではなく、イメージを連想で繋げて話を展開させていく。どんどん話題がズレていくので、脈略がないような印象を受ける。しかし、ただ脈略がないのではなくて、暴力のイメージや構図が反復されているなど、構造を持った脈略のなさだ。イメージを連鎖させているので、気が尽きた時には全く関係ない話になっていることもしばしば。アランロブグリエの映画のタイトルから拝借すれば、その手法は漸次的横すべり的な小説とでもいうのだろうか。

  • 反復され重複し、連鎖するイメージの数々が、次の物語を生んでゆく。絶えず浮遊する視点は確かに誰かのものでありながら、同時に何者のものでもあらぬところのものであるような在り方で規定される。ので、ちょっと時間をあけるといま誰が何をしているのかよくわからなくなる。

  • 再読ですけれども、まぁまぁですかね…これも面白いっちゃ面白いんですけども、個人的には文春から出ている文庫本…タイトルは忘れた…のが面白いですかねぇ…社畜死ね!!

    ヽ(・ω・)/ズコー

    ともかく視点がコロコロと行き来して休む暇もないんですなぁ…!

    結局、読み終えても何の話やら…? 分からないところもあるし、タイトルも意味が分かりませんけれども、登場人物が不意に感じる孤独感…疎外感…やるせなさ…みたいなものはよく表現できてると思います! というか、中原氏の心情を登場人物に吐露させた…? みたいな疑惑が頭をもたげます…。

    あとがきが一番ノってていいですかねぇ…解説は長ったらしく読んでません…さようなら。

    ヽ(・ω・)/ズコー

  • 又吉さんが紹介していた本。
    映画パルプフィクションのような本。
    夢を見ているような話の展開。
    つじつまがあっていないようで、どこかあっている。

    僕にはついて行けなかったけど、賞を受賞しているし、文学会では評価が高いらしい。

    解説を読むとなんとなくわかったような気がする。

  • ごつごつと乾いたものを、ねっとりしたもので覆いつくしている感じ。
    退廃的で、愚かで、ほんのちょっと美しい。

    言葉も分かる。文章も分かる。
    ただ、流れが分からない。
    でもこの人が凄い事は分かる。

    章ごとに目線をぴったり合わせた語りが、違う人物によって繰り広げられていくので、焦点を合わせていくのに時間がかかった。

  • 2/20
    連関する言葉のイメージよりも、連関することなく捨て去られた言葉への暴力に注目したい。

  • 二冊目もどうでもいいです。

  • とにかくどうもこの小説は評判が悪い。
    ということで、少しだけ考えてみた。

    普通物語は「起承転結」が基本だ。
    誰がいつそう定めたのか、それはそれで興味があるが、
    さしあたってそういうことになっている。
    この順序を変えたり、ひとつを抜かしたりということは
    手法として存在するけれど、基本的な枠組みは変わらない。

    ところがこの小説はそういう枠組を一見無視している。
    起承転結をそれぞれプロットとみて「A→B→C→D」と話が
    展開するとする。

    一方でこの小説は「A→B」⇒「B→C」⇒「D→E(B)」・・・
    というような構造をとっている。→は話の推移、⇒で場面転換の
    橋渡しをするツールを意味する。話の推移で落ち着いた最後の場面
    は次の場面と関係ない場合もある。あるいはまた戻ったりする場合もある。

    具体的にいうと、

    「小林と徹也」―(絵ハガキ)→「恵美子と陽子、途中から岡田」
    ―(小林による陽子の死)→「徹也と茂」―(セックス)―「関根と岡田」・・・

    と、基本的にランダムに登場してくる数人の登場人物の関係性
    (具体的には行為と会話)から生じるさまざまなプロットを
    橋渡しにして話が進行していく。

    これを「支離滅裂」あるいは「破綻」として捉えるのは簡単である。
    たしかに「起承転結」という展開からすれば破綻している。

    しかしそもそも「起承転結」の構造はアスタリスクを置いていることで
    すでに最初から放棄している。タイトルも「あらゆるところに」が
    ついている。これはアスタリスクで区切られた物語の構造を示唆して
    いると思われる。

    解説で「自己産出的」としているのは的を得ている。
    複線や設定を無視して、ひとつのプロットが次の話へと橋渡しをする
    ツールを生み出し、そのツールが次の話へとつなげていく。
    その繰り返し。
    つまりは物語が「自己運動」しているのだ。

    「自己運動」するものはずっと運動していくとどうなるか。
    生き物ならば、死んだら終わりということになるが、物語は生き物
    ではないので、その付加価値をどんどんくっつけながら無限増殖して
    いくことになる。

    そこで、この物語は外的な力(気球とブルドーザー)で強制終了
    させられる。自己運動するものは、強制力によって強引に運動を
    終了させられるしかない、という発想だ。

    しかしこれは面白くなかった。
    ところで自己運動して付加価値をくっつけながら無限増殖していく無機物、
    といえばやはり貨幣だ。貨幣価値の無限増殖に基づく資本主義の無限成長
    を終わらせるのは「外的な強制力」しかない、ということを言っている
    のと同じだからだ。そんなもん、普通の意見だ。
    しかし実際宇宙人くらいしか外的な強制力というのは存在しないわけ
    だし、非現実的にすぎる。

    というわけで、僕はこの小説を支離滅裂だと非難するのではなく。
    自己運動し価値増殖していく無機物を止める方法において、何も提示
    していない凡庸さにおいて、非難したいと思います。
    ただ、物語を自己運動するものとして進行させていった、この設定
    というか、物語の捉え方は、これは非常なる魅力を持っていると思いました。
    なにせほかに、並び立つものがない。
    同じようなことしてるのは初期のチバユウスケくらいじゃないだろうか。
    僕が知る限りですが。

  • 暴力的にスピード感のある文体であるが、話としては特に何も起こっていない。というか何だったんだ。著者本人による文庫版のあとがきがウケる。

全69件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

《Hair Stylistics/中原昌也》
1970年6月4日東京都生まれ。
1988年頃よりMTRやサンプラーを用いて音楽制作を開始。
1990年、アメリカのインディペンデントレーベルから「暴力温泉芸者=Violent Onsen Geisha」名義でスプリットLPをリリース、ソニック・ユース、ベック、ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンらの来日公演でオープニング・アクトに指名され、
1995年のアメリカ・ツアーを始め海外公演を重ねるなど、国外での評価も高い。
1997年からユニット名を「Hair Stylistics」に改める。

音楽活動と並行して文筆活動も多数。
1998年に初の短篇小説集『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』(河出書房新社)を発表した後、
2001年に『あらゆる場所に花束が……』(新潮社)で三島由紀夫賞、
2006年に『名もなき孤児たちの墓』(新潮社)で野間文芸新人賞、
2008年に『中原昌也作業日誌 2004→2007』(boid)でBunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。

「2018年 『"Hair Stylistics CD-R Cover Art Works" BOOK WITH CD "BEST!"』 で使われていた紹介文から引用しています。」

中原昌也の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×