- Amazon.co.jp ・本 (514ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101209128
作品紹介・あらすじ
異常な記憶力、超人的行動力によって、南方熊楠は生存中からすでに伝説の人物だった。明治19年渡米、独学で粘菌類の採集研究を進める。中南米を放浪後、ロンドン大英博物館に勤務、革命家孫文とも親交を結ぶ。帰国後は熊野の自然のなかにあって終生在野の学者たることを貫く。おびただしい論文、随筆、書簡や日記を辿りつつ、その生涯に秘められた天才の素顔をあますところなく描く。
感想・レビュー・書評
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南方熊楠の伝記である。多くの本の中で非常に詳しく書かれている。海外、特に大英博物館での話が多いが、これまで言われていたこととだいぶ異なり、具体的に書いている。粘菌のことも書かれているがそれほど詳しくはないようなかんじであるのは、この著者のせいかもしれない。
孫文との関係についての詳細に書いているので、他の伝聞よりもましである。
最後は天皇の回想で終わっているが、記録があるということで仕方がないのではあろう。
牧野富太郎の次は南方熊楠が朝の連続ドラマになるであろう。
朝日新聞の文学紀行で和歌山編で紹介された。 -
おそらく躁病じゃないかと書かれているが間違いなくそうなんだろうなと思う。
この気質は高い知能とともに親から受け継いだものなのだろう。
この時代に洋行遊学出来るのはかなりの資産家でないと難しい。
歳を取ると疲れを知らない精神に体がついていかなくなる。
晩年はちょっと可愛そうだった。 -
南方熊楠は、その業績からすごい人だなぁと尊敬してたけど、この本を読んで、とても好きになった。
南方熊楠と言えば「粘菌」。なぜ粘菌だったのかがずっと疑問だったけど、この本を読んでやっと納得ができた。この世界の理を知ることにつながっているのだそうだ。
豪放磊落とは、この人のことだ。そして、博覧強記の人。こういう素晴らしい、奔放な才能を、受け入れられない社会が本当に歯がゆいし、今もその状況が変わらないことが残念でならない。
この本の、会話文がとても好きだ。そばにいて聞いてきたのかと思うような生き生きとした会話、口癖のような言い回しや方言のお陰で、人物像がありありと浮かび、親しみが湧いてくる。だから、熊楠先生が窮地に陥るたび、こちらまで地団駄を踏むような気持ちになってしまう。少しでも、自分の努力が報われたと思う瞬間がたくさんあるように、と願いながら読んだ。 -
南方熊楠には以前から関心があって、2~3関連書を手に取ってみたことはあるんだけど、なかなか難しくて読み通せませなんだ。
その点この本は、小説家(神坂次郎氏)が書いているだけあって、大いに読ませます。
もちろん熊楠が残した豊富な文献や書簡などの一次資料を踏まえ、現場現地を綿密に取材しながらも、和歌山(著者の出身地でもある)の方言を縦横に交えた比較的自由な筆致で熊楠の生きた波瀾万丈の人生を描き切って、読んでいて大変面白いし、内容の豊富さ、記録としての信頼性・網羅性でもピカ一なんではないかと思われます。
尋常ならざりし博覧強記、十八カ国語を操り世界を股にかけ、日本よりむしろ海外で評価の高い天才性と、褌もせずほとんど素っ裸で頓着することがなかった、大酒を食らってはそこらじゅうに放尿嘔吐の跡を残した、という一種異常性の交錯。孫文を始め面白い仲間に恵まれた半面、計算高い弟や、官憲や権威との軋轢。自然保護やバイオテクノロジーへの先見性の一方、世故に疎いがゆえの頓挫・・・。
「縛られた巨人」というタイトルの解題は明示されてはいませんが、精神の巨大さとは裏腹に(あるいは、巨大さのゆえに)、決して如意には行かなかった栄光と陰影に満ちた一代だったのでした。 -
南方熊楠(1867~1941年)は、江戸時代最後の年に生まれ、明治・大正・昭和を生きた、生物学・民俗学などの分野で活躍した“知の巨人”である。
熊楠は、故郷の和歌山から東京へ出て、米国、中南米、ロンドンに居を移し、和歌山に戻って没するまでの75年間に、英語・フランス語・ドイツ語・イタリア語・スペイン語・ラテン語等十数ヶ国語を身に着け、世界でも類を見ないレベルの菌類の標本を作製し、英の科学雑誌「ネーチュア」に多数の論文を寄稿し、ロンドンで中国の革命家孫文と深い親交を結び、晩年には、南紀白浜に行幸された昭和天皇へご進講した。
その才能と研究実績だけでも驚くべきものだが、未だに少なからぬ関連の書籍が出版され、頻繁に雑誌などでも特集されるのは、熊楠の妥協・打算のない情熱と、その常識破りとも云える言動に、そうしたものを忘れかけている現代の多くの人々が憧れを持つからなのではないだろうか。
熊楠の人間的な魅力を存分に味わえる伝記である。
(2014年5月了) -
民俗学の本をまとめて読んでいると、南方熊楠の名前は必ずと言っていいほど出てくる。いろいろ調べるとよい評伝があるということで本書を読む。すごい、こんな人いたんだという感じではある。いわゆる"明治の気骨ある日本人"に括られる人なんだろうが、それを超えるスケールがある。なんというか学者というよりかは"知の怪人"という感じ。
生物と無生物の間に位置する粘菌の研究では世界的であり、一書生でありながら大英博物館に自由に出入りできる権利をなぜか持ち、18ヶ国語をたくみに使いこなし、「ネイチャー」の論文掲載の常連者。世界的なサーカス団に帯同して日本ではほぼ知られていなかった中米、キューバに逗留。かと思えば、日本に戻ってきてからは紀州、熊野に留まり世界な発見を次々と生み出していく。強烈な博覧強記でありおそらくはアスペルガーなのであろう、周りとのコンフリクトが絶えず、ついには逮捕されるが留置所で新たな粘菌を発見するという伝説をも作り出している。
その逮捕のきっかけとなったのが明治政府の神社合祀令への強烈な反対運動なのだが、これは紀州の神社にあった森林が失われることへの抵抗運動であり、日本における環境破壊運動の嚆矢であったといわれる。
熊楠は巨大なスケールの知の怪人ではあるが、家族関係では必ずしも幸福とは言えず、兄弟とは絶縁状態、溺愛していた息子も発狂に至るという禍がたびたび起こり、それが本書とタイトルにつながっていると思われる。
晩年の熊楠は在野の学者でありながら、研究所が作られ、最終的には、紀南に行幸中の昭和天皇にご進講するという栄誉に預かる。熊楠の死後も昭和天皇は彼の研究者としての素朴な人柄を懐かしんだと言う。
いやあ、本当にこんな人、いたんだー、という感じ。
そして、遠くからその様を見ていたかったな、という感じ(笑)すごい。 -
伝説の巨人、南方熊楠。明治期の科学者と言えば北里柴三郎、志賀潔、野口英世などの微生物ハンターと理化学研究所の長岡半太郎(原子模型)、高峰譲吉(消化酵素とアドレナリン)、池田菊苗(グルタミン酸)、鈴木梅太郎(ビタミン)などが有名で何人かはノーベル賞を取っていてもおかしくない。一方の熊楠は生涯無位無冠、一方でアメリカ留学中にキューバに渡りサーカスの巡礼に同行した話がいつの間にか革命に身を投じ左胸を狙撃されたことになっていたり、イギリス亡命中に知り合い終生の友人となった孫文を公使館での軟禁から脱出させたことになっていたり、神社合祀(予算削減のために神社をつぶして他の神社に合わせて祀った)に反対したおりには推進派の集会にのりこみ止めにきた警官6〜7人を手当り次第に投げ飛ばしたりと伝説には事欠かない。
自宅の研究中はよく裸ですごしており、助手と一緒に採取に行った山からふんどし一丁で騒ぎながら駆け下りてんぎゃん(天狗)が出たとの騒ぎになったこともある。感情の振幅が激しく大英博物館で助手として立ち入りが許されていた際には日清戦争での三国干渉への日本の弱腰をからかったイギリス人に蹴りを入れ頭突きをかまし、2ヶ月の出入り禁止の後また殴り飛ばして追放されたりしている。上の伝説の警官投げ飛ばしは実際には酔っぱらって現れた熊楠が警官に取り押さえられたと言うのが真相なのだが、サービス心もあって人に話す際には面白おかしく脚色したために話が膨らんでしまった様だ。キューバや孫文救出は後に講談師が語った話ではあるが何をやってもおかしくないと思わせる所があったのだろう。帰国時にも寄宿した和歌山の円珠院では粘菌の研究のために馬糞を寝床に持ち込み、最後は部屋で牛肉を焼いて追い出されてもけろっとしている。「やぁ、すこたん(失敗)、すこたん」と。また収監された監獄でさえ顕微鏡の差し入れを受けると新種の粘菌を発見したりもしている。
等身大の熊楠は一度研究に打ち込みだすと一心不乱で他のことは気にせず、息抜きには酒をつぶれるまで飲む。「先生は、酒に崩れやすい方で、少し酒が入ると、平素の胸中の鬱積が口をついて出てくることもあり、人をワヤにしてやるというて、面白がって人の笑う様なことをいい、結局自分がワヤになってしまうようなことがあった。」豪放磊落な見た目とは異なり恥ずかしがりやで人の好き嫌いが激しく、そのくせ仲良くなると態度がぞんざいになる。例えば高野山金剛峰寺の後の座主への手紙では「パリ ひょっとこ米虫大馬鹿野郎 土宜法龍様」に始まりしまいには「予は仏教の相伝の説きようを侠気上より教えてやったんだ。」と言う始末である。博覧強記で子供の頃から和漢三才図会や本草綱目などを知り合いの家で読んで丸暗記し家に帰って筆写している。語学の才能も桁外れで英、仏、ラテンなど19カ国語を話したらしい。それも覚えるのは街の酒場に出かけてだ。
桁外れの記憶力を持ちながらも嫌いなことはやらないので学校にはほとんどいかず、大学予備門(東大)も中退して留学している。この時の同窓に正岡子規や秋山真之、夏目漱石や山田美妙がいる。坂の上の雲の時代に徒手空拳、いかなる組織にも属せず個人で博物学、菌類学、人類学に打ち込み粘菌の発見数では個人でアメリカやイギリスの総数に並ぶほどの発見をし、柳田邦男とは膨大な数の書簡をやりとりした。
留学中も鬱病にかかった漱石の様に欧米文化に萎縮したり、言葉の壁に悩むものの多い中熊楠は全く卑屈さを感じさせない。下宿の寝床に粘菌の研究のために馬糞を持ち込み、学問上の紛争では豊富な知識を元にネイチャーに投稿した天文学の論文「東洋の星座」は最優秀賞をとり、また別の学術雑誌ではオランダ第一の東洋学者をもの知らずとやり込めている。シルクハットとフロックコートでジェントルマンの仲間入りをしようと汲々としている他の留学生とは一線を画し、日清戦争開始にあたっては貧乏のはずなのに発起人となって真っ先に献金し日本人会の間をかけまわって募金を集めた。爆発的な行動力もあり研究においては粘り強さも集中力もあるのだがどうも自分の興味のないことにはからっきし。どう見ても組織の中では生きられない人だ。
親は大きな酒屋で財産を残したが、熊楠の相続分はかわいがってたはずの弟にだまし取られている。酒を飲んでは「とりかえしてきちゃる」と威勢は良いが実際には素面ではうまく言えないのだろう。うまくごまかされて帰ってくるあたりは学問では生かされた能力が実生活ではまるで役に立たず生涯にわたって生活は豊かではなかった。孫文の最後の日本訪問の際も金がないために田辺から和歌山に出ることも会いにいけなかった。「革命が成功したときは、ミナカタのために広州の羅浮山を天下の大植物園にして・・・」という夢は果たされずに終わる。
晩年の熊楠には遅くして結婚した長男が感冒が原因なのか受験先の高地で精神を病んで帰ってくるという痛ましい出来事が待ち受けていた。一方で最大の栄光もこの時期に訪れた。昭和四年熊楠が奔走して自然を守り、後に天然記念物に指定された田辺湾の神島で昭和天皇に御進講をした。時代背景を考えると無位無冠の在野の学者が講義をすると言うのは他の人からはとんでもないことらしくさまざまな嫌がらせを受けたが天皇の心には残ったらしい。「南方にはおもしろいところがあったよ。・・・めずらしい標本が献上された。・・・南方はキャラメルの箱に入れてきてね・・・それでいいじゃないか」南方への歌も残されている。「雨にけぶる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」しかしこのエピソードも熊楠を案内した老漁夫の鶴吉に言わせるとこう言う話だ。「神島にゃもうてんのはんがお待ちで、わしゃ南方先生を船から波打際まで濡れんように背負うて行った。ほぃて先生を下ろしたら南方先生がピョコンて挨拶され、天皇はんも頭を下げられた。南方先生は何遍もピョコンて挨拶されると、天皇はんもそのたんびにピョコン、ピョコンて頭を下げられたんよ」 -
この人物のイメージがさっぱり入ってこない。
引用が多すぎて読みにくい。 -
よく調べたなぁ、という感想は本書を読んだ誰もが思うことだろう。
先に水木しげる「猫楠」、熊楠の選集を1冊読んでいたので理解も早い。
というか、申し訳ないが《》でくくられている熊楠の文章の引用はすっ飛ばして読んだ。
本人が書いた文章だけ読んだほうが面白いからである。
本書をさらに脚本家すれば面白い台本もできると思う。
それにしても天才熊楠の息子熊弥は憐れである。DNAの現れ方が違うとこうなってしまうのか……。
ちなみに巻末にある、著者と、自身が熊楠同様躁鬱体質の北杜夫との対談も面白い。