食う寝る坐る永平寺修行記 (新潮文庫)

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著者 : 野々村馨
  • 新潮社 (2001年7月30日発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (411ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101231310

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食う寝る坐る永平寺修行記 (新潮文庫)の感想・レビュー・書評

  • 2001年(底本1996年)刊。◆峻厳な修行で名を轟かせる永平寺。本書は、そこに雲水として入山した著者の一年間の修行録。図らずも具体的な永平寺入山ガイドにも。噂に違わず厳しいが、清廉な緊張感と食欲・睡眠欲への極端な抑圧・圧迫感とが合わせ鏡のように一体化している。とりわけ、行動のみならず、その所作までもが、歴史的な経過にて洗練・定形化し、それを違えられないのもキツイ。ましてこの生活、特に、この食事なら普通は身体を壊すだろうな、と。◇脚気に悩まされる新米雲水らには、本人承知の入山とはいえ、同情を禁じえない。

  • 永平寺で1年間修行した作者の修行記。たかだか1年の雲水生活で畏れ多い永平寺の本を出すなんて、、と斜に構えて読み始めたが思った以上に深い内容で面白かった。

    肉体的苦痛と精神的苦痛を伴う厳しい修行は私情の入り込む余地を無くし、がゆじがらめに型にはめてしまうことですべての執着を捨てさせる。
    −我見を捨て去るー自分が自分であることを捨て去り、ひたすら自己の無に徹し、長を敬い長に従い、黙々と日々の務めを遂行する。
    ⇒頭で考えてできることではなかなかない。そこで自己に縛られている人間を罵詈打擲し徹底的に打ち砕く。学歴、地位、名誉、財産、人格までも引裂き落とし、そうして全てを捨てさせる。

    読み終えて思ったのは、仏道の中での修行とはいえキレイなことや尊いことばかりではない。世間から閉ざされた狭い世界に修行中の自己や欲を捨てきれていない若者(主に)が集まっている。お坊さんの修行を読んでいるのに時折軍隊の訓練かと思えてしまうこともしばしば。相手をとことん否定し従順にさせるのはいいんだろうか。

    キレイごとばかりでない雲水生活の世界を教えてくれるが、永平寺の修行を否定してるものでは全くない。欲にまみれた坊主となるか人間が出来ている尊敬に値する老師となるか、、その人の人間性次第なのか。読後なかなか自分の考えがまとまらない。

  • とても感動。修行の本質を示している。

  • デザイン事務所でのサラリーマン勤務に倦んだ著者は30歳にして出家を決意。両親・恋人に別れを告げ、単身、永平寺の門を叩く。

    道元の思想に基づいて、食器の上げ下げまでも厳しく定められたルールのもとでの一年間の生活。精神の淀みを払い落としていく著者。


    ◯ようするに道元の示す修業とは、超能力や特殊な瞑想でもなく、また難行や苦行でもなく、日々の行いそのものの中に見出されるものなのである。そして、目的と手段を二分しない。悟るための修行ではなく、そのひたすら修業していく姿が
    すなわち悟りだと考えた。したがってそれは何者かに委ねるものではなく、自分自身の心と体で成し遂げなくてはならないのである。
    「威儀即仏法、作法是宗旨(いいぎそくぶっぽう、さほうこれしゅうし)」
    永平寺での修業は、この開祖道元の教えに従って、今日まで綿々と続けられている。


    ◯修業とは本来そんなものである。たとえ時を経て位が上がったり、歳を重ねたとしても、それによって特別な待遇が与えられる種のものではない。修業とは、どこかへ向かうための段階ではなく、生きているその瞬間瞬間の、自分の在り方そのものなのである。
    ようするに、生きているという事実に自分の心と体で気づき、人間としての良き生き方を修し行い続けること、それが修業なのだ。道元の「威儀即仏法、作法是宗旨」の真意は、まさにここにある。

  • ひょんなことから修行僧に出会い、興味を持ち、アマゾンで購入。
    仏教のぶの字も知らない自分にも読みやすい本で、最初は驚きの連続でした。
    この本を読んで修行僧やお寺に興味を持つようになりました。
    大好きな一冊です。

  • 文庫本をボロボロになるまで読み、二冊目の文庫本もボロボロになった
    それくらい何かの折に読み返してる本

  • 教義や行事の羅列が多く、知りたいことがあまり書かれていなかった。これで本人にとっても覚書になるのだろうか?

    とはいえ、イメージと違う部分が多かったのは面白い。坊主が集まってマジメにトトロ見てる図とか想像しただけで…。

  • 永平寺での修行のすさまじさがわかります。
    生活のすべてが修行という、曹洞宗の考え方は共鳴できる部分が多くあります。

  • ちょっと信じられないレベルの厳しさの永平寺禅修行の体験ルポ。起きたことや修行のルールの説明が淡々続く中で、ときおり語られる作者の想いや考えが、キリリと真面目でか細く繊細で心が洗われる感じがする。
    体罰って本当に悪いのかな、つべこべ言わずやれって言う教え方もやっぱり有効なんじゃないか、とか今の世間のムードに逆行するけどそういう考えを持ちました。

  • 今年、2013年の初詣は永平寺だった。毎年、我が家では奈良県の薬師寺に初詣に行くのが通例なのだが、今年はたまたま、年始に福井に行かなねばならない用事があり、その帰り道で永平寺に詣でた。とくに、「永平寺に行かなければ」という訳ではなかったのだが、ピンと張り詰めた空気は背筋を伸ばさないといけない感じがした。そんな永平寺の記憶が、あたまの片隅に残っていたのだろうか、この本を手にとってみた。

    永平寺は道元が開いた曹洞宗の大本山である。福井の奥深い山の中にあり、その趣は京都や奈良の寺とは異なる。都の華やかさかさはまったく無く、ピーンと張り詰めた空気を感じる「修行の寺」だ。寺院内には多くの雲水さんを見かけるが、日々、修行を行っている信仰が現在進行形で進んでいる感じがするのだ。

    そんな修行の寺に、著者の野々村馨さんは雲水として入山する。

  • 本書は、永平寺の一年間の修行が書かれたノンフィクション。著者は、普通の会社員から雲水になった人。永平寺のイメージは、坐禅によって、自己の内面と向き合う歴史ある道場くらいに思っていたが、そういうイメージとはまったく異なる場所というのがわかった。

    殴る、蹴る、飢える。食べ方、歩き方、座り方、寝方、言葉づかいなど、行為すべてに規律や作法があり、そこから逸れると、容赦なく体に叩き込まれる。例えば、服の着方では、どの部分を手に取り、どのように広げ、どちらの袖から手を通し、それをどのような姿勢で行うのか、といった具合に何から何まで細かく定められている。古参に対しての返事は、「はい」か「いいえ」しか許されない。目が合っただけで殴られる。土曜も日曜もない。食事が少なかったり、栄養が偏ったりするので、栄養失調や脚気などで入院する者も多く、食の量で罵倒し合い、ポリバケツの生ゴミを食う修行者もいる。イジメもある。永平寺は恐怖や緊張で張り詰めた、壮絶な修行場というのが分かった。又、信じられない、信じたくない話も多かった。これをお釈迦さまが見たらなんと言うだろうか?道元が、修行を日々の行いそのものの中に見出したとは言っても、本来の仏教の姿からは相当に変質しているのではないか。しかし、だからと言って、永平寺を世間と同じ物差しで測って批判して良い場所とは思わない。永平寺は750年以上続いている。著者も、生きることから余分なものを削ぎ落とし、今を大切に生きられるようになっている。これが救いだとわかる人間は永平寺を批判できないはずだ。だが、日本仏教とはなにかを考えさせられる。今の自分にはそれを論じられるほどの知性はない。

  • 杉木立に囲まれた荘厳な寺院での修業生活。季節の移ろいや著者の心情が美しく描かれている。最小限の持ち物と座禅や勤行の日々。人の心はこれほどにも研ぎ澄まされ、美しくなれるのか。聖域の僧堂、山の斜面に続く回廊。光と影が織り成す寺院の描写。そして人間模様。とてもよく描かれた書物です。異なる体験をしたような心持ちです。

  • 1. I learned that the toughness of the discipline in Eiheiji Temple is beyond the reach of ordinary people's imagination.

    2.The author's description of nature and scenery is brilliant.

    3.Freshmen "Unsui"'s promotion is interesting. At first, they are just soldiers and heart-to-heart interactions are rare with seniors. As they are changing from soldiers to staff getting over many hurdles, the novices come to get humane treatment.

  •  750年続く永平寺は曹洞宗の本山で、曹洞宗とは禅宗の一つ。道元が開祖で座禅による悟りを目指す。30歳を過ぎた男性が突然、出家をすることになる。出家をする理由はさておき、お話は1年間の修行生活をノンフィクションで語る。強烈な先輩たちの出迎えに屈せず修行を終え山を降りるまで、彼は何を思い何を感じたのか。老婆の雑巾の話には涙する。無心に耐え忍ぶ姿は美しい。

  • 再読。年明けに永平寺に参拝したこともあって、以前読んだこの本を読み返すことにした。

    読み進めるほどに当時感じた熱い思いが甦ってくる。永平寺で雲水として過ごした著者の1年間が実に詳しく書かれているのだが、時折挿まれる情景描写や心情表現に、抑えがたいほど胸動いてしまうのだ。
    何度も思う。作家というわけではないのに、こんなにも切なくて透き通った表現のできるこの人はどんな人なのだろうと。どんな声音でどんな話し方をする人なのだろう。どんな風に微笑み、何に涙する人なのだろうと。
    初めて読んだときも、今と同じように野々村馨その人に惹かれたのだった。

    永平寺入山者には等しく「殴られ蹴られして徹底的に叩きのめされ」「私情の入り込む余地をことごとく排除し、うむを言わせず身も心もがんじがらめに型にはめてしまうことによって、すべての執着を捨てさせ」るという、現代人には到底耐えられない厳格で過酷な日々が待ち受けている。
    道元の教えでは、生活そのものが修行。食べること眠ることお風呂に入ること、排泄行為も掃除も、そのすべてが修行なのだ。ゆえにそのすべてに細かい作法が決められ少しでも違えれば厳しい罰が待っている。
    ひと度入山を許された者たちは、極限まで追い詰められた結果、傷つくまい壊れまいとする自尊心も理性も、それら取りつくろうものすべてが剥がれ落とされ、人間の一番醜いものが露骨に剥き出しになってゆく。そうやって残されたものこそがまぎれもない自分自身の本当の姿だと知るのである。
    永平寺の修行生活は「徹底的に欲望を抑圧することによって心と体のズレをより顕著なものとし」、そうすることで雲水たちに無言の問いを投げ続ける。

    息さえできない恐怖と緊張の日々の中、彼に見えてくるものがあった。
    「生きるということは、何も特別なことではなく、突き詰めると、食べることと排泄することだとも言える。これはすべての生命に共通した原理であり、すべての生命は、生まれ、そういった営みを繰り返しつつ、自然界の連鎖の均衡を維持させながら、やがて死んでいく。その営みのすべてが、自然界での生命にとっての重要な務めであり、生命としての存在価値である。人間だけが例外ではない。もしも人間が生きるということに意味があるとすれば、まずこの世に存在していること、これこそが生きることの根本的な意味なのだと僕は思う」

    ご家族のご供養のため毎年永平寺を訪れているある老女がいう。「永平寺の雲水さんは、みないい顔をしていますね。雲水さんの顔をみるたびに、何だか心が洗われるような気になります」
    雲水は4と9のつく日しか入浴は許されていないのに、私が永平寺で見かけた雲水さんたちもみな、清風凛々としておられた。その所作すべて清浄な空気に包まれているように感じられた。

    750年間その作法を変えることなく雲水たちが今も修行している場所、吉祥山永平寺。その日常をこんなにも人間臭く、真っ直に、そして愛しさをもって書きあらわせるこの人に、心の底から会ってみたいと思う。

  • 定期的に出家したくなる病にかかるワタシ。この本は、著者が1年間永平寺で修行をした経験のノンフィクション。ワタシも、そして著者も、修行生活は静寂の中動ぜず黙々と内観するというイメージを抱いていたが、実際は古参雲水から怒鳴られ、殴られ、蹴られ、道元の定めた細かな規矩を身体に叩き込まれる日々。脚気になる者、逃亡する者も出る。座禅と作務に明け暮れる日々の中で著者は言う。「生きているという事実に心と体で気付き、人間としての良き生き方を修し行い続けること、それが修行」と。下山して変わったものの中で物事をあまり深く考えなくなったとあり、羨ましくなった。ますます出家したくなる病がひどくなった(笑)。

  • 永平寺に行くにあたって読みました。
    だいぶ昔にNHKのドキュメンタリーを見たし、岡野玲子さんの「ファンシィダンス」を読んで映画も見ていたので、内容的に「全く知らなかった!」という感じではないのですが、実際の修行者の目から見た手記は興味深く、実際永平寺でもすべてを感慨深く拝見できました。この本を読んで行くと雲水の新到と古参の区別がつきます(笑)
    とはいえ、読み物としては不満も残りました。
    本人の失敗談が少なく、永平寺に対して少し批判的になったかと思うと「それはでも意味のあることで」的なフォローが入り、お世話になった方への遠慮があったりするのだろうと思いますが、何となく「いい子ちゃん」な印象がぬぐえません。結局著者にとっては、その前に行ったというタイ旅行と同じ、「自分探し」だったんだろうなとも思ってしまいますし。1年で修業を辞めることに決めたとき、老師に「まだここにいるべきと思うが決めたことなら」と言われる場面では、つい「修行が足りんっていうことでは…」と思ってしまいました。とはいえ、寺の息子でもないのに1年の修業に耐え抜いたことは大変立派だと思いますけれども。
    それにしても、永平寺では今も脚気が多いんでしょうか。白米やめて玄米にしたらどうですかね。

  • 永平寺の生活が描かれている本。
    雲水さんに話を聞いていも、この本に
    書かれていることはそのまんま永平寺だと言ってた。

  • 雲水さんのお話。
    曹洞宗の修行は厳しいみたいです。

  • 普通の会社員から思うところあって”只管打座”を提唱する永平寺に入門する。かなり日常とは違う世界が広がっているようすが描かれている。専門用語と永平寺のシステムの説明が多く、もう少し修行をしながらの心の変遷を聞きたかったように思う。ここの修行はつらそう・・。

  •  自身修行体験があるので、他宗派の修行風景に興味があって購入。 専門用語もあるけれど、わかり易く説明されて読みやすい。良い1冊でした

  • 日常であった社会生活に疲れ出家を決める。 その先は曹洞宗本山永平寺。
    この本を読んでますます永平寺に行ってみたくなった。

  • 過酷でストイックな修行僧の実話。2年前父から読めと言われて読みました。極限に追い詰められた人間の本性が見事に描ききれてました

  • 筆者は普通のサラリーマンだったが、突然出家し永平寺に入る。頭をまるめ、門をくぐる一日前からの様子、永平寺での修行の生活が事細かにつづられている。 先日、永平寺に行って献茶式に出席し、そのとき感動したことが、彼の言葉によって何故だったのかがわかったような気がする。 永平寺での修行は、朝起きてから夜寝るまで、すべて、起床も、洗面も、食事も、入浴も、仕事も、もちろん座禅も、トイレさえも定められたとおり行わなくてはならない。「起きて半畳、寝て一畳」の世界の中で、先輩雲水の暴力ともいえる教えを受けながら自己を埋没させていく。すべてのことが、定められたように進み、すべての雲水が自分の立場を心得、自己を捨てそれぞれの役割に徹することによって永平寺が存在している。 そこには、個人の感情などさしはさむ余地はない。必要最低限のものだけにそぎ落とされた物欲、 法堂での、「水盤に揺らめく水のように大きく静かに波打つ」あの読経も、 とぎれることなく続く、法要の流れも、廊下を足袋はだしで歩いても、ほとんど汚れなかったのも、 雲水さんの修行のなせることだったのだ。 読んだからといって私の生活も、物欲も相変わらずで(おいしいものは食べたいし、靴は欲しいし・・・・)何も変わらないのだけれど、あの冷え切った空間を揺るがしていた読経の声は、忘れないと思う。

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