- Amazon.co.jp ・本 (351ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101240602
作品紹介・あらすじ
王は夢を叶えてくれると信じた。だが。 才国(さいこく)の宝重である華胥華朶(かしょかだ)を枕辺に眠れば、理想の国を夢に見せてくれるという。しかし、采麟(さいりん)が病に伏すいま、麒麟が斃(たお)れることは国の終焉を意味する国の命運は──「華胥」。雪深い戴国(たいこく)の王が、麒麟の泰麒(たいき)を旅立たせ、見せた世界は──「冬栄」。そして、景王(けいおう)陽子(ようこ)が親友楽俊(らくしゅん)への手紙に認(したた)めた希(ねが)いとは──「書簡」。王たちの理想と葛藤を描く全5編。
感想・レビュー・書評
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「冬栄」
雲上の物語。青鳥と書いて「しらせ」と読む。おそらくホントに戴国と漣国との間で鳥のやり取りがされたのだと思う。往復で何日かかるのか。騎獣で半月なのだから、機動力があっても20日はかかったのだろう。
精神年齢10歳としては、あまりにも責任感のある泰麒の初外交のお話。泰麒の自己肯定感の欠如は、一旦この短編では解決したかに見える。
「乗月」
雲上の物語。月渓がこの章の主人公ではあるが、彼の逡巡は4年の月日があったにしては幼いと思う。寧ろ描きたかったのは、祥瓊の手紙だろう。さあコレでケリがついた。あと100年ほどすれば、祥瓊がまた芳国に戻ることもなきにしもあらずだろう。
「書簡」
雲上と雲下の物語。さすが十二国。王様の使う鳥(便り)は、現代で云うボイスメモの機能が付いている。小野不由美女史が書いた頃には、テープレコーダーのイメージだったんだろうか。お互い背伸びをして、手紙をやり取りする友だち同士の物語。この半年後、慶国は動乱が始まる。
「華胥」
雲上の物語。華胥華朶(かしょかだ)は才州国にある宝。宝玉でできた桃の枝。それを枕辺に挿して眠れば花開き、華胥の夢を見せる。昔、黄帝が治世に迷ったおり、夢で華胥氏の国に遊び、そこに理想の世を見て道を悟ったと伝えられる。采王黄姑の前王の砥尚(ししょう)の二十余年の治世と、代替わりを巡る「殺人事件」ミステリを描いた一編。
黄帝とは、古代中国における伝説の皇帝達、「三皇五帝」のひとり。「三皇」の治世を継ぎ、中国を統治した「五帝」の、最初の帝である。(ピクシブ百科事典より)十二国に於いては「伝説」ではない。何しろ、歴史的「遺物」が実際に使われているのだから。
「帰山」
雲上の物語。前半は、利広と延王の会話からなる。ここで、十二国の栄枯盛衰の傾向と、利広と延王の隠れた闇の心を垣間見、驚く。また(X16年ごろの)十二国の世界情勢報告が一挙にされたということでも重要な一編。
さて、最後の短編集を終えて、怒涛の最大長編に、次回から突入するようだ。
年表(加筆訂正)
1400年ごろ 奏国宗王先新が登極 妻と3人の子仙籍に入る
1470年 六太4歳延麒となる。
1479年(大化元年) 雁国延王尚隆が登極
1500年(大化21年)元州の乱 斡由誅殺
1700年ごろ 範国氾王登極
ーX96年 柳国劉王露峰が登極
ーX75年 恭国供王珠晶が登極
ーX 25年 舜国の王登極
ーX18年ごろ 芳国峯王仲韃登極
才国采王砥尚登極
X元年 泰麒 胎果として日本に流される
X2年 才国采王砥尚崩御
才国采王黄姑が登極
X9年末 慶国予王が登極
X10年 泰麒 2月蓬山に戻る
戴国泰王驍宗が登極
X11年 泰麒 4月日本に戻る
X 12年 芳国峯王仲韃崩御、娘の祥瓊の仙籍剥奪
芳国の麒麟卵果が触により流される
X14年 5月慶国予王崩御
X15年(1992年?)陽子日本より来たる
10月慶国景王陽子が登極
X 16年 功国塙王崩御
慶国で和州の乱
X17年 泰麒 9月戴国に戻る
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十二国記【華胥の幽夢】EP7
華胥の幽夢、5つの短編集。
どのお話も大好きですっ!
十二国記を読み進めていくと、
『あれ?あそこはどうなってるの?』
『あそこのあの部分もっと深掘りして欲しいなっ』
というむず痒い気持ちになってきたのですが、そんな気持ちをしっかりと受け止めて、
これでもか!ばばーん!とこたえてくれているような作品。笑!んー、つまり好きすぎるっ
冬栄
乗月
書簡
華胥
帰山
どのお話もぜんぶ好き。
どうしても選ぶとしたら乗月と書簡。
【乗月】は
国を守る為に自国の王を討った月渓という男の話。
王が不在になってから
民から王を奪ってしまったという苦悩
慕っていたからこそ許せなかった王への思い、ぐるぐる悩む月渓が決意するまで。
月渓は王になるのか?
ショウケイは珠晶に対してどう罪を償うのか?
珠晶はそれに対してどう応えるのか?
読み終えて、すっきり。
小野先生、本当にありがとうございます(;_;)
【書簡】
陽子と楽俊のお手紙のやりとり。
2人は手紙に書いていない事もわかりあえる親友。お互いの存在があるからこそ、また頑張ろうと励みにする。
読むと十二国記を紹介してくれたお友達に無性に連絡したくなった。ジュウニコクキオモシロイヨーアリガトウって
次はいよいよ、最後のエピソード
【白銀の墟 玄の月】
なんと4冊にわたる長編だっ。
そして、十二国記の最後のエピソードだと思うと悲しいです( ; ; )ヤダー -
十二国、治世側を描写した短編集でした。
短編とはいえ、十二国それぞれの国々の、歴史や背景を織り込み、一編の小説にまとめ、内容重め。
これを読むと、まだ、通読できてないのに、1巻に戻って読み直したくなる。
「冬栄」冬に咲く花
北東の島国・戴国。幼い泰麒が、一生懸命悩んで泰王を選定した“風の海”
泰麒は、未熟さから自分の役割について悩んでいた。泰王は、経験豊富な覇気ある大人。泰麒は漣での新しい出会いから、自分の役割に希望を見出し、泰王は、彼の性急さと頑なさを泰麒に癒される。
「乗月」
北西の島国・芳。圧政の先帝・峯王と麒麟を討ち、国の再建を望む月渓。“風の万里”ですね。彼は、仮としても王座に着くことを拒む。景王・陽子からの使者・青辛との対話の中で、彼の犯した罪を思考する。月に乗じて暁を待つ、“月影の朝”王のいない朝を照らす月とならんとする。
「書簡」
景王・陽子と、雁国で学ぶ親友・楽俊との往復書簡。(便利な鳥さんの口頭伝達) ”月の影”での出会いですね。二人の思いやりは深く、言葉の表面だけでないことも、読み取る。
「華胥の幽夢」理想の夢を見せる
才国は、揺らいでいる。華胥花朶は、使った人の理想の夢を見せる。使う人ごと違う夢を見せる魔性がある。理想の差異から生じた対立は根深い。
ちょっと掴みにくいのは、ミステリー仕立てだからかな。
「帰山」
時折、十二国の傾きつつある国で出会う二人、利広と風漢。今回は、柳国。彼らは、母国に戻って、その余波の対策を講じていく。
深い良い話ばかりなのだけど、本編読み込み足らずかな。
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2019/11/15
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2019/11/15
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今回は短編集です。戴国の驍宗や泰麒、景国の陽子や楽俊などが登場します。
それぞれの王や麒麟の苦労や苦悩などもわかり、本編のアナザーストーリー的な感じでしょうか。
読後にはますます十二国記が理解できて、さらに好きになります。オススメ!-
hibuさん、こんにちは(^^)
カショの夢、良いですよねぇ。
ほんと、ますます十二国記好きになりますよね
楽俊と慶子のお手紙のやりとりにジ...hibuさん、こんにちは(^^)
カショの夢、良いですよねぇ。
ほんと、ますます十二国記好きになりますよね
楽俊と慶子のお手紙のやりとりにジンとしました。
アナザーストーリーもっと読みたい!2023/01/31 -
松子さん、こんばんは!
どんどん好きになりますね!
魅力的な王と麒麟が多いですし、楽俊と陽子の友情も良きですね♪松子さん、こんばんは!
どんどん好きになりますね!
魅力的な王と麒麟が多いですし、楽俊と陽子の友情も良きですね♪2023/01/31
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短編五編どれも良かった、一冊。
だいぶこの世界観、国、人物が頭に入ってきたところだけにどの編も味わい深く読めて良かった。
相変わらずの泰麒のいとけなさがたまらず、楽俊と陽子の「書簡」に涙が滲んだ。
お互い、敢えて見せることのない心の奥深くを理解し思いやっているからこそのこの言葉、関係に涙せずにはいられなかった。「華胥」は奥深い数々の言葉が印象的。読み返したくなる。そして「帰山」で陽子の慶国をいい感じだって認めてくれる、あの人。
それがなんだかうれしかった。奏国メンバー明るくていいな。ますますこの世界にハマった。 -
4.4
短編集、乗月が良かった。
本題となっている華胥の幽夢だけが重すぎて辛かった。
他はとても良かった。
他は景王や俊英、利広など今まで登場した人のサイドストーリー的に読むことが出来て面白かったし、理解と世界観が深まりました。
奏も600年続いて居ながら、王や家族は円満にやっているのがとても微笑ましく、締めの短編として読了感も良かった。 -
5編の物語が収められた短編集です。
泰麒の漣国への訪問を描いた「冬栄」。
空の玉座を前に思い悩む芳国の月渓と、景王の親書を携えた慶国の将軍との対話を綴った「乗月」。
楽俊と景王・陽子との文通に心が温まる「書簡」。
才国の病んだ幼い麒麟と追い詰められていく采王の姿を描いた「華胥」。
本シリーズ中の二大風来坊と言ってもよい2人の男の交流にしびれる「帰山」。
人は変わることができるのだという希望を感じさせる物語もあれば、残酷なまでの事実を目の前に突き付けられる物語もありました。
特に「華胥」は、時々読み返しては自身を省みる助けにしたい、苦いけれどよく効く薬のような1編だと感じました。 -
「責難は成事にあらず」
ホワイトハート版しか出ていなかった頃、
短篇集の中で慶が関わってこない「華胥」が好きではなかったけれど、
この言葉の意味を本当に理解してから、
ずっと忘れることなく記憶に残している言葉です。
誰かを、何かを避難することは容易い。
でも、私は、何かを成し遂げることはできていない。
一人驕り高ぶっていた頃に、頬を張られるような衝撃を受けて
情けなくてわんわん泣いたことを思い出します。
これだけ、仕事観や死生観、学ぶことや、人との関わり方を
ファンタジーという世界のなかで説いている小説が
そもそも、ティーンズ向けに書かれているという事実に
毎度のことながらびっくりしてしまいます。
逆に言えば、10代の中頃から十二国記に親しめたことが
何より幸せなことだなと思っています。 -
完全版十二国記7作目となる短編集。
『冬栄』『書簡』は陽子や楽俊、泰麒が再登場し、彼らが厳しい十二国記内で自らの役割を見つけようとし、懸命に行動している様子が描かれます。過去作品を読んでいる身にとっては、彼らのその後が分かり、大満足であるとともに、彼らの頑張りや苦悩を見るにつれ自分もがんばらないといけないなあ、と思いました。特に『書簡』は陽子と楽俊の手紙のやり取りの話なのですが、二人のやり取りが読んでいる自分自身にも向けられているようで、なおさら頑張らないと、と思った作品です。
過去キャラの登場で和んだ面もあるのですが、十二国の厳しさを描き切った短編もさすがの読み応え……。
『乗月』は『風の万里 黎明の空』以降の芳国が舞台。
十二国の設定ではたとえ暴君でも王がいないと天候不順が続いたり、国に妖魔が現れたりと国が傾く、ということは規定事項になっています。そんな中で行き過ぎた刑罰を作った王を倒した月淫の苦悩を描いた短編。
月淫の苦悩と反逆という決断の重さがとてつもなく濃密に描かれています。そしてこれだけ自分の罪のことを考えられる彼が上に立っても、これから国は傾いていくのか、と思うとやり切れなくもあります。彼の覚悟と決断が少しでも早く天命に届いてほしい、と思わずにはいられませんでした。
『華胥』は麒麟が倒れた才の国が舞台。麒麟が倒れたということはその国がまもなく倒れてしまうことを意味します。
十二国記の厳しさがこれ以上ないくらい表現された話だったと思います。理想だけではどうにもならない現実、自責の念、後悔、国を背負うという責任の重さ、そういったものをこれまでのシリーズ作品以上に強く思わされました。だれも悪いとは言い切れない、ただ少しずつの間違いや思い込みが積み重なった結果、ということが余計に辛いですね……。そういう甘さを許さないのが十二国記らしいのかもしれませんが。
『帰山』では『図南の翼』の利広が登場。このシリーズの深さを改めて伝えるだけでなく、伏線を張ったような作品で今後のシリーズがますます楽しみになりました。
硬軟織り交ぜられた短編集で長編作品に引けを取らない作品だったと思います。ますます十二国記の世界観を広げてくれた作品でした! -
『本の雑誌』故目黒考二さん特集をきっかけに、周回遅れで読み始めた十二国記シリーズ。だんだん推しの登場人物や知ってるエピソードも増えてきて、思いがけないところであの話とこっちの話がリンクする事に驚いたり、後日談に(そういうことか‥)と感嘆させられたり。本シリーズで描かれる人々の喜びや苦しみはまさに、“現実社会”の合わせ鏡のようで‥いやほんと、責任ある立場の我々ひとりひとりが、ちゃんと“仕事”をしなければ!
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5つの短編集です。「乗月」から「書簡」がとても印象に残りました。十二国記の明るい未来を期待できる2作品でした。後書きの解説を読むと、当初講談社から発売された順番と新潮社のものは違うようですね。次に読むのは『黄昏の岸 暁の天』です。
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後日談を多く含む短編集。外伝的な扱いかな。
私は楽俊が気に入っているので
彼が主役で出てくる「書簡」があったのが嬉しかったです。
ちょっとした気晴らしには良い本ですね。 -
短編集。どれを読んでも心に刺さる言葉が飛んできて痛い(嬉しい)。それらはどこかで耳にした格言に似た内容でもあるけれど、こうして物語の文脈のなかで拾う言葉として出会うと、こうも響き方が違う。これが楽しくて嬉しいことが、私がこのシリーズ、ひいては小説を読みたい理由なんだろうなと思う。
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「戴」「芳」「慶」「才」「柳」五つの国に纏わる短編五作が収められた短編集。
以前刊行された短編集『丕緒の鳥』は十二国で暮らす市井の人々を描いたものでしたが、今作は他のシリーズ作品と同じく王や麒麟やそれに与する人々を描いたものです。
『丕緒の鳥』のレビューで、市井のイチ個人達の抱える苦悩についての物語なので現実的にあり得そうな話ばかり、というようなことを書きました。
今作『華胥の幽夢』は王や麒麟や王朝関係者の抱える苦悩について描かれているのですが、彼らの抱える問題も、紐解いていくとやはり現実的にあり得そうな話で、普段の自分の生活においても為になったり身に染みるようなことばかりです。
ただし、王や麒麟と市井の人々とで決定的に違うのは、その苦悩や過ちが国情に直結してしまうか否か。
王や麒麟は重大な責任を背負っているんだなぁと改めて思いました。
大人になってから改めて読むと、学生時代に読んだ頃とはまた違う箇所が心に響いたり、新たな発見と感動を味わえました。
今作には心に留めておきたい名言がたくさんあります。
やはり十二国記は私にとってのバイブルです。
『冬栄』
泰王・驍宗が登極して間もない頃のこと、泰麒が使節として漣を訪ねるお話。
蓬莱からやって来て、十二国の決まり事がよく分からず、王を選ぶという役目も果たして他にどうすれば良いのか途方に暮れてしまって、自分の存在意義を見出だせない。
大きくなること、ただ見守ることだけでは何もしていないような気がしてしまう。
国の為に自分に出来る事がない、と悩む小さな泰麒が健気で切ないです。
とはいえ、身の回りで波乱の多い泰麒の穏やかな日常が描かれているので、比較的和やかな気持ちで楽しめるお話。
しかし戴のこの後の混乱を知っていると、読んでいて切なくもなります。
WH版では戴のその後の話である『黄昏の岸 暁の天』がこの短編集より先に刊行されているのですが、今回は刊行順が逆になっているので、新装版から読み始めた方は『黄昏の岸 暁の天』が刊行されたらまたこの短編を読み返すことをお勧めします。
戴の混乱に関わる重要な人物が今作にさりげなく登場していたりするので。
小野主上は本当にえげつない(褒めてます)。
泰麒は本当に優しくて良い子なので、幸せになって欲しいと切実に思います。
『乗月』
峯王・仲韃が倒れた後の芳が舞台で、峯王を弑した月渓のその後を描いた物語。
学生時代に読んだ時には「月渓がぐたぐた悩んで玉座になかなか就かない話」という印象でしたが。
改めて読んで、当時の自分を叱責したい気持ちでいっぱいです。
道を失っていてもなお、峯王に期待してしまう。
期待に背くようなことをして欲しくないのに、それを止められなかったという後悔。
そんな自分が仮とはいえ玉座に就くことは、峯王を弑したうえに位を盗むことになる。
大人になった今なら、月渓のこの気持ちが分かる気がします。
人を諫めることは難しい、けれどそれでも諫言するのは、相手に対する期待と情愛があるから。
本当にその通りだと思います。
言ったことを聞いて貰えない、それで相手に嫌われたり、自分が嫌な思いをしたりするのは、誰しも避けたいことです。
それでもそれを承知で、厳しいことを言うのは、やはり相手に対して期待していたり尊敬する気持ちがあるから、なんですよね。
相手を期待することとそれを裏切られたときの気持ち、そして罪の重さを分かったうえで敢えてそこに踏み込むことの意味を、きちんと理解している月渓なら、芳の「月陰の朝」を支えられる。
どうやら芳は次の王が起つまでにひと波乱ありそうな感じですが、次王が登極するまできっと持ち堪えると信じています。
次の王様は月渓なのでは、という気もしますが…芳のその後の話もあるなら、いつか読んでみたいものです。
それから今作には話題だけですが供王様が登場します。
相変わらず物言いが素敵で、何度読んでも思わず笑ってしまいます。
『書簡』
景王・陽子と雁の大学に学ぶ楽俊が、互いの近況を伝え合う。
『風の万里 黎明の空』の少し前のお話です。
多少の悩みや問題はあるものの、お互い「とりあえず上手くやっている」と報告しあう二人。
敢えて本音を曝け出さず、見栄を張ることによって自分を鼓舞する。
弱いところを見せて慰め合うだけが友情ではないんだ、ということに気付かされる。
仲の良い友人同士は、何でも弱みを見せられる間柄だと考えがちですが。
友達も頑張っているんだから自分も頑張る、というこの二人の関係も、とても素敵で羨ましいなと思うのです。
強がりだろうと背伸びだろうと大丈夫だと言って、元気を出す。
『風の万里 黎明の空』で采王が鈴に言った「人が幸せであるのは、その人が恵まれているからではなく、ただその人の心のありようが幸せだからなのです」という言葉に通じるものがあるような気がしました。
楽俊は大学を卒業したらどうするんでしょうね。
何となく、巧に戻るのかなという気がするのですが。
そういえば半獣は王様になれるんだろうか。
少なくとも巧の次の王様に楽俊が選ばれることはないみたいですが、ちょっと気になります。
『華胥』
沈みつつある才の王朝を描いた物語。
表題作であり、重いテーマを扱ったお話です。
専横せず真面目に政務に取り組んでも、国が傾く…理由が分からずに苦悩する才の王や官吏の心情は、読んでいると苦しくなる。
けれど王は国を治める者として、理由が分からない、という言い訳は決して許されない。
小野主上の描く世界観は相変わらず、甘くないなと思います。
理想を掲げたり、他人を非難することは、誰にでも出来る。
問題は、実際に理想を実現出来るのか、実現出来る範囲で何をするべきか、ということ。
国の運営とはすぐに実現出来ることばかりではない、だからこそこの世界の王や官吏は寿命が長い…そういえば延王もそんなことを言っていましたね。
潔癖な官吏や民ばかりではない、そういう人々のことも織り込んで、多少の失敗は覚悟の上で、すぐに結果が出なくても気長に構える。
そういう、多少の余裕を持っていないと、国は治まらないのかもしれないですね。
潔癖な人には難しいことなのかもしれません。
「瓢風の王は、傑物かそうでないかのどちらか」とはシリーズの至るところで見掛けた一文ですが、その理由の一端が見えたような気がします。
理想を高く掲げ過ぎていたり、性急に結果を出そうとしたり…そういうところで却って蹉いてしまうのかな、と。
砥尚もそうだし、同じく瓢風の王と呼ばれる泰王・驍宗も似たようなところがある気がしてしまう。
峯王・仲韃は潔癖過ぎるが故に自分の過ちを認められなかったし、かつて雁で謀反を起こした斡由も、もし玉座を勝ち取っていたら同じような過ちに踏み込んでいたような気がします。
潔癖過ぎる人、真面目過ぎる人は、実はあんまり王様に向いていないのかもしれないなぁ、なんて思ってしまったり。
尚隆くらい適当な方が、向いているのかも。
この話に出て来る「責難は成事にあらず」という言葉は本当に、いつも念頭に置いておきたい身に染みる言葉です。
この言葉に纏わるエピソードで、才の前の王を非難する青喜に、養母である慎思が「では、もしも主上と台輔が身罷られたら、青喜は昇山するのですね?」と言った場面がとても印象に残りました。
そして、国情を嘆きながらも昇山しない周りの大人に憤慨して家を飛び出し蓬山に向かった『図南の翼』の珠晶を思い出しました。
言わんとすることはどちらも同じですよね。
この短編『華胥』は、『風の万里 黎明の空』を読んでいると、終盤のとある一文に驚かされると同時にこれがいつの時代の事なのかが分かるという、シリーズを通しての読者にとっては嬉しい仕様です。
『帰山』
沈みゆく柳で偶然出会った、雁の風漢と奏の利広のお話。
この二人、面識があったのか…と驚きつつ、諸国を放浪するのが好きで気になることには首を突っ込む性分は似ているもんなぁと、何だか納得してしまいました。
会って当然の場所で対面したことがない、というのが何やら暗示的で気になりますが。
二人が、柳の国情や互いの国の沈み方を予想しつつ軽口を叩き合う場面は、やり取りが面白いのだけれど、二人共たくさんの王朝が沈むところを見てきたのかと思うと切なさも感じてしまいます。
「滅多に会わない人間に百度会ったら」というのは、利広と風漢のことなんですかね、やはり。
あとは上にも書きましたが「会って当然の場所で対面したら」ということも、延王なら賭けていそうで怖いです。
珍しく碁で勝った時の碁石集めを、阿呆らしくなって辞めたという事だから、もう同じような事はしないかもしれないですが。
そして利広が奏に帰ってからの家族とのやり取り、『帰山』というタイトルの表す通り、このお話のメインはここなんだろうなと思います。
(余談ですがこの『帰山』が初めて発表された同人誌では、風漢と柳で出会う場面はなく、利広が奏に帰ってくるところから始まります。)
利広にとって、自国が沈むということは、家族団欒を失うことなんですよね。
だからこそ奏の終焉を想像出来ない。
けれどずっと王宮にいたら安寧に飽いてしまうから、他国を放浪して王朝の脆さに心を痛め、自国は大丈夫だと確認する為に帰って来る。
その心理は何だか分かるような気がします。
利広は繊細で危ういキャラクターだなと思います。
そういうところが堪らなく好きなんですが。
永く生きた王朝が倒れる時は悲惨、という話がありましたが、もし小野主上がそういう話を書くつもりなんだとしたら、奏なんじゃないかなという気がします。
利広が何かをしでかすのではないかと思う。
奏ではないにしても、シリーズの最後にどこかの王朝が沈む、という展開はあり得そう。
そんな展開は悲しいと思いつつ、読んでみたいような気もしてしまいます。
『華胥の幽夢』は、シリーズ作品との繋がりが強い短編集なんだなぁと改めて思いました。
単純に、他シリーズに出て来るキャラクターが登場するということもありますが。
シリーズ作品で描かれる、こうあるべきだという「考え方」とか「心の在り方」という精神的な部分が集約されているように思います。
自分の至らないところを指摘されているようで、読んでいて辛い部分もあるのですが、それ以上に心に響くたくさんの言葉に出会えるから、読まずにはいられない。
短編集ですが、長編に負けず劣らずの読み応えな一冊だと思います。 -
理想とするものが、現実として上手くいくとは限らない
過ちを、過ちだったと認めることって実はとても難しくてそれを素直にできる人は素晴らしいとも思う
けれど
じゃあ何が正しいのか、なんて実は誰もわからない、わからなかったということもあるんじゃないか
やってみて、たまたまうまくいく、そんなこともあるだろうし
本当に、ファンタジーなのに考えさせられるのがこの十二国記