水底の歌―柿本人麿論 (上) (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (432ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101244020

感想・レビュー・書評

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  • 長いし、難しい。でも古代の謎解きは読んでていて面白い。しかし本能寺の変の真相さえ分からないんだから、さらにその何百年も前の柿本人麿の事なんて文献や情報も少ないし良く分からないよな。今後決定的な証拠とか出てくるのも難しそうだし。そもそも平安時代の人たちですらよく分かっていなかったみたいだし。まあ近代や現代の事でも真相は闇みたいな件は多いしな。前巻は徹底的に齋藤茂吉の人麿論が違う事を書いている。相当力が入って書いてあるように読めるから、批判された人には辛いかもしれないが、結構この世界もシビアだな。ただ謎解きの中で出てくる当時の背景など知らない事も多く学べて勉強になる。何が正しいかは検証出来ないけど。

  • 日本の学会や識者にあってほぼ常識となっている柿本人麿論、それは斎藤茂吉や遡って契沖そして賀茂真淵等によって形作られてきたものであるが、その柿本人麿理解を根底から転換させる大歴史書である。学問における日本古代への常識、その強い魔力に抗い鮮やかにかつ大胆に新説を生み出す思考のスケールや深さが読む者を引き込み強烈な快感をもたらす。文献渉猟のボリュームや分析の緻密さも納得性を増し興味を倍化させる。
    「真淵は古代社会における激烈な権力闘争とそれに対する古代貴族の用心深い態度とを、ほとんど理解していない。--- 万葉集にせよ、古今集にせよ、それぞれひそかな政治的配慮をその背景に持っている歌集である」も印象的なフレーズである。

    「下」に続く

  • 久し振りの再読。万葉集の歌は並び含め、意図あるものとして全体をみていくことが大切で、より深い理解を得られるものと改めて実感。時を経てもやっぱり面白い。

  • 上卷多半都是說明前人的見解,包括齋藤茂吉的鴨山考和賀茂真淵的見解,落落長的引用讓人有點昏昏欲睡(覺得應該刪節一下不要一直重複比較好。這麼囉嗦的引用,是因為既存見解太強大?還是複製貼上這個邪惡的功能所致?),作者提出自己的見解的部分才是我想讀的。上卷提到人麻呂是入水乙事,接下來會繼續說明他的人生。

    內容裡面比較當頭棒喝的部分,是作者提到,江戶時代受儒學影響,做學問的態度過於理性主義,懷疑主義的極致就是把一切矛盾的東西排除甚至竄改,因為矛盾是理性主義最大的武器。但作者說,「世界や人生は不可解なもので、それらは人知でもっては解きがたい。その不可解なものを大切にしよう。それが、中世人の態度である。しかし、近代人は違う。その不可解のものを、あくまで理性で解きほぐそうとする。そのとき、多くの人は、理性の限界についての認識を忘れる。...彼はやはり古代人らしく、人間の認識能力に対して謙虚であり、「其の官位知り難きか」と結論している。このような態度は、中世人の態度であった。...何か特殊な事情があるのかもしれない、要するにそれは理解できないというのが、古代、中世のつつましい認識に対する態度であった....いかに古今集序文を疑うにせよ、彼らは懐疑の節度を保っていた。...多けれ少なけれ、中世人はそういうに懐疑に対する礼節を心得ていた。.....徹底的な懐疑な精神こそ、近代的合理主義の本質なのである。もはや、ここで理性は、懐疑を制止し、妨害するあらゆる障害を乗り越える。近代的な理性の道具は矛盾律である。理性は矛盾律を使って、彼の理性がつくり出した、首尾一貫した合理的世界に矛盾すると思われる一切のものを容赦なく排除する。.....われわれの理性はあまり浅すぎて、あるいはあまりに形式的でありすぎて、古今集序文の含んでいる、深いシンボリックな意味をよく理解することはっできなかったのではないか。...しかし、..近代的理性は、そのような自分自身に向かっての問いを発しない。....紀氏は藤原氏から白い目で見られる古代貴族のほとんど唯一の生き残りである。こういう紀貫之が、自己の主張を曖昧な表現の下に隠そうとしたのは無理もないのである。それゆえわれわれは、古今集序文を繊細なる政治的、文学的な感受性をもって読まねばならない。言葉の裏にかくされた貫之の語りたいものを、われわれは用心深く聞き取る耳を持たなければならないのである。...近世の国学は、文献的合理主義の上に立っている。...しかし、確かに精密、正確であるが、それは政治的な配慮をもった屈折した心情の文章をよみとる点において、十分ではない。真淵は、古代社会における激烈なる権力闘争と、それにたいする古代貴族の用心深い態度とを、ほとんど理解していない。...そういう歌集の真の意味をくみとるためには、その時代の厳しい政治的状況を知らねばならぬ。」

    一針見血地指出現在實證主義研究的盲點。所有事情都可以影像化可視化,我們並沒有離真理和真相越來越近,反而不相信所有看不見和無法被量化的東西(可以被量化的東西就可以劣幣驅逐良幣,可量化的通常都不是那麼重要,真正不能量化的,是品質,是精髓,是人本身的厚度與高度)被假新聞弄得團團轉,還自居理性不易受騙的理性人。我最近也一直想著,否定某些古代人擁有的超能力,可能只是因為我們只擁有貧乏的想像力,也失去和神接觸的能力,導致我們以為世界上沒有這樣的人。我們只是漸漸被閹割,漸漸失去許多能力罷了,但科學這個新宗教卻給了人類有史以來最強的自信,這實在讓我對人的無力和弱小感而悲哀。。話說回來,研究是需要一些想像力的,人類歷史的發展都是因為想像力而進步,然而今日我們卻因為周遭的豐富而失去想像力,這也可以說是失去做學問的能力,很多重要的事,永遠不會明說和明做,這不就是東方的文明。蒐集關鍵字,堆砌再堆砌,生產出可以量化為點數的論文,或者發發問卷作做長條圖,用電腦跑出一堆精美的數據,看似馬上有成果,換取下一任的聘約。失去精神性,和豐富纖細地理解其他時代、國家的人的思維,失去宗教和生命輪迴的壯闊感,失去尊重理性不能解釋的事情的態度,失去珍視看不見的、無法量化的東西的話,我們只能扁平地度過像機器人般的人生,只剩下一隻划手機的指頭,被演算法安排給我們看的東西和網軍洗腦,還沾沾自喜處在科學和時代的尖峰,其實又比阿米巴原蟲高尚到哪裡,人家至少還不會這麼自大哩。這個文明的病根如此深厚明顯,然而當代人只是掙扎著要不要買超貴的蘋果新品。作者說得一點都沒錯,我們這樣的人到底有什麼能力跟資格讀得懂古人的幽婉思維,充滿魄力而並枕而眠的生與死,和雄大豐厚的世界觀呢。讓我們繼續帶著矛盾律閹割人之所以為人的豐富能力,直到我們成為電腦和各種監控手法的奴隸為止,以後我們的想法,就跟電腦的算式一樣,偉哉,永遠的確定性。滾吧,不確定性的蒙昧,縱使你再豐饒再多義,奴隸也不需要你。

  • 万葉の歌人、柿本人麿が当時の権力者によって石見国で刑死(水死)させられたのではないか…という持論を丁寧に考察した本。

    上巻では「柿本人麿の死」と題して、斎藤茂吉が人麿終焉の地とした湯抱を否定し、後半に「柿本人麿の生」と題して、賀茂真淵が唱えた下級官吏説否定している。

    どうしてそのように考えたのかを丁寧に記している分、話がなかなか進まないように思うが、作者の思考をなぞって結論へ至る思考方法が楽しめると思えば、それなりに楽しく読めると思う。

    持統天皇が則天武后と同じ時代の人であるとか、万葉集巻二で死を「自ら傷みて」作られたとされる歌は人麿と有間皇子のみであるとか、同じ人物が違う名前で記されることもあるとか、天孫降臨の神話を記した古事記の成立は人麿の時代よりも後であるとか、そう言えばそうだっけ!って目からウロコがぽろりの話が多々あって、客観的俯瞰的思考の大切さを感じました。

    ま。
    梅原さんが従来の通説を客観的に再考するように、この本を読む側も梅原説を客観的に自分の経験値を糧に俯瞰して読む必要があることは、言わずもがな…だけどね(笑)

  • (2014.02.16読了)(2002.04.04購入)
    副題「柿本人麿論」
    【日本の古典の周辺】
    『万葉集』を読んだついでに積読中の「水底の歌」を読み始めました。柿本人麿について書いた本です。400頁ほどの本が上下2巻なので、なかなか手が出せませんでした。
    柿本人麿は、万葉集に多くの歌を残す宮廷歌人というイメージだったので、都で生まれ都で育ち、都で亡くなったものと思っていました。
    生没年不明、どこで何のために亡くなったのか、どんな身分の人だったのか、何の仕事をしていたのか、定説はなさそうです。謎だらけです。
    第一部は、多くの人たちに支持されている斎藤茂吉のどこで何のために亡くなったのかという説の紹介と、その説が独善的で異様であることを教えてくれます。
    とは言いながら、梅原さんの解釈による人麿の死の真相も驚くべき説です。
    第二部は、賀茂真淵説を紹介しながら、人麿がどのような身分でいつごろの生まれかを推定します。
    古今和歌集の序文には、柿本人麿は、三位であった、と記されています。三位以上の身分であれば、公式文書のどこかに、人麿についての記述があるはずだけれど、ないのは、序文の記述が間違えている、ということ。また、人麿が、死に臨んで歌った歌が、記録されているけれど、「死」という語がつかわれるのは、六位以下であること。二つの理由から、人麿の身分は、低いものとされてきています。
    梅原さんは、大胆にも、人麿は、公式文書の、柿本サルが、その人ではないかと、唱えています。われわれより時代が近い、紀貫之が、人麿の身分を間違えるはずがないというのです。
    古今和歌集の記述が、間違っているという説を唱える場合は、序文は、紀貫之のものではなく、後世の人が、付け加えたものだ、という説まで唱えるようです。

    【目次】
    第一部 柿本人麿の死 ―斎藤茂吉説をめぐって―
    第一章 斎藤茂吉の鴨山考
    第二章 鴨山考批判
    第三章 柿本人麿の死の真相
    第二部 柿本人麿の生 ―賀茂真淵説をめぐって―
    第一章 賀茂真淵の人麿考
    第二章 年齢考

    ●ひじり(15頁)
    なぜに人麿は聖であるのか。われわれは、聖徳太子がどうして聖であるかという真の理由について、すでに十分に探究した(『隠された十字架』)。その後の文学者、芸術家では、菅原道真や世阿弥や利休や西行や芭蕉が聖とされてきた。菅原道真は明らかに政治的流人であり、世阿弥もまた佐渡流罪の経験をもち、利休は秀吉に死を命ぜられた。他の二人の文学の聖者である西行と芭蕉も、流竄と死刑の経験こそないにせよ、その流浪孤独の生活が、彼等を聖とする必要欠くべからざる条件でもあった。
    ●人麿の履歴(81頁)
    『人丸秘密抄』などでは、人麿は高津町の西、石見国美濃郡戸田、綾部氏の家に生まれ、後に大和に行き、その後、官吏として再び石見国へ帰り、鴨山にて死んだという伝承が書かれていて、それについてはさまざまな不思議な由来が記されている。
    ●人麿の時代(145頁)
    万葉集に採られた人麿の歌を年代別に配置してみると、はっきり年代の分かっている人麿の歌は、持統三年(六八九)、草壁皇子の死去のときの挽歌に始まり、文武四年(七〇〇)の明日香皇女死去のときの、挽歌に終わることが分かる。
    ●中世と近代(352頁)
    世界や人生は不可解なもので、それらは人知でもっては解きがたい。その不可解なものを大切にしよう。それが、中世人の態度である。しかし、近代人はちがう。その不可解なものをあくまで理性で解きほぐそうとする。そのとき、多くの人は、理性の限界についての認識を忘れる。不可解なものでも、理性を働かせれば分からないはずはない。

    ☆関連図書(既読)
    「ハシモト式古典入門」橋本治著、ゴマブックス、1997.11.25
    「万葉集入門」久松潜一著、講談社現代新書、1965.02.16
    「万葉集」坂口由美子著・角川書店編、角川ソフィア文庫、2001.11.25
    (2014年3月3日・記)
    内容紹介(amazon)
    天下第一の詩人、歌聖柿本人麿は、時の政権に地位を追われ、はるか石見の国に流罪刑死! 斎藤茂吉、さらには遡って賀茂真淵の解釈によって定説とされて来た従来の常識を徹底的に粉砕し、1200年の時空を超えて、日本古代史と万葉集の不可分の関係をえぐる。人麿の絶唱は何を意味するか。正史から抹殺され、闇の中に埋もれた巨大な真実を浮彫りにする雄渾無比の大作。

  • 万葉集・柿本人麿についての通説への見方が変わるような一冊です。梅原先生の説はすごく面白いですが、ある程度の知識があって読む方がさらに楽しめそうな気がします。

  • 飛鳥・奈良時代お好きでしたらおすすめですが、梅原先生なので学術的です(つまり文章がカタイ)

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著者プロフィール

哲学者。『隠された十字架』『水底の歌』で、それぞれ毎日出版文化賞、大佛次郎賞を受賞。縄文時代から近代までを視野に収め、文学・歴史・宗教等を包括して日本文化の深層を解明する〈梅原日本学〉を確立の後、能を研究。

「2016年 『世阿弥を学び、世阿弥に学ぶ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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