新約聖書を知っていますか (新潮文庫)

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (295ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101255217

感想・レビュー・書評

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  • 新約聖書のあらすじを知りたくて読んでみた。

    結果はあらすじを知るだけでも結構大変な作業だと分かった。

    聖書は西暦300年ごろカルタ語で聖典として制定されたとの事を知り意外に感じた。
    てっきりキリストがすぐに作ったものだと思っていた。

    旧約聖書と違って物語として説明しづらいので旧約聖書の方が分かりやすかった。

    学びとしては黙示の意味や新約聖書と旧約聖書の約の意味。使徒って何?そもそもどこの国のお話?等々基礎的なことを学ぶ事ができて良かった。

    私の様に教養に乏しい者の助けとなる本であると思う。

  • 劇団四季のミュージカル「ジーザスクライストスーパースター」を観るにあたって、予習の意味で読みました。
    もう随分前からAmazonで購入してたんですが、自分の読書ペースを考えると一週間あれば充分かなと公演日間近に読書するに至りましたが…、ほんとにギリギリになってしまいました。

    キリスト教について知っている事といえば、イエス・十字架・聖母マリア…と、ほんとに単語がいくつか出てくるのみで、全くの無知な私。
    読み慣れない、聞き慣れない言葉ばかりでなかなかページが進みませんでした。

    信仰している人を否定もしませんが、いざ自分に宗教の話を持ち掛けられると胡散臭く感じてしまうんですけど、この著者は信仰を持たない方らしく、客観的に新約聖書の説明がされていて割と素直に読む事ができました。

    読み終わって、ぼんやりとですがキリスト教の全体像が見えてきた様な気がしました。

    私の様な初心者には読みやすいのではないでしょうか。

    肝心のミュージカルの方ですが、この本を読んでいて本当に良かったと思いました!
    この本で読んだままが出てきて(当たり前かな?)、細かい部分も楽しめました。

    マグダラのマリアがイエスの足にキスしたり、香油をかけたりとか、イエスが祈っている間に弟子たちが眠りについている様子とか。
    読んでなかったら???の連続だったと思います。

  • 聖書について軽い気持ちで学ぶことができる。
    この本にも書いてあるが、触りだけでも理解していると今後活かせることがあるのかなぁと思ったり…。

    旧約聖書を知っていますか、を次は読んでみようかな。

  • 20151227
    阿刀田高の解説書シリーズ。
    イスラエル建国までのアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨゼフの流れを説いた『旧約聖書を知っていますか』に続いて、イエスキリストを説いた本書。
    イエス誕生の話、12人の弟子との最後の晩餐や、イエス復活を目撃したマグダラのマリアなど、耳にしたことのある話を物語として理解することができた。宗教とは科学では無く、論理性に欠けるという思いを筆者も感じている。キリスト教を信じなければ達成されないとこがあり、失敗した理由は信仰が足りなかったからだという自己撞着に陥ってしまう。知識として宗教を知っておきたいものだが、信仰に溢れる人たちはなんと愛に溢れていることだろうか。特に必読すべき事として、個人の修行を教義とする仏教と比べて、他者との繋がりや愛を感じさせるのがキリスト教なのではないか。
    西洋の根底を流れる思想がキリスト教である。絵画、映画、文化を知る上でもキリストの知識は欠かせない。
    キリスト教と他宗教との比較、経済観念との繋がり、キリスト教伝播の流れを意識して学ぶ予定。

  •  旧約聖書を知っていますか、に引続き、新約だ。

     イエスの言葉は、たとえ話であったり、質問に対する断片的な回答であったり、戒めであったりして、真正面から教義の中核を語っているものは思いのほか少ない。イエスは、教義についてはむしろモーセの十戒など旧約聖書の中にそれを求め、そこから選び抜き、新しい意味を与えるといった方法をとっている。その根底にある規範は神への完全な愛であり、そして実践的には隣人を自分自身のように愛することである。また、人間には出来ないことも神にはできる、と、言われた。イエスの教えの中枢には神は人知を超えた存在であり、だから、ただひたむきに、ひたすら神に対してすがり求めること、神への完全な信頼があれば必ずよい答えが得られると述べている。隣人愛の具体的な指針として、”人にしてもらいたいことをあなたがしなさい”と記している。やさしい言い方だが、この倫理の包容する範囲はとても広い。殺人はどうか、姦淫はどうか、親切はどうか、おのずと答えが生まれる。一つ一つの行動について、これは自分にして欲しいことだろうか、してほしくないことだろうか、と問いかければ、おのずと選択の目途が立つ。それを厳密に考え実践することが神の心にかなうことである。

     イエスはいくつかの啓示を得て、自分が神であることを確信した。この確信の背景には当然のことながら、神の存在への確信がある。”私は神の子としてこの地上に遣わされたのだ”という思いが徐々に確信にかわって言ったのだろう。なにしろ全知全能の神を背中に背負っているのだ。ならば、神がいかなるものか、その説明は無用である。どのみち神がいかなるものか、人間などに分かるわけがない。小ざかしい疑問を抱くより、ただひたすらに信じる方が寛容である。なにしろ相手は人間を愛して、愛して、愛してやまない神なのだから。福音書には、教義に属すること、私はこういう神ですよ、といったことが余り記されていない。そんなものをいちいちいう必要は無い、それが福音書の方針なのだろう。神は全知全能だから、疑いを持たずに神を信じなさい、ということだ。だから『求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門を叩きなさい、そうすれば開かれる。だれでも求め続ける者は受け、探す者は見つけ、門を叩くものには開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このようにあなたがたは悪いものでありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるに違いない』なのである。人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい、なのだ。

     あとは、神の存在を、具体的にはイエス自身が神の子であることを証明すれば、このように言っていることがきっと信じられるだろう。その証明が明確で、力強ければ、そのぶんだけ、私は神の子である、というテーゼが明確に、力強く裏打ちされることとなる。とにかく信じなさい、わるいようにはしない、神なんだから。という主張は、そのよりどころを”本当に神かどうか”にかけているといってもよい。神の子であるという強い確信を持ったイエスは、その証明方法として、人間の原罪を一身に背負って十字架にかかり、死後に復活して見せるという道を選んだ。これもまた、なにかしらイエスの中に啓示があったのかもしれない。

     あとは、キリスト教を体系立てて世界的な宗教に、ユダヤ教の一派ではなく、それとは違う宗教に仕立て上げた最大の功労者、パウロのことである。パウロの考えは、まずはイエスキリストを信じることだった。律法を守るかどうかは次の話でありイエスを信じなければ、はじまらないということだった。割礼より先にイエスを信じろと。旧約聖書に記されたアブラハムから、イスラエルの民はモーセを仰ぎ、ダビデを敬い、ずっと律法を神の掟として過ごしてきたが、機が熟したところで神は救世主であるイエスを地上に遣わし、イエスの血により人間の犯した罪をあがない、イエスを信じることによって人間が救済されるという道をお示しになった。これらはみんな神の眼から見れば、あらかじめ決められていたことであり、イエスの顕現を経た今日では、古い律法を守ることより、イエスを救世主として信じることの方がよほど重要であるという。ただ、やっぱり律法もちゃんと守らなくちゃいけない、という人も多かっただろう。でも、それではキリスト教はユダヤ教の一派に成り下がってしまう。そのため、パウロは、割礼などの律法は守らなくてよい。イエスを救世主として、しっかり信じることだ。十字架にかかり、復活した意味をきちんと理解することの方が重要だ。といって、パウロは精力的に布教活動を行った。あなたが受けた割礼も、盗むな、姦淫するなという律法を守ってこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じだ。だから割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けたものとみなされるのではないかと言った。そして、体に割礼を受けていなくても、律法を守るものがあなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を読め、割礼を受けていながら、律法を破っているのだから。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではなくなる。内面がユダヤ人であるものこそユダヤ人であり、文字ではなく、霊によって心に施された割礼こそが割礼なのだ。(ローマの信徒への手紙第2章)

     旧約聖書の方はイスラエルの建国史と読める部分が多くあるが、新約は、徹頭徹尾信仰と結びついている。美術館を巡るときも、西洋美術は特に聖書と結びついている。演劇も映画も、音楽もだ。そんなときに、聖書の知識があるとないとでは理解の深さと面白さが全く違う。皆さんも信じる信じないというより、しっかりとキリスト教を勉強すべきだ。

  • とっても分かりやすい。砕けすぎることなく、「現代で言えばこんな感じ」をうまく説明してくれる。
    聖書に記されている「奇蹟」の存在についての解釈や、さまざまなエピソードに対する筆者の感想や意見を、当時の状況について説明した上ではっきり示してあって、なるほど、と頷ける点が多くあった。聖書の解説本、と言うよりは、人間の習性のようなものとか、宗教とは何か、というテーマに対して向き合ったエッセイだと言って良いと思う。
    ただ、信仰を持っていない、と明言する筆者の著わす解釈は、敬虔な信者からしたら、何を言う、と柳眉を逆立てたくなるような言い回しも多いかもしれないので念のため。
    順序が逆だけれど、旧約聖書についてのエッセイも読んでみるつもり。どんな解釈が飛び出すか楽しみにしている。

  • 2015.8.27新約聖書の内容をわかりやすく、著者の私見やエピソードも交えながら、信仰もなくキリスト教についてもよくわからない人に向けて書いたエッセイ。旧約聖書が、日本の古事記に近く、神話と歴史という流れでイスラエルの民族のアイデンティティを証明するような書物であるのに対し、新訳聖書はイエスキリストの誕生から亡くなるまでの言行録というか、その言行を伝え、解釈した4つの福音書がメインであり、さらにパウロなくしてキリスト教なしとまで言われる、パウロによる布教の記録を手紙を通して知ったり、つまりイエスキリストを中心に書かれている。旧約聖書とは思いっきり違う内容構成になっている。小学生の時に学校の図書館でイエスキリストの伝記を読んだのを今でも覚えていて、有名なエピソードはその時読んだ記憶と本著を読んだ記憶にさほど違いはなかった。個人的には、新約聖書に書かれていることの真偽より、それを書かせるだけのインパクトのある出来事と人物が実在したこと、そして故にキリスト教は現代において世界最大の宗教となっている、そこが大事なのではないかという著者の私見もおもしろかった。イエスキリストを始まりとしたストーリーも興味深いものだったが、改めて、信じるとはなんだろうかと考えさせられる。この時代は、現代よりもずっと、信仰が身近であり、人生に必要不可欠なものだったに違いない。科学は、存在しないことを証明することはできない。神は存在するという証拠は乏しいが、同時に存在しないとも言えないのである。明確な根拠のある事実に対し信仰は不要である、だって目の前に根拠あるんだから。根拠がないからこそ、信じる力が試される。昔は今より、この力の試された時代だったんだろうなと思う。これは宗教に限った話ではない。科学のできることは存在の証明までであり、存在しないものを存在しないということはできない。それを信じるのも、人間の力である。その力を我々は失ってきているような気もする。無根拠でも信じる、それは時に生きる強い原動力、情熱である。そんな根拠のない自信的なものが必要な人生の局面ってあったりしますよね。例えばそれは自分の夢に対する信念とか、そんなものとも言えるかもしれない。日本は特に、宗教というか意識的な信仰を持つわけでもなく、寧ろ宗教にマイナスイメージのある国である。でも、根拠がなくても何かを信じることも人間の在り方だし、根拠がなくても何かを信じることの偉大さ、大切さを、この本を読んで感じることができた。私は神を信じないし、寧ろキリスト教は昔勧誘された時から大嫌いなのだが、著者と同じように、根拠もないし、奇蹟なんてアホらしいし、復活もあり得ないし、でもそういう無根拠なあり得なさを信じることが、一体どれだけの人間を救って、その結果キリスト教含め宗教がどれだけの影響力を世界に与えてきたか、その結果としての事実はしっかり受け止め認めるべきだと思った。イエスさんすごいね、というより、人間の信じる力ってすごいな、という感じである。最後のヨハネの黙示録はもう漫画とかアニメとか映画の世界のような気がして、でもそう思わせるだけの非現実感と凄惨な感じが伝わってきたのはすごいなと。比喩だろうけど、結局人類はそういうエピソードに向かいつつはある気もする。新約聖書について知りたい人にはもちろん、宗教とかなんか怖いし阿保臭いし意味不明ですよねなんて思ってる人に読むことをお勧めする一冊。唯一学べた教訓的なのは隣人愛、自分のしてほしいことを相手にしなさい、という教えくらいかな。

  • ます、著者のスタンスがいい。信仰はしてないが、知識としてキリスト教を知りたいという人の入門書としては、最適ではないか。

    筆者によると、前作の旧約篇はイスラエルの建国物語とも取れるので、書きやすかったが、新約は信仰心の問題になるので苦労した事が書かれているが、その通りだと思う。

    現在の世界の混迷の大きな要因としては、宗教戦争の側面もあり、そこが、日本人としては一番理解出来ないところなのではないかと思うが、阿刀田さんのような理解の仕方、つまり、知識として知っておくというやり方は、日本人には向いていると思う。真の宗教に対する接し方とは違うとは思うが・・・

    あとは、続篇のコーランを読んで、死ぬまでに「聖書」、出来れば文語体の物を読みたい。

  • (2014.06.26読了)(2013.06.28購入)
    【6月のテーマ・「聖書の周辺」を読む】
    旧約聖書は、「創世記」「出エジプト記」「ヨブ記」と入門書、関連書などを読んでいるので、阿刀田さんの「旧約聖書を知っていますか」とりあえずスキップしてこの本を読みました。
    新約聖書を読んだことはないのですが、キリストの生涯については、映画や物語である程度知っていますし、絵画でも見ています。
    この本を読んでみると、知っているようで、まだ知らないことが多々ありそうです。聖母マリアのことについては、聖書には書いていないけど、別立てのものがたりがあるようです。映画や関連する物語にも触れながら、新約聖書について紹介してくれているので、楽しく読めます。この本を書くことを口実にキリストやその弟子たちにゆかりの地にも脚を運んだようです。うらやましい限りです。

    【目次】
    第1話 受胎告知
    第2話 妖女サロメ
    第3話 ガリラヤ湖
    第4話 十二人の弟子
    第5話 イエスの変容
    第6話 ゴルゴタへの道
    第7話 ピエタと女たち
    第8話 クオ・ヴァディス
    第9話 パウロが行く
    第10話 黙示とエピローグ
    解説  大塚野百合
    阿刀田高 文庫分類目録

    ●系図の不思議(14頁)
    「マタイによる福音書」の冒頭にマリアの夫のヨセフの系図が書いてあることについて
    系図は、マリアの夫ヨセフが、いくつかの曲折や疑義があるにせよ、アブラハムからダビデを経た一族の血を繋ぐ末裔として(多分、誇りを持って)記しているのである。そのヨセフの本当の息子がイエスであるならば、この系図の意図は十分に汲み取れる。こういう正統な血筋からイエスが誕生したこととなり、首尾は一貫している。
    ところが、系図に続く記述が、イエスはヨセフと関係なく、マリアは聖霊によって受胎しイエスが誕生した、というのだから、
    ●四つの福音書(28頁)
    新約聖書の中核をなす四つの福音書、すなわち〈マタイによる福音書〉〈マルコによる福音書〉〈ルカによる福音書〉〈ヨハネによる福音書〉の内容は何か、
    「イエス・キリストが神の子であることを伝えるフィクション」
    ●イエスの父(31頁)
    マリアの相手はほかにいる、ローマの兵士、パンテラという名前だ、という指摘が早い時期からあるにはあった。心根の正しいヨセフはそれを承知でマリアを引き受け、成長したイエスは、その事実を知って早く家を出た。家督を正当な弟たちに譲ろうと考えたわけである。
    ●洗礼前のイエス(51頁)
    はっきり言えるのは、イエスは少年期を終える頃までナザレの父の家にいて父の仕事を習っただろうこと、四人の弟と、二人あるいは三人の妹がいたこと、そして父ヨセフは比較的早い時期に死んだこと、そしてイエスが若くして家を出たこと、くらいであろうか。
    ●病気(78頁)
    当時、病気は神に対する罪に由来すると考えられていたから、罪が許されることと病気が治ることとの間には、イコール記号が通用したわけである。
    ●奇蹟(85頁)
    奇跡のエピソードは一つの比喩であり、イエスの偉大さを大衆に伝えるためには、こうした伝達方法が適していた、ということだろう。事実の報告だけが伝達の手段ではあるまい、小説でしか伝えられない事実というものが現代でもあるではないか。
    ●イエスのレトリック(104頁)
    「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」
    ●ピエタ(182頁)
    ピエタはイタリア語で〝敬虔な心、慈悲〟を表す。日常会話でも使われているが、美術用語としては、聖母マリアがイエスの亡骸を抱いて悲しむ構図を意味している。
    ●伝道(213頁)
    福音書の二百余頁が過ぎると、新約聖書は新しい部分に入る。イエスの亡き後、直弟子やその他の弟子たちがイエスの教えをどう伝えたか、キリスト教がどう成立して、そこにどんな困難があったか、どんな励ましがあったか、記述のポイントが大きく変わる。
    〈使徒言行録〉は、その名の通り、複数の使徒の言行を記したものだが、ペテロとパウロに咲かれたページが圧倒的に多い。
    ●ペテロ(236頁)
    ペテロは叫んだ。
    「ドミネ・クオ・ヴァディス?」
    主よ、どこに行かれるのですか、の意である。イエスは答えた。
    「あなたが私の子等を見捨てるならば、私がローマへ行き、もう一度十字架に懸ろう」
    ●弾圧者パウロ(242頁)
    どこかにキリスト教徒が隠れていると聞けば、大祭司の命令を受け、わざわざ出向いて行って捕縛連行するなど、徹底した弾圧者だったのである。
    ●ヒエロニムス(283頁)
    原語はギリシア語だったろうが、五世紀の初めにヒエロニムスという学者が長い苦難の日時をかけてラテン語訳を編集完成した。ウルガタ(一般的なもの、の意)と呼ばれる聖書であり、その名の通り聖典として後世に大きな影響を与えた。

    ☆関連図書(既読)
    「死海文書の封印を解く」ベン・ソロモン著、KAWADE夢新書、1998.05.01
    「はじめての死海写本」土岐健治著、講談社現代新書、2003.11.20
    「神の旅人」森本哲郎著、新潮社、1988.05.20
    「ローマ帝国とキリスト教」弓削達著、河出文庫、1989.08.04
    「新約聖書入門」三浦綾子著、光文社文庫、1984.11.20
    「イエス・キリストの生涯」三浦綾子著、講談社文庫、1987.11.15
    「聖書物語」山形孝夫著、岩波ジュニア新書、1982.12.17
    「ふしぎなキリスト教」橋爪大三郎・大沢真幸著、講談社現代新書、2011.05.20
    「サロメ」ワイルド著・福田恒存訳、岩波文庫、1959.01.05
    (2014年7月2日・記)
    内容紹介(amazon)
    新約聖書の冒頭で、マリアの夫ヨセフの系図を長々と述べているのはなぜでしょう。処女懐胎が本当ならば、そんなことはイエスの血筋と無関係のはずです。ところで、聖書の中に何人のマリアが登場するか知っていますか? ではヨハネは? そして、イエスの“復活"の真相は? 永遠のベストセラー『新約聖書』の数々の謎に、ミステリーの名手が迫ります。初級者のための新約聖書入門。

  • 「キリストははじめから神の子であったのではなく、様々な奇跡や過程を通じて確信を深めていった」
    「磔刑の前日には迷いがあり、執行直前にも迷いが生じる。しかし、どちらも最後は委ねる」

    といった、人間くさいイエス・キリストが描かれている。


    宗派や考え方は様々だし、そもそもキリストが人間かどうかという部分があるが、宗教を持たない身としては、一番腑に落ちる見方だと思えた。

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著者プロフィール

作家
1935年、東京生れ。早稲田大学文学部卒。国立国会図書館に勤務しながら執筆活動を続け、78年『冷蔵庫より愛をこめて』でデビュー。79年「来訪者」で日本推理作家協会賞、短編集『ナポレオン狂』で直木賞。95年『新トロイア物語』で吉川英治文学賞。日本ペンクラブ会長や文化庁文化審議会会長、山梨県立図書館長などを歴任。2018年、文化功労者。

「2019年 『私が作家になった理由』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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