地の果て 至上の時 (新潮文庫)

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著者 : 中上健次
  • 新潮社 (1993年7月発売)
  • Amazon.co.jp ・本 (616ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101274034

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地の果て 至上の時 (新潮文庫)の感想・レビュー・書評

  • 紀州の”路地”を舞台にした秋幸サーガの最終話。

    前作「枯木灘」で路地を離れた秋幸が三年後に戻ってくる。
    時代は高度成長による土地開発が進み、”路地”は消滅していた。
    開発により、秋幸の家族たちの生活も変わっている。
    秋幸は”蝿の糞の王”である実父浜村龍造のもとに身を寄せる。
    「枯木灘」で、土方仕事で日の下で土を掘り汗をかくことに輝きを見出していた人生はもう変わった。
    変わり果てた土地と、出し抜きあう人々。

    秋幸は龍造への憎しみを秘めつつ、物語は収束する。

  • 前半は筆が荒れに荒れていて、普通だったら嫌になるぐらいだが、中上健次だからそれもマグマの胎動のように思えて逆にはらはらする。『枯木灘』の続編だが、見事にぶっ壊していて、秋幸はすっかり浜村龍造寄りの人間になってるし、徹は気が狂ってるし、竹村の家はすっかり悪者扱いになっている。それもこれも「路地」が消えてしまったからで、実際、ほとんどコメディばりに土地の祟りがそこらじゅうで吹き荒れ、おまけに「水は生きている」信仰や、ジンギスカンの末裔伝説、台湾の独立運動なんかもからんできて、まったく収拾がついていない。このぶっ壊れ方が好きか嫌いかで評価が分かれるだろう。

    秋幸と龍造が二人で山を歩くところも泣かせるが、次男の友ーと秋幸が和解の握手をかわすところも地味にいい。あと水信仰のババアたちがなんだか間が抜けてて可愛い。

  • 新潮文庫は本文を読んでから解説を読みましょう。解説は始まってすぐに強烈なネタばれがあります。

    読後感は、『羊をめぐる冒険』と同じ感じ。世界が変わりつつあること、それはもう止められないこと、主人公が空回りで哀しいところが似ているように感じられました。「羊」は82年出版で本書は83年なんですね。こういうのを「時代性を感じる」っていうんでしょうか。

    秋幸もの前2作に比べると、なにか観念的で、人ではなくて場所のほうが主人公みたいな感じ。噂でエピソードが積み重ねられて行って、本当のところは不明な書き方で、息苦しくて不安な状況が描かれます。

    これはこれで面白いけど、『枯木灘』のほうが音楽的でドライブ感があった気がします。その上かなーり長いので星はみっつ。作者の狙いがスパっと決まった本ではないんじゃないかという感触もあり。

  • 随分と読むのに時間がかかってしまった。秋幸三部作のラスト『地の果て 至上の時』。

    今回、中上健次を読み直すにあたって一番読みたいと思っていたのがこれだった。読みながらいろんな本へ関心が移ったりもしたけれど、通して読むことができて本当によかったと思うし、自分の中で得られたものは大きかった。

    『地の果て 至上の時』は世に出た際にあまり評判がよくなかったと柄谷さんの解説に書いてある。話がそれるけれど、昔この解説を先に読んでしまって「あーそうなっちゃうの?」とそういえば思ったのだった。話の筋を先に知ってしまったからなのかどうかはわからないが、長くて読むのがつらかった、という印象しか正直なかった。柄谷さんの解説は、この小説の画期的なところを熱っぽく語っていたけれど、自分の中でその解説の内容が腑に落ちた感じは前に読んだ時はおそらくなかった。

    長いのもあるのだが『地の果て 至上の時』は、秋幸の心の内がよくわからないような語りになっていて、そのことがカタルシスを得られない原因ではないかと1つ考えることができる。この小説中の秋幸はどこか透明で、路地の風景の中に埋もれてしまうような印象を与える。書かれる様々な出来事も、各場所で発生してめいめいの方向を向いており、全体としてはどこへ向かうのかがわからない混沌とした世界になっている。

    浜村龍造は秋幸(≒中上健次)を縛っているものの象徴のように読めてくる。『枯木灘』では、その分身である秀雄を殴り殺す、という形で秋幸の愛憎を昇華させた、という趣だが、それをやってしまった後に、もう『枯木灘』の方法には戻れなかったのだろう、という解説にはうなずいてしまった。そう、小説家として『枯木灘』をもう一度やってもよかったのだが、そこには安住しなかった、ということなのだろう。昔『枯木灘』を読んだ時、秋幸の労働する姿について描かれた部分を実に美しい文章だと思っていた。しかし、今回読み直した時、そこの表現に多少自分なりの違和感があったのである。「本当にこれを書きたかったのか?」という私なりの違和感が、『枯木灘』に安住できなかったのだろうとする見解に同意することにつながっている。

    そして、小説の中で浜村龍造が死んでしまう。そのことで、秋幸を縛っていたもの、もしくは憎悪の対象がなくなってしまう。これはまるで浜村龍造にはもう用はなくなった、と言っているようにも思える。中上健次は作家として戦うに値するもっと広い世界を再構築したのではないか。もっと強い相手と戦うための土台として『地の果て 至上の時』はあるのではないだろうか。これまでの小説では「首を吊った兄」のことが執拗に書かれていたが、そのことにも決着が着いたかのように、記述は少ない。

    私がはっとしたのは、秋幸が猟銃を持って、浜村龍造の方へ向けるシーンだ。そもそも秋幸自身を縛っているものは、秋幸自身が透明になっていくことで、全体としては消失していっているように思うが、依然として秋幸の胸には、そのどこから来るのかわからない憎悪がこみ上げる瞬間がある。「おまえのことを憎んでいることも忘れたわけではない」と強く相手を睨んでいる。ヨシ兄が死んでしまったことに対する絶望が、浜村龍造を死に追いやっているようにも読めるが、この秋幸の睨みに感じるところがあったのではないだろうか。浜村龍造ではなく、もっと得体のしれない大きなものと格闘するための静かな覚悟のようなものを、浜村龍造がその眼の中に読み取り、「俺の用はなくなった」と自らこの世界から身を引いていっているようにも思える。作家としての思いと、秋幸の路地への感情が輻輳して、一筋縄でいかない混淆とした魅力を放つ。路地に響く諸々の声は、現在だけではなく、過去の人間の声や、未来の人間の声ともつながっているように感じられる。

    読む前... 続きを読む

  • 「枯木灘」で繰り返し心惹かれた壮観で細やかな風景描写などは控えめで、物語性が強く感じられた。
    面白くて時間を忘れ読み耽ってしまった。
    自分が誰であるか、血脈やそのルーツへの思いは、愛憎をも越えて濃く深く、また昏くも映る。
    終わりであり、ここから始まるのか、という思いが静かに沸き上がってきた。

  • 「岬」「枯木灘」の続編で秋幸シリーズの完結作。「枯木灘」で腹違いの弟を殺して服役していた秋幸が出所してからの話。憎悪なのか愛情なのか判別がつかない、どちらが殺すか殺されるかという秋幸と実父の浜村龍造との緊迫した関係が延々と続きますが、意外にも実際に父親殺しをすることになるのは別の人物で、浜村龍造はあっけなく自ら命を絶ってしまう。

    結局、秋幸が父親殺しの罪に手を染めることはなかったけれど、きっと自ら手を下す以上の喪失感、そして裏切られたという思いがあったろうし、そう思うと浜村龍造のしたことは一見愛情のようでも、やっぱり秋幸に対しての復讐だったとも解釈できる。しかし3部作の幕切れとしてはいささかあっけなさすぎた・・・

  • 天井を見上げて、しばらくじっとする。
    長く、深く、呼吸をする。

    胸の愛おしいような重さが、いまも、消えない。

  • 秋幸三部作の最終章。消え行く路地と残される秋幸を通して、決してさかさまには流れない時間と人間存在の卑小だが濃密なありようを重厚な筆致で書き上げる。中上の筆力を随所に感じさせる作品。

  • 秋幸サーガ第三作。

    秋幸は紛れもない王である。
    血、地、歴史、視線、噂、自然etcに取り囲まれ、秋幸は物語の中心となった。
    「路地」は最も「路地」らしいやり方で消えてしまった。だからこそ「路地」は消えなかった。

    中上は四次元の視線を持った素晴らしい作家だ。

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