- Amazon.co.jp ・本 (343ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101289212
作品紹介・あらすじ
縄文人と弥生人、反目から共存への図式。「あいだ」の表現としての歌。城壁なき律令国家の誕生。仏教変容の宇宙的規模。「近代の超克」は、更なる超克へ…。極東のこの島国で連綿と演じられてきた精神のドラマ。その独自性と真価を、広く世界をも見すえつつ徹底検証する。常に時代と切りむすんできた三知性が集い、火花を散らした全記録。五つの鼎談が今、価値大転換期の混迷を照らす。
感想・レビュー・書評
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日本人は思想してきたのか?という命題について3人で話し合っている。とても興味深い対談だった。日本人の思想の痕跡は歌や芸術、詩や和歌などに残っているというところ。梅原さんがまた博識で、彼の他の著書も読んで見ることにした。色々批判がつきまとう人らしいが、新しい事をしようというエネルギーはある人なのかな。法然や親鸞もそういう観点からも価値がある人たちのように理解出来た。他の2人も興味深く、機会があれば著書を読んでみたいと思った。しかしこの対談の直後にサリンや関西の震災があったのか。その後の対談も読んでみたかった。
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テーマは面白いが、内容は難解。そう感じた理由を考えてみたが、まず、読み手に日本思想や文化に関する広範かつ深い知識が求められること、加えて、3人による対談をそのまま文章にしているので、必ずしも論旨や話の終着点が整理されていないことが挙げられそうだ。
しかし、この本の内容を「ああ、なるほどね、面白いね」と納得しながら読めるようになったならば、その時は、日本思想や文化に関する教養は身についていると言えるだろう、とも思われた。
なんというか、学者たちの知的雑談を、同じテーブルに座って横で聞いているような錯覚をさせてくれる本である。このような体験ができる本は稀有なので、日本思想に興味のある人は一度読んでみてもいいかもしれない。ただし、何かしらの「答え」を求めて読む本ではないので、その点には注意。
以下は抜粋。
・日本の古代からの思想は、(中略)たとえばお茶はどう点てて、点てることはどう意味があるのかといった意味での思想とか、芝居はどう演ずるのか、年齢は演技とどうかかわるか、ということについての思想とか、つまり何々について述べられた思想はかなり見つけやすいんですが、思想を思想自体として抽象的に述べたものを見つけるのは大変難しい。もし特徴と言うのなら、それじゃないかなと思います。(p.16)
・行基仏などそういう物質の抵抗感を通して仏性は出てくるので、最初から抽象的な悟りとか仏とかいうものを最澄みたいに立てちゃいけないんだと山の芸術家とか修行者は言ってるんじゃないかという気がするのです。(p.122)
・哲学で体系化しても人間は洩れるんですよ。(p.85)
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3人の対談形式で、何か明確なまとめや結論といったものに至るものではないけど、対談の20年のちの現在においても、世界の中での日本を考える上でいろいろな手がかりを与えてくれる。
西洋哲学とは異なり概念的な体系思想を構築することのなかった日本の思想。形而上的なものを言葉で移し替えを行った西洋に対し、お茶、花、和歌といった具体の技術や造形に結び付ける形で思想を高めてきた。
また自我と物質の二元論に対し、主客合一、境界と境界のあいだ、中間の追求を図ってきたのがある意味で日本の哲学であったか。
仏教、神道、西洋哲学への深い造詣からこうした議論が展開され、なかなかついていくのも大変だけど、何かのとっかかりが得られる。 -
日本人は思想したか
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「 日本人は思想したか 」 吉本隆明 梅原猛 中沢新一 の鼎談(ていだん)。宗教や文学から日本思想を抽出しようとした本。印象に残ったのは 仏教、縄文思想、アイヌや沖縄の神道、聖徳太子、柿本人麻呂、西田幾太郎、宮沢賢治、今昔物語からの思想抽出
抽出した日本人の思想
*人間と自然、自然への慎み深さ、自然との倫理関係
*あの世とこの世は繋がっている
○魂鎮め(死と人間の感覚とを調停するもの→調停が哲学の本質→和歌は魂鎮めとして発生→和歌は日本最初の哲学
○非知(念仏を唱えるだけで往生できる思想。知の放棄)
○本覚論(すべての存在に仏が宿る。人間中心から自然中心へ)
○アニミズム(自然物に人間のような霊魂がある)
吉本隆明「技術は現在を超える」「この種の問題は本質的と考えて、早急な結論づけはしない〜保留でいい」
「国家をつくらない→民族をつくらない→平和的」
梅原猛「親鸞は あの世から人間を見る目をもっている」「古事記は歴史を題材とした歌物語」「古事記の作者は柿本人麻呂」「源氏物語と今昔物語は日本文学の大きな山」 -
初めの、日本思想の土台についての話が一番面白い。
日本の思想というのは、政治と文学の中間の重なる部分にある。
また、西洋のように体系的、普遍的な思想というものを持たず、
能、茶、詩など個別、具体的な思想しか持ってこなかった。
途中から古典、宗教、哲学、科学技術あらゆるものに触れていく。
最終章で『現代の超克』というところになると、
相当抽象的な話が出てくるため、
三人が持つバックグラウンドがないと辛い。
最後の段で、危ない所で生きるというタイトルが出てくるが、
それこそテクノロジーが発達して、過剰が鍵となる現代での
人間の生き方なのかなと感じた。 -
難解な哲学思想なので、20%も理解できていないと思いますが、、、
日本には能であるとか、和歌であるとか、お茶、お花といった個別の芸能的、技術的な思想が発達したものの、ソクラテス、プラトン、アリストテレスといったギリシャ思想史の発展に比べて、「日本人には体系的な思想がない」。日本文学はドストエフスキーやニーチェなんかと比べると、「思想的に希薄だ」という結論。
ただ日本人は自然を重視する思想を本来的にもっている。ギリシャ哲学は自然から人間へという方向がある(だからギリシャの自然は破壊された)のに対し、日本の思想はその逆で、人間から自然へという方向があって、米作とか縄文文化とか、聖徳太子とか親鸞とかに、日本人の思想の遺伝子がある。
自然中心主義の日本人の未来へのヒントは、インディアンとかアイヌとかアボリジニーの思想のなかに、あるそうです。
人事院、若手行政官への推薦書。 -
錚々たる面子。
三人の知見の深さに圧倒された。
特にキーになっているのが中沢新一。
彼は非常に巧みに二人の橋渡し役をこなしていた。
けれど、
この本で理解できたことといえば、
「まだ×100」ほどの自分の浅薄さくらいである。
果てしないなぁ。
というかまた「親鸞」出てきてたし。
どこでも湧いて出る奴め。
そうそう、
井上円了(母校である東洋大学の創立者)の話もちらっと出ていて、
仏教哲学者だということを初めて知った(もともと哲学館だったそうな)。
しかも妖怪について研究していて、
「妖怪博士」とか「お化け博士」とか呼ばれてた、だと!
いやぁ俄然興味が湧いてきたなぁ、井上円了さん。
もっとこっち方面でアプローチしてくれればよかったのに。 -
『日本人は思想したか』は、吉本隆明、梅原猛、中沢新一の3氏の対談。
話している内容が古事記から、親鸞、法然、柿木人麻呂、西田幾多郎、など多岐にわたって理解できる部分と理解できない部分がある。
ただし、3人がかみ合っているのがおもしろい。
自分として、おもしろいと思った指摘。
(1)吉本:「共同幻想」の中で、ヘーゲルは近代国家をモデルに作り、マルクスもそうした意味から少し翻って、たぶん国家が宗教の共同性や習俗の共同性と区別がつかなかった時代のことまで共同幻想の共同幻想の中に含めようと考えた。(p27)
(2)吉本:唯一ありうる倫理といえば、この種の問題はとても本質的と考えて、まず早急な結論づけはしないということが第一の重要性を持っている。(p68)
(3)吉本:同じ地名をふたつ重ねているような枕詞があると、それは先住の人たちと後住の人たちが同じような地域でさして争いもなく一緒にいたことを象徴するのだと思います。(p75)
吉本さんは、自分より一回り上の世代に大きな影響を与えたが、糸井重里さんが吉本さんの話を残そうという活動をしていて関心を持っていた。
もう少し、吉本さんの生の声で勉強したかったな。