ばかもの (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (220ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101304533

作品紹介・あらすじ

高崎で気ままな大学生活を送るヒデは、勝気な年上女性・額子に夢中だ。だが突然、結婚を決意した彼女に捨てられてしまう。何とか大学を卒業し就職するが、ヒデはいつしかアルコール依存症になり、周囲から孤立。一方、額子も不慮の事故で大怪我を負い、離婚を経験する。全てを喪失し絶望の果て、男女は再会する。長い歳月を経て、ようやく二人にも静謐な時間が流れはじめる。傑作恋愛長編。

感想・レビュー・書評

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  • カラダのことばかり、酒のことばかりの前半と、情景を見つめたり、心の通じたやりとりをしたり、弱さを受け入れたりする後半。コントラストが美しい。

  • 現実に向き合えずに
    (否、まともに向き合いすぎた?)
    アルコールに溺れる主人公と、
    そんな彼に対しあくまでも優位な立場にあろうとする
    ドライな年上女性との、
    壊れたぜんまい式ブリキのおもちゃみたいな、
    滑稽で悲しく、美しい、恋愛の物語。


    この人の文体の力強さはいったいどこから来るのだろう。
    腕っ節の強さをそのままペン先に反映させたみたいな、
    清々しく、衒いの無い文章。
    そしてそんな強き者のみが持ちえる
    弱き者、ばかもの達に対する、決して憐憫ではない
    ベタベタとまとわりつかないさらっと渇いた愛情。
    実際絲山氏がそんな強き者なのか否かは知る由もないが、
    少なくともこの物語の作家としての氏は、
    そんな深い愛に満ちているように思える。


    「くそたわけ」では躁うつ病患者の物語を
    淡々と落ち着いた筆致で描いていたが、
    本作ではアルコール依存症について、
    丁寧に、しかし物語に必要な分だけ描いている。

    「否認の病気」?
    誰だってそうでしょ?
    そう、結局誰もが「ばかもの」であり、
    それ故、愛すべき存在のはず。


    二人はやがてそんな境地に至り・・。

  • ダメと分かっていながらも、行き場のない思いに潰されてお酒に手が伸びる悪循環が重苦しい。でも後半に入って、信じてあげようと言う額子と、容易じゃないと言うヒデ、このふたりを思うに、人は誰しも時間とともに変わり続けるものなのだろうと感慨深くなる。

  • とっても良かったです。この作家さんは前から読みたいと思っていて、今回、はじめて読みましたがとてもいいなぁ、と思いました。作中でてくる
    『容易じゃねぇなあ』というのがとても私には渋く、ある意味この作品に収斂していく表現かなぁと思ったりしました。この作家の作品を他を読んでみようとおもつています。

  • かつて愛した女・額子に下半身丸出しで木に縛り付けられ「私結婚するから、じゃね」とあっさり捨てられた青年ヒデが、アル中社会人生活を経て、片腕を失ったかつての恋人額子と再会を果たす物語。

    だいぶ端折りましたが、大筋はこんな感じ。ざっくり書くと本当カオスな物語だな……。

    moratoriumを経て社会に出たものの、アルコール依存症になってしまい、恋人も友人も失う顛末が、「そりゃまああんた自業自得ですわね」と若干鼻白らむんですが、なんとか踏ん張って断酒するヒデの独白が、元カノ額子を思い出すでも感傷に浸るでもなくアッサリしてて、なんか無性に読み心地が良い。

    額子との再会も、ドラマチックではなく淡々としていて、だけどどこかぎこちなさが伝わる2人の様子に、ちょっぴりじーんとしたのでありました。

    ラウンドアバウト(迂回)してようやく邂逅を果たした二人。どうか不器用な彼等の前途が、少しでも困難が少ない道程でありますように。

  • これ嫌な人は嫌かもしれない。いきなりエロエロで始まるし、主人公の男は超絶馬鹿で同情の余地もないし。
    10代の頃に出会った年上の女性にドロドロにはまった挙句捨てられて、それ以降の彼の人生を追ってそのどうしようもなさを追体験出来る本です。
    転落っぷりが妙にリアルでエロから始まった本のはずなのに、段々苦しい気持ちになって来て、中盤まで読んだときにはこの馬鹿男の友達になったような気分になっていました。
    男女の情愛を書いた本ですが、これをどういう風に読むのかは人それぞれという気がします。でも私にとっては非常に刺さる本でありました。私はこの男のような要素はどちらというと無く、無難な生き方をする人間なのですが、それでもこういう本を読むと人生って一度きりなんだなあとしみじみ思いました。

    酒、博打、女、薬物に嵌って人生台無しにする人は心が弱い、と思ってしまいます。実際そうなのではないかと思っていますが、その人間の弱さが極めて文学的です。強くて自分の道をまっすぐ歩いていく人の話はどちらかというとエンターテイメントですもんね。
    絲山さんの本はやはり純文学なので、人の弱さにスポットを当てた作品が多いのでしょう。

    これ、絲山さんの本の中で現時点最も好きです。

  • (以下、ネタバレ気をつけていますが、核心に触れるセリフを引用してしまっています)

    「沖で待つ」もそうだったんだが、わたしにとって絲山秋子の小説は、ある程度歳を重ねてきたからこそ共感できる、という部分がある。主人公は若者なのに・・・

    年上の女性にドはまりしたあげくに振られ、大学で落ちこぼれていつしかアルコールに溺れる。
    自信満々(単に世間知らず)なだけの若いときの自分なら、こんな「ダメ人間」には感情移入できかなったと思う。

    「たぶん俺はずっと誰かに甘えたい男なのだ。でもそれはこういう形じゃない。もっと、誰も不幸にならないような甘え―――そんなことは可能なのか」

    「俺は、かつて自分をアルコールに駆り立てたものが、『行き場のない思い』だったことを理解している。アルコールだけではないだろう、今までやってきたことの殆どすべてが、『行き場のない思い』から発している」

    今だって、こいつ甘ったれたやつだな、と思って読んでいる。が、「ま、わからなくはないけどさ」とも思っている。

    だからだろうか、ラストシーンの川の水の冷たさが、得も言われぬさわやかな後味を伴って胸の中に広がるのだ。

  • この本に出てくる人間たちは、ひとりなのにひとりでない。何か自分を補完するものを必要としていて、寄りかかる”自分”というものが欠落している。そんな、自分という枠の中がスカスカで、何かをその“スキマ”に詰めないと固い”自分”が存在できないような脆い人々の話だ。私たちの心の中の弱い部分をそのまま抜き出したような人々だ。そんなどうしようもない弱さを「ばかもの」と一蹴されるような、物語にすると滑稽だろうと嘲笑うかのようなタイトルなのだこれは。

    主人公ヒデは額子を失ったことで、次第にアルコールへと依存していく。寄る辺ないネユキは、失恋を機に宗教団体に依存していく。スキマを何かで埋めなければならないからだ。「行き場のない思い」というのは、このスキマがスースーしてしまう喪失感とそれを何かで埋めたいという個の完成への欲求だ。彼らは真の意味で自分自身と向き合うことができない。そのスキマに詰まったものに個が左右されてしまうからだ。そしてネユキは個を侵されて崩れていく。

    額子は物理的に自分の一部を失ったことで、ヒデやネユキが抱えたのと同じ“スキマ”を身体的にも精神的にも抱えることになった。そのスキマを埋めたのはヒデだ。そしてヒデは、“想像上の人物”によって額子の両腕を感じることができるようになる。“想像上の人物”は額子の身体的スキマを埋めたのだ。「俺は今、想像上の人物を必要としていないのかもしれない」最後にヒデは思う。ヒデのスキマは額子の両腕によって満たされた。そして額子へ「ばかもの」と言えるようになるのだ。

    絲山秋子の小説自体にも不可思議なスキマがある。一見奇想天外に見える急展開だったり、不自然な語感のセリフだったり。“想像上の人物”はそんな物語のスキマも埋める働きをしているように思う。スキマの補完として描かれる“想像上の人物”は、きっと私たちが抱えるスキマにも気付かないうちにそっと寄り添ってくれているのかもしれない。人生のありとあらゆる物事が、自分の想像に依っているのだから。

  •  アル中ヒデの恋愛物語。これで終わってしまう人も中にはいるのだろうけど、どうしてだか、私の中ではこの本はそう簡単に終わらせることはできず、むしろずっと心に確かな余韻を残していった、好きな本になってしまった。

     額子に振られたのを境にヒデは徐々にアル中への道へと逸れていく。ヤマネも宗教の道へ。額子は額子でまた辛さを抱え、一番まともで一番幸せをつかんで良いはずの翔子は、一番厄介なヒデが重荷となる。

     ヒデの中には常に理想となるある女性が目の前に現れていて、ことごとくその女性が顔を出す。ある時を境にそれは消えてしまうのだけど、それはその人を必要としなくなったから…現実にその人に代わる安心を得たから。そう、私は思っている。

     その人自体は変わってないけど、その人がいることで得る特別な安心感や、安らぎというものは確かに存在する。たぶんヒデにとっては彼女がそうだったんだなって思えた。

     ばかものって、意外に愛のある言葉なんだと思う。

  • アルコールに依存して完全に駄目になり孤立した男が、それからまた誰かとともに生きようと再生するお話。主人公は普通より数倍どうしようもない人間だけど、そのどうしようもなさは等身大でありとても共感できる。なぜ等身大であるかというと、主人公の生まれや環境に特別な不幸や不自由がないからだと思う。学生時代の彼女とセックスの後に缶ビールを飲む習慣が別れた後もなんとなく残り、次第に飲む量が増え、いつのまにか依存症になっていた。それだけなのである。私もこの主人公となんら変わらない。多くの一般的な人の生活と近い延長線上にある。だからこの小説は広く共感を呼ぶ力があるのではないかと思う。

    読んだ方はわかる通り、主人公が断酒する決定的なきっかけになったのは結局交通事故なんだよね。これを読んで人が自力で変わるのは本当に難しいということを改めて考えていた。意志の力がすべて虚しいというのではなく、それほどの強い意志を持つというのは現実的にはとても困難だということだ。人は外部に頼らないと生きていけない。だからこそ限りある出会いを大切にしなきゃいけないんだなと気づいた。酒や交通事故に頼ってしまうことにならないように。

    最後に、この作品から受けた感銘をこれ以上ない的確な言葉で綴った一文が解説にあったので引用します。
    ーーたがいに自己でありながら他者でもあるという経験をし、けっして完全な自己などありえないということを知って結ばれるふたりの関係は、思いやりと気遣いに満ちていて美しいーー。
    お勧めできる作品です。
    (ついでに言うと、この解説がなかなか興味深くて、歴史を背景にした文学史におけるこの作品の位置づけと新しさが簡潔にまとめられている。山田詠美『ぼくは勉強ができない』との比較も面白い。)

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著者プロフィール

1966年東京都生まれ。「イッツ・オンリー・トーク」で文學界新人賞を受賞しデビュー。「袋小路の男」で川端賞、『海の仙人』で芸術選奨文部科学大臣新人賞、「沖で待つ」で芥川賞、『薄情』で谷崎賞を受賞。

「2023年 『ばかもの』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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