老師と少年 (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社
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感想 : 85
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  • Amazon.co.jp ・本 (120ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101304816

感想・レビュー・書評

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  • 生きるとは。

    わたしも悩んだ一人だからこそ
    そして悩み抜いて
    自分の中で解決しているからこそ
    理解のできる1冊。

    子供ができて、悩む側の子だったとしたら
    いつか出会わせたい本。


    最後の1文。

    生きる意味より死なない工夫だ。

    に笑った苦さの分だけ、
    君は私を知ったことになる 

    の言葉が刺さった。

  • 友人に薦められた本。

    これは、星が5つでは足りない。
    挟まれた付箋紙の数がそれを物語っている。

    以下、ネタバレ







    「選べるからなのだ。選べるから、死ではなく、生を選ぶ。理由のないこの決断が、すべての善きことをこの世に作るのだ…そうだ、理由もなく生を選ぶ。それだけがこの世の善を生み、善を支える。」
    「生きていくことの苦しさと、生きていることの苦しみは違うのだ」
    「信じる」ということは、隠すことに過ぎない。<神>は永遠の夜なのだ。
    「理解できないことが許せないとき、人は信じる。信じていることを忘れたとき、人は理解する」
    「自分が自分であること、自分がいまここに生きていること、それを
    受け容れたい。ただそれだけの欲望が答えを求めるのだ。
    そしてこの欲望だけが、生きていることの苦しみなのだ」
    「他人に欲望されることで、自分を支え、生きていることを受け容れる」
    「この世にたった一つしか無いものは、だから大切なものなのか、だから
    無意味なものなのか、どちらだと思う?…本当に一つなら無意味だね。
    …でも、その一つが自分だと無意味とは思えない。だから人は苦しいのだ。」
    「大切なのは答えではなく、答えがわからなくてもやっていけることだと、
    彼はどこかで感じたのだ。」
    「生きる意味より死なない工夫だ」

  •  空海の『三教指帰』に登場する放蕩児(語り手の甥)が、儒教・道教・仏教を代表する3人の人物に説法を受け、最後に仏道に入るという筋書のように、老師が3人の人物に説法を受け、最後に道の人に導かれるという過程を少年に話すことによって、少年(読者)を覚りに導こうという試みですが、『三教指帰』と同じように、仏教についての基礎知識が乏しいものにとっては、かえって難易度が高い書物になっているような気もします。今私が躓いている、無我についての理解を促すような示唆があるものの、やはり頭だけで理解することは難しいと思いました。

     この『老師と少年』に続いて『なぜこんなに生きにくいのか』を読み始めました。仏教の神髄は、高僧の話だけを聞いても、学者の話だけを聞いても解りにくいのですが、南 直哉さんの本は、客観的な視点からの話なので、分かりやすいです。

     結局、仏教は、修行しないと分からないのか…と思い始めていましたが、南 直哉さんは『なぜこんなに生きにくいのか』で、変わりないのなら、例えば、1日5分座禅をすることを毎日続けるような、生活の変化で覚る?ことができると仰っています。

  • 禅の思想に基づく話。
    「この世にたった一つしか無いものは、だから大切なものなのか、だから無意味なものなのか、どちらだと思う?」の問答にはっとさせられた。
    文庫100ページ程ですぐ読める。とてもいいです。

  • なかなか就職できなくて悩んでいた青年がこの本を読んで何が吹っ切れたのか、何もかもが変わり不思議なことに見事就職できたという本である。ただ、その青年は数年後にはその就職した会社を辞めることになるのではあるが。

    その青年から久しぶりに会って話をしないかと誘われたので、この本を思い出して読んでみた。年老いた師が、少年の「生きるとはなにか。」「自分とはなにか。」という問いに答えるという内容である。もちろん、禅問答。

    わからないけどわかるということもある。それで元気づけられるということも。今の社会は生き物の生気を枯らすように枯らすように回り続けているようで時折こういう本を読んで元気を取り戻すことが必要だ。

    Mahalo

  • この本の著者、南直哉さんは、アスリートの為末大さんの『禅とハードル』を読んだときに知った。変わった人だと思う。おそらく、禅僧の中でも変わっているのではないだろうか。

    本人は、早稲田の文学部を卒業後、サラリーマン生活を経て永平寺に入門。20年の修行生活をした。現在は、青森県恐山の院代(山主代理)をされている。

    この本は、悩みをもっている少年が、老子と出会い会話をすることで自分の問いに迫っていく。たぶん、南さん自身の若いころをトレースしているのだと思う。

    「ぼくはどこに行くのか知りたいのではない。どこに行こうと行くまいと、死ぬとは何か、それが知りたいのです」

    「ぼくは考え続けていいのでしょうか。考え続けた方がいいのでしょうか」

    「それは幸福なことなのですか」

    「なぜ、ぼくはいつでもぼくなのでしょう」

    「すべてが虚無ならば、私はこの世界で、どうしたらよいのですか」

    少年の悩みは、彼の「問い」に対する「答え」が見つからないからだ。誰しもが抱いたことがある「問い」だろう。でも、大人になるにつれて、その「問い」を忘れてしまう。それに答えはないのだと、大人になるどこかでケリをつけるのだろう。

    本書は、その少年の切実な「問い」をもち続けることが大切だと教えてくれる。「大切なのは答えではなく、答えがわからなくてもやっていけることだ」と。「やっていく方法は自分で見つけるしかない」。そして、「生きる意味より死なない工夫だ」。そして、笑うことができることが大切なのだと。

    解説には、茂木健一郎、三浦じゅん、土屋アンナの3名が寄せている。茂木健一郎の解説はつまらない。土屋アンナの解説には共感が持てる。彼女が好きになりそうだ。(笑)

  • 自分にとってはあまり考えない、自分とは何か、生きるとは何かということ。
    ここまで悩むことがないから実感はわかないが、少年を諭す老師という関係に、自分もこういう指摘をしてくれる存在がいたらとうらやましく感じた。
    なんだかとてもいいお話に思え、心が温まった。

  • 極めて明晰。

    自分、というものを不定としたときに、色々な問いに答えるのが言語的に不可能になる。森博嗣の『笑わない数学者』の最後を思い出した。

    それでも、問いは生の問題としてあなたの前に立ち現れる。その時に、生きる意味より、死なない工夫、がプラクティカルに役に立つ。

    それは問いを妨げる誰か見つけることかもしれないし、問いを忘れさせる何かを見つけることかもしれないし、お風呂に入ってビールをかっくらうことかもしれない。

  • 読んでいると、とても静かな気持ちになる。
    そして、情景が浮かぶ。

  • 私は所謂世渡り下手な人間で、当たり前のことや、考えたって答えのない問題を
    うまく自分のなかで消化できないまま、ずっと生きてきている。
    特に生と死、その間に在る自分。
    何もかもが全部わからなくなることがある。

    「友」はまさにそんなまだまだ青い人間を見事に映し出している。
    また同時にこの本は、自分を見失った時に元の場所へ引き戻してくれる。
    例えば地位、名誉、財産、等々を失ったとして、結局最後に残るものは自分自身しかなく、だから自分が自分のことを一番分かっていたい。
    けど、分からない。だから葛藤する。

著者プロフィール

1958年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、大手百貨店に勤務。1984年、曹洞宗で出家得度、同年、大本山永平寺に入山。以後、約20年の修行生活を送る。2003年に下山。現在、福井県霊泉寺住職、青森県恐山菩提寺院代。著書に、『語る禅僧』(ちくま文庫)、『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『「問い」から始まる仏教――私を探る自己との対話』(佼成出版社)、『老師と少年』(新潮文庫)、『『正法眼蔵』を読む――存在するとはどういうことか』(講談社選書メチエ)、『出家の覚悟――日本を救う仏教からのアプローチ』(スマラサーラ氏との共著、サンガ選書)、『人は死ぬから生きられる――脳科学者と禅僧の問答』(茂木健一郎氏との共著、新潮新書)など多数。

「2023年 『賭ける仏教 出家の本懐を問う6つの対話』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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