エデン (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (318ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101312620

感想・レビュー・書評

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  • 『ここは、この世でいちばん過酷な楽園だ。過酷なことはわかっているのに、自転車選手たちは楽園を目指し続ける』

    『楽園』という言葉からどんなイメージが思い浮かぶでしょうか?”地上の楽園”という言い方があるように、それは”苦しみなどなく、楽しさにみち溢れた場所”。そんなイメージが思い浮かびます。日常の大変な毎日に疲れた目に、ふっと浮かぶ幸せに満ち溢れた場所、それが多くの人にとっての『楽園』のイメージではないでしょうか。その一方で、人によって何を幸せと感じるかはマチマチです。あなたにとって、あんなことが?そんなことが?と思えるようなことに幸せを感じる人もいます。幸せとは人の数だけある。人の数だけ幸せがある。そう考えると、そんな幸せな場所の象徴である『楽園』も、必ずしも同じとは言えなくなります。あなたにとって、あなたから見て、それは単なる苦痛に過ぎない、むしろ地獄だろう、と思えるような場所に幸せを感じる人だっているかもしれません。この世はそれほどまでに多種多様、人の世とは本当に面白いものです。

    さて、ここに『三週間の間、三千キロ以上の道のりを走り続ける』場所を『楽園』と考える人たちの物語があります。『楽園に裏切られる者も、楽園を裏切る者もいる。楽園を追われる者も、そしてまた舞い戻ってくる者も』いるというその『楽園』。それは『まぎれもない楽園で、自転車選手たちは誰もがこの場所を目指すのだ』という自転車ロードレースをする人たちの『楽園』をそこに見る物語です。

    『ぼくがその話を最初に聞くことになったのは、単なる偶然の結果だった』という物語の始まり。『もっとも、噂は少し前から流れていた』、そして『少しずつチームを侵食していた』という現実。ある夜、『監督のマルセルに誘われて、ブラッスリーでムール貝を食べていた』という主人公の白石誓(しらいし ちかう)。『同じテーブルにはチームメイトのフィンランド人、ミッコ・コルホネンがいた』という夕食の場を囲む三人は『本拠地はフランス北部のアミアン』にあるという自転車ロードレースのプロチーム、パート・ピカルディの監督と選手。『今日もミッコと一緒に百二十キロほど走ったあと、ふいに監督から夕食を一緒にとらないかと誘われた』というその場。そんな時監督の携帯電話が鳴りました。『短い会話』のあと、『携帯をテーブルに投げ出すと、ぼくとミッコを交互に見た』マルセル監督は、『ちょうどいい。聞いてくれ』と話を切り出します。それは『今期でスポンサーの撤退が決まった。これから次のスポンサーを探してみるが…チーム解散も視野に入れておいてほしい』という衝撃的な内容。それを聞いて『ぼくはまだ、日本に帰るわけにはいかない』と思う誓は、一方で『パート・ピカルディにきてから、まだまともに結果を出していない』と今までを振り返ります。『去年までいた格下のスペインのチームではそれなりに活躍できていた』、『アシストとしての仕事はしっかりしている』と考える誓。しかし、『大きなチームでは、ただアシストとして活躍するだけでは次の契約には繋がらない』ということに気づいたという誓。『ヨーロッパにいくらでも選手がいるのに、極東からの人間を雇うメリットはあまりない』という現実を踏まえ『正直なところ、ぼくは少し油断していた』とも思う誓。それは『契約は二年だから、まだ一年半残っている』ものの『チームが消滅するとなると話はまったく別だ』という目の前の危機。翌日、チームメイトのミッコとジュリアンと練習に出た誓。『昨夜はほとんど眠ることができなかった』という誓に、『どこのチームに行きたいとかはないのか?』と訊くジュリアン。『希望が言えるような立場じゃないよ』と答える誓に『日本企業をスポンサーに呼べよ。ジャパンマネーでさ』と言うジュリアン。そんな時、『すっと速度を上げて前に出た』ミッコは『ツールでステージ優勝しろよ。すぐに契約の話がくる』と言います。その言葉に『息を呑んだ』誓。『世界最高峰の自転車レース、ツール・ド・フランスはあと一週間後に迫っている』という今。そして『たしかにここでステージ優勝を遂げて名前を売れば、たぶん次の契約には困らない』と思う誓。そんな『ツール・ド・フランス』を舞台にした自転車ロードレースの物語が始まりました。

    『それまで全く興味のなかったその世界に、こんなにも奥深い世界が広がっているとは思いもよらなかった 〜「サクリファイス」さてさて氏レビューより抜粋』という興奮の中で結末を迎えた前作「サクリファイス」の続編という位置付けのこの作品。前作は、その最後に主人公の誓が『一ヶ月前フランスのプロチームから移籍の誘いがきた』という場面で終わっています。それを受けたこの続編は、その移籍後半年という連続した時間を舞台にしており、舞台こそフランスに移ってはいるものの全く違和感なく物語に入っていくことができます。しかし、そこに描かれるのは、主人公・誓が活躍する姿ではなく、『今期でスポンサーの撤退が決まった』というマルセル監督の衝撃的な語りに、物語は冒頭から緊迫した雰囲気に包まれます。『スポンサーを失ってしまえばなにもできない』というどんなプロスポーツにも付き纏う現実。そんな現実にどう立ち向かっていくかが、『世界最高峰の自転車レース、ツール・ド・フランス』を舞台に描かれていきます。

    そんなこの続編の「エデン」は、〈終章〉を除き国内を舞台にレースが繰り広げられた前作と異なり、全編にわたって舞台はフランスに場所を移します。『競輪ならまだしも、日本ではロードレースを知る人すら少ない』という我が国の状況と異なり、フランスはそんなロードレースのまさしく本場です。近藤さんは、そんな本場と日本の違いを物語の中で押さえていきます。例えば自転車に対する見方を、『ヨーロッパにきて、知ったことがひとつある。こちらでは、自転車はスポーツとしての位置づけしかない』と誓視点を上手く用いながら説明します。『日本の主婦や中高生のように、自転車を単に移動手段と捉えている人々はほとんどいない。だから、一万円台で買えるような安価な自転車などない』という本場の自転車の世界。私も、なにこれ!とそんな高級自転車を間近に見たことがありますが、同じ『自転車』という言葉が指すものであっても場所が異なれば価値観が全く異なることを理解しないと、ヨーロッパの人々が自転車ロードレースに熱狂する理由を理解することはできません。そして、そんな的確な説明は自転車ロードレースでも同様です。『自転車選手たちは一日、五時間以上自転車に乗る。歩いているよりも長い時間をサドルの上で過ごすのだ』と、なるほど!と感じるその競技。『ロードレースは脚力や持久力だけではなく、回復力を競うスポーツでもある』と、三週間を戦わなければならないその競技。そして、『ほかのスポーツと違い、競技中に会話をする時間もたっぷりある。チームに関係なく、気の合う選手とは自然に親しくなる』と、独特な試合運びが故のその競技の裏側を的確に描写していく近藤さん。今まで自転車ロードレースになんの興味もなかった私にも随分と知識がついたことを感じると共に、せっかくだからそんなレースをこの目で直に見てみたい!感じてみたい!という気持ちが沸いてきました。

    そんなこの競技は、日本からヨーロッパに舞台を移しても『サクリファイス=犠牲』という土台の上に成り立つスポーツであることに変わりはありません。『エースはアシストなしには勝てない』という言葉が示す通り、『エース』を勝たせるために奮闘する『アシスト』という存在がこの作品を理解する上ではとても大切になってきます。記録に残らずやがて歴史からも消えていく『アシスト』という存在。それを分かった上で、そんな立場に生きることを選んだ主人公の誓。そんな誓には、今のヨーロッパで戦うきっかけを与えてくれた『あの人』の存在がありました。『ぼくがここにいるのは、自分だけの力ではないのだ。ぼくに力をくれた人がいる』という前作で大きな存在感を示した『あの人』の存在。名前こそ登場しないものの、そんな『あの人』のことを『あの人なら、どちらを選ぶだろう』、『あの人だったら…どうするんだろう』と事あるごとに強く意識する誓。人生において誰にでも自分の目標とする人、憧れる人など、特別に意識する人はいると思います。こう書いている私にも、自分にとっての『あの人』の顔が思い浮かびます。そんな特別な人の存在は、意識すればするほどに、時と場合によっては意識する人間の行動までも変に縛ってしまう場合があります。しかし、そもそもその特別な人が、その場面で実際にどう行動するかなんて分かりません。また、その特別な人の意思に縛られ続けるのも違うと思います。何故なら、自分の人生は自分のものであり、それは自分が決めるべき事だからです。そして、人にはどこかでそんな呪縛から脱する時が訪れます。この作品の中で、そんな瞬間が誓にも訪れます。『気づきました。ぼくは彼ではない』と『あの人』を超えるその瞬間。誓が、また一皮剥けて成長した瞬間を見る物語の中盤。それは、迷いの消えた誓が独り立ちする瞬間であり、同時に前作を引きずっていたこの作品が、この作品の世界の中で羽ばたく瞬間を見るものでもありました。

    『そうは言っても、エースの順位だけ競うわけではなく、自分のリザルト(結果)も残さなくてはいけないわけですから、とにかく奥が深い』と語る近藤さんが描く自転車ロードレースの世界。それは、日本にいる限りなかなかに理解できない、異国の文化の土台の上にあるスポーツの姿でした。そんな世界に飛び込み、『もしかすると、ぼくにとって、これが最後のグラン・ツールになるかもしれない』というチーム消滅の危機の中、奮闘、奮戦する白石誓の自転車ロードレースへの強い思いが描かれるこの作品。

    『普通の人たちが、夢の中で歩いたり座ったりするのと同じように、ぼくたちは夢の中でも自転車に乗る』と、常に自転車と共にある日常を生きる自転車選手たち。そんな自転車選手たちにとっての『楽園』とはなんだろうと考える時、自転車ロードレース、そしてその最高峰である『ツール・ド・フランス』という夢の舞台がそこに煌めくのを感じた、そんな作品でした。

    • しずくさん
      何と言っても、自転車レースの作品は近藤さんの真骨頂ですよね。
      何と言っても、自転車レースの作品は近藤さんの真骨頂ですよね。
      2021/05/19
    • さてさてさん
      はい、サクリファイスもそうでしたが、アシストという役割に光が当たるのがとても印象深いです。シリーズ読破を目指したいと思います。
      はい、サクリファイスもそうでしたが、アシストという役割に光が当たるのがとても印象深いです。シリーズ読破を目指したいと思います。
      2021/05/19
  • 「サクリファイス」シリーズ第2作。
    海外移籍を果たした白石誓が挑むのは、あのツール・ド・フランス。
    3週間、3349kmにわたる、世界一過酷な競技。
    チームの駆け引きや協力などの臨機応変な作戦、平坦地や山岳、タイムトライアルごとの攻略法。風向や天候への対応。展開される人間ドラマ。複雑で深いからこそ心を捉える面白さ。これを近藤作品ならではのわかりやすさ、臨場感で描いています。
    「勝てるかどうかはわからない。だが、初めて知った。そのわからないことが希望なのだと。」
    「そうやって、夢は受け継がれて、ぼくのところにやってきた。」
    人はステージは違えど、いくつになっても何かを目指して生きていくもの。その何かに挑戦している人、挑戦したことのある人の心に刺さる言葉と出会える。日本人にとって「夢」ともいえるくらい遠い栄光に挑む白石誓だからこそ、読み手は幾度も心が揺さぶられるのだと思います。
    誓やその登場人物と走りきる3週間。
    忘れられない読書になりました。

  • やっぱり面白かったです。自転車に興味湧きました。信じることを頑張ってれば良いですよね。良い呪いってあります。

    • ちゃたさん
      とおさん、こんにちは。

      いよいよ次回は「サヴァイヴ」ですね。実はアナザーストーリーの「キアズマ」も面白いです。
      とおさん、こんにちは。

      いよいよ次回は「サヴァイヴ」ですね。実はアナザーストーリーの「キアズマ」も面白いです。
      2023/06/25
  • 前作「サクリファイス」からの続編だったとは知らず、こちらをはじめに読んでしまいました。


    サイクルロードレースは一般的な競技に抱く印象とは大きく異なっていました。
    チームプレー、さらにはチームを越えて協力し合うこともある。
    ミッコのように総合優勝を目指すエースもいれば、主人公のチカのように、エースアシストに徹する選手もいる。

    ツールは3週間も開催され、その時の天気やコンディションによって、状況が変化しやすい。
    強くなければ勝てませんが、強くても必ず勝てるわけではないのですね。

    2作目とはいえ、とても丁寧に背景が描かれており、ロードレースを全く知らない私でも面白いと感じました。
    次は1作目、その後は3作目「サヴァイブ」を読みたいと思います。

  • 前作エースの死から三年、誓は世界最高峰ツール・ド・フランスに挑む!

    今回も素人にも分かりやすかったですね♪
    もう走る姿が目に浮かびます(T-T)

    嫉妬、執念、ドーピング…

    ツール・ド・フランスですもの熱いです!
    3000Kmの人間ドラマに涙ですよ(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)

  • ロードレースシリーズ1作目の『サクリファイス』が気に入ったので、2作目『エデン』を読了、感動ー(^O^)
    サラッと読めるが、最後にはやっぱり泣かせてくれる程良いバランスが好き
    フランスのチームに所属している唯一日本人選手であり、謙虚で冷静に周囲を把握出来る性格のチカが、ロードレースの最高峰ツール・ド・フランスに挑む
    ここで結果が出なければ日本に帰らなければならなく、チームはスポンサーが撤退等崖っぷちの中
    その中での仲間や他チームの選手達との奥深い心理的な駆け引きや友情が描かれていて面白い

  • 日本から離れて海外へ。
    ツール・ド・フランスがどんな競技なのかよく知らなかったけれど、本の中で色んな見所が紹介されてて興味が湧いてくる。
    ロードレースの過酷さや駆け引きも面白かった。
    新しいエースとの絆やチーム存続の危機、ライバルとの友情があり楽しく読めた。
    次のステージではどんな話になるのかも気になる。

  • 『サクリファイス』に続く第2弾。

    主人公の白石は、走りの舞台をフランスに移し
    ロードレースの最高峰、ツール・ド・フランスに挑みます。

    といっても、“エース”というわけではなく、
    あくまで外様の“アシスト”として、ですが。

    それでも“クライマー”としての栄誉を得る機会もあり、
    この辺りは『弱虫ペダル』ともシンクロして興味深く。

    ところが、そんな華やかな舞台の裏で、
    一つの“影”の物語も同時に進んでいます。

    自転車乗りにとって“楽園(エデン)”であるはずの、
    ツール・ド・フランス、それは誰にとっての楽園なのか、

    アスリートとしての自転車乗りに、一つの問いが放たれます。
    さて、白石たちはそれにどのように応えるのでしょうか。

    結構根深いところをついているかなと、そんな風にも。

  • 感想
    白石の中で常にエースのアシストに徹するべきか、狙える時はトップを狙うかなど様々な葛藤が見てとれる。強いフィジカルだけでなく、正にメンタルと自己犠牲の精神が必要とされる世界。

    一度、生で観戦したくなった。

    あらすじ
    白石はスペインのチームからフランスの大きなチームに移籍していた。ツール・ド・フランスを目前にチームのスポンサー撤退が知らされ、この先の契約が真っ暗になったが、チームエースのミッコを勝たせるため、ツール・ド・フランスでの奮起を誓う。

    白石が所属するチームは、初戦からチームがチグハグだった。理由は、フランス人の新星のニコラを勝たせるために白石のチームもアシストとするという方針が示されたからだ。そうすることによって、スポンサー契約が存続されるかもしれない。どこの国も自国が勝って欲しい。そんな思惑が交錯する。

    レース中に、事故やアシストの離反、ドーピング疑惑や相手チームメンバーの死など様々なことが起こる。

  • サクリファイスにはまって、続編も読んで見る。
    話の流れから、レースでの爽快感を味わうことは少なかったけれど、面白かった。
    このシリーズから、弱虫ペダルに手を染めてしまい、今ひたすら寝不足・・・。
    チカが今の日本人選手の希望となって、それがまた次の選手に受け継がれていく、まさに総北魂!

    でも、まだ本物のロードレースは見てない。

著者プロフィール

1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。1993年『凍える島』で「鮎川哲也賞」を受賞し、デビュー。2008年『サクリファイス』で、「大藪春彦賞」を受賞。「ビストロ・パ・マル」シリーズをはじめ、『おはようおかえり』『たまごの旅人』『夜の向こうの蛹たち』『ときどき旅に出るカフェ』『スーツケースの半分は』『岩窟姫』『三つの名を持つ犬』『ホテル・カイザリン』等、多数発表する。

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