反哲学入門 (新潮文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (302ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784101320816

作品紹介・あらすじ

「形而上学」「私は考える、ゆえに私は存在する」「超越論的主観性」-。哲学のこんな用語を見せられると、われわれは初めから、とても理解できそうにもないと諦めてしまう。だが本書は、プラトンに始まる西洋哲学の流れと、それを断ち切ることによって出現してきたニーチェ以降の反哲学の動きを区別し、その本領を平明に解き明かしてみせる。現代の思想状況をも俯瞰した名著。

感想・レビュー・書評

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  • とても分かりやすい。今まで別個に見てきた哲学が繋がって、流れが見えてきました。こういうのが読みたかった。

    「全ての哲学はプラトンの注釈」と言われる訳も、ニーチェが何をしようとしたのかも分かるような気がします。

    哲学を見る目がきっと変わるでしょう。

    要約(自分用。細かい所の間違いは結構あるでしょう)
    ・哲学は西洋特有の思考方法
     哲学は「存在するものの全体(自然)」について考える
    →考えるため「自然」の外から眺める 
    「自然」の外に超自然的原理を想定
    (ex純粋存在、理性、精神)
    →「自然」を超自然的原理によって規定される無機的な材料とみなす
    →でも、現実の自然は絶えず変化し生きている
    →哲学は自然を殺して限定して否定する思考方法→自然に生きたり考えたりすることを否定

    ・ソクラテス以前の自然的思考
     自分を「自然」の中に想定しちゃんと眺める。万物=自然
     自然は自ずと「なりいでてあるもの」

    ・ソクラテス
     以前は知識欲旺盛ぐらいの意味だった「フィロソフィア」を、無知者が知を愛することと定義 
     自分は知を愛するだけで、何か具体的な知は持ってない。目の前にある全てを否定。腹の底には何もないのに皮肉をいう
     一節によるとダイモーン(ダイモニオン)から否定という使命を授かった?

    ・プラトン
     自然は(外にある原理によって)「つくられてあるもの」→自然の外にある原理としてイデアを想定
    机のイデア=机の理想的な姿
    形相=机のイデアを魂の目で捉えた=本質(エッセンシア
    質料=形相に沿って材料を加工して机をつくる=存在(エグジステンシア

    ・アリストテレス
    「自然は自ずとなる」自然観を受け継いだが、プラトンの「自然は作られた」思考も受け継いだ
    超自然的思考=形而上学=第一哲学
     純粋形相=すべての可能性が実現された存在。他のすべてを自分の方に動かすから「不動の動者」

    ・アウグスティヌス
     プラトンの2世界説を受け継ぐ。「神の国」と「地の国」。イデアは世界を作った神の理性にあった
     古代キリスト教義=プラトンーアウグスティヌス主義
    →後に、教会が腐敗して、「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」の2世界主義だと都合悪い

    ・トマス・アクィナス
     イスラーム経由で入ってきたアリストテレス哲学を教会付属学校(schola)が研究
     古代キリスト教義に代わる、アリストテレスートマス主義を創始
    →2世界は繋がっているので教会が世俗に介入しても問題なし
     この主義のものでは自然を有機的生命とみなす
    →しかし無機的、量的にみなす考えが登場→機械論的自然観へ(数学の利用
    数学は感覚から得られない→数学はどこから来た?自然の理解に数学を使っていいのか?→デカルトが解決

    ・デカルト
     人は理性を得て、近代的自我を獲得
    理性=人の中にありながら派出元は神
    正しく使えば世界構造を認識できる

    考えるゆえに私は存在する
    この「私」は肉体ではなく、理性、精神のこと。これらは神に由来するから存在するために他の何も必要としない「実体」

    精神の洞察するものだけが自然の真の姿であり、それは幾何学的に規定可能な空間的延長と機械的な物体の運動からのみなっていて、生命の質とか感覚などは無い
    →理性的な認識=数学的な認識
    →よって数学を自然の理解に使うのは必然。機械論的自然観と数学的自然科学の妥当性を証明

    プラトン以来の超自然的思考を更新
    →人間理性は自然を外から眺められる(人は自然の内に含まれない)
    理性の対象になりうるものだけが真に存在する(「主観/客観」の成立)
    →しかし背後には神の影響。本当に人間だけの理性を証明するのはカント


    ・啓蒙主義的理性
     神の後見を排した人間だけの理性→神、宗教だけでなく人間理性までも批判
    ベーコン、ニュートン、ロック→ヴォルテール、ディドロ
    バークリー、ヒューム:理性の認識効力を否定。すべては経験から得られる
    カント:理性をある範囲内に限定して効力を認めた
     

    ・カント
     神のもとの理性は正しさを保証されていた→しかし人間のみの理性だと限界がある→人間理性は範囲が決まってる!
     人が見る世界(現象の世界)は実際の世界(物自体)とは異なり、理性に合わせて作られている→現象の世界を理性で捉える限り、理性は間違わない
    そして人が理性でものを捉える過程は普遍的に定式化可能。(ex必ず時間や空間の中で考えるなど)
     人間理性は限られた範囲内で、神の後見なしに超自然的原理になった

    But道徳的実践の主体である人間にも、現象世界を適用すると、その行為は必然になり、道徳的責任を問えない!→信仰や道徳の範囲内なら物自体を考えてもヨシ! 
    →それを「意志」と言った=理性による現象界の判断様式に左右されず、物自体の世界で"自由"に生きようとする理性のもう一つの働き

    ・ヘーゲル
     カントが定めた理性の有限性を越えようとした
     人間理性(精神)は世界と関わることで互いに影響し合う→弁証法的な相互の働きかけ(労働)を通じて、理性は自分に歯向かってくる世界を精神が望む姿に変えていく(exフランス革命
    →物自体も思い通りに変革できる
     世界が完全に精神の望む姿になった時、精神は自由になる(絶対精神))
    →人間理性の超自然的原理化の完成
    「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」

    ・理性主義(理性万歳!の態度)への不信
     資本主義体制による搾取、フランス革命後の腐敗。理性は世界を合理的に変革できないのでは?

    ・ニーチェ
     プラトン以来の西洋哲学を否定(アンチプラトニズム=反哲学)
     カントの「意志」をショーペンハウアーを通して受け継ぎ、意志=生への無方向の欲望、衝動とした。理性よりも意志のほうが重要!

     デュオニソス的な無方向な生命衝動とソクラテス以前自然哲学の「生きて生成する」一定方向に進む生命衝動を融合した
    →「力への意志」=より大きな意志を目指して、計算高くがむしゃらに動くもの(ダーウィニズムの影響)

     現代はニヒリズム(無価値)の時代→なぜなら世界に意味を与える超自然的原理が力を失ったから(神は死せり)
     なぜ神は死んだか?
    →ありもしない超自然的原理をなんとか見つけようとして、本来の生を抑圧してきたから
     ニヒルから抜け出すにはもっとニヒルになれ!(超自然的原理を徹底的に否定しろ)

     ニヒルの解決法
    今までのプラトン的自然価値を破壊して、新しい自然の価値を設定する
    →生きた自然に内在する「生(力への意志)」が自然の価値

    価値=生の機能の1つ。すでに生が到達した現段階を確かめ、その高揚する先を見つめるための目安のこと。
    (まるで生が一方向に進んでいるかのような言い様)

    認識、真理は現状維持の生の機能である
    真理=生が現段階を確保し、安定して持続するために人間が捏造したもの。
    本当は生々流転する世界を無理に固定した
    →その固定するという働きが認識

    より大きい生と今を比べる機能
    =芸術(夢、陶酔に由来する生命そのものの衝動を表す)
    芸術の価値を表すのは美
     精神より肉体を重視
    芸術が生まれるのは肉体から→精神界の超自然的原理よりも肉体を通して自然即現実を捉える

    永劫回帰
     「力への意志」では、存在するものすべてが何かを目指すのではなく、結局自分に戻る

    限界
     ニーチェは生々流転(絶えず変化する)自然(存在)を目指しながらも、存在のあり方を「である」と「がある」に決めてしまっている
    →存在をありのまま見てない

    ・ハイデガー 存在について考察
     フッサールから現象学を学ぶ
     アリストテレス以降の哲学は存在を「作られたもの」(被造物)とみなす
     しかし自然は「なりいでてあるもの」(生成)→ソクラテス以前の自然観を重視
     存在と時間は密接に関係→ただ時間に流されて存在するor積極的に立ち向かっていく


  • この本を読まずして哲学を語ることなかれ。
    西洋哲学の見方が変わること間違いなし。

  • 本書は私の哲学の先生です。反哲学というタイトルに日本人でありながら西洋哲学を教えるということへの葛藤が表現されてます。教養として、ノートを取りながら読みました。

  • 哲学に反対している訳ではないので、タイトルを鵜呑みにしてはならない。ソクラテス・プラトン・アリストテレス直系の西洋思想源流を狭義の「哲学」とし、そうしたモノの見方をひっくり返したニーチェ以降の思想をして「反哲学」と言っている。そういう思想の入門書だが、主題(反哲学)を理解する前提である古来の哲学の概観だけでも十分に勉強になった。肝心の「反哲学」の部分は、解った気になりそうだけど、やっぱり難しいと感じてしまったのは、読者の力量の責である。普通?の一般向け哲学書物よりは、若干読みやすいとはいえ、遅々と何度も反芻しながら読み終えた。

  • タイトルから、アンチ哲学!とうたった本に勘違いされそうだが、そうではなくとても平易かつ内容の濃い哲学解説書。
    この本が言わんとする反哲学とはニーチェ以降の哲学のこと。
    プラトンに始まる西洋哲学は、キリスト教、神との折り合いをつけるために自然を無機的なものとして捉えてきた。ただしそれにより、近代は破滅的な状況に向かってしまったため、ニーチェが自然の考え方を捉え直し、以降にハイデッガーやポストモダン、構造主義が続いて今がある、という話。
    そのために、この本は主要な西洋哲学についてしっかりと書かれており、結果哲学入門といって差し支えない内容。
    日本人には分かりづらい哲学や理性といった概念を分かりやすく伝えてくれる。とはいえ、後半に進むにつれて一読しただけでは僕には理解が及ばない難しい題材も多く、これから何度か読み返して勉強したい本だった。

  • 哲学とはプラトンから始まる西洋固有の見方であり、日本では本当のところ理解しにくい、との出発点から、西洋哲学史が流れるように語られる。大変に興味深いく読めた。個別の哲学者の著作は読んでいても、なかなか俯瞰的な視点は得られないものだからだ。ニーチェ、ハイデガーに持ってくるまでが白眉か。仏教の縁起思想の位置づけを考える上でも参考になった。

    ・つくる、うむ、なるの三つで全ての神話が整序できる。
    ・丸山:つくるでなるを乗り越える。ハイデガー:なるでつくるをのりこえる。
    ・ソクラテスにあるのは知りたいという欲求であって、積極的に示すことはない。
    ・「書物の運命」
    ・デカルトの近代的自我は神的理性の出張所。
    ・神学、科学、哲学の調和の時代が17世紀の理性主義。
    ・ニーチェ、ヤスパース、ハイデガーは実存主義ではない。
    ・存在するものの全体を、生きておのずから生成するものと見、自分もその一部としてそこに包み込まれ、それと調和して生きる時と、その存在する者全体に<それはなんであるか>と問いかける時とでは、存在者の全体へのスタンスの取り方がまるで違います。

  • バートランド・ラッセルの『哲学入門』を読んだら、この「反」の方も読みたくなった。
    あまりにもわかりやすく哲学史(反哲学史)を説明してくれているのに何より驚いた。
    ものすごく大雑把に書くと、哲学というのはギリシャのソクラテス、プラトン、アリストテレスによって生み出されたものすごくローカルなもので、そのローカルなものがキリスト教とミックスされることで全ヨーロッパの学問の土台にまでなった。しかし、哲学というのは生成する「自然」(ピュシス)を否定することによって生じたすごく不自然な代物だった。
    そのことを指摘し、批判したのが古典文献学者として出発したニーチェだった。ここから、ヨーロッパにおいても「反哲学」、「自己批判」の歴史が始まった。
    何より痛快なのは、そんなローカルな出自を持つ学問だから、日本人に理解できなくてもそりゃ「当然 natural」だよ、と著者が考えている点。でもたまたまハイデガーを始めとするヨーロッパの哲学者たちが
    自己批判を始めたから、もともと自然とともに生きてきた日本人にもいくらか哲学を理解できるようになっただけさ、といった著者の毅然とした態度がうかがえるところもスカっとする。

  • 文庫で厚みもそんなになくサラッとした体裁の本ですが、とてつもない名著だと思います。倫理の授業で習ってもイマイチよくわからなかった「イデア」「純粋形相」「神」「理性」「精神」、、、これらが何であるか。第一章でいきなり書いてあって、ガツンときました。す、すげーーー!なぜ今迄誰もおしえてくんなかったの?ってくらいの驚き。

  • 「形而上学」「私は考える、ゆえに私は存在する」「超越論的主観性」―。哲学のこんな用語を見せられると、われわれは初めから、とても理解できそうにもないと諦めてしまう。だが本書は、プラトンに始まる西洋哲学の流れと、それを断ち切ることによって出現してきたニーチェ以降の反哲学の動きを区別し、その本領を平明に解き明かしてみせる。現代の思想状況をも俯瞰した名著。 (アマゾンより)

    一回書いたにも関わらず、まさかのデータが消えたので、要約は割愛して印象に残った部分だけを再度。

    入門書とはいえ難しい。そもそも、簡単であるということは、何かを捨象しているということである。
    「”簡単”であるということこそ、最も理解するのが難しい」という言葉を教えてくれた恩師もまた著者と同じハイデガー研究者であった。


    1、哲学は不治の病?
    著者は、「哲学という麻薬」という題の箇所で、哲学は不治の病であり、哲学から抜け出せないことは不幸なことであると述べる。すごい言いようだなと思ったが、これは「日本には哲学が存在しない」とった主張に対する批判であると同時に、哲学が生半可なものではないということ、一生をかけなければ分からない(もしくは一生をかけてもわからない)タフなものであるということなのだろうと感じた。
    当方は、大学二年に純粋理性批判の序文を読むのに2週間かかり、なおかつ20%も理解できずに哲学を専攻することを挫折したので、どうやら不治の病とならずに済んだようだ。

    2、日本には哲学がない。
    正しくは西欧的哲学は日本には存在しないということ。丸山眞男の「つくる」「なる」といった概念を用いて、日本では「つくる」のではなく、「なる」のパターンに分類される、と著者はいう。西欧が超自然的原理を想定し「自然」を単なる物質的存在と捉えるようになったのに対し、日本では、自然とは生きて生成したものであると捉えていた。glass is green(草は緑色である)が前者であるならば、glass greens(草は緑色を自ら発している)が後者といえる。
    だから日本には哲学がない、という主張は妥当である。ただ、だからとって悲観すべきものでもない。


    3、無知の知と愛の論理
    ソクラテスの「無知の知」は有名。ただその真意まで理解している人は少なく思える(自分も含め)
    愛する者は、その愛の対象を自分のものにしようとする。好きな人がいれば手に入れたいとみんな思うはずだ。すなわち、愛し求める者は、その愛する対象をまだ手に入れてない、ということになる。
    philosophyとは、知を愛することを意味する。知を愛する者は、いまだに知を手に入れることが出来ていない、持っていないからこそ、ひたすらそれを愛し求めるのだ、というのがソクラテスの愛の論理だそうだ。
    愛知者とは無知であり、無知だからこそ知を愛し求めるのである。
    この「愛し求める」の部分は新鮮だった。今まで無知の知は、自分の怠惰の言い訳にしている部分があった、たとえば知ったかぶるよりも知らないほうが偉い、みたいに。それも間違いではないのだろうけど、ソクラテスの意味していた「無知の知」は、「知を愛し求める」ことであり、知らないという現状に満足することなく、知を愛し求め続けることを意味していたのである。
    特に関係ないけど、愛知県の愛知はどこから来たのだろう。これが語源ならば、いいねを押してあげたい。

    「哲学」とそれを乗り越える形で生まれた「反哲学」のダイナミズムを感じることが出来た良書だった。

  • 哲学書の中では平易なのだろうか。自分には理解しづらい単語が多く、読むのに疲れた。だが、哲学者が思考した内容だけでなく、当人の生い立ちや時代背景も詳しく記されており、より解像度の高い理解につながった。

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著者プロフィール

中央大学文学部教授

「1993年 『哲学の探求』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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