記者になりたい! (新潮文庫)

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  • / ISBN・EAN: 9784101330723

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  • 記者になりたい! (新潮文庫) 文庫 – 2008/8/28

    この作品は、平成17年(2005年)5月新潮社より刊行された「子供にも分かるニュースを伝えたい」を改題した

    池上彰さんのNHK時代を綴った本
    2012年4月5日記述

    池上彰さんのNHK時代を振り返った本。

    記者になりたいというタイトルから分かるように記者を志望した理由。
    会社を受けた時のこと、実際に記者としてどのようなことをしてきたのか、などが詳しく書かれています。

    松江、呉、警視庁、文部省、キャスター、アナウンサー、など記者職以外の職種を経験され腕を磨いたことが今の池上彰氏につながっていると思った。

    本書を読むと記者へのこだわりが強く感じられる。
    (記者生活よりアナウンサー歴の方が長くなるのも本意ではなかったと本文にあった)

    しかし実際には記者職と関わるアナウンサー、子どもニュースでの解説などを通じて他の記者やマスコミ人には簡単にはマネできない境地に到達したのだ。
    複数のキャリアを重ねることの重要性を改めて実感した。

    今の時代ではこのような人事異動がNHKなどであるのかは分からないが・・・。

    1970年代から2000年代での当時のマスコミの雰囲気や仕事ぶりなどが実感できると思う。今では本文にあったポケベルもゼンマイ式カメラも信じられない気持ちだ。しかしほんの20〜30年前はそれが普通だったのだ。

    当時と今がいかに劇的に変化したのかも分かる。

    マスコミで記者を考えている人は記者職のこれまでを知るという意味で有意義な本だろう。
    そして未来の記者はどうなっていくのかを考え実践するときに何かの道標になりそうに思えてならない。


    2022/11/06(日)記述

    改めて本書を再読してみた。
    本書ははじめにで週刊こどもニュースを引退した場面から書かれる。2005年3月にNHKを早期退職した池上彰氏が自分自身の半生記として、自分史として、またキャリアの棚卸しとして本書を書いたのだろうなという気がする。
    もちろん題名通りに新聞記者、通信社記者、NHK記者、ジャーナリストを目指す人は是非読んで見ると良いだろう。1973年4月から2005年3月末までのNHK勤務時代が書かれていて当時の情景が見えてくるようだ。
    特に自分が持っている新潮文庫2刷版(2010年10月25日発行)の本カバーには2010年(と思われる池上彰氏と池上氏が若かりし頃の写真が掲載されていて時代を感じる)

    池上彰氏の著作の多くは電子書籍化されているのだが、本書は電子化されていない。
    本書も電子書籍化してもらいたいものだ。
    本書で書かれているが、「続 地方記者」という本を小学生の時に読み新聞記者を志したそうだ。本書はそんな若者、青年、子供の人生に影響を与える1冊であると言えよう。

    印象に残った点

    ぼくがNHKに記者として入り、記者の仕事をしていた期間は16年間。1989年(平成元年)からは、今度はテレビの画面に顔を出すというキャスターの仕事をやはり、16年間。記者とキャスターの期間が同じになってしまった。
    これ以上いては、「ぼくは記者でした」と言えなくなってしまうような気がしてきたのだ。
    それなら、組織を抜けて、フリーの一記者となり、改めて記者の仕事を始めてみたい。これが、ぼくの真意だった。

    小学生のころから本を読むのが大好きだった。食事の時間を忘れて本を読んでいて、母親から「本ばかり読むのはやめなさい」と怒られるほどだった。親に隠れて、こっそり本を読むこともしばしばだった。

    毎月親からもらうこづかいは、本代に消えた。

    そもそもぼくが大学受験のとき、東京大学と東京教育大学(現在の筑波大学の前身)は学園紛争が泥沼化し、大学入試が中止になっていた(東京教育大学の場合、体育学部だけは闘争と無縁で、入試は予定通り行われたが)。
    →竹中平蔵氏は大学受験の時に東大を受けられない為に一橋大学へ進学したという。1950年生まれ前後の人たちの大学受験期に多大な影響を及ぼした。

    当時の民放は、採用人数も少なく、そもそも一般公募の形で入社試験をするところがほとんどなかった。誰でも自由に受けられたのは、中部日本放送の一般職と、ラジオの文化放送のアナウンサー試験だけだったという記憶がある。
    そんな時、ある民放が、コネのある学生だけを集めて、こっそり試験を受けさせるという情報を得た。ぼくは、その会社の赤坂の本社まで、「せめて試験だけでも受けさせてください」と直訴に行ったものだ。しかし、人事担当者の声は冷たかった。
    「他にも受けさせて欲しいという学生さんが来ていますが、当社は、推薦を受けた人しか試験を受けられないことになっています」というものだった。
    ちなみに、この放送局は、十数年後、中堅社員が不足しているという理由で、中途採用を始めることになる。

    民放以外で一般公募をしているマスコミは、全国紙と呼ばれる大手の新聞社と通信社、それにNHKくらいのものだった。
    ぼくが就職準備を始めた1972(昭和47)年といえば、オイルショック直前の景気絶好調のころ。青田買いが盛んで、一般企業の採用試験は、大学3年生の冬休みくらいから始まり、4年生にもなると、周囲の友人たちは、次々に内定をもらっていた。しかし、新聞社、通信社、NHKの試験は4年生の7月からと決まっていた。
    マスコミ志望者は、「学校の成績が悪くて一般企業に就職できない落ちこぼれ学生」というのが、当時の通り相場だった。だから、一般企業よりずっと後に採用試験が行われるのは、当然のことと受け止められていた。マスコミが花形職業になるなど想像もできなかった。
    大手マスコミの採用試験は、7月1日が朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、共同通信、NHK。
    翌2日が日経新聞、産経新聞、時事通信だった。
    ぼくは、朝日新聞とNHKの両方に願書を出した。どちらを受けるか迷っていたので、どちらでも受けられるようにしたのだ。
    (中略)
    こうして、7月1日は、NHKの採用試験が行われた青山学院大学のキャンパスに向かった。
    (本書によるとあさま山荘事件の突撃場面がTV中継される事を見て、池上彰氏はこれからは新聞よりも放送の時代なのかもしれないと思ったのだという)

    当時のNHKの採用は、取材、制作、事務、アナウンスの4つの職種に分かれていた。技術部門は別枠だった。
    「取材」とは、記者とニュースカメラマンのこと。「制作」はディレクターだ。ぼくは当然のことながら、「取材」職に応募した。
    NHKの採用試験の当時の科目は、時事問題と英語、漢字の書き取り、そして小論文だった。
    小論文に出された題名は「創造」。何とも抽象的な題だ。抽象的すぎて、何とでも書ける一方、何を書いていいか迷ってしまうテーマでもあった。結局、「創造的な仕事をするためには想像力が必要だ」というようなことを書いた。考えてみると、創造と想像力で、何だか駄洒落みたいではある。
    学科試験に受かると、次は面接試験。会場は、当時のNHK放送会館があった東京・千代田区内幸町だった。
    最初の面接試験の試験官は、現場のデスククラスの記者たちだった。面接では、受験の際に提出した履歴書の趣味の欄に「読書」と書いてある点について、質問を受ける。
    「好きな作家はだれ?」という質問に、ぼくが「堀辰雄です」と答えると、「いまどき、そんな学生がいるのか」と笑われてしまう。さらに、「君も天地真理(当時の人気歌手)とか好きなわけ?」と尋ねられる。「はい」と答えると、試験官たちが「ついていけないなあ」という顔をする。
    試験官たちが「こいつ本当に記者としてやっていけるのかな」と疑い出した様子がわかる。
    「で、記者になったら、何をしたいわけ?」と、ここに至っては詰問調子になる。
    当時、長野県の南アルプスに「スーパー林道」を建設する計画に対して、「自然破壊につながる」と反対運動が起きていた。「この問題を取材したい」と答えると、それまで笑っていた試験官たちの顔の表情が引き締まる。「おや、こいつ、少しはものを考えているらしい」と見直してくれている様子がわかる。感触は悪くなかった。最初の面接試験の結果は、電報で知らされた。「二次面接に来られたい」という電報を受け取って、思わず父親と抱き合って喜んだものだ。

    「落ちた」と思ったのだが
    二次面接は、NHKの役員たちが面接官だ。ズラリと並んだ偉そうな人たちに、すっかり気圧されてしまった。
    「どうしてNHKを受けたいんだね」という問いに「民放ではできない番組が作れるからです」という、まあ、定番の答えをすると、「見てもいないくせに」と言われてしまう。
    「しまった、NHKの番組を見ていないことが、どうしてわかったんだろう」と焦る。
    ところが、その後の会話の進み具合がおかしい。どうも、「見てもいないくせに」という役員の発言は、「民放の番組を見ていないくせに」という趣旨だったようなのだ。
    なんたる錯誤。
    「NHKしか見ていない学生」がいると思っているんだろうかと、ちょっとおかしくなってしまった。
    でも、面接は総じて圧迫されるばかりで、満足な受け答えはできない。「これはダメだったな。落ちてしまった」と落胆して帰宅した。
    後になって知ったのだが、面接試験では厳しく受験生を追求し、受験生全員が、「これは落ちたな」と思ってしまうようにする、という手法があるのだそうだ。
    自分で「落ちたな」と思っていれば、実際に落ちても納得できる。「落ちたのは自分の力が足りなかったからだ」と納得し、自分を不合格にした会社に対して不満を抱かずにすむようになるというのだ。不合格にした人にも将来、自社のお客として商品を買ってもらいたいと考える企業の場合、こういう面接法を採用しているところが多いようだ。
    自分では「落ちたな」と落胆していたところに合格通知が来れば、喜びもひとしお。
    「この会社のために頑張ろう」という気にもなるわけだ。
    その半面、自分では合格したつもりになっているのに不合格通知が来ると、「なんで自分は落ちたんだ。納得できない」という気持ちになって、自分を不合格にした会社に対する不満が残る、というわけ。
    ぼくが受験したとき、NHKがこの手法を採用していたかどうかは知らない。単にぼくが悲観的になりすぎていただけかも知れないのだが。
    翌日、合格通知が来た。自分では「落ちた」と思っていたから、喜びは当然倍加する。
    この合格通知も電報だったが、今度は配達されなかった。電報局から電話がかかり、「電報が届いていますので、読み上げます」と言われてしまったのだ。なんという手抜き。
    合格とは告げられたが、電報の現物が自宅に届けられることは無かった。記念になるべき合格通知は、手元に残らなかった。これには今でも電報局を恨んでいる。


    その年(1973年)NHKに採用されたのは約200人。大学・大学院卒が約100人、高校卒が約100人だった。

    記者は、事件現場で、警察が張った「立入禁止」のラインを越えて現場に近づくことができる。それはなぜか。
    それは、その記者が、視聴者や読者の代理人だからである。その特権が認められているのは、国民の「知る権利」を守るためのものであって、決して記者に勝手な振る舞いを許しているわけではない。
    その記者が現場を見ることができても、もし、その様子をきちんと視聴者や読者に伝えることができなければ、それは視聴者や読者の代理人としての役割を果たせないことになる。
    ひいては、国民の「知る権利」を守る仕事をしていないことになる。記者が的確な取材力・表現力を身につけることは、国民の「知る権利」の維持・発展のための義務なのである。

    日本の記者の養成システムは、アメリカとは大きく異なっている。アメリカの記者は、大学のジャーナリズム学科を卒業すると、まずは地方の小さな新聞社や小さな放送局に就職し、「なんでも屋」として働く。そこで仕事の基礎を学んだ後、もう少し大きな都市の会社に移る。やがてそこでの仕事ぶりが、ニューヨークやワシントンの新聞社や放送局の幹部の目に留まると、大都市にある別の会社に転職する、というキャリアをたどる。
    日本の場合、最近でこそ途中でほかのマスコミに転身する者も出ているが、多くの場合、ひとつの会社の中に留まって、地方勤務で仕事の基礎を学び、やがて中央勤務へ、というコースをたどる。
    また、アメリカにはジャーナリズム学科を持っている大学が多く、ジャーナリスト希望者の多くが、この学科で学ぶが、日本の場合、そういう学科は少なく、文学部や経済学部、法学部などを出てマスコミに就職するケースが多い。
    日本の企業の多くが大学での教育に期待しておらず、「会社に入ってから教育する」という方針を持っている。マスコミも同じことだ。

    新人たちを、どんな基準で配属しているか、ぼくには依然としてわからないけれど、その新人がどこに配属されるかによって、その人のその後の運命が決まることが多い。とりわけ、20代の半ばに数年間、長ければ6年は住むことになるわけだから、そこで出会った人と結婚する例が多い。NHKの場合、男性記者の妻の出身地を聞けば、その記者の初任地がわかる、と言われたものだ。ぼくも、初任地の松江で妻と知り合って結婚した。

    なるべく都会に行きたいという希望を出す者はいても、ぼくのように「小さな町へ行きたい」というような変わった希望を出す者はいない。人があまり希望しない場所を希望すると、こういう希望はすぐに叶うものなのだ。

    (島根県)松江駅でNHK松江放送局に電話すると、「自分で場所を探して来い」という返事。

    同じ列車に、同期のアナウンサーが乗っていたらしい。アナウンサーは先輩が迎えに来るのに、記者は、自分で探して来い、という指示を受ける。この待遇の違い。
    「記者とはそういうものだ」ということを、まずはここから叩き込まれるのだ。

    自動車免許の学科試験に落ちた
    (中略)試験問題の文章が大変な悪文で、実に曖昧だ。何通りにも解釈できる文章ばかり。文法的におかしな文章もある。そんなことばかりを気にしていたら、なんと学科試験に落ちてしまった。

    捲土重来を期した次の受験では、問題文のおかしさには目をつぶり、出題者が「正解」だと考えているであろう選択肢を選んでいったら、合格した。

    新人記者は警察担当から始まる
    理由
    取材する情報が豊富にあること。
    世の中の裏を学べること。
    取材力をつけられること。

    世の中のさまざまな異変は、まず警察に通報される。

    (警察への)取材のとき、決して、「変わったことはありませんか」という聞き方をするな、ということだった。それでは、相手が「ないよ」の一言で終わってしまい、話が先に進まない。「何かありませんか?」という類いの質問は御用聞きと同じだ。
    記者は御用聞きになってはいけない、というものだった。

    上辺だけの挨拶を交わしているだけでは、捜査員の信頼を勝ち取ることはできない。
    本音でぶつかり合うことで、自分という人間を知ってもらうしかない。
    これが取材の原則だった。

    「この記者は、情報を伝えても、情報源をしっかり隠してくれる」
    この信頼関係があってはじめて、捜査員は記者に話をしてくれるのだ。
    これは警察取材に限らない大原則だった。

    東京に住んでいると、夕刊が配られるのは当たり前だが、全国では夕刊がない地域もある。
    島根県もそうだった。全国紙ばかりでなく、地元紙にも夕刊はなく、中国新聞も、島根県内には夕刊を配達していなかった。朝刊と夕刊の内容を総合して編集しているので「総合版」と呼ばれる新聞が、朝配達されるだけだった。

    警察官というのは縄張り意識が強く、自分が捜査している事件に関しては、決してよその警察に連絡しようとしないという体質を持っている

    呉通信部でも「夜回り」取材はある。仕事場と自宅が近いので、自宅で夕食をとった後、取材に出かけることになる。ある晩、出かけようとするぼくを玄関に見送りに来た娘が「パパ、また来てね」と一言。
    ショックだった。呉市で生まれた長女は、そのとき2歳。父親がいつも自宅にいないものだから、自分の家にやってくる人、という認識だったのか。

    →この手のパパまた来てねという話は野口悠紀雄氏の戦後経済史(2015)という書籍にも当時の大蔵省で凄まじい超勤勤務を続ける野口悠紀雄氏が子供からまた来てねと自宅玄関先で言われたという話とほぼ同じ。異常な勤務時間をしていると家族だと認識されないというか・・・また来てねと言われているだけまだマシなのか・・

    「こんな悲惨なニュース、子供には伝えられない」ではなくて、「こんな悲惨なニュース、子供にはどう伝えたらいいんだろう」というように考えるべきなのだ。

    イラク戦争後のイラク国内での混乱が大きく報道されているとき、アフリカのスーダンでは、民族紛争による内戦のため、1年半で5万人もの人が殺されていた。でもこれは大きな扱いにはならなかった。
    ニュースというのは、極めて相対的なものなのである。
    そして、報道は間違えることがあるという、当たり前の事実だ。
    ・情報は「編集」されている
    ・ニュースバリューは相対的なもの
    ・報道は間違えることがある
    メディアに接するとき、以上の3点について、常に留意してほしいのだ。

  • とても読みやすく1日で読み終えてしまった。池上さんの実体験が多く載っていたことで、記者という仕事をよりリアルに知ることができた。記者志望の私にとってとても勉強になる本であり、私も記者という「正義の味方」として国民に真実を届けたいと改めて感じた。

  • 池上彰って、正義の人って感じる。

    政府、世論が国際情勢に煽られて右傾化する中で、
    平和やリベラルがバカにされる世の中で、
    警鐘を鳴らせる人。
    ちゃんと世の中を目で見て、わかりやすく伝えてくれる人。
    かっこいいなーと思ってた。

    そんな池上さんの記者になった背景、NHKでの記者人生、キャスター人生を読んで
    なるほど、こうして今の池上彰ができたのか、と。
    全然生ぬるくない。
    それなのに謙虚で、人をバカにしない姿勢、本当にかっこいい。ますます尊敬。

  • 著者の過ごした32年間に及ぶNHK記者としての半生を記したノンフィクション。ある意味『そうだったのか!池上彰』と言ってもいいかもしれない。報道・取材の現場で次々と困難が襲いかかる様は読み物として面白いし、池上お父さんの体験を通じて、世の中の仕組みやジャーナリズムに関する知識も学べる。お得感満載の一冊。

  • 池上さんなりの仕事の工夫が所々に書かれてあって参考になった。生涯勉強ですね。

  • 読みはじめて数ページで、「これは五つ星だな」と思わせる本。さすがに分かりやすくまとめられている。NHKの地方記者時代の話がほとんどだか、どのエピソードも面白い。来月、松本で某新聞社主催の講演会があるから、出かけてみるか…

  • その時々で自分に必要なものを選択して、そこで得たことを糧にして次へ繋げられることは、そう簡単には出来ないでしょう。池上さんに浮付いたところがないのは、こういうところだと思う。

  • 就職活動中のバイブルとなった一冊。記者とは何か、イメージがわきました。

  • 非常に参考になった。

  • 夢を語れる人間になりたい。
    多くの経験を積み、実績を残した人の手記はなんていっても説得力がある。現場に自分の足で赴き、ありありとその様子を伝える、自分の言葉で、自分の表現方法で。記者の魅力が詰まった一冊。

著者プロフィール

池上彰(いけがみ・あきら):1950年長野県生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、73年にNHK入局。記者やキャスターを歴任する。2005年にNHKを退職して以降、フリージャーナリストとしてテレビ、新聞、雑誌、書籍、YouTubeなど幅広いメディアで活躍中。名城大学教授、東京工業大学特命教授を務め、現在9つの大学で教鞭を執る。著書に『池上彰の憲法入門』『「見えざる手」が経済を動かす』『お金で世界が見えてくる』『池上彰と現代の名著を読む』(以上、筑摩書房)、『世界を変えた10冊の本』『池上彰の「世界そこからですか!?」』(以上、文藝春秋)ほか、多数。

「2023年 『世界を動かした名演説』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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