- Amazon.co.jp ・本 (145ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101371719
作品紹介・あらすじ
あたしってなんでこんな生きてるだけで疲れるのかなあ。25歳の寧子は、津奈木と同棲して三年になる。鬱から来る過眠症で引きこもり気味の生活に割り込んできたのは、津奈木の元恋人。その女は寧子を追い出すため、執拗に自立を迫るが…。誰かに分かってほしい、そんな願いが届きにくい時代の、新しい"愛"の姿。芥川賞候補の表題作の他、その前日譚である短編「あの明け方の」を収録。
感想・レビュー・書評
-
『ねえ、あたしってなんでこんな生きてるだけで疲れるのかなあ?雨降っただけで死にたくなるって、生き物としてさ、たぶんすごく間違ってるよね?』
厚生労働省の調査によると、1999年に204万人だった”うつ病等の気分障害”の患者数は、2023年には320万人と大きく増えているようです。全世界では3億2000万人を超えるというその患者数。人口が増え続けていることを加味してもその疾患の多さには驚きます。
『鬱』の期間、外に出ることもままならず、二十日間以上も自室に閉じこもるという日々の中ではさまざまな感情も渦巻いてくるのだと思います。
さてここに、『最近は鬱なんて言葉じゃ重いってことで「メンヘル」なんてかわいい呼び方をされてるけど、早い話が精神的に浮き沈みの激しい毎日を送っていますというわけだ』と語る一人の女性が主人公となる物語があります。『そういえば母は雨が降ると一日中部屋から出てこない人だった』と振り返る女性は『あたしも今は雨が降ると、ベッドからどうしても動けない』と続けます。この作品は、そんな女性が『セックスに持ち込んでそのままずるずる転がり込んだ』先の男性と同棲する物語。そんな女性の危うい日常を見る物語。そしてそれは、『きっとあたしにはあたしの別の富士山がどこかにあるってことなんだろう』と北斎の「富嶽百景」に思いを馳せる物語です。
『女子高生の頃、なんとなく学校生活がかったるいという理由で体中に生えてるあらゆる毛を剃ってみたことがある。髪の毛、眉毛、脇毛、陰毛。まつげと鼻毛はさすがに無理だった』というのは主人公の板垣寧子(いたがき やすこ)。『親には泣かれたし、先生には怒られたし、友達には心配されたり見て見ぬふりをされたし、狂ってるとまで言われちゃった』という寧子は『浮きまくった女子高生』だった過去を振り返る中に『テレビの電源を切』ると『ここ二十日間で』観たテレビ番組を思い出します。そんな中に『唯一よく覚えているのはあれだ』と、『葛飾北斎の「富嶽三十六景」について追究する番組』を思い出す寧子は『五千分の一秒のシャッタースピードで撮った写真が画の構図と寸分違わなくて奇跡!』という内容に『きっと「ザッパーン!」の瞬間は北斎にとって脳細胞がしびれるくらい強烈で鮮烈な刺激だったのだ』と思います。そんな寧子は、『一ヶ月前、バイト先のスーパーで』『男に気安くデートに誘われて、「こんな冴えないやつにすらなんとかなるかもと思われてるんだ」と思った瞬間から、鬱に入』りました。一方で、『その男のことが好きだったとかいう総務部の獅子唐の素揚げみたいな女』から睨まれ、『何もかもが嫌に』なる中に怒鳴ったことで『バイトをクビにな』りました。そんな時、『寧子、起きてる?』と同棲相手の津奈木に声をかけられます。三年前、バイト先の『女子が開いたコンパ』で知り合い、『セックスに持ち込んでそのままずるずる転がり込んだ』津奈木のマンションで『精神的に浮き沈みの激しい毎日を送っている』寧子は、『枕元の時計』を見て、寝てから十七時間半が経過していることに気づきます。『過眠。メンヘル。二十五歳』という寧子は、『過眠症の人間達が集う掲示板に「今日も起きられませんでした。十七時間半爆睡!鬱継続中でーす。死にたいぴょん(^O^)/」と書き込んでから、ベッドを抜け出します。『こたつの上の至るところに何か食べ物のカスらしきものがこびりついているし、部屋のあちこちにこの二十日間で新しく増えた本が積み上げてある』という居間を見て『何。あんた、部屋片づける時間とかないの』と言う寧子に『うん、今ちょっと忙しくて』と返す津奈木。そんな津奈木に『「あたし、今鬱だから」と言うと、津奈木は「うん」とだけ返事をしてこっちを見』ません。そして、『どっち食べたい?』と津奈木が買ってきた『牛丼とやきそば』を見せられた寧子は牛丼を選び電子レンジに入れます。次の瞬間、『何かが弾けるような衝撃があって突然視界がまっくらにな』り『なんでコタツ消さないの?』と怒鳴る寧子に『ごめん』と謝る津奈木はブレーカーを入れました。再び『あたためキーを押』したものの途中で『まだ全然温まっていない牛丼を中から取り出』した寧子。『特にこれが食べたかったわけでもないので、まあいいや冷たくてもという妥協』を選ぶ寧子。『自分という女は、妥協におっぱいがついて歩いているみたいなところがあって、津奈木と付き合ったのも当然のように妥協だった』と今の生活を思う寧子。そんな寧子の『メンヘル』な日常が描かれていきます。
“あたしってなんでこんな生きてるだけで疲れるのかなあ。25歳の寧子は、津奈木と同棲して三年になる。鬱から来る過眠症で引きこもり気味の生活に割り込んできたのは、津奈木の元恋人。その女は寧子を追い出すため、執拗に自立を迫るが…誰かに分かってほしい、そんな願いが届きにくい時代の、新しい’愛’の姿”と内容紹介にうたわれるこの作品。第135回芥川賞の候補作となり、2018年には、趣里さん、菅田将暉さん主演で映画化もされています。
そんなこの作品は兎にも角にも”キョーレツ!”です。”強烈”ではなくて”キョーレツ!”という書き方そのまんまにかっ飛んでいます。その理由はこの作品は全編にわたって『過眠。メンヘル。二十五歳』と自分のことを説明する主人公・板垣寧子の完全一人称視点で展開していくからです。では、そんな”キョーレツ!”な表現を幾つかご紹介しましょう。
まずは、『寝過ぎたせいで頭痛が地味に辛い』という『過眠症』の寧子の『十七時間半爆睡』から起き掛けの心持ちを見てみましょう。
『うめきながらバファリンを炭酸の抜けたコーラで飲んだあと、グラスをよく見ると黒い液体の表面にはリップクリームから溶け出した脂がテラテラ光って浮いていて、それだけで真冬の川に飛び込みたくなるほど気が滅入った』。
寧子はそんな滅入る気分をこんな思いにぶつけます。
『ああ、あたしの鼻からはがした毛穴パックを誰かに突き付けて不快な思いをさせてやりたい』。
しかし、次の瞬間にはこんな風に納得します。
『でももう三日も風呂に入ってないのは誰に抱かれるわけじゃなし、まあいい』。
あくまでも寧子の内心であって寧子がこんなことを考えているなんて誰にも分かりませんし、誰に迷惑をかけているわけでもありません。しかし、作品は全編にわたってそんな寧子の内面が吐露され続けるわけで、それは読者の心に直に飛び込んでくるとも言えます。これは、”キョーレツ!”です。そんな寧子は『鬱』状態にあります。つまり、読者は『鬱』状態の寧子の心の内を見ることができるとも言えます。さまざまに思いを深める寧子の表現を抜き出してみます。そこには『死』を希求する寧子の危うい姿が垣間見えもします。
・『みそ汁の具を買い忘れたことに気づいていい加減死のうと思ったが、床に置いてあった段ボールの中にマロニーが入っていたのを発見し、ぎりぎりで持ち直した』。
・『ねえ、あたしってなんでこんな生きてるだけで疲れるのかなあ?雨降っただけで死にたくなるって、生き物としてさ、たぶんすごく間違ってるよね?』
さらに次の表現では壊れていく寧子の内面が見えるようで思わず言葉を失います。『すでに溶けて凍結しつつあるスケートリンク状の道路を』一人歩く寧子…という場面です。
『ロマンチックな雪のイメージにはほど遠い、その野蛮で暴力的な音に合わせて、死ね、死ね、死ね、死ね、と一歩ずつ口の中で呟いてみる。なんで、自分が、こんなに、馬鹿みたいに、寝るのか、誰か、納得いく、説明を、しろ』。
独特な読点の打ち方によって、文章を読んでいても寧子の心の声が聞こえてくるようにリアルに文字を刻んでいきます。
『あれだけ、寝て、まだ、眠いって、あと、どれだけ、人生を、無駄に、することに、なるんだ』。
いかがでしょうか。私が読んできた作家さんの中では金原ひとみさんが描かれる世界に近いものを感じますが、自分ではどうにも抑えられないマイナス感情の渦巻きの中に読者を捉えて離さないこの作品世界。さまざまな思いが去来する作品でもあると思いました。
そして、この作品でもう一つ忘れてはならないのが、どこかで見たことがある、と言うより知らない人などいないであろう葛飾北斎さん「富嶽百景」の「神奈川沖浪裏」の有名な版画がピンク地で描かれているところです。よく見ると富士山の上空にハートのマークが二つ描かれているのがピンク地と合間ってなんだか可愛らしさを演出してもいます。どうしてこの版画がドーンと表紙になっているのか?それは、作品冒頭間もなくに寧子が見たテレビ番組の記憶として印象的に語られていくからです。寧子はその版画のイメージが現代科学で検証されていくのを耳にします。
『五千分の一秒のシャッタースピードで撮った写真が画の構図と寸分違わなくて奇跡!』
しかし、そんな説明を聞いても『ただの偶然って言葉で片付けてしまうにはあまりにも一致しすぎていて、とりあえずあたしはそこに説明できない何かがあったんだと思わずにはいられない』と考えいく寧子。そんな寧子は彼女らしい表現でこんな風にその感覚を描写します。
『きっと「ザッパーン!」の瞬間は北斎にとって脳細胞がしびれるくらい強烈で鮮烈な刺激だったのだ。ドーパミンがドバドバあふれてきちゃって、本当なら見えるはずのない光景がビガーッと脳裏に焼き付いたに違いない』。
この表現の独特さは『鬱』状態にある寧子の中に深く刻みつけられてもいます。そして、そんな場面を読む読者にも鮮烈に刻まれるものでもあります。そんな版画をピンク地で大胆に表紙に表現するこの作品。これはすごいです。
そして、そんなこの作品は上記した「富嶽百景」に付された二つのハートマークが象徴するように”恋愛物語”という側面でも見ることができます。三年前、コンパで『隣の席に偶然座ったのが眼鏡をかけてぼんやりしたこの男だった』という津奈木とある意味運命の出会いを果たした寧子は、当初『この男と付き合うことはねえな』と思い、二人の違いをこんな風に形容します。
『担任が正面から見た新幹線に似ていて勉学に励む気にならないという理由で高校を中退しかけるような、就職活動を尻が半分出そうな丈のスカートをはいて回って全滅しているような、どこにいっても浮いてしまう女』→ 寧子
『見るからに静かな場所を好むであろう草食動物』 → 津奈木
なんだか強烈至極な表現ですが、二人の違いがよくわかります。しかし、津奈木の部屋へと強引に上がり込み、『セックスを無理矢理迫った』先に『行くところがない』と寧子は居座り始めて三年が経過します。物語はそんな好対象な二人が同棲する日々を描いていきます。しかし、『恋愛っぽいことをしていたと思える時期は確かにあった』と寧子が過去を振り返る通り、そこに描かれていくのは、どうして津奈木が寧子のような”キョーレツ!”な女性との暮らしを捨てないのか、どこかお互いの存在を意識し合う関係性が継続していくのか、この不思議感が読者を物語に引きつけてやみません。そして、”キョーレツ!”な印象そのままに、物語はその勢いを一切失うことのない中に幕を下ろします。強烈な余韻を残すその結末に「生きてるだけで、愛」というインパクトある書名に込められた本谷さんの思いを強く感じました。
『地面を踏んでいるはずなのに足下には何もなくて、そもそもあたしの周りには触れるようなものが一切なくて、自分は何にもつながってないんじゃないかと甘っちょろい妄想で押しつぶされそうになるのだ』。
そんな不安感に苛まれ、『鬱』と共に生きる主人公・寧子の視点で描かれたこの作品。そこには、”恋愛物語”の一つの姿が見え隠れする中にさまざまに思いを深めていく寧子の姿が描かれていました。”キョーレツ!”な表現の頻出にインパクト最大級なこの作品。有名な「富嶽百景」のイメージが上書きされそうにもなるこの作品。
あまりにかっ飛んだ感覚世界の描写の中に、『鬱』という言葉がどこまでも重く響く、そんな作品でした。 -
えぇ、最近好みの本引きすぎでは…
とても好き…これに関しては主人公が同い年なのも少しあるかもしれない。
そして巻末の解説が詳しく、言いたいこともほぼ全て含まれてるから感想が書きづらい…笑
なんだか濃い小説だったなぁ。好きな表現目白押し。(時々会う、ずっと笑顔で話を聞けちゃう友達みたいな感じの)
劇作家の方の小説、と改めて言われるととても納得だった。
ひとにおすすめしたい、とはまた違うけど、大事にもう一度読みたい。 -
言葉選びや比喩が最高におもしろいです。
よくあるようなの恋愛小説とは違う、不器用な愛の形に感動しました。
生きるって、愛だ。 -
すごいよかった。
過眠症で鬱と躁を繰り返す主人公。
彼の優しさで生き延びてる感じだけど、2人の世界がしっかりあるんだなあ。
2人が穏やかに暮らせますように。 -
北斎の絵はピンクにしても素敵。
鬱で過眠症で無職の寧子は津奈木と同棲三年目。
津奈木の言動に絶えずイライラし、目下引きこもり中。そんな寧子の前に津奈木との復縁を狙う元カノ安堂が現れ、猛攻撃を仕掛けてきて・・・
安堂も大概だが寧子もひどい。メンヘラ祭りだわっしょいわっしょい。安堂により強制的に働かされることになった寧子だが、バイト先のヤンキーたちの懐の深さに救われ・・・ほっこりハートウォーミングな展開になるかと思ったら、ウォシュレット問題で心の鎖国開始・暴走という見事なメンヘラっぷりを見せつけてくれる小説。 -
主人公はほぼ私である。
20の頃から鬱→躁鬱になり、不眠と過眠をさまよった自分。あと2週間で誕生日を迎え、25になるタイミングでこの本を完読するのはタイミングが良すぎた。
主人公ほど激しい躁状態は感じたことないけど、自分が頭おかしいって思ったり、いつ良くなるのか分からないのも、バイトが続かない時期があったのも全部分かる、でも1個だけ違うのは私にはこんな彼氏はいなかった。いても病気のことは隠していたし、ここまで感情をぶつけられる(ぶつけざるを得ないのかもしれないが)相手がいることは素直に羨ましい。
-
この本の主人公のような一面って、誰でも持ち合わせていると思う。その程度の差かなと。
(自分は津奈木さんタイプの人間です。)
余談だけど、本編じゃない「あの明け方の」の舞台は自分が今住んでる所に程近いところで情景が浮かんできて面白かった、、 -
鬱だー、とか簡単に言っちゃうのはとても怖い事だと。
雨の日はベットから起き上がれなかったり、人の話が人一倍気になってしまったり、
人の感情に敏感で、自分の感情に鈍感な主人公のお話だと思う。
「いいな私と別れられて」その言葉に全て詰まってる気がした
主人公が見えてる世界は何色なんだろうか、と読みながら考えた -
自己完結した人間がここまで増えてしまった時代における、恋愛の不可能を描いた小説である。
自己完結した人間は、恋愛というシチュエーション抜きで世界に対して「閉じる」ことができる。だからわざわざ「二者完結」などという、メンドクサイ状態を他人との間に構築すら必要がない。
つまり、自己完結できる人間は恋愛をしないのである。
と、
あとがきのこの文章に、
軽く眩暈を覚えた、、、
板垣寧子のような
メンヘラではない
過眠症でもない
感情の起伏も激しくはない
でも、
時々ふと世の中の自分との間に
なんとも言えない大きな溝を感じ
急にこわくなり
今までのすべての自信が
なくなったように感じたり
突然なにもかもが嫌になり
コタツやあったかい布団や
なんの主張もないただやさしくて
ぬるいオトコのカラダに
埋れていたいと感じたり
硬くて冷たくて
なんの反応もない壁や床を
素手で叩き割りたくなったり
そんな、
わたしが自己完結してしまった今、
もう誰かと普通の恋愛は
出来ないのだろうか
もう私には恋愛は
必要ではないのだろうか -
これすげえ。
ゲロみたいな吐瀉文学。て言ったらぴったり。失礼か。
鬱だったときの、自分はいつか元通りになれるんだろうかとか、また「元気」になれる日が来るんだろうかとか、ぐるぐる考えても救われなくて、結局ひきこもるしかなくて、家を出ることはおろかベッドに寝転がってほんの少し見える空を見るしかなかった日々の気持ちを思い出した。
わかってほしいんだよなあ。そうじゃねえんだって。かわいそうでしょ?こんな自分。優しい言葉で満足できなくて、確かな未来がほしいとかじゃなくて、苛苛するし、体動かせばすぐ疲れるし、こんな状況に行き詰っちまって先の見えない自分に、自分と同じくらい苦しんで、理解しようとしてほしいんだって!!
どうしてこんなに息苦しいんだろう。
五千分の一秒で、自分は満足できるかなあ。
とにかくすごかった。真夜中に1時間ぐらいでぶああっと読むとすごい。
この作品は結構キョーレツだと思います。鬱で悩まれている方が読まれるとなると…う〜ん、どうでしょうね...
この作品は結構キョーレツだと思います。鬱で悩まれている方が読まれるとなると…う〜ん、どうでしょうね。余計に悶々とするような気もします…。「古本食堂」とか、同じ原田ひ香さんの「ランチ酒」とかの方が良いような気もします。個人的には、心が落ち込まれていらっしゃる方には村山早紀さんのファンタジーの世界がおすすめです。心が洗われると思います。もう少し手近では、青山美智子さんの最新作「リカバリー・カバヒコ」なども良いような気がします。人によってどういった世界観が良いのかはとても難しいです。
友人さんの方は上手く合致されたようで何よりです。
選書ってなかなかに難しいですね。
先輩は恐らくファンタジーも読まれると思うので、村山早紀さんのをお勧めしてみます!気晴らしの本が欲しいと言いつつもいつもヘビーなの読んでらっしゃるので心配ではあったんですよね。
選書本当に難しいので毎回さてさてさんに助けられてます、ありがとうございます。今回もお世話になります。
選書は本当に難しいです。人によってもどういう時にどういう作品が良いかは異なると思いますし。私個人としては気が滅入っている時に現実を直視するような作品や登場人物が悶々する作品は避けるかなあと思った次第です。ファンタジーに逃げる。特に私の場合、タイムスリップものがこの上なく好きなので、最近読んだ中では畑野智美さん「タイムマシンでは、行けない明日」で全てを忘れて没入しました。
音楽よりはハードルが低い気がしますが、それでも本をオススメするのも本当に難しいですよね。どうぞよろしくお願いいたします。