- Amazon.co.jp ・本 (145ページ)
- / ISBN・EAN: 9784101371719
作品紹介・あらすじ
あたしってなんでこんな生きてるだけで疲れるのかなあ。25歳の寧子は、津奈木と同棲して三年になる。鬱から来る過眠症で引きこもり気味の生活に割り込んできたのは、津奈木の元恋人。その女は寧子を追い出すため、執拗に自立を迫るが…。誰かに分かってほしい、そんな願いが届きにくい時代の、新しい"愛"の姿。芥川賞候補の表題作の他、その前日譚である短編「あの明け方の」を収録。
感想・レビュー・書評
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『ねえ、あたしってなんでこんな生きてるだけで疲れるのかなあ?雨降っただけで死にたくなるって、生き物としてさ、たぶんすごく間違ってるよね?』
厚生労働省の調査によると、1999年に204万人だった”うつ病等の気分障害”の患者数は、2023年には320万人と大きく増えているようです。全世界では3億2000万人を超えるというその患者数。人口が増え続けていることを加味してもその疾患の多さには驚きます。
『鬱』の期間、外に出ることもままならず、二十日間以上も自室に閉じこもるという日々の中ではさまざまな感情も渦巻いてくるのだと思います。
さてここに、『最近は鬱なんて言葉じゃ重いってことで「メンヘル」なんてかわいい呼び方をされてるけど、早い話が精神的に浮き沈みの激しい毎日を送っていますというわけだ』と語る一人の女性が主人公となる物語があります。『そういえば母は雨が降ると一日中部屋から出てこない人だった』と振り返る女性は『あたしも今は雨が降ると、ベッドからどうしても動けない』と続けます。この作品は、そんな女性が『セックスに持ち込んでそのままずるずる転がり込んだ』先の男性と同棲する物語。そんな女性の危うい日常を見る物語。そしてそれは、『きっとあたしにはあたしの別の富士山がどこかにあるってことなんだろう』と北斎の「富嶽百景」に思いを馳せる物語です。
『女子高生の頃、なんとなく学校生活がかったるいという理由で体中に生えてるあらゆる毛を剃ってみたことがある。髪の毛、眉毛、脇毛、陰毛。まつげと鼻毛はさすがに無理だった』というのは主人公の板垣寧子(いたがき やすこ)。『親には泣かれたし、先生には怒られたし、友達には心配されたり見て見ぬふりをされたし、狂ってるとまで言われちゃった』という寧子は『浮きまくった女子高生』だった過去を振り返る中に『テレビの電源を切』ると『ここ二十日間で』観たテレビ番組を思い出します。そんな中に『唯一よく覚えているのはあれだ』と、『葛飾北斎の「富嶽三十六景」について追究する番組』を思い出す寧子は『五千分の一秒のシャッタースピードで撮った写真が画の構図と寸分違わなくて奇跡!』という内容に『きっと「ザッパーン!」の瞬間は北斎にとって脳細胞がしびれるくらい強烈で鮮烈な刺激だったのだ』と思います。そんな寧子は、『一ヶ月前、バイト先のスーパーで』『男に気安くデートに誘われて、「こんな冴えないやつにすらなんとかなるかもと思われてるんだ」と思った瞬間から、鬱に入』りました。一方で、『その男のことが好きだったとかいう総務部の獅子唐の素揚げみたいな女』から睨まれ、『何もかもが嫌に』なる中に怒鳴ったことで『バイトをクビにな』りました。そんな時、『寧子、起きてる?』と同棲相手の津奈木に声をかけられます。三年前、バイト先の『女子が開いたコンパ』で知り合い、『セックスに持ち込んでそのままずるずる転がり込んだ』津奈木のマンションで『精神的に浮き沈みの激しい毎日を送っている』寧子は、『枕元の時計』を見て、寝てから十七時間半が経過していることに気づきます。『過眠。メンヘル。二十五歳』という寧子は、『過眠症の人間達が集う掲示板に「今日も起きられませんでした。十七時間半爆睡!鬱継続中でーす。死にたいぴょん(^O^)/」と書き込んでから、ベッドを抜け出します。『こたつの上の至るところに何か食べ物のカスらしきものがこびりついているし、部屋のあちこちにこの二十日間で新しく増えた本が積み上げてある』という居間を見て『何。あんた、部屋片づける時間とかないの』と言う寧子に『うん、今ちょっと忙しくて』と返す津奈木。そんな津奈木に『「あたし、今鬱だから」と言うと、津奈木は「うん」とだけ返事をしてこっちを見』ません。そして、『どっち食べたい?』と津奈木が買ってきた『牛丼とやきそば』を見せられた寧子は牛丼を選び電子レンジに入れます。次の瞬間、『何かが弾けるような衝撃があって突然視界がまっくらにな』り『なんでコタツ消さないの?』と怒鳴る寧子に『ごめん』と謝る津奈木はブレーカーを入れました。再び『あたためキーを押』したものの途中で『まだ全然温まっていない牛丼を中から取り出』した寧子。『特にこれが食べたかったわけでもないので、まあいいや冷たくてもという妥協』を選ぶ寧子。『自分という女は、妥協におっぱいがついて歩いているみたいなところがあって、津奈木と付き合ったのも当然のように妥協だった』と今の生活を思う寧子。そんな寧子の『メンヘル』な日常が描かれていきます。
“あたしってなんでこんな生きてるだけで疲れるのかなあ。25歳の寧子は、津奈木と同棲して三年になる。鬱から来る過眠症で引きこもり気味の生活に割り込んできたのは、津奈木の元恋人。その女は寧子を追い出すため、執拗に自立を迫るが…誰かに分かってほしい、そんな願いが届きにくい時代の、新しい’愛’の姿”と内容紹介にうたわれるこの作品。第135回芥川賞の候補作となり、2018年には、趣里さん、菅田将暉さん主演で映画化もされています。
そんなこの作品は兎にも角にも”キョーレツ!”です。”強烈”ではなくて”キョーレツ!”という書き方そのまんまにかっ飛んでいます。その理由はこの作品は全編にわたって『過眠。メンヘル。二十五歳』と自分のことを説明する主人公・板垣寧子の完全一人称視点で展開していくからです。では、そんな”キョーレツ!”な表現を幾つかご紹介しましょう。
まずは、『寝過ぎたせいで頭痛が地味に辛い』という『過眠症』の寧子の『十七時間半爆睡』から起き掛けの心持ちを見てみましょう。
『うめきながらバファリンを炭酸の抜けたコーラで飲んだあと、グラスをよく見ると黒い液体の表面にはリップクリームから溶け出した脂がテラテラ光って浮いていて、それだけで真冬の川に飛び込みたくなるほど気が滅入った』。
寧子はそんな滅入る気分をこんな思いにぶつけます。
『ああ、あたしの鼻からはがした毛穴パックを誰かに突き付けて不快な思いをさせてやりたい』。
しかし、次の瞬間にはこんな風に納得します。
『でももう三日も風呂に入ってないのは誰に抱かれるわけじゃなし、まあいい』。
あくまでも寧子の内心であって寧子がこんなことを考えているなんて誰にも分かりませんし、誰に迷惑をかけているわけでもありません。しかし、作品は全編にわたってそんな寧子の内面が吐露され続けるわけで、それは読者の心に直に飛び込んでくるとも言えます。これは、”キョーレツ!”です。そんな寧子は『鬱』状態にあります。つまり、読者は『鬱』状態の寧子の心の内を見ることができるとも言えます。さまざまに思いを深める寧子の表現を抜き出してみます。そこには『死』を希求する寧子の危うい姿が垣間見えもします。
・『みそ汁の具を買い忘れたことに気づいていい加減死のうと思ったが、床に置いてあった段ボールの中にマロニーが入っていたのを発見し、ぎりぎりで持ち直した』。
・『ねえ、あたしってなんでこんな生きてるだけで疲れるのかなあ?雨降っただけで死にたくなるって、生き物としてさ、たぶんすごく間違ってるよね?』
さらに次の表現では壊れていく寧子の内面が見えるようで思わず言葉を失います。『すでに溶けて凍結しつつあるスケートリンク状の道路を』一人歩く寧子…という場面です。
『ロマンチックな雪のイメージにはほど遠い、その野蛮で暴力的な音に合わせて、死ね、死ね、死ね、死ね、と一歩ずつ口の中で呟いてみる。なんで、自分が、こんなに、馬鹿みたいに、寝るのか、誰か、納得いく、説明を、しろ』。
独特な読点の打ち方によって、文章を読んでいても寧子の心の声が聞こえてくるようにリアルに文字を刻んでいきます。
『あれだけ、寝て、まだ、眠いって、あと、どれだけ、人生を、無駄に、することに、なるんだ』。
いかがでしょうか。私が読んできた作家さんの中では金原ひとみさんが描かれる世界に近いものを感じますが、自分ではどうにも抑えられないマイナス感情の渦巻きの中に読者を捉えて離さないこの作品世界。さまざまな思いが去来する作品でもあると思いました。
そして、この作品でもう一つ忘れてはならないのが、どこかで見たことがある、と言うより知らない人などいないであろう葛飾北斎さん「富嶽百景」の「神奈川沖浪裏」の有名な版画がピンク地で描かれているところです。よく見ると富士山の上空にハートのマークが二つ描かれているのがピンク地と合間ってなんだか可愛らしさを演出してもいます。どうしてこの版画がドーンと表紙になっているのか?それは、作品冒頭間もなくに寧子が見たテレビ番組の記憶として印象的に語られていくからです。寧子はその版画のイメージが現代科学で検証されていくのを耳にします。
『五千分の一秒のシャッタースピードで撮った写真が画の構図と寸分違わなくて奇跡!』
しかし、そんな説明を聞いても『ただの偶然って言葉で片付けてしまうにはあまりにも一致しすぎていて、とりあえずあたしはそこに説明できない何かがあったんだと思わずにはいられない』と考えいく寧子。そんな寧子は彼女らしい表現でこんな風にその感覚を描写します。
『きっと「ザッパーン!」の瞬間は北斎にとって脳細胞がしびれるくらい強烈で鮮烈な刺激だったのだ。ドーパミンがドバドバあふれてきちゃって、本当なら見えるはずのない光景がビガーッと脳裏に焼き付いたに違いない』。
この表現の独特さは『鬱』状態にある寧子の中に深く刻みつけられてもいます。そして、そんな場面を読む読者にも鮮烈に刻まれるものでもあります。そんな版画をピンク地で大胆に表紙に表現するこの作品。これはすごいです。
そして、そんなこの作品は上記した「富嶽百景」に付された二つのハートマークが象徴するように”恋愛物語”という側面でも見ることができます。三年前、コンパで『隣の席に偶然座ったのが眼鏡をかけてぼんやりしたこの男だった』という津奈木とある意味運命の出会いを果たした寧子は、当初『この男と付き合うことはねえな』と思い、二人の違いをこんな風に形容します。
『担任が正面から見た新幹線に似ていて勉学に励む気にならないという理由で高校を中退しかけるような、就職活動を尻が半分出そうな丈のスカートをはいて回って全滅しているような、どこにいっても浮いてしまう女』→ 寧子
『見るからに静かな場所を好むであろう草食動物』 → 津奈木
なんだか強烈至極な表現ですが、二人の違いがよくわかります。しかし、津奈木の部屋へと強引に上がり込み、『セックスを無理矢理迫った』先に『行くところがない』と寧子は居座り始めて三年が経過します。物語はそんな好対象な二人が同棲する日々を描いていきます。しかし、『恋愛っぽいことをしていたと思える時期は確かにあった』と寧子が過去を振り返る通り、そこに描かれていくのは、どうして津奈木が寧子のような”キョーレツ!”な女性との暮らしを捨てないのか、どこかお互いの存在を意識し合う関係性が継続していくのか、この不思議感が読者を物語に引きつけてやみません。そして、”キョーレツ!”な印象そのままに、物語はその勢いを一切失うことのない中に幕を下ろします。強烈な余韻を残すその結末に「生きてるだけで、愛」というインパクトある書名に込められた本谷さんの思いを強く感じました。
『地面を踏んでいるはずなのに足下には何もなくて、そもそもあたしの周りには触れるようなものが一切なくて、自分は何にもつながってないんじゃないかと甘っちょろい妄想で押しつぶされそうになるのだ』。
そんな不安感に苛まれ、『鬱』と共に生きる主人公・寧子の視点で描かれたこの作品。そこには、”恋愛物語”の一つの姿が見え隠れする中にさまざまに思いを深めていく寧子の姿が描かれていました。”キョーレツ!”な表現の頻出にインパクト最大級なこの作品。有名な「富嶽百景」のイメージが上書きされそうにもなるこの作品。
あまりにかっ飛んだ感覚世界の描写の中に、『鬱』という言葉がどこまでも重く響く、そんな作品でした。 -
えぇ、最近好みの本引きすぎでは…
とても好き…これに関しては主人公が同い年なのも少しあるかもしれない。
そして巻末の解説が詳しく、言いたいこともほぼ全て含まれてるから感想が書きづらい…笑
なんだか濃い小説だったなぁ。好きな表現目白押し。(時々会う、ずっと笑顔で話を聞けちゃう友達みたいな感じの)
劇作家の方の小説、と改めて言われるととても納得だった。
ひとにおすすめしたい、とはまた違うけど、大事にもう一度読みたい。 -
言葉選びや比喩が最高におもしろいです。
よくあるようなの恋愛小説とは違う、不器用な愛の形に感動しました。
生きるって、愛だ。 -
すごいよかった。
過眠症で鬱と躁を繰り返す主人公。
彼の優しさで生き延びてる感じだけど、2人の世界がしっかりあるんだなあ。
2人が穏やかに暮らせますように。 -
北斎の絵はピンクにしても素敵。
鬱で過眠症で無職の寧子は津奈木と同棲三年目。
津奈木の言動に絶えずイライラし、目下引きこもり中。そんな寧子の前に津奈木との復縁を狙う元カノ安堂が現れ、猛攻撃を仕掛けてきて・・・
安堂も大概だが寧子もひどい。メンヘラ祭りだわっしょいわっしょい。安堂により強制的に働かされることになった寧子だが、バイト先のヤンキーたちの懐の深さに救われ・・・ほっこりハートウォーミングな展開になるかと思ったら、ウォシュレット問題で心の鎖国開始・暴走という見事なメンヘラっぷりを見せつけてくれる小説。 -
主人公はほぼ私である。
20の頃から鬱→躁鬱になり、不眠と過眠をさまよった自分。あと2週間で誕生日を迎え、25になるタイミングでこの本を完読するのはタイミングが良すぎた。
主人公ほど激しい躁状態は感じたことないけど、自分が頭おかしいって思ったり、いつ良くなるのか分からないのも、バイトが続かない時期があったのも全部分かる、でも1個だけ違うのは私にはこんな彼氏はいなかった。いても病気のことは隠していたし、ここまで感情をぶつけられる(ぶつけざるを得ないのかもしれないが)相手がいることは素直に羨ましい。
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この本の主人公のような一面って、誰でも持ち合わせていると思う。その程度の差かなと。
(自分は津奈木さんタイプの人間です。)
余談だけど、本編じゃない「あの明け方の」の舞台は自分が今住んでる所に程近いところで情景が浮かんできて面白かった、、 -
鬱だー、とか簡単に言っちゃうのはとても怖い事だと。
雨の日はベットから起き上がれなかったり、人の話が人一倍気になってしまったり、
人の感情に敏感で、自分の感情に鈍感な主人公のお話だと思う。
「いいな私と別れられて」その言葉に全て詰まってる気がした
主人公が見えてる世界は何色なんだろうか、と読みながら考えた -
自己完結した人間がここまで増えてしまった時代における、恋愛の不可能を描いた小説である。
自己完結した人間は、恋愛というシチュエーション抜きで世界に対して「閉じる」ことができる。だからわざわざ「二者完結」などという、メンドクサイ状態を他人との間に構築すら必要がない。
つまり、自己完結できる人間は恋愛をしないのである。
と、
あとがきのこの文章に、
軽く眩暈を覚えた、、、
板垣寧子のような
メンヘラではない
過眠症でもない
感情の起伏も激しくはない
でも、
時々ふと世の中の自分との間に
なんとも言えない大きな溝を感じ
急にこわくなり
今までのすべての自信が
なくなったように感じたり
突然なにもかもが嫌になり
コタツやあったかい布団や
なんの主張もないただやさしくて
ぬるいオトコのカラダに
埋れていたいと感じたり
硬くて冷たくて
なんの反応もない壁や床を
素手で叩き割りたくなったり
そんな、
わたしが自己完結してしまった今、
もう誰かと普通の恋愛は
出来ないのだろうか
もう私には恋愛は
必要ではないのだろうか -
これすげえ。
ゲロみたいな吐瀉文学。て言ったらぴったり。失礼か。
鬱だったときの、自分はいつか元通りになれるんだろうかとか、また「元気」になれる日が来るんだろうかとか、ぐるぐる考えても救われなくて、結局ひきこもるしかなくて、家を出ることはおろかベッドに寝転がってほんの少し見える空を見るしかなかった日々の気持ちを思い出した。
わかってほしいんだよなあ。そうじゃねえんだって。かわいそうでしょ?こんな自分。優しい言葉で満足できなくて、確かな未来がほしいとかじゃなくて、苛苛するし、体動かせばすぐ疲れるし、こんな状況に行き詰っちまって先の見えない自分に、自分と同じくらい苦しんで、理解しようとしてほしいんだって!!
どうしてこんなに息苦しいんだろう。
五千分の一秒で、自分は満足できるかなあ。
とにかくすごかった。真夜中に1時間ぐらいでぶああっと読むとすごい。 -
過眠。メンヘル。二十五歳。
一行目からぶっ飛んでいて、寧子は懸命に毎日を生きていて、こんなこと言うのは本当に申し訳ないのだけど、特に最初の50ページなんかはどのページを開いても笑える。勢いがすごい。津奈木に対するあたりも理不尽すぎて草。
ブレーカーがすぐに落ちてしまって、落ちたブレーカーは自分ではあげられないわけよ。暗くてよく見えないし、どこにあるのかもわからない。小さな携帯の光を頼りに探さないといけない。落ちたブレーカーはいつも津奈木にあげさせる。すぐに落ちるから大変だ。アンペアを上げればいいのだけど、寧子のアンペアは電話一本で上げられるようなものじゃないし、なかなか難しい。でも寧子には「節電する」という考えはなくて、だからか、省エネな津奈木にもイライラしている。
いつも全力な寧子はすごいと思う。たしかに”エキ子”だとは思うけど、共感する(行動にではなく、感情に)。できるだけ人と争いたくない私は津奈木に近いけど。
五千分の一秒を通じ合ってわかりあうためには、北斎が富士山にした様に、津奈木は誰よりも寧子のことを分かろうとしなくてはいけなくて、最後の「本当はちゃんとわかりたかったよ」という過去形のセリフはきっとこの後に「全部わかってあげられなかったけど」みたいな言葉が続くネガティブな発言にみえるけど、寧子のことを分かろうととしたんだという発言でもあって、それがわたしには希望ある言葉に思えた。 -
普通の人と同じようにできない辛さとか、辞めるためにバイト始めてるわけじゃないみたいなところに共感して読んでた。
自分とは別れられないから、津奈木に対して「いいなぁ、私と別れられて」みたいな発言が出てくるのは苦しかった。
自分の中では当たり前の感情が他人に受け入れてもらえなくて、それは変だよって決めつけられるのすごい嫌。 -
何度読んでも20ページの「色気は生活に負ける」の一文の破壊力に圧倒される。わたしはこの文章を聞くためにこの本を定期的に読んでいるのかと思うほど。そう言えばしばらく前に映画も観たな。趣里が主演であまりにも適任だと思った。
たいして難しくもない献立を考えて材料を買いに行ったスーパーで突然どの種類の何を買えばいいかわからなくなってパニックに陥ったり、突然過去のことがフラッシュバックして詳細まで全部思い出して言葉にしないといけないような感覚になったり、帰宅後に味噌汁の具を買い忘れたことに気づいていい加減もう死のうと思った直後にマロニーを発見してギリギリで持ち直したり、幸せそうな地に足のついた人々と交流してもしかして今回はここでいけるかもと思った直後に情緒が暴走して手に追えなくなってやっぱり無理と全部放り投げて逃げ出したり。酔っ払ってバイト先のトイレを破壊したことはないけど酔っ払って合宿所の風呂を破壊したことはあったな。同じように不安定で自滅的な生き方しかできない男と共依存的に付き合っていた時期もあった。寧子の奇行の数々は程度の差こそあれわたし自身も身に覚えにあることがあまりにも多くて苦しくなるから目をそらしたくなるんだけど、そらすわけにもいかず、なんでだろう、でも結局そらせず、毎回最後まで読んでしまう。
たったひとつ寧子とわたしを隔てるものがあるとするなら、そういう鬱的な状況に陥りそうになったときにどうしたら立て直せるかが今までの経験上なんとなくわかっていて、それを本当にやばくなる直前に「しよう」と毎回必ず思うということだけだと思う。可能ならそういう最終段階的なところまでは落ちたくないと根底では思っているからそうならないために重い腰を上げなきゃいけないという謎の使命感がわたしの中にはずっとある。過去を振り返ってみるとわたし以上に寧子に近い行動・思考パターンをする人間が身の回りにいたから、それを間近で見てきたからかもしれない。
『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』も近々読もうと思ったけど、やっぱりもう少し先でいいな。次はなんか現実的な本読もう。 -
読むのにもエネルギーの必要な作品だった。無防備な心で読むと引き摺り込まれそうになる。
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2022年4月1日読了。
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鬱症状と多眠症を拗らせまくりの25歳『板垣寧子』
人数合わせとして参加した合コンで知り合った『津奈木景』のアパートに転がり込むようにして始まった同棲も3年。
寧子は家事も仕事も出来ず、寝てばかりで引きこもりの日々。
このままではいけないと焦りながらも、自分自身をコントロールする事が出来ずイライラが募り、毎度毎度何に対して怒っているのかも分からないまま津奈木に強く当たり散らしてしまう。
発行部数の少ないゴシップ雑誌ながらも編集長として働く津奈木は、多忙な日々の中でそんな寧子の言動を疎ましがる事も干渉する事もなく過ごしていた。
最早、お互いに何故一緒にいるのかも分からないような毎日を送る中で、突如、アパートに現れた津奈木の元カノ『安堂』
津奈木との復縁を望む安堂は、邪魔な寧子を追い出そうと執拗に迫ってくる。
寧子は出ていくにも金も仕事もないと抵抗するが、安堂に無理矢理にレストランでアルバイトをさせられる事に。
そこで出会った優しいスタッフ達となんとかやっていけると思った寧子だったが‥‥。
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初読みの作家、本谷有希子さん。
何がきっかけだったか忘れてしまったが、何冊か購入した中の一冊。
内容に関しては‥‥うーん、自分が読んでも共感出来る部分は無かった。
寧子ほど突拍子も無い症状の人がいるのかは分からないが、同じような症状で悩みを抱える人には考えさせられる作品なのかもしれない。
寧子はコントロールする事の出来ない自分の言動に悩んでいたが(思ってもいない事を言ってしまったり、全身の毛を全て剃ってしまったり、 トイレを破壊したり)
やりたいと思っても自制心が働いて我慢する人間からすれば、捉え方によっては自分に素直に生きる良い生き方と言えなくもない気がした。
でも、やはり自分もその状態なら悩んでしまうとは思うが。
文章に関しては、何とも『ジャンクな感じ』
ジャンクと言っても悪い意味ではなく、荒々しいというか粗暴というか力強さを感じる。
きっと他の作品もこの感じの文章なんじゃないかと推測するけど、嫌いじゃないので何冊か待機している著者の本を楽しみにしたい。
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映画化もされていたので鑑賞済み。
原作を読んでからの映像作品はガッカリする事が多いが、この作品に関しては映画の方が好きでした。
やはり文章だけでは感じ取りづらかった部分も、演技によって理解し易く感じた。
原作に忠実でありながら、オリジナル要素も含まれていて映画として楽しめた。
原作では我の一切無い男のように描かれていた津奈木だが、映画では菅田将暉が演じる津奈木の感情の起伏が描かれていて、そこには共感出来る部分もあった。
趣里が演じる寧子も鬼気迫るものがあり、狂気すら感じる演技だった。 -
なかなかに主人公が強烈で自分がこの主人公と知り合ったらなんだこいつってなってしまうかもしれない、けれど、イタリアンの人達の悪気のない言葉のナイフの気持ちはもの凄いわかるし、決めつけんなよと思う。
でも、悪気ないのは凄くわかるんだ。
主人公もそういう気持ちだったと思うんだけど、どうしたらいいんだろうって言葉がよぎりまくった。
自分は自分と別れられないって言葉が強烈で、あ、だから死を選ぶ人がいるのかもなと思いました。 -
映画から本はいったけどどっちもいいって思うの久々。
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本谷有希子3冊目。間違えて『ぜつぼう』を飛ばしてしまって『生きてるだけで、愛。』を先に。前に読んだ2冊よりも、今作の方が面白かった。☆5はつけすぎだけど相対的な評価です。読んだ3冊の中で、人におすすめするならこれかなと。つい先日のネットニュースで知ったけど、本谷さんは公演を中止したとか。あらら。
・今回ももちろんメンヘラもの。躁鬱で過眠症の主人公・寧子(やすこ)と、寧子が転がり込んで同棲している草食系男子・津奈木(つなき)の話。
表記がメンヘル→メンヘラーと、この言葉がネットスラングとして出てきた流れがちゃんとしていて、時代性を感じさせる。
・『腑抜けども』では、田舎の描写がしつこすぎて(そのわりに重要ではなく、最近のライフスタイル像とも合ってない)、勢いが足りないなと思ったが、今回はその点が全く違って、良かった。
今回は東京での話で、情景描写もしつこくない。文章もすらすらと読みやすいので、のめり込んで読めた。前日譚と併せて140頁ほどしかないのも読みやすくて良い。
・『江利子と絶対』『腑抜けども』のレビューにて、ずっと「安部公房に妙に似ている」と書いてきた。今回はなんと、安部公房全集が作中に出てきたので驚いた。そしてその理由もわかった気がする。
昔、精神的に追い詰められた時に、手首を切りたくなったことが一瞬だけあった。しなかったのは私が痛みや血に弱い人間だからで、この事を女性に話すと「女は月イチで血を見てるからわりと平気だよ」と言われた。そッスか。
その時に、リスカする人の感覚がなんとなく理解できた気がした。自分の存在が揺らいでしまって、この世と全く繋がっていない、それを繋ぎとめて確認したかった(私の個人的な体感なので、他の人に当てはまるかはわからない)。
寧子はリストカットはしない。だがやはり、世界と繋がっていないという感覚、夢か現実かわからないという感覚を持っている。暗闇で壁を叩くシーンは『暗狩』にも通じるし、安部公房『砂の女』はソリッドシチュエーションスリラー。高橋源一郎が『腑抜けども』の解説で言う実存主義的。
・前回書き忘れたが、先に読んだ作品をあまり面白く感じなかったのは「虚構が現実を超えていない」、現実のメンヘラの方が上回っているから。これも驚いたが、「虚構(想像)と現実」は表紙にもなっている葛飾北斎のくだりで出てくる。
・たまたま観たNHKドラマ『ザ・商社』の夏目雅子をエキセントリックウーマンと書いたが、寧子の学生時代のあだ名がエキセントリック子(略してエキ子)だったので笑ってしまった。ドラマの夏目雅子は『腑抜けども』の澄伽よりも、今回の寧子の方により近い。
・ちなみに私は、メンヘラという言葉をポジティブな意味で使っている。以前変に絡まれたことがあるから一応書いた。たぶん、その人は言葉狩りという言葉を知らなかったんだと思う。
メンヘラという言葉は賛否両論だが、元々発祥した時点で私は蔑称だと捉えてなかった(メンタルヘルス板の内部なので)。例えば「オタク」という言葉、これは出自がはっきりと蔑称だが、今はもっとカジュアルな意味になっていると思う。言葉は時代によってニュアンスが変わっていく。
世代的なものもあるのかもしれないが、私も含めて若い頃の友人や知り合いで、病んでいる人が多かった。だから一億総メンヘラ時代だと思っている。病んでなかったのは鈍感な人だけだった。センシティヴな人間には日本の現代社会は生きづらい。
ついでに、日本のメンヘラ文学でかなり古いものは夏目漱石じゃないのかなと思う。漱石を救ったものが何かはよくわからないが、「客観視」が重要なんだと思っている。漱石の『吾輩は猫である』は日本と自分を外部から客観視している小説で、その視線が猫のものだった。メンヘラ文豪がお札にもなっていたと思うと勇気づけられるし、一番最初の小説が猫コメディなんて最高じゃないか。
・本谷有希子は自分の事を「客観視」して書く(小説家なんて皆そうだと思うが)。我々読者が小説を読んで、もし共感したとすれば、そこに自分の姿を見つけたからだ。つまり鏡のように、自分を「客観視」することができる。
鏡に映った自分を嫌いな人もいれば、「これが自分だ」と安心する人もいるように、本谷有希子の本は賛否両論あってそれでいい。読んで癒される人もいれば、具合が悪くなるor本谷有希子を嫌いになる人もいると思う。
・寧子の寧は安寧の寧だが真逆、津奈木は次の男との間の「ツナギ」であり、この世と自分を「繋ぎ」とめてくれている存在……と考えると面白い。
・映画版の方は、寧子=趣里、津奈木=菅田将暉だそうだ。趣里ちゃんも合ってないがまあ良いとして(なぜなら好きだから)、菅田くんの方はミスキャストじゃね?草食系男子顔というと星野源しか思いつかない。まあ、もう手垢がつきまくっているから、実際にはダメだけど。
今だと津奈木役は誰が合うのか……竹内涼真は実は肉食系と言われてるそうだが、中村倫也とか増田貴久とかそのへんか?草食系男子かわからんが、津奈木からは森見登美彦の『夜は短し歩けよ乙女』を連想した。『生きてるだけで、愛。』の方が先だが、どちらも2006年の作品。草食男子、草食系という言葉が最初に使われたのも2006年だそうだ。
・前日譚『あの明け方の』。松岡修造は時代を感じる部分で、今は古臭くなっていると思う。しかしこの小説は2006年で、松岡修造がニコニコで流行ったのが2008年らしい。流行る前に注目していた人たちがいたんだねえ。 -
読書にはいろんな読後感がありますが、最近読んだ中でここまで「共感」してしまったものはありませんでした。単に小説としてならものすごく優れた作品とまでは言えませんが、その点において、ワシにとっては傑作です。
しかも、自分自身でも驚いたことに、共感した相手は「メンヘラ25歳女性」という主人公。そう、自分と被っているところなんか無さそうなキャラクターです。
ところが、この彼女の思考回路というか、妄想力には、身に覚えがある。自分の心の動きやら妄想やらを、ビシッと指摘されたかのようなこそばゆさがあります。
そしてその恋人の男の態度にも覚えがある。ワシという人間を細分化して、その中でも比較的大きなものを二つ抜き出して作られたようなキャラクターが2名、この作品では恋人役として丁々発止しているのです。これは共感せざるを得ない。
その点で、ワシは著者の思考に、もしかしたら近しいのかもしれません。
とまぁここまで自分語り的に感想を並べ立ててしまいましたが、それを除いて評しますと、読みやすく、テンポ良く、それなりにドラマチックに、メンヘラ女性と無関心ふう男性の色恋模様が展開されます。
著者についての知識による先入観も込みですが、いかにも芝居を見ているような心地よさでお話が進みます。言葉が届きやすく、分かりやすい。さすが戯作家。
ただ、物語そのものは平板ですので、この、特に主人公二人の思考についていけるかどうかが、この作品が面白いと感じるか否かの分水嶺かもしれません。
実際、もう一編の作品「あの明け方の」は、残念なことに余り心に響きませんでした。物語の平板さは残しつつ、登場人物に共感出来なかったからかもしれません。
もうひとつ、忘れちゃいけないこと。ワシが読んだ新潮文庫版の仲俣暁生氏の解説が素晴らしかった。この解説を深掘りした本で一冊読んでみたい、そう思わせてくれました。 -
「わたし」は「わたし」と別れられない。
解説が秀逸だ。自己完結しつつも他者を強く求め、ぶつかり、傷つくその様を卵の白身と卵黄の例えを用いて見事に表現した。
こんなヒステリックな女は嫌いだ。そして、この本を勧めてくるような女もわりと引く。それでも、僕にこの本を勧めた彼女がときどき、本当にときどき(それこそ、五千分の一秒で過ぎ去る程度だけどな!)、とても可愛らしく思えることがある。
よい読み物だった。
この作品は結構キョーレツだと思います。鬱で悩まれている方が読まれるとなると…う〜ん、どうでしょうね...
この作品は結構キョーレツだと思います。鬱で悩まれている方が読まれるとなると…う〜ん、どうでしょうね。余計に悶々とするような気もします…。「古本食堂」とか、同じ原田ひ香さんの「ランチ酒」とかの方が良いような気もします。個人的には、心が落ち込まれていらっしゃる方には村山早紀さんのファンタジーの世界がおすすめです。心が洗われると思います。もう少し手近では、青山美智子さんの最新作「リカバリー・カバヒコ」なども良いような気がします。人によってどういった世界観が良いのかはとても難しいです。
友人さんの方は上手く合致されたようで何よりです。
選書ってなかなかに難しいですね。
先輩は恐らくファンタジーも読まれると思うので、村山早紀さんのをお勧めしてみます!気晴らしの本が欲しいと言いつつもいつもヘビーなの読んでらっしゃるので心配ではあったんですよね。
選書本当に難しいので毎回さてさてさんに助けられてます、ありがとうございます。今回もお世話になります。
選書は本当に難しいです。人によってもどういう時にどういう作品が良いかは異なると思いますし。私個人としては気が滅入っている時に現実を直視するような作品や登場人物が悶々する作品は避けるかなあと思った次第です。ファンタジーに逃げる。特に私の場合、タイムスリップものがこの上なく好きなので、最近読んだ中では畑野智美さん「タイムマシンでは、行けない明日」で全てを忘れて没入しました。
音楽よりはハードルが低い気がしますが、それでも本をオススメするのも本当に難しいですよね。どうぞよろしくお願いいたします。